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川柳的逍遥 人の世の一家言
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丸めてみたり拡げてみたりがらくた有情  荻野美智子






         黄表紙「廓 愚 費 字 尽」
滑稽・へりくつ・諧謔が堂々まかりとおる黄表紙の世界。
一冊まるごと読み解けば、ナンセンスの裏に潜む江戸の機知に脱帽させられる
こと請け合い。
ここに出てくる漢字は、どんな分厚い辞書にも載っていない、見たこともない
漢字ばかりです。黄表紙の作者が知恵を絞って、洒落っ気たっぷりに創作した
漢字ですが、意味あるものをこさえられているので、一字一字目を凝らして、
読んでみてくんなんし。



真冬から春へくるりとモネの庭  宮原せつ





                                       式亭三馬・小野譃字盡  



恋川春町 『廓費字盡(さとのばかむらむだじづくし)』
天明三年(1783)正月蔦重刊、恋川春町画作。
   
「竹冠」「愚」は、式亭三馬の造語で「ばかむら」と読みます。
(とっかかり「竹冠」に「愚」なんて字はありません)



【解説』=往来物として盛んに刊行された『小野篁歌字尽』のパロディで、部
首を揃えた漢字を、いくつか一行に並べて、その読み方を歌にして示すという
形式をなぞる。漢字のほとんどは、新たに作者が案出したもので、部首と旁の
奇抜な組み合わせや、ひねりの効いた読み方で、機知的な笑いをかもし出す。
それらは全て、吉原の遊びやその周辺の事情にこじつけられ、画面の「絵解き」
を行なう。また、逆に漢字の解釈のヒントを、絵が読者に与える仕掛けともなっ
ています。




作り笑いで良いと甘茶のお釈迦様  藤本鈴菜





            『小 野 篁 歌  字 尽』





 春つばき 夏はえのき 秋ひさぎ  冬はひいらぎ 同じくはきり
平安の歌人・小野 篁(おののたかむら)は、木偏の「春夏秋冬」をこう詠んだ
江戸時代の寺子屋で「往来物」という初歩の教科書の教材として使われた。
漢字を属性ごとに並べて、読み方を和歌のリズムで覚えさせたという。
ついでながら、魚偏でみますと、
 春さわら 夏はふぐにて 秋かじか  冬はこのしろ  師走ぶりぶり





何つかむ絵本をめくる小さい子  矢橋菌徒










蔦屋重三郎ー式亭三馬・『小野篁歌字尽』




『小野篁歌字尽』(おののたかむらうたじづくし)は、往来物の一種として、
江戸時代には盛んに刊行されていた。
部首を揃えてその旁の異なる字を並べ、その読み方を、和歌の形式で調子よく
覚えさせるというもの。ここに掲げたのは山本義信筆のものである。





         序   (恋川春町)


愚(ばかむら)は篁(たかむら)の九代の后胤(こういん)かんも天目ひやも、
よく飲みぬけにして、又大通もそこのけにて高慢きん〳〵己(うぬ)ぼうゆへ、
人みな己野愚と笑ふ。その身は町にいりながら、また能(よく)おり〳〵お江
戸に通ひ小野小町にちぎりをこめ、則、恋川はる町をうむ。はる町人となるに
およんで「父・馬鹿むらむだ字を案じて、あたへて曰く、これをさくら木にち
りばめてはつ春うぬのほまちにしろと、よって画てたわけを弘ちゃくすと云
                        十代の作者  恋川春町




もやもやが晴れる引き摺ることはない  佐藤 瞳





                           絵の漢字を読む=はないきさかりいきつく

花はかみ(紙)。身形(みなり)はいき(意気)と読みにけり。勤めはさがり。
果はいきつく。





【解説】=絵と合わせてどうぞ。
吉原遊女屋の座敷における通人の遊びを描く。台のもの(画面中央にあるデコ
レーション過剰なオードブル)が運ばれてきた。この台のものは一分(現在の
2万円位)の値でかなり高値である。画中右の、【身形】【いき】な遊客が
運んできた若い者に、紙を一枚与えようとしている。
これは「紙花」と称して、小菊紙の懐紙を【花】(ちっぷ)の代用として与え
る吉原の風習で、一枚一分に相当する。紙花を貰った者は、茶屋を通して清算
する。したがってと読む。若い者は【琴浦さんよろしうへ】
遊女に取り成しを頼んでいる。
画面右下、【ここで帰られては大かぶりの】と若い者をからかっている法体の
男は、江戸神、すなわち素人の太鼓持ちであろう。
台のものは、客の注文に応じて取り寄せるのではなく、勝手に運ばれてきてし
まうものなのである。それに対して遊客が【長す】(長す(男の名、長なんと
かいう類の名前の下を略し、敬称「す」を付けた)と、たしなめている。
遊客の後ろで【一ツ飲みなんせ【紙】を【花】と、イヤヨ】と酒を勧めている
のは新造(新人の遊女)である。
遊女の左にいるのは、引手茶屋の女将であろうか【早く替えてきさつしゃいナ】
と、禿(遊女の使う幼女)に酒のお代わりを指示している。
引手茶屋は、吉原仲の町通りの両側に軒を重ねて営業しており、客の遊興の面
倒をみる。【遊女の勤め】(揚げ代)も茶屋を通しての【さがり】(掛け)と
なる。かように派手な遊びをし尽くした【果】ては、代々の財産も使い果たし
【いきつく】ことにもなろう。




瀬戸際であしながおじさんの援助  井上恵津子





    絵の漢字を読む=しのぶほんといやつけるいしやさん

忍ぶかさ(笠)。絵本がほんといや(本問屋)也。禿がつける。籠がいしや
(医者)さん。




【解説】=吉原大門口の景。漢字は全て門構えとなり、大門に関係のある事物
が噴き寄せられる。編【笠】は、人目を【忍ぶ】姿。中央の男がそれである。
遠国の高位の武士と見受けられる。【承ったより豪華な地でござる】などと、
初めての吉原見物にたいそうご満悦な様子。お供の武士はその下役であろう。
着流しの冴えない衣装に、これまた野暮な髪形をしている典型的な田舎武士で
ある。この男が【コレがかの蔦屋サ。国方への土産を求めよふか】と指差して
いるのは、大門口にあった【本問屋】蔦屋重三郎の店である。
障子に、富士山形に蔦の葉の商標が見える。店先に積み重ねられている商品が
黄表紙で、これは田舎への恰好の江戸土産となる【絵本】である。
画面右端。二人の【禿】が大門に【つける】(見張りをする)様が描かれている。
これは馴染みの関係がすでにありながら、他の遊女にも渡り歩くような不義理を
した客を掴まえようとしているのである。
吉原の出入口はここ大門一カ所しかない【逃がして叱られさつしやんなよ】
【ナアニサ】と気合は入っている。
大門をくぐって廓内に【籠】で乗り付けられるのは【医者さん】だけである。
籠かきが【頼む〳〵、エゝあぶねへ】などと言って、今大門をくぐるところ、
後ろについているのは、薬箱を背負った医者のお供である。




もう少しこのままがいい落ち椿  津田照子





     絵の漢字を読む=「つねるまついんきよしんじう」

指二本寄せるがつねる。折るがまつ(待)。遣うが隠居(いんきょ)。
切るがしんぢゆ(心中)





【解説】=老人客と若い新造の床の景。漢字はみな、「指」に縁のあるものを
こじつける。朋輩女郎が寝間着姿で訪ねてきている。
【ぬしや ァ、おとなしくもねェ。きるからひて(意味不明)、よくわっちらが
を連れてきてくんなんせん、憎らしい】
と、彼女の馴染みを連れて来てくれな
かったことを難じて老人客の腕を【つねっ】ている。
彼女は【指折り】数えて来訪を待っていたのであろう。
老人は【フワウ/\、ぱやまった/\/\、まつたよしおき(「新田義興」の
洒落)大明神かけて今度は(連れて)くるよ】と、フガフガ明瞭ならざるもの
言いで弁解している。
この老人の左手の行方に注目、【指を遣う】のが【隠居】という字の解となっ
ている。年を取っても手だけは達者なわけである。
新造は、【アレサ、くすぐってへわな】という反応。
『新造をおもちゃに隠居して遊び』(柳多留)という川柳もある。
【指を切る】のは【心中】の一つで遊女の手管の代表的なもの。





ときめいた場面でちゃんと涙出る  古賀由美子





      絵の漢字を読む=こわいろたいこぢまわりしゃれ

言偏(ごんべん)に似るがこわいろ(声色)。茶がたいこ(太鼓)、
毒がぢまわり(地回り。上下がしやれ(洒落)




【解説】=仲の町の引手茶屋での遊び。引手茶屋は画中に見えるように、腰折
れの鬼簾(おにみす)と縁先の床几が特徴。
誘客を中心にして向かって、左側に遊女と茶屋の女将。そして右側に芸者が二
人いる。扇を手に持っている芸者は【声色】を遣っている。その文句は
【兄は一万、弟は箱王、元服なして、十郎介なり、五郎時致、ハテ珍しい】で、
これは、曽我狂言のいわゆる「対面」の場の科白である。
客は【イヨ/\/\、秀鶴、恐ろしいの木。三ぱい小たてに飲もふ】と、この
芸にご満悦である。秀鶴は中村仲蔵の俳名でその物真似をしているのがわかる。
「恐ろしい」に「椎の木」を言い掛け、兄弟の父・裕康の最期「椎の木三本小
楯に取り」を効かせている。茶屋の女将も【よく似てやすねェ】と感心しきり。
外を行く下駄履きの柄の悪い風俗の二人連れは【地回り】、吉原を徘徊し、遊女
らを冷かして歩くのを日課とする。【毒を言う】(悪口雑言)のが得意技である
彼らも、【えゝ、いまいましく恐ろしい、親ァねへか】と言っている。
【いまいましく恐ろしい】とは、彼ら一流の乱暴な褒め方「素晴らしい」といっ
た意味である。「親はないか」とは、芸を褒め称える常套句。
残った漢字について解説すると、【たいこ】は太鼓持ちのこと。
【茶を言う】(冗談を言う)のが商売。回りの人間を【上げたり下げたり】して
【洒落】る。





出汁の効いた少し不幸がちょうどいい  黒田るみ子





絵の漢字を読む=ちょきやねぶかさいかわせかき

寝るがちよき(猪牙)。 騒ぐがやねぶ(屋根舟)糞かさい(葛西)。
ごたごたするが川せがき(施餓鬼)也。





両国橋下の隅田川。往来の景。
【解説】=猪牙とは、猪牙舟のこと。吉原通いによく使われた快速船である。
画中、橋にかかろうとしている小舟がそれ。朝子の舟での帰路、舟中で【寝】
睡眠不足と疲労とを解消するのである。山谷掘の船宿は、帰り客のために蒲団を
積み込む。画中の客はこれから北に向かうところ。
【船衆、ちょっと太郎に寄りたい】などと船頭に言っているが、太郎とは向島の
川魚料理で有名な料理茶屋中田屋のことで、葛西太郎の愛称で親しまれていた。
【やねぶ】は、屋根舟の略で通人用語。屋根舟は川遊びなどにも利用される低い
屋根の付いた4、5人乗りの舟である。
画中下方に見える、苫葺の屋根のある小舟は【葛西】、舟の愛称を持つ隅田川の
名物【糞舟】である。葛西は当時江戸へ野菜を供給していた近郊農業の地である。
ここの農家は、江戸市中の家主との間で野菜との交換契約を結び、そこの糞尿を
汲み取って、肥料として農地に運んでいた。
その葛西舟と行き違う屋形船の吉野丸【いつそ胸が悪くなった。臭い臭い】
【それは屋形に初めて乗りなすったからサ】という声が聞こえてくる。
この屋形船は【川施餓鬼】を行っているところで、船上にはそのための祭壇と多く
の人が【ごたごた】乗り込んでいる。
漢字はそれを抽象(かたど)っている。





火星行き船アンパンを積み忘れ  井上一筒





              「黄表紙廓愚費字尽」絵解きは次号②へも続きます。









「べらぼう24話 あらすじちょいかみ」




日本橋通油町で地本問屋を営んでいる丸屋小兵衛(たかお鷹)の買収を巡って、
蔦屋重三郎(横浜流星)と吉原の親父たちが動き出します。
扇屋宇右衛門(山路和弘)は,扇屋に揚代のツケを溜め込んでいる茶問屋・亀屋
の若旦那を抱き込んで、丸屋を買い取らせようとしますが失敗。
「吉原者」である蔦重による買収を危ぶむ日本橋通油町の商家たちから、かえっ
て警戒されることに…。
ならばと言うことで、駿河屋市右衛門(高橋克実)と扇屋宇右衛門は,、丸屋が、
あちこちに出している借金の証文を買い取って集めます。
丸屋の店の権利は、吉原が持っているとして丸屋に乗り込もうとすると、
鶴屋喜右衛門(風間俊介)が、仲介して大坂の書物問屋・柏原屋(川畑泰史)と、
丸屋のてい(橋本愛)がまさに店の売買契約を結ぼうとしているところ。





朝顔が咲く直前は闇の中  奥田航平











吉原の親父たちから出される借金の証文に加えて、蔦重は、ていに自分と縁組を
して「丸屋耕書堂」を一緒にやろうと言い出します。
しかし、蔦重「色仕掛け」がまずかったのか、かえって、ていの気持ちは頑な
ものに。丸屋の権利はそのまま、柏原屋に移ってしまいます。





なくときのBGМは空のうた  西田雅子





兄・松前道廣(えなりかずき)が琥珀の直取引を持ちかける
誰袖(福原遥)が根気よく 廣年に誘いの文を出し続けているところに、廣年が
久しぶりに文字屋に登楼。しかし今度は兄・松前道廣も一緒です。
しかも道廣は大胆にも、大文字屋市兵衛(伊藤淳史)と一緒に琥珀の直取引をし
ないかと持ちかけます。誰袖が廣年に持ちかけても、一向に進まなかった話が、
道廣の登場であっさりと道が開けました。
松前藩が、抜荷をしている証拠を探し回って上知を行いたい意知(宮沢氷魚)は、
このやり取りを隣の座敷で聞き心の中で快哉を叫びます





泥くさく勝ちを狙ってゆくつもり  吉岡 民

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補聴器が拾うとんでもない話  山本芳雄






                             露  西  亜  船



「フヴォストフ事件」
文化元年(1804)、ロシア側の正式な大使としてレザノフがやってきます。
ラクスマンが受け取っていた長崎への入港許可証を持ってきました。
しかし幕府はラクスマン一行に対して行ったような丁重な対応はせず、
レザノフに対して非礼な対応を取ります。
レザノフを実質的に半年間幽閉しただけでなく、結局通商を認めません
でした。レザノフは、正式なロシアの大使であるにも関わらずです。
帰国したレザノフは、2年後、日本に対しての報復を行います。
部下であるフヴォストフに松前藩領であった樺太の襲撃を命じます。



聞く耳は一つも持ってないみたい  津田照子






    幕府の無礼な扱いを受けたラクスマン一行



「意次が目指した財政再建と外交政策」
意次が老中となり幕政の実権を握ったのは明和9年(1772)、54歳のとき
である。
これをきっかけに意次は自らの政治的才能を開花させ、功利的で重商主義的
な政策を次々と打ち出すことになる。
当時、幕府は財政難にあえいでいた。年貢を増やそうにも吉宗の時代に新田
開発をやりつくしており、限界があった。そこで意次は商業資本を積極的に
利用して財政を立て直そうとした。
蝦夷地の開拓計画も壮大だった。北海道の十分の一を開拓して新田畑を造る
という大規模なもので、開拓後はロシアとの貿易までも計画していた。
当時は、ロシアの脅威が声高に叫ばれていた時代で、意次はロシアと国交を
結び貿易を行うことで日本を守ろうとした。
このことから、当時としては珍しい外国にも目を向けていた政治家であった
ことが分かる。




蔦屋重三郎ー花魁・誰袖





         誰 袖 (後継)



誰袖は、生没年や成り行きの実態は不明だが、田沼意次の時代に吉原に生きた
実在の人物として小さくも史実に残る。
新興勢力として知られる吉原の妓楼大文字屋の花魁である。
大文字屋は、かつて西海岸に店を構えていたものの、次第に繁盛し京町一丁目
に転居するほどの隆盛を見せていた店である。
その看板として名を馳せたのが誰袖であり、「呼出し」の格式を持つ最上級の
花魁であった。新造や禿を従え、豪華な衣装に身を包んだ彼女の花魁道中は、
吉原の名物として人々の注目を集めたことだろう。
誰袖の名が江戸中に広まったのは、勘定組頭であり老中・田沼意次の腹心だっ
土山宗次郎によって、千二百両という莫大な金額で身請けされたことによる。



お隣を覗けば十桁の通帳  森 茂俊



誰袖は、吉原の華やかさを象徴する花魁でありながら、その存在は江戸の政治
や文化の転換点とも密接に結びついていた。
身請けという一見華やかな出来事の背後に、権力、贅沢、そして失脚、という
ドラマが潜んでいたのである。



あんたを閉じ込める万華鏡の中  井上一筒



蝦夷地には、金山や銀山も眠っているから、そこを直轄地にして交易すれば、
幕府は大金を稼げる。それが意次らのねらいだが、その蝦夷地は松前藩が管轄
している。だから、幕府の直轄領にするなら、松前藩の領地を召し上げる必要
がある。そこで意次の嫡男の意知が、松前藩の「落ち度」を探すことになった。
意知がまず繰り出した場所は吉原だった。
平賀源内の片腕だった平秩東作(木村了)から蝦夷地に詳しい人物として紹介
された、勘定組頭の土山宗次郎が花見会を行うので、そこに参加したのだ。
ただし、意知は変装して「花雲助」と名乗っていた。



花園のところどころにある沼地  みつ木もも花






          「文 武 二 道 万 石 通」
駿河屋で酒宴が開かれ、その席では土山の横に誰袖がいた
左中央が疑惑の金一億二千万両で身請けされた花魁誰袖



花見に続いて駿河屋で酒宴が開かれ、その席では土山の横に誰袖がいた。
彼女は土山の馴染みの女郎なのである。
そして、この2人は史実においても、馴染みどころではない関係になる。
だが「べらぼう」の誰袖は、土山の横にいながら花雲助こと田沼意知に見惚れ、
そちらに近づこうとする。
意知は、松前藩の元勘定奉行で、いまは藩を離れている湊源左衛門との密談に
熱中していた。湊からは、「藩主の松前道廣が横暴のかぎりをつくし、藩とし
ても抜け荷(密貿)をしている」という話を聞き出していた。
その話を誰袖は、十文字屋の者に盗み聞きをさせていたのだ。



ややこしいところで咲いている私  井上恵津子



後日、田沼屋敷に呼ばれた土山は、意知誰袖からの手紙を渡した。
そこには折り入って話があるという旨が書かれていたので、意知はふたたび
花雲助に扮して大文字屋に出向いた。
すると「誰袖は彼に、吉原に出入りする松前藩関係者や、松前藩の下で取引
する商人の情報を提供する」と、持ちかけた。
意知が「間者の褒美にカネがほしいということか」と問うと、誰袖は言った。
「カネよりもっとほしいものがありんす。花雲助さま、わっちを身請けして
おくんなし」



挑発に乗るまい点滅の黄色  日下部敦世



誰袖という花魁は、かなりの策士であり、一途だった瀬川(小芝風花)と較べ
ると、比較にならないほどしたたかである。
もちろん、それは「べらぼう」というドラマに描かれた姿だが、史実の誰袖も
状況証拠からすると、かなりしたたかだった可能性はある。



めん鶏がのぞく椿の隙間から  くんじろう





        「赤蝦夷風説考」
蝦夷地の重要性を田沼意次に認識させた工藤平助は仙台藩が誇る多才な
医者だった。



土山宗次郎は、田沼意次の権勢下で台頭した旗本で、明和9年(1772)に
意次が老中になったのち、安永5年(1776)に勘定組頭、すなわち幕府の財政
を管理する勘定所<今の財務省および農水省>の大臣にあたる勘定奉行の下で
組織を統括する役に抜擢された。
(「べらぼう」の第21回)で、三浦庄司が意次に、蝦夷地の開発とロシアとの
交易を提言したのは、仙台藩の江戸詰藩医だった工藤平助が天明3年に、対ロ
シアの海防の重要性などを書いた『赤蝦夷風説考』を読んだ結果だった。
じつは、その三浦を介して、意次に、この書物を提出しようとしたのが、土山
宗次郎だったとされる。



再生のサインかさぶたそっと剥ぐ  上坊幹子






        「赤 蝦 夷 風 説 考」



現実には『赤蝦夷風説考』のことは、土山宗次郎の上司で意次の側近でもあっ
松本秀持を介して田沼に進言され、その結果、土山が中心となって、天明4
年(1784)には平秩東作らを、天明5年(1785)にも探検家の最上徳内ら何
人かを、蝦夷地に調査に向かわせることになった。
まさにそんな最中に、土山は吉原に頻繁に通い、誰袖を身請けしたのである。
脚本家はそこにヒントを得て、蝦夷地をめぐる駆け引きに加わり、自分が身請
けされるように、したたかに立ち回る誰袖像を創り上げたのだろう。



鶏頭の赤に触発されている  宇治田志寿子


史実の誰袖が、蝦夷地問題に関わったかどうかはわからない。
わかっているのは、土山大田南畝らとつるんで吉原に通い詰め、
その結果、誰袖を千二百両かけて身請けした、ということだけである。
ただ、それは、土山が蝦夷地調査に邁進していたタイミングだったことは間違
いなく、教養がある誰袖も、蝦夷やロシアに関する話を聞かされていたと考え
るほうが自然だろう。
誰袖が「万載狂歌集」「恋の部」に残した一首。
” 忘れんとかねて祈りし紙入れの などさらさらに人の恋しき ”
(「忘れよう」と祈るようにして見ないようにしていた紙入れ-----かつて恋人
との思い出が詰まったその品を見た瞬間に、逆に恋しさが募ってしまう)



暫定という軸足がゆらいでる  目黒友遊



ちなみに、千二百両という金額は、土山が大文字屋に渡した金額ではない。
女郎を身請けする時は、祝儀を渡したり、祝宴を開いたりするのが一般的で、
そのために総額は、身請け金の2倍程度にふくらむことが珍しくなかった。
いずれにせよ、これだけの金額を、武士の窮乏化が問題となっていたご時世
に、一介の旗本が簡単に出せたとは思えない。
天明6年(1786)8月に田沼意次が失脚すると、蝦夷地開発計画も頓挫。
そればかりか土山は、公金横領の嫌疑をかけられ、その際、誰袖を高額で身
請けしたことも問題になった。身請けをふくめた吉原遊びに横領した金を使
った、という疑いをかけられたのである。



曇天を斜めによぎるトラクター  前中知栄






         誰袖 土山宗次郎



「べらぼう23話 あらすじちょいかみ」


朝を迎えるや否や、重三郎(横浜流星)は大文字屋へ飛び込み、誰袖(福原遥)
に詰め寄ります。「なんで ” 抜荷 ” なんて言葉を出した!」と。
誰袖はさらりと笑い、「手遊びで青本のネタを考えただけ」と返します。
雲助(田沼意知=宮沢氷魚)との関係を匂わせるような様子に、重三郎は不安
を募らせます。そこへ大文字屋(伊藤淳史)が陽気な調子で登場し、
「ぬクけケにキ」なる謎の言葉を口にしました。
これは抜荷を意味する隠語で、春町喜三二も用いた洒落言葉。
意味を悟った重三郎は、事の重大さに青ざめますが、誰袖と大文字屋は意に介
さず、不穏な企てを進めている様子です。



辻褄合わせお好みを焼くように  井上恵津子



一方で、重三郎のもとに須原屋から狂歌集『満載狂歌集』が百部届けられます。
この本がきっかけとなり、南畝重三郎は一気に時の人となりました。
重三郎の名は江戸中に知れ渡り、「江戸一の利者」とまで称されるようになり
ます。
ある日、須原野のもとで蝦夷地の絵図を見ていた重三郎は、不穏な印や記号に
気づきます。
それは、幕府が禁じる密貿易------「抜荷」に関わる情報だったのです。



裏通り月下美人の香も似合う  井出ゆう子






       
重三郎  長谷川平蔵


その頃、長谷川平蔵(中村隼人)は、出世の機会を逃して燻っており、狂歌を
通じて土山宗次郎(柳俊太郎)に近づこうと目論んでいました。
酔月楼での土山南畝(桐谷健太)の宴に参加した平蔵は、重三郎の案内で裏
口から接触に成功。「あり金はなき平」という狂歌名をもらいご満悦です。
酔月楼の裏では、意知と土山が重三郎を日本橋に誘い込もうと策略を巡らし
ていました。吉原の人気本屋を、蝦夷貿易に搦めて取り込もうというのです。
その一方で、誰袖は松前藩の家老に取り入り、琥珀の話を持ちかけていまし
た。巧みに取引の道を探る誰袖に家老はつい心を動かされます。



たとえばのはなし枯木に花が咲く  荻野美智子






               田 沼 意 知



蝦夷地には金山や銀山も眠っているから、そこを直轄地にして交易すれば、
幕府は大金を稼げる。それが意次らのねらいだが、その蝦夷地は松前藩が
管轄している。だから幕府の直轄領にするなら、松前藩の領地を召し上げ
る必要がある。そこで意次の嫡男の意知(宮沢氷魚)が、松前藩の「落ち
度」を探すことになった。意知がまず繰り出した場所は吉原だった。
平賀源内の片腕だった平秩東作(木村了)から蝦夷地に詳しい人物として
紹介された、勘定組頭の土山宗次郎(柳俊太郎)が、花見会を行うので、
そこに参加したのだ。ただし、意知は変装して「花雲助」と名乗っていた。
花見に続いて駿河屋で酒宴が開かれ、その席では土山の横に誰袖がいた。
彼女は土山の馴染みの女郎なのである。
そして、この2人は史実においても、馴染みどころではない関係になる。



こと切れるまで人間やめられぬ  新海信二

拍手[3回]

ふにゃふにゃの脳が心を支配する  靏田寿子










歌麿「蹴鞠の図」浮世絵とその版木 
浮世絵は木版画という複製手段によって、安く、多くの人々に買い求められた、
江戸時代の大衆的な美術であった。
「版木」は、厚さ2㌢の桜の木で、右下に「歌麿筆」と彫られている。
版木には、作品価値が認められていなかったため、印刷画が摩耗してりすると
薪にされたりして、当時のものはほとんど残っていない。
美人画で有名な歌麿の版木はボストン美術館1枚、愛媛県肱川町(3枚組の2
枚)が確認されているだけで、当館のものは、世界で3例目の発見である。
歌麿晩年の享和年間(1801-04)頃に制作されたと推定されており、当時の錦
絵が、ギメ美術館に1枚現存する貴重な版木である。(鳥取渡辺美術館蔵)




喝采がなくても光星月夜  平井美智子










「彫師が使う様々な道具」
左から3本目が小刀。版木を彫るとき最初に使われるのが小刀で、彫師が最も
大切にする刀である。そのほかの刀は、罫線を切り出したり、線を切り出した
版木の残りの部分を削ったりするなど、用途に応じて使い分けられる。
細長い形に図柄を巧みに配置した柱絵の版木です。表には、柳の下で鞠を持つ
女性が、裏には地蔵菩薩が彫られています。
表右下(右画像は摺上図のため左下)には「哥麿筆」とあり、女性の着物や筆致
などから喜多川歌麿〔1753?~1806〕晩年の享和年間〔1801~04〕頃に制作
されたと推定されています。 版木は、当時単なる浮世絵の制作道具とみられて
いたため、印刷面が磨耗すると、表面を削って別の浮世絵の原版にしたり薪に
使われたりしました。そのため、版木自体はほとんど現存していません。
この版木は裏に、地蔵菩薩が彫られていたために壁にかけて拝まれ、現在まで
残ったものと考えられます。



蔦屋重三郎ー蔦重とその仲間たち






      歌麿「てっぽう」(シカゴ美術館蔵)
歌麿が大首絵で、吉原の各階層の遊女を描いた5枚セットの浮世絵の一枚。
「てっぽう」とは最下級の遊女のことである。「消えた女」では、彫藤に届
けられた美人絵師、勝川春潮の「てっぽう」の版下絵が重要な役割を果たす。





       喜 多 川 歌 麿





「喜多川歌麿 売り出し計画」
歌麿は最初から天才画師でも美人画絵でもなく、蔦重が知り合った頃は無名の
絵師だった。鳥山石燕の弟子(恋川春町は兄弟子になる)なのだが、石燕と仲
がよかった北尾重政によく面倒を見てもらったらしく、歌麿の絵も、重政の絵
そのものだった。
デビューは、安永4年(1775) 北川豊章の名で書いた役者絵だった。
以降、黄表紙の挿絵を手がけるようになる。版元は西村屋与八であった。
与八の号は永寿堂といい、浮世絵や役者絵など、絵草子を得意とする地本問屋
である。実は与八は鱗形屋の次男であり、永寿堂に養子入りした身である。
しかも有名な水茶屋の笠森おせん(江戸のニュースにも登場の水茶屋「鍵屋」
の看板娘で、江戸の三美女の一人としてもてはやされた)で知られる鈴木晴信
の錦絵も出している、既に江戸では大版元であった。





生きとおすサボテンの刺の強さかな  服部文子





歌麿がデビューした時、西村屋にはすでに、美人画と役者絵を得意とした鳥居
清長がいた。清長は、すでに千種類以上の役者絵を出す人気絵師で、黄表紙の
挿絵も10冊の実績。一方歌麿はというと黄表紙がやっと4冊。西村屋の待遇
の差は歴然であり、歌麿に出番は回ってこない。
蔦重と運命の出会いを果たしたのはそんな時であった。




欲張らず真ん中へんを生きようか  宮原せつ





           『身貌大通神略縁起』

「身貌大通神略縁起」のクレジットに「忍岡哥麿」とあるように、当時の歌麿は
上野忍岡に住んでいたが、やがて蔦屋の元に引っ越して一緒に住むようになる。




当時蔦重は、黄表紙で大勝負に出たころであり、北尾重政、勝川春章に代わる
若手の発掘に取り掛かろうとしていた。重政も春章もそろそろ老獪の年であり
西村屋のように次世代の絵師と戯作者が欲しかったのである。
戯作者は朋誠堂喜三二の繋がりで恋川春町がいたが、絵師はまだ見つからない。
そうした時に出会ったのが歌麿だった。
石燕の門下で重政が持つ狩野派の雰囲気を持つ会。そして、デビューでは版元
の西村屋で苦汁をなめている。まだ誰もその輝きを知らない、原石だった。
蔦重は「身貌大通神略縁起」の絵に歌麿を起用。
この作品で豊章改歌麿の独占を世に宣言する。
ここに蔦重にとって待ちに待った「相棒」が誕生したのである。
そして、天明3年 (1783) 蔦重は、満を持して、大手版元が集まる日本橋の通油
町で出店する。
この前年、蔦重は絵師や戯作者を集めて歌麿お披露目の会を行っている。




迷ったが一か八かで六にする  栗原信一





           蔦 重 の 狂 歌
蔦唐丸の狂名が真ん中にみえる。




蔦重は、天明元年 (1780) ころから自らも「蔦唐丸」と号して、狂歌連に所属。
大田南畝の懐に入り吉原連を主催し、南畝や朱楽菅江、森島中良、そして朋誠
堂喜三二、恋川春町らと狂歌サロンを創り上げようとしていた。
そのサロンに歌麿を入会させたのである。
南畝の厳しい面接をクリアした歌麿は、蔦重と共に狂歌を詠み、サロンメンバ
ーを接待した。蔦重は歌麿を吉原に住まわせ、酒も女も金の使い方も学ばせた。
一流の客たちが一流の遊女と知的な会話を交わす。
原は日本中の一流が集まる場所だ。
蔦重は、おそらく歌麿の女性の美を写す才を見抜いていた。
その腕を唯一無二のものにする。蔦重は歌麿の才能に賭けたのであった。




人生を楽しみながらまわり道  荒井加寿




墨水亭雪麻呂「戯作者小伝」によると 蔦重について
「唐丸(蔦重)は、頗る(すこぶる)侠気あり、故に文才ある者の若気に放蕩
なるをも荷担して、又、食客と成して、財を散ずるを厭はざれば、是がために
身をたて名をなせし人々あり」
(才能に投資を惜しまず、それが糧となれば、豪快に遊ばせた。それは蔦重が
考えぬいた、男気の大通人の姿であった)
一方、曲亭馬琴「近世物之本江戸作者部類」で、西村屋について、
「版元は、作者や絵師の広告をしてやっているようなものなのだから、こちら
から頼みに行くことなどしない。本を出したけりゃ頭を下げに来い」
と述べていたと記している。




気難しい人に似ているコチョウラン  宇治田志寿子





   酒上不埒(恋川春町)





「恋川春町」
恋川春町は、狂歌絵の中の春町をみるかぎり、どことなく女性的なホスト然に
見える、が、名前と姿とは真逆で、その正体は、生粋の武士である。
紀州徳川家の家臣の家に生まれ、伯父・倉橋氏の養子となり駿河小島藩の藩士
として俸禄を得ていた倉橋格(いたる)という氏素性がある。
ただ、駿河小島藩というのは、小さな藩であり、暇な江戸勤めで収入も少なか
ったのだろうか、もともと持っていた絵の才能を活かすことを考え、浮世絵を
「鳥山石燕」の門人となり、絵描きの道の生活を進みはじめる。
筆名は、江戸藩邸のあった「小石川春日町」(恋し川春町)からという。




出で立ちの門バオパブが佇っている  井上恵津子






      朋 誠 堂 喜 三 二





その春町の描く絵を、最も活用したのが彼の親友であった朋誠堂喜三二である。
喜三二といえば、春町と同じ武士階級だが、原通の「色男」「お洒落なオジ
サン」として名の通った人物。
版元に文化人に遊郭にと、豊富な人脈の持ち主で、喜三二の多くの黄表紙で、
春町は挿絵を担当した。そもそもビジュアルな本を得意としていた喜三二だか
ら、絵も描ける春町は、貴重な存在だった。




悪友の思いもよらぬたすけ船  合田瑠美子




それは鱗形屋蔦重のような版元にしても同様で、文章も書けるし、絵も描け
るし、武士という立場もあって、原稿料もうるさくいわない春町は、非常に都
合のよい作家だった。さらに喜三二の影響もあり、春町は「酒上不埒」という
洒落た名で、狂歌の道にも足を踏み入れてゆきます。
そして、狂歌を通じ、彼らは蔦重にとって重要な作家となってゆく。
蔦重が「狂歌絵本」を売り出すにあたり、喜三二と春町は、欠かせない存在で
あり、春町の弟弟子にあたる喜多川歌麿にとっても、彼らの活躍は蔦重の出番
を増やすためにも、大切な存在だった。





踏まれ踏まれ腰あるうどん出来上がり  梶原啓子





     春町(岡山天音)と重三郎(横浜流星)





「べらぼう22話 あらすじちょいかみ」




耕書堂では、重三郎(横浜流星)渡来三和の冗談に大笑いをしている。
三和は、先日の宴で出会った町人とも武士ともつかない不思議な人物。
酔っぱらうと「義兄弟にしてくれ」などと絡んできて手を焼く存在ですが、
なにせ話が面白い。重三郎も笑いが止まりません。
一方、歌麿(染谷将太)は、笑いながらもどこか落ち着きません。
ふと、筆を折った春町のことが気になっていたのです。
「十日も建っているよ、そろそろ声かけたほうがいいと思う」
と歌麿が言えば、重三郎も返す言葉がありません。
面倒くさい相手ではありますが、放っておくわけにもいかない。
ようやく重い腰を上げることになりました。





ときどきは風に逆らう風ぐるま  服部文子





しかし春町(岡山天音)の屋敷を訪れた重三郎を待っていたのは、どん底まで
沈み込んだ春町の姿でした。「筆はもう折った」と冷たく突き放す春町。
重三郎が説得を試みても、心の扉は硬く閉ざされたままです。
「俺は、戯(ふざ)けることに向いてない」と声を荒げ、春町は重三郎を押し
のけて立ち去ってしまいました。
戻った重三郎は、喜三二の草稿「長生見渡記」歌麿に託しました。
「春町風で描いてくれ」と言いつつ、春町への未練もにじませます。





螺髪の陰やねんコオロギの黙秘  井上一筒






春町を中央に歌麿(染谷将太)と喜三二(尾美としのり)




春町の屋敷に歌麿喜三二(尾美としのり)が訪れます。
「長生見度記」に画をつけたいと願う二人。
歌麿が「春町先生に真似したいから許してほしい」と頼むと、春町は「勝手に
すればいい」と冷たく返します。しかし歌麿は引き下がりません。
「俺は春町先生の絵が好きだ」とまっすぐ語りかけたのです。
その言葉に春町の表情が緩みました。そして、ついに本音が語られます。
政演の『御存商売物』に圧倒され、自信を失っていたのです。
「あれを読んだとき、引導を渡された気がした」と春町。
喜三二と歌麿は「寂しいよ、春町先生がいないと」と熱く訴え、ようやく春町の
心が動き始めるのです。




とんとんで今日一日の幕を引く  石田すがこ

拍手[4回]

真新しい言葉を包み手漉き和紙  北原照子





                                    『万載集著微来歴』(恋川春町画作 東京都立中央図書館蔵)

天明4年 (1784) 狂歌会の著名人を戯画化して平家物語の世界にはめこみ、
楽屋落ちに興じた作品である。天明狂歌の発想がそもそも極め戯作に近い
ものであったことが実感できる。画の場面は天明3年の狂歌会の様子。




江戸のニュース 
老中・田沼意次は蝦夷地の資源開発とロシアとの貿易で経済的利益を得ること
を目指す。
明和八年 (1772) 、ロシア軍に捕らえられて、カムチャッカに流罪となったベニ
ョフスキーらが軍艦を奪って脱走。逃走中に阿波や奄美大島に上陸し「ロシア軍
が来年、蝦夷地へ襲来する」という情報をもたらした。これはフェイクニュース
だったが、この話に触発された仙台藩の江戸詰藩医・工藤平助は「ロシアは交易
目的で蝦夷地に接近している。ロシアを警戒するとともに蝦夷地を幕府が経営し、
ロシアの求めに応じて貿易すれば、大きな利益を得ることができる」と記した
『赤蝦夷風雪考』を老中・田沼意次に献上した。
これに意次は喜び、なんとロシアとの交易を企図するようになった。
幕府は長年、オランダや清、朝鮮意外とは通商、通交を禁じていたので、外交
方針の大転換である。二百年余り続く鎖国政策を平然とぶち破り、ロシアとい
う未知の通商をしようというのだから、意次は大胆な行動の持ち主である。
蝦夷地について意次はロシアに侵略されるまえに手中に治めようと考え、天明
五年 (1785) 最上徳内らに蝦夷地探検隊を組織させ、開発の可能性を探らせた。
(探検隊は「蝦夷地を開墾して耕地化すれば、五百八十万石以上の収穫を得る
ことができる」と復命したが…。意次はこの翌年に失脚してしまう)




破る為障子があると孫が言う  下林正夫





         吾妻曲狂歌文庫・唐衣橘洲  (からごろもきつしう)
 世にたつハくるしかりけり腰屏風まがり なりにハ折かゞめども
(意味)
この世で生きていくことは難しい。まして出世をすることは苦しいことだ。
腰屏風のように、腰を折り屈めて、ぺこぺこお辞儀をしながら、どうにかこう
にか生きている。



蔦屋重三郎ー狂歌ブームを作った男・宿屋飯盛






        宿 屋 飯 盛




大田南畝とともに、書物に関する教養を持った人物として、蔦重が頼りにした
のが狂歌師の宿屋飯盛である。狂名の由来は、実家が宿屋だったことから。
石川雅望(まさもち)という、列記とした名のある国学者である。
蔦重は、世の狂歌ファンに納得される出版物を刊行するには、狂歌に精通した
人間の知恵を借りる必要があった。この点で、蔦重より三つ年下で、大田南畝
に弟子入りして狂歌を学んでいた飯盛は、非常に好都合な人物だった。
彼は国学者としての知識を生かし、蔦重が狂歌集を刊行する際の「撰者」とし
て、力を発揮してくれる人材と見込んだのである。





          『吾妻曲狂歌文庫』の歌①
宿屋飯盛 (やどやのめしもり)
などてかくわかれの足のおもたきや 首ハ自由にふりかへれども
鹿都部真顔(しかつべのまがお) 
思ひきや十ふの菅ごも七ふぐり 女にまけてひとりねんとは




迷ったが一か八かで六にする  栗原信一




天明6年 (1786) 、飯盛が撰者となって出版したのが『吾妻曲狂歌文庫』という
狂歌絵本である。その当時、活躍していた狂歌師50人を、平安時代の王朝歌
人風に描き、それぞれの歌を添えて紹介した。肖像画を描いたのは北尾政演
(きたおまさのぶ)こと山東京伝である。
続いて、「百人一首に」に見立てて、江戸の狂歌師たちの歌を紹介したのが、
『古今狂歌袋』という狂歌絵本。ここでも山東京伝が挿絵を担当するが、格調
高い平安文学風の体裁に、いとも簡単に再現するところはまさに国学者、石川
雅望の本領発揮というところ。
やがて飯盛は同時代の、鹿都部真顔(しかつべのまがお)、銭屋金埒(ぜにや
のきんらち)、頭光(かぶりのひかる)とともに「狂歌四天王」と称される。






           『吾妻曲狂歌文庫』の歌②
手柄岡持 (てがらのおかもち)朋誠堂喜三二の狂名。
 とし波のよするひたひのしハみより くるゝハいたくをしまれにけり
馬場金埒 (ばばきんらち)
 我心あけてミせたき折々ハ 腹に穴ある島もなつかし




喝采がなくても光星月夜  平井美智子




しかし、飯盛が最も活躍できたのは、風刺や皮肉を盛り込んだ狂歌を、自由に
詠むことができた田沼時代で、松平定信「寛政の改革」が始まると、世の中
を風刺した創作は規制され、狂歌師も作品を発表しづらくなってゆく。
飯盛の師匠・大田南畝は、田沼意次の家臣・土山宗次郎との関係、吉原での遊
興における疑惑、狂歌で定信を批判した疑いなどで、狂歌の世界から離れざるを
得なくなる。四天王の一人となっていた飯盛の立場は、どうなっていくのだろう。
それに定信からマークされている蔦重に近いことも気にかかる。
そしてついに寛政元年 (1791) 飯盛は、奉行所から呼び出しを受けた。






           『吾妻曲狂歌文庫』の歌③
紀定丸 (きのさだまる)(大田南畝(四方赤良の甥)
 大井川の水よりまさる大晦日 丸はたかでもさすかこされす
図南女 (となぢよ)
   蛤の珠とミがける月影に  ミるめをそへて吸物にせん




まあいいか灰汁もわたしの味のうち  高橋はるか





呼出しの理由は、狂歌師としての活動ではなく、すでに彼が店主になって営ん
でいた小伝馬町の宿屋に関する訴えで、訴訟を抱えて江戸へ出てきた農民など
を泊める宿屋への嫌疑であった。
「不当に滞在期間を延ばした、高い金銭を要求した」というのである。
結果「家財没収の上、江戸から追放」というものであった。
まったくべらぼうな話である。のちに飯盛は、自叙伝「とはずがたり」にこの
罪は濡れ衣だと訴えたが、幕府は聞く耳をもたない。持つわけがない。
幕府としては、人気のあるうるさい狂歌師を江戸から追放したかったのだから。





『吾妻曲狂歌文庫』の歌④
花道つらね (五代目市川団十郎。号白猿、俳名三升)
 たのしみハ春の桜に秋の月 夫婦仲よく三度くふめし
酒上不埒 (さけうえのふらち)  恋川春町
 もろともにふりぬるものハ書出しと くれ行としと我身なりけり




曇天を斜めによぎるトラクター  前中知栄




家業の宿屋を失い、狂歌も断念し、江戸の郊外で暮らすことになった飯盛を励
まし続けたのが蔦重であった。飯盛が江戸に戻れないまま、蔦重はその6年後
に世を去ってしまう。 その墓碑の文章を書いたのは飯盛である。
『為人志気英邁 不修細節 接人以信』
(意欲的で叡智に優れ、気配りができる、信用できる人物である)
「寛政の改革」の終わった文化9年 (1812) 飯盛は、狂歌の世界に復帰する。
それから18年、78歳で亡くなるまで作家活動を続けた。





            『吾妻曲狂歌文庫』の歌⑤
頭光(つむりのひかる)
 母の乳父のすねこそ恋しけれ  ひとりでくらふ事のならねば
平秩東作(へづつとうさく)
 辻番ハ下座のかた手のつくり松 日に十かへりもはひつはハせつ



生きとおすサボテンの刺の強さかな  服部文子



「べらぼう21話 あらすじちょいかみ」






      松前道廣(えなりかずき)

鉄砲を構える松前道廣の標的は、桜の木に括りつけられた武家の妻











べらぼうはこの21話から『上知』『抜荷』という言葉がキーワード。

絵師・喜多川歌麿(染谷将太)と手掛けた錦絵が、売れなかった重三郎(横浜
流星)。さらに、市中の地本問屋・鶴屋(風間俊介)が手がけた、絵師・北尾
政演(古川雄大)著の青本が売れていると知り、老舗の本屋との力の差を感じ
ていた。そんななか、勘定組頭・土山宗次郎(栁俊太郎)の花見の会に、大田
南畝(桐谷健太)が狂歌仲間を連れて現れ、重三郎は、変装した田沼意知(宮
沢氷魚)らしき男を見かける。
田沼意知「花雲助」という狂名を使って、幕府勘定所組頭・土山宗次郎(栁
俊太郎)が開く狂歌の会に密かに参加。その会で松前藩で勘定奉行をしていた
湊源左衛門という武士と接触を図り、「抜荷を行う場所を示す絵図」なるもの
があるという情報を得ての潜入である。
松前藩の抜荷の証拠を「花雲助」として掴もうとする田沼意知と、その抜荷の
事実を知っているかのそぶりを見せる「白天狗」こと一橋治済(生田斗真)
不敵な沈黙が未来を暗示する。




沈黙もひとつの言葉おしずかに  高橋はるか






       田沼意知吉原に遊ぶ




一方、老中・田沼意次(渡辺謙)は、幕府のため蝦夷地を召し上げたいと、将軍・
徳川家治(眞島秀和)に伝える…。彼の構想は、単なる政治的野望というよりは、
鎖国体制下で閉塞していた幕府の視野を広げる試みだった。
意次は、その延長線上に蝦夷地を「経済拠点」「資源基地」としての可能性と幕府
再生の策を深慮していたである。
※ 上知(あげち)とは領地を召し上げて天領にすること
  抜荷(ぬけに)松前道廣が蝦夷地でオロシャと行う密貿易




正解は一つじゃないよ生きる道  前中一晃

拍手[3回]

凹と凸互いに照らし合うている  中山おさむ






      かくはかりめてたくミゆる世中を  うらやましくやのそく月影

訳)このように目出度く見える世の中を月までが羨ましがっているじゃないか
〔目出度いって?、そんなことあるわけないじゃないか〕
一見 肯定しながら逆説的比喩で世を皮肉ったいる。

    『万載狂歌集』

天明3年(1783)正月、須原屋伊八版、太田南畝が編んだ天明狂歌の出発点とも
言える画期的な狂歌撰集である。題名は『千載和歌集』のもじりで、構成等、
造本全体が勅撰集のパロディとなっている。本書の出現によって、マスメディ
ア上の隠れない文芸となり、爆発的流行現象を巻き起こした。






          平秩東作 (へづつとうさく) 
  
天明狂歌のきっかけの人物ともなった平秩東作、南畝の師でもある。
本名、立松東蒙 (たてまつとうもう〕江戸中期の儒学者・狂歌師・戯作者。
名は懐之。通称、稲毛屋金右衛門。著「当世阿多福仮面」など。
国を思い、国益のために頑張れば、人はそれを山師だという。
知恵のある者が、知恵のない者をそしるときには、バカとか、タワケとか、
アホとか、いろいろな言い方があるけど、知恵のない者が知恵のある者を
そしるときはその言葉が使えないので、山師といった。 
「風雅人の儀故、対面いたし候処、いつか山師に成候」

画中の句  鴫の姿は見えないが、西行の歌ゆえに目につく秋の夕暮れ




新しい風ミステリーゾーンから  井上恵津子




「江戸ニュース」 (明和四年)
大田南畝が『寝惚先生文集』を著し狂詩ブームがなる
この年、大田南畝(名は覃〔ふかし〕、多くの号を持つが、後半生以降に用
いた蜀山人が最も有名)が、19歳の若さで狂詩集『寝惚先生文集』を著わ
し、狂詩が文芸の世界で大きなブームを呼ぶきっかけとなった。
大田南畝は、幕臣の子として生まれたが、早くから松崎観海や内山椿軒(ち
んけん)に漢学、和歌を学び、その才を発揮して神童と謳われた。
のち独学で和漢の故事典則にも通じ、手なぐさみがてら狂文狂詩を同じ椿軒
門下の平秩東作(へづつとうさく)に見せたところ絶賛。
これを版元の須原屋市兵衛が聞きつけ、須原屋の熱心な勧めもあって『寝惚
先生文集』として出版の運びとなったもの。
(この書の序文は平賀源内が書いている)





代掻きを持ってタガメのひと泳ぎ  前中知栄




蔦屋重三郎ー天明狂歌・太田南畝






     大田南畝(四方赤良)(国立国会図書館蔵)




狂歌の第一人者として、「天明狂歌」のムーブメントを牽引したのが、太田
南畝(四方赤良)である。南畝は幕府御徒・太田正智の長男として牛込仲御
徒町で生まれた。若い頃から文才を発揮し、狂詩『寝惚先生文集』を19歳
で著したことは、前述のとおり。
以降、南畝は幕府に仕えるかたわら、四方赤良の名で狂歌を詠み、天明3年
 (1783) 『千載和歌集』のパロディである狂歌集『万載狂歌集』を発表。
唐衣橘洲(からころもきっしゅう=田安家家臣・小島源之助)とともに狂歌
ブームに火をつけた。




信楽のタヌキが僕を呼んでいる  下林正夫





            四方赤良・朱楽菅江

 四方赤良  
あなうなぎいつくの山のいもとせを  さかれて後のちに身をこかすとハ
 朱楽菅江   
紅葉々ハ千しほ百しほしほしみて  からにしきとや人のミるら




「唐衣橘洲・四方赤良・朱楽菅江などを中心として、狂歌の会が誕生」
狂歌とは、簡単に言えば和歌のパロディである。
雅文学の極みである和歌の形式、手法をなぞりつつ、そこに卑俗な要素を盛り
込むことによって生ずる落差興ずる戯れである。
この同好の士たちの集まりは、徐々に輪を広げていった。
太田南畝の社交の巧さ、人心を惹きつける力と明るい詠みぶりとで狂歌の集ま
りの中心的存在となる。
狂歌は、当座の読み捨てを原則としていて、マスメディアにのって彼らの文芸
が市中に出て行くことはなかった。
しかし、南畝は、狂詩や洒落本などにおいても、注目を浴びている人間であり、
また、「会」という通人の集いには世間の関心も厚く、この狂歌の会が脚光を
浴びて、江戸市中に赤良人気が沸き起こるのにさしたる時間は要しない。
極論すれば、この文芸活動は、「会」すなわち、狂歌をダシにして楽しく集う
ことに本質があった。詠まれた狂歌そのものには、第二義的な意義しかない。
極めて自由な発想で、様々な分野の才人が、この世界に取り込まれていくこと
になる。




言葉遊びに疲れなどないようだ  青木十九郎





            才蔵集
『判取帳』 (米山堂版複製)
天明3年より、太田南畝が来訪者の染筆をこれの乞うた帳面。
蔦重「才蔵集、吉原細見、新吉原大門口、四方先生板本、つたや重三郎、
狂名蔦のから丸」と、商売っ気が真正面に表れた署名をしている。




「蔦重との出会い」
天明元年 (1781) 、南畝が自著の黄表紙評判記で蔦屋刊の朋誠堂喜三二作・
『見徳一炊夢』を絶賛したことがきっかけだった。
御礼を伝えるため、蔦重南畝宅を訪れて以後、たびたび吉原で宴会を催し、
親交を深めた。南畝は、蔦重の狂歌本にも積極的に協力した。
一方で蔦重もまた狂歌師として狂歌の世界に参入する。
狂名は「蔦唐丸」である。もちろん『万載狂歌集』の成功によって、俄かに、
江戸狂歌の流行が顕在化、爆発的な人気を博し始めた様子を睨んだ上での挙
である。
滝沢馬琴は、その著『近世物之本江戸作者部類』に於て、蔦唐丸の歌を代作
であるとするが、「そうでもあるまい。代作なら、もう少しマシであっても
よい」はずである。
天明狂歌の本質は、詠まれた歌そのものにはおそらく備わっていない。
狂歌はその「本質」を全うするための口実で、その本質は狂歌をダシにして、
様々な思惑を持ち乍らも、人が何らかの形で集まり、遊び戯れることにある。
歌は下手くそでかまわない。
極端な話、狂歌を詠まずとも狂歌師たりうるのである。
狂歌師・蔦唐丸が、欲心満々の本屋重三郎そのものであっても、迎え入れる
側に不都合はなかった。




迷うまい心の通う友がいる  柴辻踈星  





            『吉原大通会』 (恋川春町画作 東京都立中央図書館蔵)
天明4年正月岩戸屋源八刊。絵は喜三二(俳名月成)をあてこんだ「すき成」
を主人公とし、彼のもとに、狂歌の名人10名が顔を揃える場面である。
みんなそれぞれ狂名等にこじつけた、妙な有り合わせの扮装をしているが、
後から登場した蔦唐丸(正面左下)だけは普通の恰好である。
「このメンバーで作品を仕上げてくれ」との依頼をしている。
唐丸が商売に余念のない「狂歌師」であったことをうかがっているのである。




前向きなデンデン虫の富士登山  永野こずみ




「狂歌師蔦唐丸は、狂歌壇にとって大いに重宝な男でもあった」
彼の役割は、狂歌師たちが狂歌師を演じる舞台、すなわち狂歌を詠み合う場の
お膳立てである。当然、そのような場で生産される作品は、ほとんど蔦重版に
直結する。『俳優風』『夷歌百鬼夜狂』は、内容にその間のいきさつが、
うかがえる格好の資料である。
蔦重の役割としてさらに重要なのは、狂歌の遊びの場として出版物という舞台
を用意したことである。南畝『満載狂歌集』において示した、出版をも取り
込んだ遊びという行き方を最も強力に推し進める役割を果たした蔦重は、世に
言う「天明狂歌」を作り上げた人間の一人として数えあげられなくては
ならない。
左面・酒盛入道(左坊主頭)(その横)紀定丸、朱楽菅江(上段・黒い被り
物)加保茶元成(下段右)蔦唐丸(下段中央)
右面・元木網(中央上)四方赤良(中央上チャイナ服)手綱岡持(上段右)
大屋裏住腹唐秋人(下段中央)




来た道はいつも楽しく跳ねていた  武内幸子




「連」
狂歌師たちは、それぞれ中心的な人物のもとに集まり「連」と呼ばれる集団を
作った。唐衣橘洲を中心とする「四谷連」朱楽菅江「朱楽連」宿屋飯盛
「伯楽連」鹿都部真顔の「スキヤ連」、加保茶元就「吉原連」など、
当時は、さまざまな連が組織され、一種のサロンとなって文化芸能の交流が行
われたのである。
また、唐衣橘洲『狂歌若葉集』四方赤良『万載狂歌集』など、相次いで
狂歌集・狂歌本が刊行されたことが、狂歌熱をさらに拡大させていく。
天明2年では、わずか4種に過ぎなかった狂歌関連書の出版点数は、翌年には
19種まで増大しており、狂歌人気の過熱ぶりがうかがえる。
こうした狂歌人気に参入し、さらにブームを演出したのが、蔦重であった。
朱楽菅江『故混馬鹿集』四方赤良『狂歌才蔵集』は、好評を博し、天明
狂歌五人選集に数えられるヒット作となった。
さらに狂歌師と絵師を組み合わせ、独自の絵入り狂歌本を刊行するなど、斬新
なアイデアを次々に繰り出していった。




1ページだけの絵本に月が出る  井上一筒




「べらぼう20話 あらすじちょいかみ」






     大田南畝(桐谷健太)




江戸城では次期将軍をめぐる話が進んでいました。
田沼意次は、一橋家の豊千代を将軍に、田安家の種姫を御台所にと家治の意向
を伝えます。豊千代には、すでに薩摩の姫との縁談がありましたが、意次は、
「正室でなければ側室にすればよい」と提案し治済も了承。
しかし薩摩藩主・島津重豪は激怒。
側室では収まらないと強く抗議してきました。
これにより、田沼と島津、そして西の丸巻き込む大騒動に発展します。




ハシビロコウも感情を持つ恋をする  加藤ゆみ子






      平秩東作(木村了)




そのころ吉原では、蔦重が出版した『菊寿草』が評判をよび江戸中の評判を集
めていました。
批評家でもある戯作者、大田南畝(桐谷健太)作の「菊寿草」で、喜三二によ
る「見徳一炊夢(みるがとくいっすいのゆめ)」や、耕書堂が高く評価された
蔦重は、書物問屋の須原屋とともに、南畝の家を訪ねる。
そこで近頃人気が出ている狂歌を知った蔦重は、南畝から「狂歌の会」への誘
いを受けるのです。




今炎えよ今を生きろと曼殊沙華  宮原せつ

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