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川柳的逍遥 人の世の一家言
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砂走り2、3日は喪に服す  酒井かがり




          日本史新聞 秀吉死すの報





【伏見=一五九八年八月】
再度の朝鮮侵攻が、義兵軍の反撃などによって泥沼に陥り、餓死する兵
も出て、厭戦気分が広がった頃、秀吉は伏見城で死の床についていた。
だが、朝鮮戦争の決着もつけず秀吉の様態は悪化。そのまま他界した。
行年六十三。
息を引き取る寸前まで…食うや食わずの境遇から成り上がり、悲運に倒
れた信長のあとを継いで、天下統一を成し遂げた秀吉の唯一の心残りは、
まだ6歳にしかならない秀頼のことばかり。
一国の運命を預かる天下人の末路としてはスケールの小さな話で、再び、
天下の行方が混沌としてきた。



人間に生まれたことが深すぎる  市井美春





秀吉の辞世  (大坂城天守閣蔵)
つゆとおちつゆときへにしわかみかな なにわのことはゆめの又ゆめ


「…返々秀より事頼み申候、五人のしゆ(衆)たのみ申べく候。
 いさい五人の物に申し渡し候、…なごりおしく候、
 しん(真)たのみ申、なに事も此ほかにわおもひのこす事なく候…」
                  八月五日  秀吉花押
いへやす ちくせん てるもと、かけかつ、秀いへまいる」


これは、五大老にあてた有名な秀吉の遺言状である。
幼い秀頼を案じる気持ちが伝わってくるようだ。
「五人のしゆ」は五大老、「五人の物」は五奉行のこと。
宛名のうち、「いへやす」徳川家康「ちくせんは」前田利家、
「てるもと」毛利輝元「かけかつ」上杉景勝「秀いへ」
宇喜多秀家五――大老の面々である。
この遺言状を書いてからおよそ半月後の1598年(慶長3)8月18
日、秀吉は家康たちに後事を託して没した。
朝鮮ではまだ、加藤清正ら10万の日本軍が戦塵のなかにあった。



天秤座に預ける老いの残高  靏田寿子




        朝 鮮 戦 争





【差し込みニュース】 〔名将・李舜臣、流れ弾に倒れる〕
秀吉の死から3カ月後の慶長3年11月19日、秀吉の野望を挫いた
朝鮮の名将・李舜臣が流れ弾にあたって壮烈な死を遂げた。
そのとき日本軍は、引きあげ命令に従って帰還の最中。
小西行長軍が、明と朝鮮連合軍に包囲されて孤立したとき、島津義弘
救援に向かった。七時間にわたる激戦ののち、島津軍は、大敗北を喫し
ながらも、辛うじて小西軍を救出することに成功した。
李舜臣が銃弾を受けたのはこのときである。
朝鮮軍の士気は落ち、小西・島津軍は退去になんとか成功、日本軍は、
朝鮮からの撤退を完了した。



茜雲から届いたやせた手紙  赤松蛍子



家康ー秀吉死す




                             伏見桃山城 (再建)
関ヶ原のとき、伏見城はまっさきに西軍の目標となり、守将・鳥居元忠
は壮絶な戦死を遂げ、城も焼かれた。 焼失した伏見城は、1602年
(慶長7年)頃、家康によって再建され、1619年(元和5)に廃城
とされた。



「利家、家康の二頭政治始まる」
1599年(慶長4)元旦、諸大名は伏見城に出頭し、新主秀頼に年賀
の礼を行った。前田利家は、病中ながらも傳役(ぶえき)として無理を
おし出席、秀頼を抱いて着席した。そして、10日、秀吉の遺言通り、
家康が伏見城に利家が秀頼に扈従(こしょう)し、大坂城に入る。
以後、秀頼の傅役として大坂城の実質的主となる。
                       (言経・利家夜話)
一方の家康は、秀吉が伏見城で死んだ後、この城の主となり、五大老の
筆頭の一角として政務を執る。
だが、お守役の前田利家に付き添われた秀頼が、大坂城に入ってから、
伏見に残った家康との「二頭政治」となり、対立・反目が始まる。



重い荷は二人で担ぐことにする  津田照子





                          幻 の 伏 見 城





「徳川家康、誓約違背事件」 新聞記事ゟ
―――ところで慶長4(1599)年に転機が訪れる。
正月元日、豊臣秀頼は伏見城で歳首の賀を受け、すぐに大坂城に移った。
傳役・前田利家も秀頼と共に大坂城に移ったため、伏見城は、空き家に
なってしまった。 この伏見城に目をつけた家康。
図々しく住み着いてしまったのであるが、その途端、勢威を強め不遜な
態度に出るようになった。
今井宗益を介して、六男忠輝伊達政宗の女を娶ろうとした際、縁故の
女を養女とし、福島正則嗣子忠勝蜂須賀家政の子至鎮と婚姻させた。
明らかに私婚を禁止した「太閤法度違反」だ。
しかし、力づくの政治に共鳴する者が出てきた。
これによって、大坂の豊臣派と伏見の徳川派が、明らかに色分けされて
しまうかもしれない―――。



やさしさの対角線にテロリスト  佐藤正昭



秀吉が亡くなって半年もたたないのに、家康は太閤の法律に触れる露骨
な婚姻作戦をはじめるなど、まるで自分が天下人であるかのような傍若
無人のふるまいに出たのだった。
利家はこれに反発し、諸大名が、家康・利家の両屋敷に集結する騒ぎと
なった。利家には、毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の3大老や5奉行
石田三成、武断派の細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味
方し一触即発の危機ともなった。
が、2月2日に利家を含む4大老・5奉行の9人と家康とが誓紙を交換、
さらに利家が家康のもとを訪問し、家康は利家の勧めで、三成の屋敷が
ある伏見城・治部少輔(三成)曲輪直下にある自身の屋敷から、対岸の
向島城へ移ることで和解をした。



すんなりといかない時の小休止  吉岡 民





「太閤五妻洛東遊観之図」 (喜多川歌麿)
醍醐の花見。秀吉を取り巻く女性は「淀殿」「松の丸殿」「お古伊の方」



「醍醐の花見ー1598年3月15日」 新聞記事ゟ
『花見の好きな太閤秀吉がいつもに増して豪華な醍醐の花見を催した。
しかし厳重な警護のなかで行われたため、参加者の間から疑問と不満の
声があがっている。
醍醐の花見が行われたとき、五十町四方山々には構やもがりが回され、
至る所に警護所が置かれ、弓・槍・鉄砲を打ち揃えた御小姓が徘徊する
ありさま。いくら趣向を凝らした店棚が用意されても、心から楽しめる
ものではなかった』



黄砂だと知らず見ていたおぼろ月  藤原紘一



慶長3年(1598)3月15日の「醍醐の花見」に、体調の思わしくない
まま、妻のまつと陪席すると、利家は4月20日に、嫡子・利長に家督
を譲り隠居、湯治のため草津に赴いた。
だが、病んだ身体はなかなか快方には向かわず、自宅療養を続けた。
尚も、利家の病状が悪化、家康が病気見舞いのため利家邸を訪問した時、
利家は「抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていた」というエピソードが
残っている。 (『浅川聞書』)
1599年(慶長4年閏)3月3日、利家は大坂の自邸で病没した。
享年62歳。 
利家の死後、待っていたかのように家康は加賀征伐に着手する。
利長は母の芳春院(まつ)が人質になる条件を受け入れ、加賀征伐は
回避された。



香典を辞退するなと書いて死ぬ  ふじのひろし





    高台院 (寧 々)





【その後】ー①
豊臣秀吉の死を契機に出家して「高台院」となった正室「ねね」とは
対照的に、淀殿は出家せず、豊臣秀頼の後見人として政治に介入。
豊臣氏の家政の実権を握った。





    しっかり者の石田三成





【その後】ー②   豊臣七将襲撃事件
豊臣家最大の守護神・前田利家が死んだことを機に、利家の死の翌3月
4日、加藤清正黒田長政は、福島正則加藤嘉明ら5人の武断派の大
名と語らって、三成を襲う計画を立てた、
彼らは「朝鮮の役」での武功が評価されなかったのは、偏にに石田三成
のせいだと深く恨んでいたのである。
これを知った三成は、こともあろうに彼にとっては不倶戴天の敵、徳川
家康の屋敷に逃げ込み、助けを求めた。
家康は両者の仲裁に立ち、三成に一時的な引退をすすめた。
三成は家康の二男の結城秀康に瀬田まで警護されて佐和山城に帰った。
これは三成には大チョンボであり、家康には、決定的なポイント稼ぎに
なった事件だった。
人々はもう「天下人」と呼ぶのであった。



虫下し飲んだらぶらりしませんか  榊 陽子

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品格は骨になっても生きている   通利一遍






   父・浅井長政とお市の方・三姉妹の別れの場面




「淀殿のイメージ」
豊臣秀吉の側室であり、その子秀頼の母として知られる淀殿は、悪女で
あり、豊臣家を滅亡に至らしめた愚かな存在として描かれることが多い。
しかし、それは後世つくられた虚像である。
淀殿はどうして後世、これほどまでに貶められてしまったのか。 
淀殿は本当に悪女であったのか。
そして、淀殿が自らの命と引き換えにしてまで守ろうとしたものは、
果たしてなんであったのか。
そのベールの下には、天下人の思い人になり、その子を生んだがゆえに
時代の矢面に立たされ、心ならずも、大坂城を仕切る立場になり孤軍奮
闘した女性の姿が見えてくる。




幸せは行きつ戻りつ鬼ごっこ  津田照子





        淀 殿





家康ー茶々そして鎧を纏う淀殿の悲劇-①




「淀殿の名前」
1569年(永禄12)茶々は、近江国小谷城で誕生した。
名前は茶々またはお茶、後年、従五位下を賜ったときには、菊子という
公式名を名乗っている。
1588年(天正16)頃、秀吉の側室になり、翌天正17年には、長男の
捨(鶴松)を出産。大喜びした秀吉は、茶々のために、山城淀城を築城
して与えたので、以後、淀の方と呼ばれるようになる。
また、住む場所により、二の丸殿、西の丸殿、淀殿などと呼ばれ、秀頼
の母としてお袋様と呼ばれた。
秀吉の死後、落飾して大広院、または大康院という名もあり。
淀君という呼名は、生存中ではなく江戸時代以降の呼び名である。





「後世、貶められた淀殿像」





秀吉の時代、大坂城の北側の一角に「山里曲輪」という美しい庭園があ
った。その場所は、「大坂夏の陣に敗れた淀殿が自害して果てた現場」
でもある。現在は、自刃の場所を示す石碑が建っているが、それを知る
人も訪れる人もあまり多くなく、巨大な石垣の下でひっそりとしている。
この様子がまさに、淀殿に対する後世の評価を物語っているようにも思
われる。概して秀吉の人気に対し、淀殿というのは評判が悪い。
淀殿を淀君という呼び方について――実は、淀君という言い方こそ江戸
時代になり、淀殿を貶めるために、少し軽蔑のニュアンスが込められ、
あえて流布された呼び方であった。




石投げて闇の深さを測っている  笠嶋恵美子




「秀吉の側室となる」
茶々と呼ばれた淀殿の少女時代は、正に乱世の過酷な現実を味わう日々
であった。
1573年(天正元)8月28日、小谷城に居を構える父・浅井長政
織田家、浅井家との同盟の約束である「朝倉家との不戦」を破ったため、
織田信長に攻め滅ぼされ、まだ五歳だった茶々は、母・お市の方に連れ
られて、命からがら城を落ち延びることとなった。
その9年後、母は茶々をともない越前の武将・柴田勝家と再婚。
しかし、それから1年も経たない間に、勝家は、羽柴秀吉に敗れて北ノ
庄城は燃え落ち、お市も運命をともにする。
父に続いて母も失った茶々は、この時15歳。
燃え盛る炎のなか、二度目の落城を経験することになる。
からくも城を抜け出した茶々の身柄を引き取ったのは、母の仇ともいう
べき秀吉だった。茶々は、やがてその男の側室となる。




噛んだあとほのかに苦い薬指  西澤葉火






              淀殿VS寧々




「正室・寧々と茶々の対立」
秀吉の側室・茶々は、近江の浅井氏の出身ということで、秀吉傘下の家
臣のうち、近江出身の石田三成、片桐且元らの勢力のシンボル的存在と
され、秀吉正室・寧々の子飼いの尾張出身者たち、武断派の加藤清正、
福島正則らとの対立を生むことになる。
秀吉の奥向きを差配する正室はおね、秀吉が駆け出しのころから支えて
きた糟糠の妻だった。 正室のおねと20歳も若い側室の茶々の2人の確
執を、世間は好奇の目で見た。
『太閤記』には、次のような逸話が載せられている。
『ある時、おねは珍しい黒百合の花を献上された。おねが茶会を開いて、
 世に一輪しかないというその花を茶々に見せた三日後、今度は茶々が
 おねを招いた。そして、その席には無数の黒百合の花が、いとも無造
 作に活け散らかしてあったのだった。
 それを見たおねは、顔色を変えてその場を立ち去った』という。




振り幅の広い女のヘチマ水  山本早苗




1588年(天正18)年秋、茶々は妊娠する。
長い間、男子に恵まれなかった秀吉には、それは大変な喜びであった。
茶々は淀に城を与えられ、これ以後、淀殿と呼ばれるようになる。
最初の子は幼くして亡くなったが、1593年(文禄2)淀殿は2人目
の男子・拾(のちの秀頼)を生んだ。
そして、世継ぎの母となった淀殿は、正室のおねを差しおいて、天下人
秀吉の寵愛を一身に受ける身となった。




おもしろくなってきました裏メニュー  田口和代






          病床の秀吉




ところが――
秀頼誕生のわずか5年後、淀殿の唯一の後ろ楯だった秀吉が、死の床に
ついてしまう。
「秀頼のことお頼み申し候。このこと以外に思い残すことはなく候」
秀吉は、秀頼の行く末を呉々も頼む、と言い残して世を去ってしまった。
これ以後、淀殿の運命は、瞬く間に暗転していく・・・。
     
                      つづく


泥濘を這って解った水の味  新家完司






     お 初




【淀殿の関り】 ここからはお市の方の二女・三女のこと。
二女のは、1570年(永禄13)小谷城で誕生。
18歳のとき、秀吉の計らいにより、浅井家の主筋にあたり、父長政
姉の子で従兄でもある京極忠高と結婚。
忠高は、1590(天正18)「小田原征伐」の功により、近江八幡山城
2万千石、1595には(文禄4)には近江大津城6万石へと加増され、
羽柴を許され豊臣姓もという出世ぶり。
しかし、妹・竜子が、秀吉側室の松の丸殿であることや、初との結婚に
よる出世とされて「蛍大名」と陰口をたたかれた、が、1600年(慶
長5)「関ケ原の戦い」では、三成側に就くと思わせて大津城に籠城し
て東軍に転じるなど、西軍を足止めする功績を残し家康から、若狭小浜
8万5千石を与えられている。




家系図に割り込むボクの知らぬこと  山本昌乃




初は夫の死後、剃髪して常高院と名乗る。
「大坂冬の陣」では、大坂城に入って姉・茶々らと妹・の婚家・徳川
家との和議に尽力をする。
夫・京極高次との間に子供はなかったけれど、妹のお江の4女・初姫
もらって嫡子・忠高と結婚させたり、他にも、血縁関係や家臣の子女の
養育にあたったり、「大坂夏の陣」の後、秀頼の娘で後の天秀尼の助命
を姪の千姫と共に、家康に嘆願したと言われる、世話好きな人柄がみえる。
三姉妹のうち一番長生きで、1633年(寛永10)64歳で死去。
蛍大名武士は、戦場による武功によって加増されてなんぼ、主筋との
結婚や姉や妹が側室になり、後継ぎを産んだことで加増されたり大名に
なった人を、女の尻の光で出世したと言う意で、蛍大名と蔑称された。
京極高次は5代将軍・綱吉の母・桂昌院の実家である本庄家も将軍の母
の実家というだけで小大名になれた、先例がある。



白髪染めやめたら皺が魅力的   居谷真理子





 
      お 江



お市の3女・は、1573年(天正元)小谷城で誕生という説と、
お市の方が小谷城脱出後に岐阜で出産した説がある。
名前は小督(おごう)、江与。亡くなった後に従一位を追贈され、達子
(さとこ)という名もある。
江は、3度の結婚経験があり、最初は秀吉によって、信長の次男で江の
従兄の織田信雄の家臣の佐治一成と政略結婚。
しかし、信雄と秀吉が「小牧長久手の合戦」で、敵同士となったために
離婚。
その後、天正14年~文禄元年(1586-1592)までの間の時期に、秀吉
の姉の息子で秀次の兄・羽柴秀勝と結婚。
一女・完子(さだこ)が生まれたが、秀勝が、1592年(文禄元)に
「朝鮮の役」で病没。




便箋のあと一枚の間柄  みつ木もも花




そして3度目は、文禄4年(1595年)、家康の3男で6歳年下の17歳
秀忠と結婚、長女・千姫を頭に2男5女を儲けた。
お江の長女・千姫と長姉・茶々の息子・豊臣秀頼は、秀吉の遺言で結婚、
また、江の長男・家光は3代将軍となり、徳川歴代将軍の中で唯一正室
から生まれた将軍であった。
1626年(寛永3)9月、江戸城西の丸で死去。享年54だった。




ご破算の想いのはずが発火する  清水すみれ






       北庄城址の三姉妹




「戦国一の美貌の母の子、浅井三姉妹は美人だったか」
茶々は、大柄で華やかな印象、秀吉があれほど入れ込むのだから美人だ
ったのだろう。千姫が愛した男前の秀頼は母似でもある。
は、地味な存在ながらもお世話好きで、父・長政に似て優しくて温和
な人柄だったことが伺われる。美人というより可愛かったのだろう。
は、3度目の夫・秀忠は7つ下でも、嫉妬深い山の神だった。
秀忠が腰元に笑顔を向けただけで江がヒステリーを起こしたというほど。
その恐怖感に実直で誠実な人柄の秀忠は、17歳で江と結婚後は、側室
もおかず、唯一、保科正之という婚外子が生まれたものの、江の存命中は、
対面もせず隠し通していたという。
それほど江は、よそ見をさせぬ程、抜きんでた美人だったのかもしれない。




心臓に異常はないが気は弱い  松田蟻日路

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まだ二回しか死んだ事ありません  中村幸夫



唐入り=朝鮮渡海の陣 太閤秀吉、日本全国に出動命令
天下統一を成し遂げた秀吉は、いといよ唐入り明国平定に乗り出した。
職諸藩に出動命令が発せられ、海詠の夫馬や渡船の学識、米穀蓄蔵が準備される。
一方、朝鮮平定が当面の課題として示された。
諸国諸将は続々と備前名護屋に参集。玄界灘を渡り、朝鮮半島に上陸している。 
日本史新聞。



「朝鮮出兵」とは、天下人となった秀吉が、全国の大名を大量動員し、1592年
から1598年にかけて2度(文禄・慶長の役)にわたって、朝鮮国への侵略を企
てた戦いである。
初めよければ終りは惨憺。2度目の戦いの最中で秀吉は病没し、戦いは終わっ
たが豊臣政権は間もなく倒れ、朝鮮の国土は荒廃し、明もまた間もなく、清に
よって滅ぼされる。
 
 


囃したらノンアルコールでも踊る  原 洋志


「江戸城のちょっと歴史」
「家康が江戸に入る123年も前に前に江戸の地で土木事業を興し、江戸城を
築いた武将がいる。
扇谷上杉家の家宰で名将の呼び声も高い太田道灌である。
道灌は、古河公方側の有力武将であった房総の千葉氏を抑えるため、まず江戸
氏の領地であった武蔵国豊嶋郡に平城を築いた。
 城は、鎌倉時代に建てられた「江戸館跡」に築かれ、1457年(康正2)
に完成したと言われている。それが「最初の江戸城」である。
道灌時代の江戸城は、自然地形と河川が防御の要となっていた。
東側は平川と日比谷入江、北側は千鳥ヶ淵から神田川へ流れている流路、
南側の桜田濠、外側には四谷・麹町台地を削った流れがそれにあたる。
また道灌は、江戸城に近い湊を維持しつつ、さらなる繁栄を図るために、
平川の河筋を東側に付け替える工事を行っている。


 
 
千年杉一刀彫として生きる  和田洋子



旧平川は神田川から切り離され、江戸城内の台地の斜面から湧き出ていた水を
流すだけの短い川とした。
その後、江戸城は北条氏が支配することになるが、北条の時代は、ほとんど手
入れも修理もしておらず、家康が入府する頃には、「荒れ放題」
「石垣で築いたところは一カ所もなく、竹木が茂り、城内には、北条氏時代の
侍屋敷が残り、当座の宿泊には役だったが雨漏りがし、畳や敷物も腐っている。
玄関は土間で、舟板を2段並べ、上がり段にしていた」
と、ひどい有様だったらしい。
あまりの惨状に家臣の本多正信が、「せめて玄関回りだけでも立て直しては」
と、すすめたが、家康は笑って受け流したという。
自分たちが住むところを快適にするよりも、新領土の整備を優先したのだ。
 
 



いくつかの窓は希望であるらしい  中野六助



 
江戸図
『長禄年中江戸図』
 道灌が江戸城を築いた当時の江戸の様子を描いたとされる絵図


 
家康ー江戸を建てるー②




 
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                                                 石を運ぶ船
 
 
 

1580(天正18)8月18日、江戸に入って17日後、家康は早くも城下
町の普請を開始した。 山を切り崩して整地をし、余った土を湿地の埋め立てに
使うという、一石二鳥ともいうべき方法で工事は進められた。
江戸の町を造るにあたって、家康には手本があった。
秀吉がつくった大坂の町である。当時、海に通じる運河が縦横に町を走る大坂
は、経済の中心地として繁栄していた。
<江戸は大坂と同じく海に近い。この利点を活かすがよろしかろう>
そういう秀吉のすすめを、家康は忠実に実行に移したのである。
こうして、湿地帯に水路がつくられ、のちの江戸の町の原形が徐々に形づくられ
ていった。
 



大自然生きとし生けるもの包む  宇都満知子



20230719_084050 - コピー
              石を運ぶ人夫
 
 



城下町の普請―― いわばハードウェアの構築を進める一方、家康は関東の政治
体制を整えるという、ソフトの整備も抜かりなく推し進めた。
そのやり方は、これまでの統治者だった北条氏の方法のよいところは、臆せず、
採り入れるというものであった。
土地の石高を調べる検地のやり方も、秀吉が推し進める過酷なものではなく、
これまで北条氏が行っていた手法を、積極的に踏襲した。
広い関東平野を効率的に治めるために、北条氏は、陸上交通を重視し、馬によ
って情報を伝え物資を運ぶという、伝馬制のシステムを確立していたのだ。
家康はこの仕組みを採り入れ、さらに整備を進めた。
そしてその責任者に、北条氏の時代の担当者をそのまま、引きつづき任命した
のである。
 
 



俯瞰してふと見えてくる捜し物  上坊幹子



それだけではない
家康は、今まで敵だった北条氏の家臣たちを次々に召し抱えた。
「われ、素知らぬ体をし、よく使いしかば、みな股肱となり、勇功をあらわ
 したり」
(家臣の過去は問わず、よく用いれば、みな仲間となり功績をあげるように
 なるというものである)
家康の関東支配は順調に滑り出した。
関東に行けば、「家康は、領国経営に失敗するかもしれない」と、いうのが
秀吉の目論見だったとすれば、その当てはすっかり外れることになってしま
ったのである。秀吉の当て外れはそれだけではなかった。
家康を関東に送った秀吉は「鎌倉の鶴岡八幡宮を修復せよ」と命令していた。
莫大な費用のかかる修築によって「家康の経済力を削ぐ」という秀吉の狙い
である。 家康は、この秀吉の命令も忠実に実行に移した。



なめこ汁つるん明日も生きてやる  真鍋心平太



家康・お勝の方


しかし、この時、家康は胸中に遠大な目標を秘めていたのである。
修築の前に家康が贈った寄進状の末尾に記された署名に、家康は自らのことを
「源朝臣」と、記したのである。
「自分は源頼朝と同じ源氏の流れをくむ武士である」
と、宣言しているのである。
鶴岡八幡宮は、鎌倉の地に幕府を開いた源頼朝とゆかりの深い神社である。
鎌倉幕府の歴史を記した『吾妻鏡』が、愛読書だった家康は、当然のこと、
それを知っており、修築にあたって自分は、
「古えの頼朝公の跡を継ぐ存在である」と、仄めかしたのである。
 



 
まだ夢がいっぱいつまる予定表  靏田寿子



家康もまた、この関東を基盤とし、頼朝の故知に習って、秀吉に対抗する勢力
を徐々に打ち立て、ひいては、頼朝のように将軍となって幕府を開こうという
遠大な目標を抱いていたとも考えられるのである。
こうして関東を拠点として整備しつつあった家康は、秀吉が配下の武将たちに
命じて朝鮮半島に兵を送った時も、国内に留まって力を蓄えることができた。
 



 
びり乍ら今も懸命走ってる  津田照子

拍手[3回]

太陽は沈むわかっているんだよ  市井美春






    相模湾を見下ろしながら密談する秀吉vs家康 



「秘密は二人っきりになれる静かな場所で…」
豊臣秀吉の小田原征伐における一幕―――
秀吉は、家康と今後の「領国経営の話」をするために、小田原が一望で
きる場所に「連れションしようぜ!」と誘った。
家康もこれに応じ、二人で連れ小便をすることになった。 内容は
「この広大な関東の地を家康に任せる代わりに、家康が長年に渡って守
 り続けてきた三河を含む旧領をわしにくれないか?」
という、いわゆる領地替え(人事異動)の話だった。 秀吉は
<なかなか言い出しにくい話も、連れ小便なら腹を割って話せる>と、
いうことで家康を連れ小便に誘ったわけだが、家康はこれを承諾し、
祖父の代より守り続けてきた領地を離れることとなる。
家康も苦汁を飲む気分だっただろうが、時勢が秀吉に味方している以上、
これに逆らうことを「良し」としなかったのだろう。





哲学の刻み目に夢の亡骸  高野末次





      家康は江戸を建てるにあたり豊かな水を求めた





家康ー江戸を建てるー①





「小牧・長久手の合戦」の後、家康は本拠地三河を中心に、東海地方や
甲斐・信濃に勢力を固め、秀吉との新たな戦いに備えていた。
ところが、そんな家康に、秀吉は思いがけない提案をしてきた。 
秀吉の妹・旭姫を家康に嫁がせるというのである。
それは「家康と和睦したい」という秀吉の意志を示すものだった。
だが、秀吉の妹と婚礼の儀をすませた家康だったが、依然秀吉の臣従を
受けいれようとはせず…小田原の北条氏との同盟関係をより緊密にした…
そんな家康に、秀吉は二の矢を放ってきた。
「なに! 今度は大政所を旭姫の病気見舞いとして寄こすじゃと」
「秀吉の使者は…たしかにそう申しております」
「親孝行で有名な秀吉が、年老いた生母を人質同然にしてくるとは」
<…いまが潮時か、サルめにここまでされては、知らぬ顔もできまい>
大政所が浜松に着いて二日後、家康はついに大阪へと出立した。




つまんで引っ張って引っ張ってつまむ  雨森茂樹






   茶地唐獅子模様唐織陣羽織 (東京国立博物館所蔵)
豊臣秀吉が所用したと伝わる。脇が千鳥掛けの袖なし陣羽織。
闘争心旺盛な大小7匹の獅子が躍動する姿が唐織で表現されている。
秀吉の陣羽織にはこのほかにも「闘い」を主題にした動物殻の
ものがあり、いかにも戦国の気風を伝えている。




         秀吉の鳥獣文様陣羽織

家康はついに関白・豊臣秀吉の軍門に降りた。
1586年(天正14)10月1日。この時、秀吉は家康に
「何か貴殿になにか贈りたいのだが、望むものはあるかな」と問うた。
家康は、「秀吉着用の陣羽織を所望」と答えたという。




1586(天正14)10月、家康はついに秀吉がいる大坂城に赴いた。
「やあやあ家康殿、ようお越し下された」
家康の到着を待ちかねていた秀吉の、なんとまぁ腰の低いことか。
「家康殿 ⁉ おいでになる日を一日千秋の思いでお待ちしていましたぞ」
そして、面会を明日に控えた夜のこと。秀吉は前触れもなく、突然、
家康のもとを単身訪ねてきて、こう言った。
「明日の面会の時は、ほかの武将たちの前で、この秀吉の顔を立てて、
 頭を下げてほしい。何卒 何卒 お願いし申す」
秀吉は手を合わせ、平身低頭で家康に謁見の仕儀を頼み込んでくる。
翌日、大名や家臣が居並ぶ前で、家康は秀吉の意を汲んで頭を下げた。
その刹那、秀吉は前夜とは打って変わった高圧的な態度で、家康に言い
放った。
「上洛 大儀であった!」
万座の席で、秀吉の家来であることを見せつけるその演出に、家康は
まんまと嵌められてしまったのである。




烏賊鯖秋刀魚ずいぶん偉くなったよね  新井曉子






      やたら男前な秀吉





家康は、もはや秀吉には逆らえぬと覚悟した。
家康さえ味方につけてしまえば、もう秀吉に怖いものはない。
中国・四国の大名を従えた秀吉は、その勢いをかって、1587(天正
15)には、早くも九州を平定、つづいて1590年には、関東の大名・
北条氏政の攻撃に乗り出したのである。
この戦で、家康は遠征軍の先鋒を務めさせられた。
秀吉軍は、家康がかけた橋をわたって進軍してきた。 総勢21万余。
北条氏政の居城小田原城を取り囲み、悠然と攻略する構えを見せた。




海に日も山の日もチャンネルを握る  山本早苗




そんなある日のこと。 家康秀吉の本陣に呼ばれた。
そして秀吉に、こう言われた。
「北条氏政が滅ぶのは、もはや時間の問題。 そこで家康殿、ものは相談
 じゃが、家康殿には、今の所領、三河・遠江など五か国の代わりに、
北条の所領、すなわち関東八か国を与えようと思うのだが、どうかな」
家康は驚いた。
<営々と拠点を築いてきた三河を捨てて、遠い関東へ行けとは…>
あまりにも無理な要求である。
家康の家臣たちは、口々に反対した。
「これは罠に違いありません。ここでまた、秀吉の口車に乗せられては
 なりません」
ところが、家康は意外な行動に出た。
家臣たちの反対を押し切り、わずか2週間後には、秀吉の命令どおり、
先祖伝来の地・三河を離れ江戸に向かったのである。




曲がり角とぼとぼ夕日つれてくる  宮原せつ





    江戸の地を下見する家康一行 (NHKー江戸を建てるゟ)





――今となっては、秀吉と自分の勢力には差がつきすぎており、到底、
逆らうことはできない。しかも、秀吉が与えるという関東八か国は、
石高250万石である。今の秀吉の所領200万石よりも多い。
<それほどの好条件を出されて、なお断れば、非はこちらにあるという
ことになり、難癖をつけられて攻め滅ぼされてしまうかもしれない。
ここは秀吉の言うとおりにするしかない……>
それが家康の胸中だったに違いない。


1580(天正18)8月1日、家康は江戸に入った。
ところが……、江戸の地を見て家康は愕然とした。
目の前に広がるのは一面の湿地帯である。
町は小さく、使える土地はわずかしかない。
この荒れ果てた江戸の地で、どうやって拠点を築いていけばいいのか、
それが家康の新たな課題となった。
(家康が江戸幕府を開く、 12年余り前のことである)





行くほどに遠ざかってく目的地  徳山泰子





今は秀吉に逆らうまいと決意する家康





「秀吉の思惑」
NHK大河ドラマ・「どうする家康」の時代考証を担当する歴史学者の
小和田哲男さんの話――。
『秀吉にとってみれば、家康というのは手強い相手である。 
将来もしかしたら豊臣政権を奪いかねないという、ちょっとした危険性
もある。できれば遠くへやってしまいたいという思いが秀吉にはあった。
もう一つ、北条氏というのは、小田原攻めで戦った相手、まさに家康が
最前線で先鋒として戦った相手である。当然、関東には滅ぼされた北条
の家臣たちがそのまま残っている。その彼らを手なずけることは、まず
難しい、秀吉は考え、「また家康は、関東の支配は、もしかしたら失敗
するのではないか、あるいは失敗してくれたらいいなあ」というような
意図もあった。家康はそれだけ秀吉にとって厄介な相手であった』




精霊とんぼ もの問いたげに言いたげに  太田のりこ











「敵を味方にせよ」
1997年(平成9)年に発掘された汐留の仙台藩邸の遺跡がある。
この遺跡からは、江戸時代初期に行われた埋め立ての方法をうかがい
知ることができる。
陸と海を仕切り、水流をせき止めるための「しがらみ」には、木と竹を
編んでつくられた柵の裏に、牡蠣の貝殻が細かく砕かれて敷き詰められ
ており、埋め立て地の水はけをよくするための工夫が見える。
家康が拠点を移したころの江戸は、一面の湿地に、海が入り江となって
入り込むという地形であった。
今の日比谷や新橋の付近も、当時はみな、海だった地域である。




ふんばりをきかせてみよう膝がしら  靏田寿子





    江戸の地下を走った水道管 (新宿区立博物館蔵)

「水道管」といっても、杉やヒノキをくり抜いたものか、板材を組み合
わせて箱型にするだけである。神田川の地下水道は6・5キロメートル。
この水道管から取水する井戸が3600ヶ所あった。



           江 戸 時 代 の 水 道 橋





【豆知識】 江戸の歴史ぶらり旅
江戸は湿地と台地からなっていて、もともと飲み水の乏しい土地である。
1590(天正18)に入府した家康にとって水は都市計画に欠かせない
大問題だった。家康はあらかじめ大久保忠行という者を使わして、江戸
の水事情を調査させた。忠行は「井の頭池」を発見して家康に報告する。
井の頭池からは、豊富な湧水が川となって流れていた。
神田川である。
忠行はこの大発見の功績により「主水」という名を頂戴したという。
この「井の頭池」から引かれた江戸最初の上水が、「神田上水」である。
神田上水には、川を横切るために高架にした場所がある。
水道が橋のように神田川を横切るので「水道橋」という名が付いた。
そのあと駿河台から地下水道になり4つに分水して、江戸市中に行き渡
らせるわけだ。
この水道工事の「人足監督」の中に、松尾芭蕉の名が出てくる。
芭蕉は伊賀国の出身。伊賀と言えば忍者で有名だが、彼らは一流の科学
者集団だったといわれる。俳聖・芭蕉もその真の姿は、テクノロジーの
先端を走る技術者だったかも知れない。





1,江戸の町人が住んでいた長屋には必ず共同の井戸が設けられていた。
模型はさおつるべで水を汲み上げているところ

2,上水井戸と長屋
上水井戸と長屋。井戸近くに立つと「井戸端会議」の声が聞こえてくる。
右の地面に見えているのは下水のどぶ板。長屋の中は大工職人の部屋や、
傘はりの内職をする浪人の部屋が再現されている。

3, 上水井戸から汲み上げた水は水瓶や桶に移して室内におかれた。


4,長屋までの水
上水水門から引いた水は地下に埋め込んだ石樋(せきひ)や木樋(もくひ)
の水道を使って江戸の町に分配された。
中央線の駅名である「水道橋」は、神田上水の水門から、神田川対岸に水
を渡すための懸樋(かけひ)の名残である。大名や商人など、大口の消費
者には専用の呼び井戸へ水が送られたが、長屋へは、木樋からさらに細い
竹樋(たけひ)を通して、共同の上水井戸に貯水された。




           玉 川 上 水 水 元 絵 図

上水水門から引いた水は、地下に埋め込んだ石樋や木樋の水道を使って、
江戸の町に分配された。
中央線の駅名である「水道橋」は、神田上水の水門から、神田川対岸に
水を渡すための懸樋(かけひ)の名残である。大名や商人など、大口の
消費者には専用の呼び井戸へ水が送られたが、長屋へは、木樋からさら
に細い竹樋(たけひ)を通して、共同の上水井戸に貯水された。
竹樋(たけひ)と樽
竹樋は竹の節をくりぬいて作った水道管。
樽は、水に混じる砂などを沈めるために使用されていた。




古井戸を覗くと皆が寄って来る  山本昌乃






                   江戸の水道工事 (家康江戸を建てるゟ)





縦と横いつも長さを競ってる  河村啓子

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イノシシと一緒に渡るかずら橋  井上一筒






  慶長二年(1597)真田昌幸が造営した沼田城の五重の天守

沼田城の戦国時代(変遷史)
永禄三年(1560)上杉謙信→(1578)北条氏邦→(1580)武田勝頼
→(1582)真田昌幸→(1589)北条氏政→(1590)真田信幸……→
天和二年(1682)幕府の命により沼田城は全て破却され堀も埋められる。



「家康が苦手なもの」
秀忠の軍は家康の本隊と別れて信濃路から関ケ原に入ることになった。
しかし、思いがけず真田昌幸の上田城で足止めを食ってしまう。
家康も過去に、上田城を攻めようとしたことがあったが、信之は迷路の
ような城下町まで、家康の軍をおびき寄せて散々な目にあわせた。
このとき、昌幸は甲冑もつけずに碁を打っていたという。
この秀忠西上のときも、降伏すると見せかけて 秀忠を待たせたあげく
「太閤様のご恩は忘れ難いので一戦つかまつりたい。ひと攻め攻めて
くだされ」と、人を食ったような申し入れをして挑発した。
秀忠は烈火のごとく怒り、城攻めに踏み切るが、城上から熱湯や糞尿を
浴びせられて苦戦し、結局、関ケ原に間に合わなかった、
まさに大胆不敵
秀吉はこの真田昌幸という男に惚れこんで、引き立てたが、家康はなぜ
か苦手で、相性が悪かった。



真夜中の苦手な虫と蠅叩き  新井曉子





   真田昌幸(佐藤浩市) vs 徳川家康(松本潤)





家康ー真田昌幸という男



「大河ドラマ第34話ーリピート」
家康は17年の月日を過ごし、慣れ親しんだ遠江・浜松城を去り、今川
館跡に築いた駿河・駿府城(今川館跡)へ移った。
そして、現れたのが真田昌幸(佐藤浩市)と長男・真田信幸(吉村界人)
「沼田領」をめぐり、家康や本多正信(松山ケンイチ)と緊迫の駆け引き
が展開される。
昌幸は、「北条に領地を渡す代わりに徳川の姫が欲しい」と、要求した。
テレビでその場面を見終わったファンは興奮していた。
「正信 VS 昌幸、見応えあったなぁ。佐藤浩市、怖すぎるー」
「松ケンと佐藤浩市の掛け合いって豪華。 凄い迫力!」
「正信『さ~な~だ~殿』から 対抗して昌幸『で~き~ま~せ~ぬ』」
「昌幸パッパと、正信の掛け合い…佐藤さんと松山さんも、それに――
その場面を切り取るカメラワークも凄ーい。グッジョブだったよ」



心の中見えるテレビを探している  矢沢和女
 


沼田城・本丸跡に復元された鐘櫓

真田氏が沼田城主時代は城内に建てられていたが、廃城により取り壊さ
れた。明治二十年ごろ、沼田町役場東北隅に楼を建て柳町歓楽院の梵鐘
を借りて時の鐘にした。



1585年(天正13)家康が、北条氏と講和するために「沼田城」を、
北条氏に返付するように命ずると、
「沼田は徳川氏から与えられたものではなく、自力で獲得した土地だ」
と、返却を拒否。
これによって、家康に上田城をせめられるが、撃退した。
この戦いは「第一次上田合戦」とも呼ばれ、徳川勢7千に対し、真田勢
は2千人にも足らないほどだった。
真田方は徳川方を上田城に誘いこみ、彼らが苦戦している間に、長男・
信之の別動隊が攻撃。
大混乱に陥った徳川軍は、撤退を余儀なくされることになるが、今度は
昌幸が設置したバリケードによって身動きが取れなくなった。
これによって、徳川軍は350人ほどの兵を失った。
この戦いの勝利で、昌幸は有名になった。




むささびの体がほしいもどかしさ  穐山常男





    上田駅前に展示される第1次上田合戦の墨



「徳川家康には、戦でどうしても勝てない相手が2人いた」
武田信玄と、もう1人は真田昌幸である。
「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と評された戦国屈指の食わせ者・
昌幸に、家康は苦汁をなめさせられる。 (比興=卑怯)
戦いの推移は、次のようだったと考えられる。
昌幸は奇襲攻撃をかけるも、かなわぬと見せかけて退散。
すると徳川軍は追撃し、防衛ラインを越えて上田城に迫ってきた。
そこに、砥石城にいた昌幸の子・信幸が援軍として現れ、徳川軍の側面
を突いた。徳川軍は、戦いの定石だった城下への放火を怠るなど、戦術
ミスもおかしていたという。
徳川軍は大混乱に陥り、さらに、上田城から続々と兵が出撃してくるに
至って、ついに退却を始めた。信幸隊はそれを追撃した。
後退する徳川の兵たちは、容赦なく討たれた。
逃げる途中、川を渡ろうとして溺死した者もいたという。
これによって、徳川軍は350人ほどの兵を失ったのである。
これを伝える『三河物語』は、徳川の功績を語り継ぐことが目的なので、
都合の悪いことは記録に残さない。実際はもっと多かった可能性もある。
続いて、近隣の丸子城でも徳川と真田は戦うが、ここでも真田は城を守
りきる。又、徳川と真田の小競り合いは11月まで続くが、最終的に家康
は信濃からの完全撤退を決断する。



明日を語る資格などありません  雨森茂樹





六文銭を飾った真田昌幸着用の甲冑 (柘植宗将氏蔵)



「そもそも真田昌幸とは、何者なのか?」
昌幸は、武田信玄の配下の武将だった。
1573年(元亀4)に信玄が没しても、引き続き武田に仕え、信玄の
跡を継いだ勝頼の下で働いた。だが1575年(天正3)「長篠の戦い」
で武田が織田・徳川連合軍に惨敗したのが転換期となる。
昌幸の兄・信綱が長篠で戦死すると、家督を継いだ昌幸は西部に移った。
東部は越後の上杉が支配し、南には関東の北条がいるという、複雑きわ
まりない地でもあった。上杉領の東上野には、要衝地の沼田もあった。
段丘状の地形かつ四方が山で、また標高400メートルに立つ沼田城が
堅城として知られた軍事拠点だった。



その出口迷路入口だったとは  徳山泰子






       真田昌幸時代の上田城古図



「要衝地・上野国沼田を巡る確執」
この沼田が“火薬庫”となる。
武田は当時、北条と同盟(甲相同盟)を結んでいたものの、「沼田」
は野心満々だった。もちろん北条も然りだ。しかし要衝地だけに、互い
を出し抜いて手を出すことも容易にできなかった。
そうした状況にあって、素早い動きを見せるのが昌幸という男だ。
昌幸は北条の目を盗み、沼田の国衆に調略を仕掛けた。
北条は勝頼に抗議した。仕方なく勝頼は、昌幸に書状を送り、
「行動には注意せよ」と指示している。
ところが結局、沼田は、1578年(天正6)9月、北条が接収してし
まうのである。翌年7月頃から、昌幸と北条の沼田争奪戦が始まり、
やがて家康が絡んでくる。



トラブルの中にいつもの顔がある  靏田寿子






    昌幸・信幸・幸村ー作戦会議



「驚くべき変わり身の早さ」
昌幸は、逆襲をはかるべく再度、沼田の国衆の調略にかかった。
敵に内通を促し、味方に引き入れるのは得意だった。
1581年(天正9)6月には、支配権の奪還に成功する。
その9カ月後の1582年(天正10)3月11日、勝頼が、織田信長
攻撃にあって自刃し、武田は滅亡する。
主君を失った昌幸のここからの行動がすさまじい。
勝頼が死んだ直後、信長に黒葦毛の馬を献上し、臣下の礼をとる。
1582年6月2日、「本能寺の変」で信長が死ぬと、その直後に上杉
に鞍替え。
7月9日、使者を派遣して北条に従属。
9月28日、家康の要請に応じて徳川へ帰属。
見境ないといえる昌幸の行動は、単に強い者に付いたわけではない。
昌幸は生き残りに必死だったのだ。



不器用に生きて大きな音を出し  原 洋志



わずか数カ月で北条を見限った昌幸は、さらに返す刀で、家康とともに
北条に兵を向けた。旗色が悪くなった北条は、家康に和睦を申し入れる。
10月29日、徳川と北条の同盟が成立した。
だが、その条件が大問題。
徳川は北条の上野支配を認め、昌幸の沼田城を引き渡す—。
昌幸が到底納得できない条件を、家康はのんだのである。


右向け右で左向く  木嶋盛隆






    タヌキ顔の家康の肖像





「だが家康もさすがにタヌキだった」
しかも当時、敵対していた秀吉との対決に忙殺されたのか、1585年
(天正13)まで、この条件を昌幸に伝えなかった。
同年4〜6月になって、家康は昌幸に圧力をかけ、「沼田を引き渡せ」
と命じる。昌幸は家康に憤怒した。
「沼田は自ら切り取ったのであって徳川家に与えられたものではない!
 もう徳川家の言うことなんて聞いてられるか!」
両者は物別れに終わる。
昌幸は、反徳川の姿勢を明らかにし、即座に上杉に接近、来る直接対決
の準備に入った。
一方の家康は8月に軍を招集し、信濃に派兵―――――。
こうして天正13年(1585年)閏8月2日、
話は冒頭の「第一次上田合戦」に戻る。



とろとろと二番煎じの夜でした  中野六助

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