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川柳的逍遥 人の世の一家言
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油揚げこんがり焼いているキツネ  井上恵津子





『金々先生ー夢の始まり』 (恋川春町作画) 





「金々先生そゝのかされ、吉原へ行って以来「かけの」といふ女郎に馴染み、
親の意見もなんのその、一寸先は闇の夜も、手代源四郎・万八を連れて、
ひたすら通い詰める。今宵もまた、八丈八端の羽織、縞縮緬の小袖、役者染
の下着、亀屋頭など流行りの出で立ちで吉原へ足をのばす金兵衛。
お気に入りの女郎の気を引こうと金銀を枡に入れてばらまきます。
お付きの連中は「やった」とばかりに必死にお金飛びつくけれど、
女郎は「お金ではなびかないよ」とそっぽを向いている」




そうなのか僕に興味はなかったか  徳山泰子





金々先生 金をばらまくが肝心の遊女はそっぽを向いている場面。





恋川春町は、もともと勝川春章、鳥山石燕門下の浮世絵師である。
でありながら『金々先生栄華夢』という戯作によって、自分でシナリオを作り、
自分で絵を描きながら、新しいジャンル「黄表紙」を確立-----ということを
やってのけた。しかし、この黄表紙の濫觴『金々先生栄華夢』は、蔦屋重三郎
ではなく、鱗形屋孫兵衛が刊行している。この時、蔦屋重三郎は25歳。
駆け出しの、鱗形屋の刊行物の小売業者に過ぎなかったのである。
恋川春町は、その後しばらく、鱗形屋だけで黄表紙を発刊している。
春町の鱗形屋刊作品は12作におよび、しかも他の出版元からは、
一切出していない。




ト書きになかったシナリオの隙間  近藤真奈





                『金々先生 夢のお終い』





「金々先生所々にて大きくはめられ、今はすっかり威光も消え失せて、
昨日まで先生先生ともてはやしてくれた供の者も知らんぷりで寄り付かない。
無念至極に思けれども、すべては自業自得なのだ。
猪牙や四つ手に乗っていt身が、今はバッチを尻はしょりに日和下駄とでかけ、
心細くたゞひとり、夜な/\品川へ通う身になっている。
「変われば変わる世の中じやな~。アヽ いまいましい」
そんなところへ通行の男「駕寵の衆。こひ(声)かけて早めましやうぞ」




泣きべその男を包む女偏  東 おさむ





     『頼光邪魔入』 (北尾政美画)
黄表紙は草双紙の一種である。もともと幼児向けの絵本であった草双紙を
戯作的な発想をもってパロディ化したもの。
恋川春町作「金々先生栄華夢」を刊行されたところからその歴史が始まる。





蔦屋重三郎ー恋川春町 & 朋誠堂喜三二






 廃業前の孫の字が威勢のよい鱗形屋孫兵衛が描かれている。
表の春町と喜三二の二枚看板の字が大きい。





しかし安永9年(1780)、そのような春町の出版のかたちに異変が起こった。
春町が鱗形屋から離れ、この年以来、ほとんど全てが、蔦屋刊になるのである。
実は、この理由は、鱗形屋孫兵衛の、安永9年の出版元廃業にあった。
恋川春町という鱗形屋のスター絵師、スター黄表紙作者を、蔦重はそのまま
その知名度ごと鱗形屋の崩壊とともに、鱗形屋から受け継いだのである。
蔦重が鱗形屋から受け継いだものはそれだけではない。
そもそも蔦屋重三郎という出版業の始まりは、鱗形屋孫兵衛にその根拠がある。




好奇心いっぱい抱いて前を向く  柴辻踈星





蔦屋重三郎は安永2年(1773)に吉原大門口のガイドブック・細見業者として
出発するが、最初は、鱗形屋の発刊した吉原細見の、卸売り業者だった。
早くも次の年から出版業務を開始するが、それでも鱗形屋の小売りは
やめていない。そして周知のように、やがて細見出版元として蔦屋は鱗形屋を
しのぐようになるのである。
鱗形屋が細見の株を売ったからだと言われている。
春町の仕事も、鱗形屋廃業のあと蔦屋に移ってきた。
鱗形屋孫兵衛は蔦屋重三郎の、仕事上の父親に等しかった。
まるで、魚類や昆虫が遺伝子を受け渡したあと、自然と息絶えるように蔦屋の
独立に伴ってその勢力を失い、天明という時代を迎えた途端、
その命を終える。




したたかに計算されていた涙  原 洋志






  蔦屋重三郎(左)と朋誠堂喜三二




黄表紙を創造した恋川春町は、安永9年に蔦屋の方に移ったが、
朋誠堂喜三二は、安永6年(1777)の冬から、蔦屋の仕事を始めている。
喜三二もやはり、鱗形屋から出発した黄表紙作家だった。
黄表紙というジャンルは、鱗形屋の多くは恋川春町の絵によって作られている。
喜三二は春町と違って絵師ではなかった。
雨後庵月成という俳人であり、手柄岡持という高名な狂歌師であり、韓長齢
いう名の狂詩作者であった。であるから、朋誠堂喜三二として黄表紙を作る時
には、必ず相棒の絵師を必要とした。その最初の頃の相棒が恋川春町だった。
ただし、朋誠堂喜三二が蔦屋のために最初にした仕事は、黄表紙ではなく洒落
本だった。これは蔦屋にとって最初の洒落本経験である。




生きるのが趣味で特技は綱渡り  妻木寿美代





        『見徳一炊夢』(みるがとくいっすいのゆめ)

「もし、お頼みもうしやす。いまお誂えのそばが参りやしたと言って、
「かめ屋」の出前がそばを届けるという場面。  
『見徳一炊夢』は、金持ちの息子・清太郎が親の金を盗んで「夢」を買い、
栄華の旅に明け暮れるが、70歳になって戻ってみると家は没落していた。
実はそれは、清太郎が出前を頼んで蕎麦が届くまでの「一炊の夢」だった、
というお話。




喜三二はこの時、『道陀楼麻阿』(どうだろうまあ)という洒落本用の名前を
使った。後に天明年間にも喜三二は、蔦屋のために洒落本を書いているが、
この時は「物からの不あんど」というもう一つの、洒落本用名前を使っている。
このように、ジャンルごとに名前を使い分け、それが時代ごとに変わってゆく
のが、このころの文人たちの当たり前の姿である。
名前の違いによって、ジャンルや時代を見分けることができるのだが、後世の
我々にとっては、どの名前とどの名前が同一人物であるか明確にするのが困難
で結局誰のことか分からない名前も多数ある。
逆に、蔦屋の出版物を見ていると、多くの人と仕事をしているように見えるが、
実は、複数の名前が同じ人間を指していて、特定のネットワークの中で仕事を
生みだしている様子が、見えてくるのである。




明るいトイレ埃飛ぶのがよくわかる  仲村陽子







秋田藩御留守居役・平沢常富=朋誠堂喜三二




喜三二は、鱗形屋の作家ではあるが、春町と違い、最初から他の版元とも仕事
をした。とは言っても、初めは鱗形屋に対する遠慮から、別名で洒落本を出す
にとどまり、鱗形屋が廃業した安永9年から、やっと喜三二の名で、蔦屋から
黄表紙を出すようになる。
初期の蔦屋を支えた恋川春町朋誠堂喜三二も、鱗形屋の廃業とともに蔦屋へ
移り、鱗形屋の黄表紙活動をそのまま蔦屋重三郎に伝授していった。
蔦屋に於る朋誠堂喜三二と恋川春町の仕事ぶりは、蔦屋の別の面を見せている。
「ジャンル」「専門」や「分担」という区分けを無視して仕事が再編集されて
いくことである。
蔦屋が作った「狂歌絵本」「黄表紙」もそのようなものとして現れた。
区分けの消滅と再編集、それは春町という稀有な、そして新しい時代の象徴の
ような存在によって、世に現れてきたのである。





共倒れにならないように手を離す  大橋啓子






           『吾妻狂歌歌文庫』 (都立中央図書館)
宿屋飯盛(石川雅望)  鹿都部真顔(恋川好町)




恋川春町は絵師である。
しかし同時に、駿河小島藩江戸詰用人・倉橋格でもあった。
恋川春町とは、華やかな名前だが、実は小石川春日町に住んでいたから付けた。
というふざけた名前である。このふざけた浮世絵師が身分で言えば武士であり、
藩士であり、しかも狂歌師としては、酒上不埒として知られていた。
天明の代表的狂歌師を絵入りで集めた百人一首パロディ『吾妻狂歌歌文庫』に、
その肖像と狂歌とが載せられている。
絵師としては勝川春章、鳥山石燕の教えを受け、歌麿北斎の兄弟弟子に当る。
蜀山人=太田南畝とも親しい。
春町は、蔦屋の仕事の要だった。
春町は6歳下の重三郎を、鱗形屋のかわりに保護し育てるような気持ちで仕事
をしたのではないか。
世代から世代へと受け継がれる「連」には、必ずそのような面があった。




アリバイを貸し借りできる友がいる  山田恭正






          『鸚鵡返文武二道』 (恋川春町作、北尾政美画)
時の老中・松平定信は文武二道、学問と武芸を奨励し倹約を勧めていた。
 作品は、文武どちらにもすぐれないのらくら武士たちが,頼朝の命を受けた
畠山重忠によって箱根に湯治に行かせられ,そこで文武いずれかに入れられ
ようとする話-----寛政の改革に題材をとり,洒落やこじつけで滑稽に描いた。
心の狭い定信は、寛政の改革を茶化ちゃかしていると捉えたのである。




しかし寛政元年(1789)春町は、45歳の若さで死ぬ。
死因不明。『鸚鵡返文武二道』が松平定信によって咎められた。
小島格は幕府の呼び出しに応じなかったという。
平賀源内獄死事件の時も、小田野直武変死事件の時もそうだったが、底抜けに
明るい笑いの向こうに、暗闇の死が潜んでいた。
いつもどこかに、あの道徳家、松平定信の影があった。
真面目な顔をした道徳家には、気を付けなければいけない。
定信は、「笑い」というものを殺したかったのかもしれない。
死だけは免れたものの喜三二重三郎も、京伝南畝も変節を、遂げなければ、
生きるすべはなかった。




友が逝き白いカモメが飛んでゆく  吉永団風





          「文武二道万石通」(朋誠堂喜三二作・喜多川行麿画)
定信の文武奨励策を背景に「ぬらくら」武士判別のため箱根七湯めぐり。
「穿ち」ねらいも、穴を詳しく探したけれど、見る者には、「いちいちわかり
かねます」と微妙。




朋誠堂喜三二もまた、秋田藩御留守居役・平沢常富という藩士だった。
釣りが好きなことから「岡持=桶」と名乗ったそうで、のんびりした気分が伝
わってくる。
やはり『吾妻狂歌歌文庫』にカルタ型の肖像を載せる著名な狂歌師だった。
蔦屋に移ってからは、『見徳一炊夢』(みるがとくいっすいのゆめ)で評判を
とったが、やはり『文武二道万石通』で、定信にやられ、秋田藩より止筆を命
じられて、筆を折った。




削っても結論の出ぬ鉛筆だ  木戸利枝

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まっすぐをどこで落として来たのだろう  岩田多佳子





          「吉原妓楼の図」  (葛飾北斎画 山口県浦上美術館所蔵)
図は鳥居清長「新吉原江戸町二丁目の図」と共通するものもあり、
吉原の大見世・丁子屋を描いたものともいわれている。
中央の長火鉢の前に忘八火車が描かれている。



焼き鳥の串に時間が刺してある  桑名知華子





酒上不埒(さけのうえのふらち)こと恋川春町





「安永4年1月の江戸の瓦版(ニュース)より」ー金々先生のこと
駿河国小島藩士であり、勤務のかたわら絵を鳥山石燕に学び、絵師としても
有名だった恋川春町が、初の草双紙本を出し、大きな評判を呼んだ。
その本の標題は『金々先生栄花夢』-----内容は、人生の楽しみを極めようと
田舎から出てきた金村屋金兵衛の、ひと時の夢の物語-------。
夢を抱いて江戸に出てきた金村屋金兵衛は、一休みしようと思って目黒不動尊
の茶屋で粟餅を頼んだ。そして、ついうとうとしていると、いつの間にか、
金兵衛は裕福な町人の婿になっていたから大喜び。「それなら」とばかり吉原、
深川、品川の遊里で豪遊して楽しみを極めたのだが、金を使い過ぎて勘当され、
途方に暮れたところで目が覚め、ハッとしてあたりを見回したのち、
「人間一生の楽しみといっても、わずかに粟餅一臼の内の如し」と無常を悟っ
て田舎に引き込む、というストーリー。
内容は、中国の「邯鄲の夢」に似た話で目新しくはないが、恋川春町は、
もとより絵師だっただけに、遊里での遊びの様子や、そこで用いられている粋
な言葉のやりとりなどが、写実的に再現されていたから、大きな評判を呼んだ。
この本の表紙が萌黄色だったことから以後、この種の洒落と風刺を織り込んだ
大人向けの草双紙は、「黄表紙」と呼ばれるようになった。



いい先生だった自転車でかよってた  高野末次





蔦屋重三郎ー吉原の舞台裏




「吉原の伝説の高級遊女ー5人」





     「松葉屋内喜瀬川」 (東京国立図書館蔵)
占いに通じた松葉屋の看板高級遊女「花ノ井・喜瀬川」





「松葉屋・瀬川」
原の江戸町にあった松葉屋において、看板名妓とうたわれたのが瀬川である。
この源氏名は代々踏襲され、合計9名の瀬川がいた。
このうち4代目の瀬川は、易道にも詳しく、平沢佐内に弟子入りして、卜占を
学んでおり、部屋に算木と筮竹(ぜいちく)を常備して、毎日占いをしていた
と伝えられている。また、後世に伝えられるほどの能書家でもあった。
山東京伝が記した洒落本の一冊には、評判の遊女の名前に加えて、各遊女たち
の得意分野が記されている。
松葉屋の瀬川の項には「書」「茶」「香」「和歌」「琴」とある。
安永4年(1775)には、五代目花ノ井・瀬川が、烏山検校に千四百両で身請けされ、
江戸中の評判となった。田螺金魚により戯作『契情買虎之巻』ができたほどである。
この五代目が大河ドラマ「べらぼう」の瀬川である。
(これから3年後のこと、鳥山検校は、悪徳高利貸し一味の首領であり、幕府から
咎められて全財産を没収されたうえ、江戸から追放されたという、瀬川にとって、
最悪の不幸話がのこる)




取っておきのウフフの座敷息ひそめ  山本美枝





     「古今名婦伝・万治高尾」 (東京国立図書館蔵)




「三浦屋高尾」
高尾とは、京町三浦屋に代々踏襲された太夫名であり、あまたいる吉原の高級
遊女の中でも、もっとも伝説的な存在である。
11代続いた中で一番有名なのが、二代目高尾である。
伊達藩の藩主、伊達綱宗に身請けされたことから通称「仙台高尾」と呼ばれる。
身請け後、情人のいることを知った綱宗の怒りを買い斬殺されたと伝えられる。
が、「隠居した綱宗とともに天寿を全うした」「三浦屋主人の別宅で静養して
いるうちに病没した」など史料によって相違がある。
万治に死没した「万治高尾」「仙台高尾」以外には徳川譜代の名門「榊原高尾」
産んだ子を伴って花魁道中をした「子持ち高尾」、染物職人の女房になった
「紺屋高尾」なども知られる。
複数の高尾がいるため、この伝説的名妓の墓は、関東に複数存在する。




覗いたことのない刻に出逢えるか  矢吹雅男





   「当時全盛美人揃・滝川」 (東京国立博物館)




「扇屋内・滝川」
滝川は、大見世扇屋の花扇と並ぶ双璧である。
江戸町一丁目にある扇屋は、文政年間(1818-30)に廃業するまで、吉原で最高級
の格式を誇る大見世だった。
主は、扇屋宇右衛門。和歌や茶道を国学者の加藤千蔭(奉行所与力)に学んだ
教養人で、墨河の号を持つ俳人であり、棟上高見の名で狂歌師としても活動した。
この扇屋において、扇屋の双璧とうたわれたのが滝川と花扇だ。
宇右衛門は、遊女の教育にも熱心であり、滝川も加藤千蔭門下の教養ある女性だ
った。
山東京伝が記した洒落本では、評判の遊女として名前があり、滝川の得意分野と
して双六、碁、茶、琴、香とある。香とは香道のことで香片を焚いて香りをきき、
銘柄を当てるもの。特に公家が愛好したとされている。




小窓を覗く隣の枇杷は食べ頃に  太田のりこ





     「扇屋内花扇」




「扇屋内・花扇」
花扇は扇屋の筆頭高級遊女だった。その名は代々踏襲された。
初代の花扇は、和歌、茶道、香道など幅広い教養を身につけた文化人だった。
能書家としても名高く、「俳風柳多留」には「扇屋の要東江流に書き」との
一句が掲載されている。
句中の東江流とは書の流派で、江戸中期の書道家・儒学者・漢学者、さらに
沢田東江が、自ら提唱した「古法書学」に基づいて起こしたものである。
「これは「明朝風の書から、よろしく魏晋の古風な書に帰すべし」という書の
復古主義である。この主張は、現今の書風に飽き足らない人々の歓迎するとこ
ろとなり、東江流として一世を風靡した。この一句からも、花扇の教養の高さ
がうかがいしれる。
(3代目花扇は、大坂の豪商鴻池を振ったことで有名。また4代目は客と駆落
ちしたと伝わる)




物知りの人は活字をよく喰べる  木村良三





  「新撰東錦絵・小紫比翼塚之話」




「三浦屋小紫」
小紫は京町一丁目にあった三浦屋の太夫であり、三代にわたって襲名された。
このうち、平井権八との悲哀で知られるのは2代目小紫のこと。
平井権八は元鳥取藩士。武家の嫡男であったが、国元で殺人を犯して出奔し、
江戸で武家に徒歩の士として奉公していた。三浦屋に通ううちに小紫の馴染みに
なるが、金に困って強盗殺人を繰り返した挙句、鈴ヶ森で処刑された。
その後、小紫は御大尽に身請けされるが、身請け当日、二世を誓いあった権八の
墓前で自害したという。
このエピソードは安永8年(1779)に「江戸名所縁曽我」で初めて歌舞伎化されて
以降、浮世絵などの題材で取り上げられるようになった。なお、平井権八は作中
では「白井権八」とぃう名で登場する。




夢の中いつも探しているばかり  上坊幹子






      「娼家全図 新版(部分)」 (歌川国直 城西国際大学水田美術館蔵)
二度寝した遊女たちも起きだして本格的に一日がはじまる。
一階畳敷きの広間で食事しているのは新造や禿。
高級遊女は自分の部屋で食事をした。朝食後、朝風呂にでかける。
左下には見世に並ぶ高級遊女の姿が見える。
昼見世が終わって夜見世がはじまるまでは自由時間だった。




知っていても損はないー吉原楼内のミニ蘊蓄





          「廓の明け暮・支度と診察」 (名古屋博物館所蔵)
見世の営業が始まる前の廓の様子。
左下の衝立の前には医師の診察を受けている遊女の姿が描かれている。




「医師だけが駕籠を許されていた」
楼内にも医師はいたが、外部から医師を呼ぶこともあった。
その際、医師は駕籠に乗ったまま大門をくぐることを許された。
大門の高札には「医師之外何者によらず、乗物一切無用たるべし」とあり、
大名であっても徒歩が義務づけられた。




オペ以後は月の砂漠に横たわる  井上裕二





 
     忘八               火車





「吉原を支える人々」




吉原は遊女のみで成り立っていた訳ではない。彼女たちと妓楼の運営を支える
裏方たちが数多く働いていました。まず、吉原を支えた縁の下の力持ちたちを
見てみましょう。
忘八
妓楼の経営者。非情な決断を強いられることもあったため、「仁・義・礼・智・
忠・信、孝・悌」の八徳を忘れたという意味で「忘八」と呼ばれた。経営手腕と
管理能力が求められた。
火車
妓楼の女主人を指す隠語。妓楼の主人が不在の際には、陣頭指揮をとって見世の
切り盛りをした。楼主である忘八とは夫婦関係にあって妓楼内に在住していた。
番頭
番頭は妓楼の帳場を預かっており、妓楼内では楼主に次ぐ権限を有していた。
見世の経理や雇人の監督を担当するかたわら、来店客の善し悪しを判別する
役割も果たした。




注射針を捨てるなコール天の熊  酒井かがり





 
       廻し方             やり手




廻し方
客と遊女の仲の取り持ち、客からのクレーム処理、酒宴の座の設定、揚げ代の
請求など、客と店の間を取り持った男性スタッフ。
二階の一切を取り仕切ったので「二階廻し」ともいう。
中郎
妓楼内外の雑用と掃除を担当した。
見世番
見世の入り口で客引きをする男性スタッフ。出入り客を見張っていた。
不寝番
火の用心を促しつつ、火を絶やさないために働いた男性スタッフ。
客と遊女がむつみあっている最中も部屋に入って油を注いだ。夜明けとともに
行灯を掃除してから、眠りの床についた。
遣り手
遊女を管理する老女。遊女上がりの老女が務めた。各妓楼に一人はおり、遊女から
恐れられた。




      お針            台廻し      不寝番




お針
裁縫担当の女性スタッフ
台廻し・風呂番
妓楼内の風呂の管理のほか、部屋への料理運びも兼ねた。
飯炊き
原で働く人々や客の簡単な料理をつくる。宴席料理は「台屋」と呼ばれる仕出し
屋に任せた。



レジ袋ほどの男でございます  福光二郎




「その他・ミニ辞典」




             廓 芸 者
幕府公認の遊女のいる遊廓において、優れた技芸で遊興の座を盛り上げた。




「吉原を支えた廓芸者」
吉原の主役は遊女であり、芸者の役割はあくまで宴を盛り上げるサポート役に
すぎない。天保2年(1831)刊行、『仮名文章娘節用』には、
「私はまた、座敷ばかりのはかない歌伎の身の上ゆえ、たとえどのような訳が
あっても弾者は抱えの女郎衆には勝たれぬが廓のならわし」
と芸者の嘆き節も聞こえる。





「若い衆」
妓楼の運営に携わる男性スタッフ。
年齢に関係なく「若い衆(者)」と呼ばれた。
妓楼が男性スタッフを雇う際は、浅草馬道の口入屋「大塚屋」を介した。
これは大塚屋の主が岡っ引きであり、雇った者が、悪さをした際に後始末をし
てくれたためである。




無音よりもっと侘しい音がする  高橋はるか





「原に出入りした商売人」




小物問屋
簪や化粧品など細々した商品を遊女相手に売り捌いた。吉原の遊女はブランドに
敏感だったため、商品の仕入れには気をつかった。
易者
通りを流している占い師。易者(うら屋)とのひと時は遊女にとって、こころ
ときめく時間だった。
貸本屋
遊女に教養を求められたこともあり、貸本屋は貸本屋は妓楼内に入ることが許さ
れた。
卵売り
一犯庶民の口にはなかなか入らなかった鶏卵も、吉原では精力剤として重宝され
登楼客が購入した。卵買いの使い走りは禿の仕事。




押し売りは売ってしまえばすぐ帰る  北原おさ虫 






           「籬(まがき)」



見世のランクは、「籬(格子)」の形で分かるようになっていた。
最高籬の大見世は「総籬」、中見世は「反籬」、小見世は下半分の「総半籬」
となっており、ここに並ぶことができた高級遊女は「格子」と呼ばれた。
因みに、宝暦年間(1751-64)まで、頂点に君臨したのが「太夫」
元吉原時代この太夫と高級遊女である「格子」のことを「花魁」と呼んだ。
花魁は、新造や禿などの高級遊女付きの女性が、自身の主を「おいらの姉様」
と呼んだのが由来とされている。



窓は四つ折りになってから姦しい  山口ろっぱ



「べらぼう8話はこんな話です」






    烏山検校(市原隼人)と瀬川(小芝風花)




蔦重(横浜流星)が手掛けた吉原細見「籬の花」は、瀬川(小芝風花)の名を
載せたことで評判となり、瀬川目当てに客が押し寄せ、吉原が賑わう。
蔦重刊の「吉原細見」は売れに売れた。
瀬川は客を捌ききれず、他の女郎たちが相手をする始末に、蔦重も一喜一憂する。
そんな中、瀬川の新たな客として盲目の大富豪、烏山検校(市原隼人)が現れる。
一方、偽版の罪を償った鱗形屋(片岡愛之助)は、青本の新作「金々先生栄花夢」
で再起をかけ、攻勢に出る。


同じ柄二度とは会えぬ万華鏡   山本智昭

拍手[2回]

肉球の跡がある六法全書  片岡加代





             「永寿堂店先」 (初代歌川豊国 東京国立博物館蔵)
鱗形屋から代替わりで繁盛する版元・西村屋与八の店が「永寿堂」である。




江戸時代には「著作権」の概念がなかった。
あったのは版元の「出版権」である。
著者から原稿を受け取った版元は、彫師に「板木」を作らせて、それを所有す
ることで「出版権」を得た。これを「板株」という。
板株の権利は、とても強く、ある版元が新刊を出版する際には、過去に似たよ
うな内容がないかなどを「仲間」に計り、出版の了承を得る必要があった。
「著作権」はなかったが、「出版権」には、うるさかったのである。
いろいろな規制を加えようとしてくる「お上」に対しては、版元同士結束して、
自分たちの権利を守ろうともした。




さむ空へ陽の射す道を選りながら  細見さちこ




蔦屋重三郎ー江戸の本屋





           須原屋通り一丁目店
須原屋は左に看板がみえるように薬屋も商っていた。





江戸の書物問屋の代表格は、須原屋茂兵衛で、万治年間(1658-61)初代茂兵衛
紀州有田から江戸へ移住したと伝えられる。
その後、分家が多く出たので江戸で、須原屋を名乗る本屋はほぼ分家といって
よい。茂兵衛から分家独立して、江戸の文人墨客の書を精力的に刊行した書物
問屋に、須原屋市兵衛がいる宝暦年間(1751-64)に独立した市兵衛は、平賀源内
の浄瑠璃本『神霊矢口渡し』等、太田南畝『寝惚先生文集』等や森島中良
『紅毛雑話』等を出して活躍する。
この市兵衛にやや遅れて、市兵衛が先鞭をつけた江戸在住の、武家知識階級の
著作意欲に便乗し、彼らの趣味的余技から始まった「戯作類」を刊行すること
によって、急成長を遂げたのが、地本問屋蔦屋重三郎にほかならない。





神様はきっと見てますその努力  津田照子





              鱗 形 屋
店先で粋にかまえているのが鱗形屋孫兵衛





松会三四郎
は、「江戸出版文化の代表」ともいうべき、戯作類とは無縁な版元
だったが、仮名草子などの初期教養書や浮世絵・菱川師宣の絵本類を刊行し、
江戸独自の文化の隆盛に貢献した点では、記憶される地方問屋である。
その松会三四郎と雁行して、江戸の出版界をリードしていったのが、須原屋
同じく万治年間に開業されたとされる鱗形屋で、仮名草子や師宣の絵本はもと
より、浄瑠璃本なども手がけていた。
鱗形屋は、八文字屋本の江戸売捌元となって、家業はいよいよ盛んになり、
何より江戸独自の草双紙類、つまり赤本・黒本・青本からやがて黄表紙時代を
告げる恋川春町『金々先生栄花夢』を出して江戸版元の主導的役割を果した。
しかし番頭が今日でいう著作権問題を起こし、天明年間(1781-89)に家運は衰微、
没落後は、その孫兵衛の次男が同じ江戸の地方問屋・西村屋与八の養子となって
西村屋の隆盛を招くといった皮肉な巡り合わせとなった。




予感的中うれしいようなこわいよな  鮒子田嘉子






         蔦屋重三郎の店・蔦屋





その鱗形屋より版権を譲渡され、鱗形屋に取って代わるように、出版界をリー
ドしたのが蔦屋重三郎であった。蔦屋もまた、山本九左衛門の最期の当主浮世
絵師・富川吟雪より、店をそっくり譲り受け鶴屋喜右衛門と並んで、江戸戯作
の出版界におけるバックボーン的役割を果たした。
一方、鶴屋喜右衛門は、はじめ京都鶴屋の江戸出店だったようだが、独立した
初代喜衛門時代に逸早く草双紙出版に手を染めて成功し、書物問屋兼地本問屋
として中心的な活躍をする。初代没後も二代目の才覚によって家運上昇は続き、
老舗として蔦屋と並立する版元として確たる地位を固め、五代目まで出版書肆
としての活動は続いた。




紆余曲折をただ真っ直ぐに突き進む  蟹口和枝





           鶴 屋 喜 衛 門 の 店





これ等地本問屋に続く新興地本問屋は、蔦屋西村屋に代表されるが、その他
に、浄瑠璃本の版元から草双紙まで広く手がけた西宮新六、寛政半ば頃に没落
するものの草双紙界では、多色刷りの絵題箋を工夫するなど独自の活躍をした
伊勢屋治助、そしてこれも浄瑠璃本から草双紙まで幅広い版行で幕末まで家業
を続けた伊賀屋勘右衛門等がいる。
こうした新興地本問屋のほとんどは、浮世絵の版行により財政的基盤を築いた
ともいえる。




魂をざぶざぶ洗う本の中  竹岡訓恵




江戸川柳が詠む本屋










「須原屋」
本家は日本橋通り一丁目西側にあった江戸屈指の出版商である。
この店の特徴は、武士階級の職員録とでもいうべき『武鑑』の刊行で、柳多留
には次のような句がたくさん詠まれている。
「武蔵野と須原に諸侯名を列らね」
「武鑑」という書は、諸家大風のあらましを、市井にて記したる者ゆえに、
誤りも漏れもあるはずなり。後略」編集にはどんな人が当たったのだろうか。
同店の売薬順気散も有名である。また柳多留にも人気があった。
「吉原は重三 茂兵衛は丸の内」
「須原屋は袖へ纏を十本入れ」
「桜木へ武士を須原屋彫て売り」
「御役がへ茂兵衛ちくいちかしこまり」 など。





惚けにに効く薬本屋で買ってくる  岩本浅男




「蔦屋・耕書堂」
今や、蔦屋重三郎は、大河ドラマでも主役になって話題を集める。
安永の初め吉原50軒町に開店、吉原細見の株を買い刊行、天明3年に通油町
に移転。蔦唐丸で狂歌の作があるが、狂歌絵本、洒落本、黄表紙、錦絵の刊行
書が多く江戸地本屋の第一人者。柳多留に次のような句がある。
「蔦重は五葉の松を細く見せ」
「原の百姓蔦屋重三郎」




生真面目な干し大根の顔になる  田村ひろ子






                                              鱗形屋発刊 吉原細見 (国立国会図書館蔵)




「鱗形屋」
鱗形屋は、大伝馬町にあった出版商で、川柳時代よりも古く、菱川師宣などの
絵本類の版元として知られる。元日の夜、枕の下に敷いて寝て、初春の吉夢を
祈った宝船を何枚と言わずに、欲深く、船を数える艘でいった
「数万艘鱗形屋は暮れに摺り」という柳多留がある。また、
「竜宮武鑑版元は鱗形」では…
魚族の王城である竜宮城で、武鑑のようなものを編集したら、鱗形屋が版元に
なるだろう川柳子はみている。金儲けには、執念をみせた人だったようですな。
「かわらけへとなりの書物きざみこみ」




一言の重さ軽さを問うている  笠嶋恵美子




「鶴屋」「鶴喜」
鶴屋喜右衛門は日本橋通油町で<鶴屋><鶴喜>として商う。
柳亭種彦「偽紫田舎源氏」の版元として著名。
元禄年代は、浄瑠璃本の版元としても名高く、明治維新後も、本石町3丁目で、
学術書・中学師範学校図書を販売、江戸の店は京都から移転したものという。
「廻り合ふ春を鶴屋は蔵で待ち」
「子を思ふ夜るの鶴やへ草さうし」 の柳多留がある。





お越しやす立ち読みできる本屋です  田中おさむ





             地 本 問 屋  (十返舎一九作画)






「永寿堂」
は、馬喰町2丁目南角に店「永寿堂西村屋」をかまえ、安永6年~
天明2年(1777-1782年)にかけて活動した。
当初は、磯田湖龍斎『雛形若菜の初模様』を蔦重と合梓により版行したが、
まもなく袂を分かち西村屋は、鳥居清長の作品を中心に出版。
寛政には入ると、西村屋与八は美人画を、対して蔦重は歌麿や写楽を推して
対抗した。
二人は、西村屋の二代目も含めて、蔦重のライバルとして江戸の出版界を牽引し
ていく。
「柳樽池の汀でひらくなり」
 


書店に並ぶ本の動きで知る世相  窪田善秋





「西宮新六」
本材木町一丁目に店をかまえ、俗に合巻物の権興といわれる『雷太郎極悪物語』
の版元であり、式亭三馬と関係の深い店で次の柳樽の句も、三馬の恵比寿講の
上客は西宮新六であろうと、兵庫県西ノ宮のエビス様を祭ってある広田神社を
頭においての作である。
「三馬が恵比寿講上客は西ノ宮」




幸運は多分歩いて来るんやね  肥田正法





「星運堂・花屋久次郎」
星運堂・花屋久次郎は下谷五条天神裏に店舗があったので、菅理という俳名で
川柳の作句もあり『柳樽』その他の俳書の版元でもあり、二代目雷成舎として
『ケイ』の編集にも当る。
「僕不思議花屋で本を売りますか」
「花屋の店に生茂る柳樽」



書店に並ぶ本の動きで知る世相  窪田善秋





           
蔦屋重三郎        須原屋市兵衛     西村屋与八
     横浜流星       里見浩太朗      西村まさ彦
       
鱗形屋孫兵衛      鶴屋喜衛門      駿河屋市衛門
    片岡愛之助       風間俊介       高橋克実




「べらぼうー第7話はこんな話」
片岡愛之助が演ずる地本問屋・鱗形屋の主人である孫兵衛が、字引『節用集』
「偽板の罪」で捕まった第6話につづく------。
この機を逃すまいと動く蔦重(横浜流星)は、皆が「倍売れる」と思えるような
『吉原細見』(吉原のガイド本)を作ることを条件に、地本問屋の仲間に加えて
もらえるよう約束を取り付ける。








しかし、老舗地本問屋は、それを快く思わず、西村屋の主人・与八(西村まさ彦)
は、浅草の板元である小泉忠五郎(芹澤興人)と新しく『吉原細見』を別に作る
ことで、蔦重の参入を阻もうとする…。



今でしょと明日は今日より若くない  靏田寿子

拍手[3回]

マカロニの穴に詰めおく昨日今日  前中知栄





杉田玄白が源内を「非常の人」と形容した平賀源内発明のエレキテル

長崎遊学時に、和蘭通詞の家で所蔵していた壊れたエレキテルに興味を持った
平賀源内は、江戸に持ち帰り、それを直しては壊し、約6年の歳月をかけて、
「摩擦起電機」(エレキテル)を作り出しました。源内44歳のときです。
そのエレキテルは江戸の大名屋敷などで見世物として、また病気治療を目的と
して使用していたといいます。





蔦屋重三郎ー非常の人・平賀源内





           
     源内と蔦重が最初で最後の出会いとなった『細見嗚呼御江戸』 

安永3(1774)年7月刊行の「細見嗚呼御江戸」に平賀源内は「福内鬼外」
の名で序文を寄せている。
          
『女衒、女を見るには法あり。一に目、二に鼻筋、三に口、四にはえぎわ、
 次いで肌は、歯は、となるそうで、吉原は女をそりゃ念入りに選びます。
 とはいえ、牙あるものは角なく、柳の緑には花なく、知恵のあるは醜く、
 美しいのに馬鹿あり。静かな者は張りがなく、賑やかな者はおきゃんだ。
 何かも揃った女なんて、まあ、いない。それどこか、とんでもねえのも
 いやがんだ。骨太に毛むくじゃら、猪首、獅子鼻、棚尻の虫食栗。
 ところがよ、引け四つ木戸の閉まる頃、これがみな誰かのいい人ってな。
 摩訶不思議。世間ってなあ、まぁ広い。繁盛、繁盛、嗚呼御江戸』
                      福 内 鬼 外 戯 作




さあどうぞ奥へ奥へと万華鏡  市井美春



平賀 源内は、1728年(享保13年)白石家の三男として讃岐国志度浦
(香川県市志度)に生まれた。発明の才に富み、エレキテルの復元、燃えない
布、万歩計、磁針器など、多くの発明をしたことで知られる。
が、発明者のほかに本草学者、地質学者、蘭学者、戯作者、浄瑠璃作者など、
その肩書は数知れない。
薬効のある動植物や鉱物を研究する本草学で名が売れるうれると、その奇想天
外な才能に興味を抱いた田沼意次とも、覚え目出度い仲となる。
このように国益のために務めるも、封建社会の壁に遮られ、世には迎えられず、
「乾坤の手をちぢめたる氷かな」の一句を残し、1779年(安永8年)喧嘩
がもとで人を殺め獄中でその生涯を閉じた。
52歳だった。蔦屋重三郎より22歳若く、蔦重が29歳の頃である。
平賀源内の親友の蘭学者・杉田玄白」は、異才の友人の死を惜しみ、
「非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや」
(好みも行動も常識を超えた人だった。なぜ死に際まで非常だったのか)
と、追悼文を綴っています。




蓮根をちょんまげに葱を脇差しに  酒井かがり





 風来山人は、流行作家として話題作を量産




平賀源内は、江戸で興隆した大衆文芸の書き手としても活躍し、数多くの号を
使い分けた。雅号として鳩渓(きゅうけい)戯作者として「風来山人」「悟道
軒」「天竺浪人」「貧家銭内」(ひんかぜにない)浄瑠璃作者として「福内鬼
外」(ふくうちきがい)俳号は「李山」などである。
なぜこれだけ名を変えたのかは不明だが、彼の「変り者」伝説を裏付ける。




競馬の蹄はビビデバビデヴー  蟹口和枝




自身をモデルにした作品紹介





          『根奈志具佐』  (風来山人作 挿絵)





『根奈志具佐』 
作品は、人気絶頂だった歌舞伎俳優が舟遊び中に水死した事故を脚色した
フィクションで、若侍に化けた河童と女形が恋に落ちて心中しようとする
のを、くだんの歌舞伎俳優が止めに入ったあげく水死してしまというもの。
なお河童が、若侍に化けて女形を誘惑したのは、閻魔大王がこの女形に一
目惚れして、地獄に連れてくるように命じたからという。
平賀源内は、男色のもつれによる悲喜劇を創作し、そのなかで閻魔大王に
なぞらえて為政者の堕落を風刺した訳ですが、作品名の読みを「根無し草」
と同じにして、「根も葉もない話」とほのめかしているのです。
その物語りの内容はー後半にて。




ぬるま湯が僕にぴったり合っている  青木十九郎






             『風流志道軒伝』  (天竺浪人作 挿絵)
足長族と手長族が窃盗を働いている。
実在の人気講釈師「深井志道軒」をモデルにした架空の諸国漫遊記。



『風流志道軒伝』は、当時江戸で大人気だった講釈師、深井志道軒の伝記です
──が、中身はすべてフィクション(デタラメ)です。
活躍中の人気講釈師の生涯をかってにでっち上げるという荒技を使った本です
が、このデタラメさが江戸っ子に大ウケして大ヒット。
『主人公の旅先は、巨人国や小人国、足長族と手長族が住む国、女性ばかりの
女護島、実在しない国々。」行く先々での異文化体験を、軽妙な文体で綴る、
また、藪医者が横行する愚医国、融通の利かない堅物が牛耳るぶざ国(ぶざは
武士の蔑称)といった国も登場させ、SF小説のような作風で、当時の実社会
を皮肉った。




注文通りにできてすっきりしない嘘  松下放天










「平賀源内と蔦屋重三郎」
蔦屋重三郎は、平賀源内より22歳年下の1750年生まれ。
蔦重が平賀源内に初めて接触したのは1774年、彼はまだ出版事業に乗り
出しておらず、江戸は吉原で書店を開業したばかりの頃。
この年蔦重は、吉原遊郭のガイドブックである「吉原細見」の「改め」と
呼ばれた業者の編集者だった。
吉原細見は、妓楼の所在地や遊女の名、揚代などを掲載する情報誌だから
どの版元の細見もみな同じようなもの。そこで、何か違った試みのものは
ないかと考えた蔦重は、時に話題を提供する有名人の平賀源内に吉原細見
の序文を依頼して、付加価値を高めようとしたのが二人のなりそめだった。




スクワット流れを変えに行くために  大石一粋







平賀源内蔦重の依頼に応えて「福内鬼外」の筆名で寄せた吉原細見
序文は、女衒と呼ばれた、女性を遊郭に仲介する業者が、女性のどこを
重視するかで始まっている。
「一に目、二に鼻すじ、三に口、四に生え際、肌は脂の塊のように白く
めらかで、歯は瓜の種のように形良く」と、そういう女性は人気の遊女
になる」と、筆を走らせたのである。
これには江戸の庶民も驚いた。
なぜなら平賀源内は、男色家として知られており、女性や遊郭に興味が
ないと思われていたからで。世間の意表を突いて、耳目を集めるという
蔦重の狙いであった。
ただ、平賀源内と蔦重が組んだ仕事は、これ以外に確認はできない。
なぜならこの5年後、先に述べた通り、平賀源内は死んでしまったから。





さよならはパジャマのままでいいですか  くんじろう






         
     花ノ井(小芝風花)に見惚れる蔦重(横浜流星)と源内(安田顕)




大河ドラマ「べらぼう」2話に出てきた菊之丞→瀬川→花ノ井
花の井は「源内さんにとっての瀬川は菊之丞のこと。かりそめの姿でもいい
から役者の瀬川と再会したいのだ」と見抜き、自ら男装をして、
「わっちでよければ『瀬川』とお呼びください」と源内に訴えます。
源内は、花の井の舞い姿に、菊之丞との思い出の日々を重ね合わせます。
その記憶を反芻しながら、源内が吉原の街を彷徨い歩くのです。





妄想を煮込み続ける金曜日  平井美智子




『根奈志具佐』






            根奈志具佐  (風来山人作 挿絵)
地獄に来た僧侶。





「あらすじ」
物語は、菊之丞と関係を持っていた若い僧侶があの世にやってきたことで始ま
ります。
僧は菊之丞という男娼に入れあげるあまり首が回らなくなり、師匠の金を盗む
罪を犯し、生臭坊主として閻魔大王の元にやってくるのです。
「この者の罪は何か?」と、大王が訊ると、人の善悪を記録する倶生神
そそくさと現れて、調子よく罪をならべはじめた。
「ハイハイ、この坊主は大日本国、江戸の修行僧です。これが芝居と男色の街
の女形・瀬川菊之丞という男娼の色に染められちゃって、まあ、師匠の財産に
手をつけるわ、寺宝の錦の戸帳を道具市にひるがえすわ、行基の作の阿弥陀如
来は質屋の蔵へと、若衆の恋のしくじり、悪事がばれ、座敷牢に押し込められ
てしまえば愛しい人にも逢えず、これを苦にしてあの世(シャバ)を去って、
めでたく地獄へやって参りました次第です」
しかし、死んでも忘れられぬは菊之丞の面影、肌身離さず腰につけたのは当代
きっての絵師・鳥居清信が画いた菊之丞の絵姿が僧の懐にあった。





門広く開けて待ってる地獄門  森 茂俊





「イヤイヤ」大王が不機嫌そうに答える。
「こいつの罪は軽いようにみえて、軽くない!シャバでは男色というものがあ
るらしいが、オレにはこれがさっぱりわからん。男女の道は、陰陽にもとづく
自然なことだが、男と男が交わるなんてことはありえん!
大王の怒りにみな委縮していたが、そのうち十王のひとり転輪王がおずおずと
進み出て「大王のご命令に逆らうのは、恐れ多きことですが、思ってることを
言わないと腹がふくれてしんどいので、ちょっと言わせてもらいやす。
大王は、男娼がお嫌いなので、酒好きに甘い餅を勧めるようなものですが、
菊之丞の評判、その艶美さは、この地獄にまで聞こえてきます。
坊主がこの世の思い出にと、抱いてきた絵姿を私も一目見たくてたまりません。
どうかこの願い、かなえさせてくだせい、ぜひ!ぜひ!」
目を血走らせて迫ってくる転輪王に、大王も少しひるんだ。




網の目を抜けた噂に追われている  前田芙巳代




「蓼たで食う虫も好き好きとは、おまえのことだ。そこまで願うなら、絵姿を
見るのは勝手にしろ。だが、オレは見ないぞ。男娼など見たくもないから、
オレは目をつぶる。さあ、目を閉じてる間にサッサと絵を開け」
大王がギュッと目をつぶると、転輪王は、急いで絵姿を柱にかけた。
” 清きこと春柳の初月を含むがごとく  艶えんなること桃花の暁烟(朝もや)を
帯びるに似たり "
皆がゾロゾロ集まって来て、絵をのぞきこんだが、その姿の艶あでやかさ------
なんとも言葉にもならず、誰もが「はっ」と息をのんで魅入るばかり。
聞きしにまさる菊之丞の姿、天下無双の美しさかな──と、十王をはじめ見る
目は、目ん玉光らせ、かぐ鼻は鼻の穴ふくらませ、牛頭(ごず)馬頭(めず)
などは、額の角をいきり立たせて興奮し、そこら中から、感嘆の声が鳴りやま
ない。




奈落でもほのかににおうサロンパス  木口雅裕





周りのどよめきに、さすがの大王もガマンできなくなったのか、こっそり薄目
を開けてのぞいている──と、たちまち目がまん丸になって、その艶やかさから
目が離せない! さっきまでバカにしていたことも忘れ、魂の抜けがらのように
呆然と見惚れて、思わず身を乗り出した大王の目もウツロだ。
「皆の前で面目ないが…オレは、この絵姿の可愛らしさに胸がキュンとなった。
昔から、美人と聞こえが高いものは、大勢いたが、そんなものとは比べものに
ならん。
西施の目もと、小町の眉、楊貴妃の唇、かぐや姫の鼻、飛燕の腰つき、衣通姫
の着こなし------すべて引っくるめたこの姿、花にも月にも菩薩にさえ、かなう
ものはない。
まして、 唐土でも日本でも、こんな美しいものが二度と生まれてくるとは思え
んから、オレは冥府の王位など捨てて、これからシャバに行ってこの若衆と枕
を共にする」




満月のプリンはとても姦しい  山本昌乃





「けしからん!」大王がのぼせてフラフラ出て行こうとすると、 邪淫の罪を裁
く宗帝王が立ちはだかって、しかめっ面で怒鳴りつけた。
「色に溺れて、冥府の王位を捨て、シャバで男と交わるなど言語道断!そんな
ことでは地獄、極楽の政を執り行うものもなくなり、善悪を正すこともできん。
三千世界の民は何をもって教えを乞うのか!」
宗帝王が顔を真っ赤にして迫ると、後ろから平等王が、いそいそと現れた。
「まあ、まあ、宗帝王さんのおっしゃることは、ごもっとも──まさに、木曽の
忠太が、義仲をいさめて腹を切ったような立派なご意見──ですが、大王さまは
意固地なお方、いったん口にしたことはテコでも曲げねぇときた。
どうせ何を言ったって、馬の耳に念仏、牛の角のハチときて聞きゃしません。
男女の怪しげな魅力に取りつかれて、王位を捨てるたぁ-、俗世の息子衆のやる
こってす。地獄、極楽の主たる大王さまのやるこっちゃありません。
どうでやす、そんなに菊之丞がお望みなら、俗世に誰ぞ使いをやって、菊之丞
めをとっ捕まえて来るほうが手っ取り早くすみやすよ」
平等王の思わぬ提案に「そうだ、それがいい!」と、みなが賛同した。
この案には大王も納得し、さっそくみなで顔つきあわせて菊之丞をさらう作戦
を練りはじめた。





全会一致なぜか怪しい決まり方  水野黒兎






              根奈志具佐  (風来山人作 挿絵)
舟遊びをする菊之丞と河童




大王はなんとかして菊之丞を、傍に置きたいと思うのですが、彼の寿命はまだ
まだ先なので、自分の従えている神々を招集し会議をし、その中でも水を司る
龍神に、菊之丞を殺して連れてくるよう命じるのです。
命を受けた龍神は、竜宮城に戻り、眷属(けんぞく)を集めて、菊之丞誘拐の
計画を立てます。その中でも伊勢海老は、派手な歓楽街に出入りしており芸能
人事情にも詳しく、菊之丞が近日中に、隅田川で舟遊びする情報を掴んできま
した。
それをもとに、河童が、菊之丞をおびき寄せる実行人となります。
伊勢海老の情報の通り、菊之丞は、その日に隅田川で役者仲間たちと一緒に舟
遊びに来ていました。一同はシジミを取りに、小舟に乗り換えていましたが、
菊之丞は、俳諧の発句を思いつきそうだったので、舟にひとり留まりました。





モヤモヤに一度止まって考える  上坊幹子





そして、いい感じの発句を思いついて詠んでみると、どこからかもっといい感
じの脇句が返ってきます。その声の主を探していると、笠を深く被った24,
5歳ほどの若いが、小舟に乗ってこちらを見つめていました。
菊之丞はその侍に、少しときめいてしまいますが、あの亡くなった僧侶のこと
を思い出して戸惑うのでした。
「夏の風になりたい。君の服の中に忍び込める風に」おもむろに侍は、そう歌
を詠んだ。
菊之丞もまた、風を誘う扇を煽る手を止めて、
「私も、その骨の隙間から君を覗き見つめたいです」と返し、侍は自分の小舟
から菊之丞の舟に移って来て、ふたりは舟の上で結ばれます。
なんとその侍の正体は、龍王の密命を受けた河童でした。
河童もまた菊之丞に惚れてしまい、菊之丞を地獄へ連れていくのを躊躇い自死
しようとするのを、「それなら菊之丞もともに」と、もみ合いになります。
そこへ、くだんの歌舞伎俳優が止めに入ったあげく、水死してしまという…。
結末が待っていたのでした。




スマホが光るすぐ来いというエンマ  井上恵津子

拍手[2回]

花園のところどころにある沼地  みつ木もも花





          『吉原遊郭娼家之図』 (歌川国貞画 栄寿堂西村屋与八板) 
原の妓楼の内部。上図を拡大すると。


        上三枚目と下一枚目は同じです





「流行・文化の発信地------、吉原」
吉原は江戸最大の観光地であり、ある意味文化の中心でもあった。
江戸見物に来た老若男女にとって、浅草の浅草寺に参詣したあと、原に立ち
寄るのは定番の観光コースになっていたし、藩主の参勤交代で江戸に出てきた
勤番武士がまず見物したがったのは「吉原」だった。
原の季節ごとのイベントには多くの女も見物に詰めかけた。
女もこだわりなく遊郭に足を踏み入れていたのである。
一種のテーマパークでもあった。




魂が地上五尺で燃えている  通り一遍






         いざ、吉原へ 新吉原の賑わい




原を題材にした浮世絵・錦絵・戯作・歌舞伎・音曲・工芸品は多数あるし、
遊女の髪形や衣装は、江戸の女の流行の発信源だった。
ほとんどの文人学者は吉原で遊び、情報交換の場となっていた。
吉原を抜きにして江戸文化を語ることはできない。
とはいえ、男たちにとって吉原はなによりも女郎買いの場だった。
男の道楽を「呑む、打つ、買う」といった。
呑むは酒、打つは博打、買うは女郎買いである。
その女郎買いっでも吉原は最高の場所であり、上級遊女である花魁は男たちの
憧れでもあった。
当時「男の女郎買いは仕方がない」という考え方が支配的であり、若い男が吉
原に入り浸っていても年長者は寛容だった。
たとえ亭主が朝帰りをしても、女房は憤懣を押し殺し、笑って迎えた。
こうした風潮のもと、男は身分や職業、年齢、独身既婚を問わず、恥じること
も隠すこともなく勇んで吉原に出かけた。




擦れ違いざま赤い舌が見えた  酒井かがり





           新 吉 原 一 覧
新吉原は約3万坪(10万㎡=東京ドーム約二個分)の広さを持つ特別区域
で周辺には、城郭のように堀があった。その堀で囲まれた廓の中に、遊女た
ちを抱えている抱え主が経営する傾城屋、女郎屋(妓楼)があり、そこで生
活する人のための商店や飯屋・床屋・銭湯など裏筋にある小さな町を成して
いた。




蔦屋重三郎ーいざ吉原へ 吉原の画像景色とともに




「吉原ってどんなところ」
江戸時代初期の元和4年(1618)、吉原(旧吉原)は、現在の中央区日本橋人形
町付近と江戸の中心地であったため、風紀の乱れを問題視をした幕府が、明暦
2年(1656)に郊外への移転を命令した。
翌明暦3年(1657)、4代将軍家綱の時代に千束村に移転して開業した。
現在の台東区千束4丁目一帯である。
以来、吉原遊郭(新吉原と呼ぶ)は、幕末までのおよそ2百年に亘ってこの地
で営業を続けた。




哀しみのかけらが落ちた水たまり  前田芙巳代













「新吉原」を俯瞰すると、直接内部が見えぬよう入り口を「く」の字”形に造り、
四方に堀(おはぐろどぶ)をめぐらし、遊女の逃亡と犯罪者の脱出を防ぐ為に要所
に9つの跳橋を設け、非常事に備え表裏の大門は、四っ時(午後10時)に閉じ、
夜明けに開いた。
尚、門脇に設置された「四郎兵衛会所」の番人が出入りを厳しく監視した。
そして陰陽道の占術に基づき、五つの稲荷神社を設け、遊廓街へ入る五十間道
曲がり方、見返りの柳、さらには、花魁道中における花魁の独特の歩行方までも
陰陽道のご託宣に従ったものという。
この隔絶された世界に約3千人、妓楼の関係者やその他の商人などを含めて1万
人近くが生活していた。




後ろからみれば裸の文化人  筒井祥文




         『新吉原江戸町二丁目』 (古代絵集 佐野槌屋内黛突出の図)
花魁道中。本来は年始や祝日、新しい遊女のお披露目の際に行うものだが
客に呼び出された花魁が、振袖新造、禿、妓楼の若い者を従えて、黒塗り
の高下駄を外八文字に歩く姿は、日常的に見られる花魁道中として人々の
目をひいた。





吉原の遊女といえば、最高位である「太夫」がよく知られているが、実はこの
太夫という呼称は、宝暦年間(1751~64)に廃止されている。
 時代小説や時代劇に描かれているのは、ほとんど宝暦期以降明治維新まで
のおよそ百年間の吉原である。
吉原というとすぐに「太夫」を連想するが、もっぱら時代小説や時代劇の舞台
となっている吉原には、太夫はいなかったことになる。
つまり、蔦屋重三郎が、「吉原細見」を手がけるようになった安永4年(1775)
にはすでに太夫の記載は「細見」になく、それに代わって記載されたのは遊女
の階級と揚代(料金)である。




昨日までなかった道が現われる  竹内ゆみこ





葛飾北斎娘・応為『吉原格子先之図』
「和泉屋」と記された妓楼の店先、艶やかな姿を見せる遊女たちの「張見世」
の様子。夜も更けて闇の色が深くなる中で、遊女たちのいる座敷だけは、煌々
と、昼間のような光で包まれている。




「呼出し昼三」
昼夜通しての揚題代が金三分。
遊女が姿を見せて客を待つ張見世はせず、引手茶屋を通した上客の指名のみ、
受ける。これに新造という、若い遊女が一緒につくと、一両一分(125,000)に
増額する。
「昼三」
昼夜通しの揚代が金三分(75,000)。夜だけなら、一分二朱。
「座敷持」
昼夜通しの揚代が金二分(50,000)。自分の起居する部屋と座敷を与えられた。
夜だけなら、金一分(25,000)
「部屋持」
昼夜通しの揚代が金一分(25,000)。
自分の起居する部屋を与えられ、そこで客を迎えた。
「振袖新造」
上級遊女の妹分で15歳過ぎの若い遊女。
「番頭新造」
上級遊女の雑用をつとめる年増の女性。
「禿(かむろ)」
10歳から15歳くらいの少女で、上級遊女のもとで雑用をつとめながら、
遊女としての躾を受けた。




ちょっと肩あんさん揉んでおくれやす  井上一筒





「吉原格子先之図 ②」 宮川長亀
この長亀の絵は、先に挙げた応為の作品の約100年前に描かれたもので、陰影
を付けず、妓楼の内外の様子を、フラットな光のもとで描いている。




※1 揚代が現在のいくらくらいに相当するかを換算するときは、時期を文化
文政期、11代将軍家斉のころにしぼり、一両を10万円とした。
※2 妓楼には通りに面して、格子張りの「張見世」と呼ばれる座敷があった。
男は、張見世に居並んだ遊女を格子越しにながめ、相手をきめる。
もし相手が下級遊女の新造で、酒宴も一切しない、いわゆる「床急ぎ」の遊び
をすれば、揚代の金二朱(12,500)で済んだ。
遊女や奉公人に祝儀をはずんだり、酒や料理の代金、宴席に呼んだ芸者や幇間
などの代金などを加算すると、最初の価格の数倍の金額になった。
その結果、一晩で百万円近い額が飛ぶこともあったというから、やはり吉原は
豪華な遊里であった。




ひとつ手前で折れると間違いなく迷路  松下放天





      『江戸新吉原八朔白無垢の図』 (東京都立中央図書館特別文庫室蔵)
徳川家康の江戸入城を祝して八朔8月1日)に諸大名・旗本などが白帷子を
着て登城したのにならって、吉原の遊女が白無垢を着た。(画は歌川国貞 )




「江戸っ子最大の見栄」
もっとも金がかかったのが、引手茶屋を通した遊びだが、もっとも分かり難い
遊び方でもある。その手順は次の通り。
花魁の最高位を呼出昼三といい、揚代は一両一分、12万5千円ほどだったが、
それだけでは終わらない。
客はまず引手茶屋の二回座敷にあがり、男の奉公人を妓楼に走らせ目的の呼出
昼三を予約する。しばらくして、花魁は、複数の新造や禿を従えて引手茶屋に
やってくる。ここで芸者や幇間を呼び、酒宴となる。
ころあいを見て、客と花魁は連れ立って妓楼に向かうが、このとき引手茶屋の
屋号入りの提灯を提げた女将や若い者が先導し、あとから、新造・禿に芸者や
幇間も従い、大人数で道中をする。
客は人びとの羨望の視線を集め、大尽気分を味わった。
妓楼でふたたび盛大な酒宴をひらき、深夜になって花魁と床入りした。
こうした遊びは一晩で、百万円ほどかかり、まさに豪遊だった。




不真面目なことば伏せ字にして愉悦  井上裕二





     『春遊十二時 卯の刻』 (三代歌川豊国画 国立国会図書館蔵)
午前6時頃、朝帰りの客を見送る遊女を描いている。




なにより吉原は男の歓楽卿である-----遊女は房事で男を悦ばせなければならない。
そのため、遊女はさまざまな秘技を身につけており「床上手」だった。
楼主の女房や遊女の監督役である遣手(やりて)、先輩格の遊女に、男を悦ばせ、
心をくすぐる手練手管を教え込まれた遊女に、客は迷わされ耽溺し、生気を吸い
取られ、ついには身を滅ぼす男も少なくなかった。
原の遊女は、「二十七歳まで、年季は十年」が原則だった。
年季途中で遊女の身柄をもらい受けるのが「身請け」で、膨大な金がかかった。
元禄13年(1700)、三浦屋の太夫薄雲が350両で身請けされた例は有名で、
およそ3,500万円である。
原の遊女を身請けするのは、男にとって最大の見栄であり、世間の人びとは
軽蔑するどころか、みな羨ましがった。
原の遊女-----とくに花魁は、当時のアイドルだった。




金は腐るほどある というのが口癖  新家完司

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