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川柳的逍遥 人の世の一家言
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刃物かもしれない耳朶までのボブ  酒井かがり






                「源氏物語絵巻 宿木」 清涼殿朝餉の間

裳と唐衣をつけた正装の女房たちと、碁を楽しむ帝を描いている。
清涼殿は天皇が日常生活を送った場所で、朝餉の間は食堂にあたる。
犬の翁丸に追い立てられた「命婦のおとど」は朝餉の間に逃げ込んだ。




「清少納言、枕草子執筆のきっかけ」
「枕草子」が執筆されたのは、清少納言が中宮定子に女房として仕えた
平安時代中期の正暦6年/長徳元年(995)頃から執筆が開始され、
中宮定子が亡くなった翌年の長保3年(1001))に、ほぼ完成した
ものと推測されている。
清少納言が枕草子を執筆するきっかけとなったのは-------跋文によると
中宮定子が兄の藤原伊周(これちか)から、当時においては大変貴重な
紙を貰った際に、
「これに何を書けば良いのかしら。帝( 一条天皇)は、『史記』という
書物をお書きになったけれど…」と、清少納言が尋ねられたため、彼女
「枕でございましょう」と、即答した。
すると中宮定子は「それならあなたにあげましょう」と言われて大量に
あった紙を渡された、ことから、清少納言は、これを用いて『枕草子』
を執筆することになった、らしい。
さて「枕」とは何のことだろうか。
「帝が『史記』を書かれたのなら「枕」が必要でございましょう。
「敷布団」には「枕」が欠かせませんもの」
<史記と敷き>、頓智を利かせた清少納言の返答に中宮定子は、お笑い
になっただろうか…。
中宮定子は、清少納言のこうした面白く明るいところが好きだったそう。




過呼吸になる程あなた大好きで  石田ます江





        「源氏物語絵」 紐で繋がれている猫 (京都博物館蔵)

猫は大陸から渡来した貴重な動物で大切に飼育されていた、
らしい。現在とは違い紐で繋がれているのが普通だった。
翁丸は五位を授かり「命婦のおとど」と呼ばれていた。





式部ー枕草子ー翁丸




「ある日のこと、清涼殿で小さくて大きな事件があった」
天皇のお住まいで飼われている猫は、天皇が従五位下の位まで与える程、
可愛がり大切に育てられている。名は「命婦のおとど」という。
この猫が、あまり行儀が悪いので世話役をしている命婦が、
「まあ、お行儀が悪い。部屋へ入りなさい」というのに、猫は言うこと
を聞かない。苛立った命婦は、
「翁丸、どこにいるの!おとどに食いつきなさい」と、言うと、本気に
とった犬の翁丸は、おとどに飛びかかったので、おとどは怖がって、
天皇のいる朝餉の間に逃げ込んでしまったから、大変な大騒ぎになった…。
それの一部始終を見ていた清少納言は、この話題を筆にした。
(命婦=宮中や後宮の女官。従五位以上の位階を有する女性をさす)




鉛筆を少し炙れば滑らかに  山本早苗





                                  清涼殿朝餉の間

清涼殿の裏側にあたる西廂には、北から御湯殿の間、御手水の間、朝餉
の間、台盤所、鬼の間が並ぶ。




翁  丸
主上のおそばにいる御猫は、位をいただいて「命婦のおとど」と呼ばれ
ている。たいへん愛らしいので主上は、大切にしていらっしゃる。
その猫が縁先に出て寝ているので、世話係の馬係の命婦という女房が
「いけませんねえ、内へお入りなさい」と呼んだ。
しかし猫は動かず、日向でじっと眠っているので、驚かすつもりで、
「翁丸、そうれ命婦のおとどにかみつけ」と言った。
翁丸というのは、これも飼われている犬の名である。




眠たくて三途の川が渡れない  井上恵津子




馬鹿な翁丸は、本当かと思って走り向かったので、猫は飛び上がり慌て
ふためいて御簾のうちへ入ってしまった。
朝餉の間に主上はいらしたときで、ごらんなされて、たいへんびっくり
された。猫をふところに入れられて、殿上の男の人たちをお召しになる。
蔵人の忠隆が参上すると、「この翁丸を追い払え、いますぐにだよ」
仰せられるので、みな集まって大騒ぎして追い立てた。
主上は馬の命婦をもお責めになって、
「守り役を変えよう。この調子では心配だ」
と、仰せられたから、恐縮して御前にも出ず、引きこもっている。
犬は狩りたてて、滝口(宮中を警備する武士)に命じて追い払われた。





スイッチのオンとオフとの別れ道  和田恂子




「まあねえ、いままでえらそうに威張って歩き回っていたのに。
 三月三日には頭の弁が柳かずらを頭につけ、桃の花をかんざしにし、
 桜の枝を腰に挿させて歩かされたりなさったっけ。
 そのときはこんな目に会おうとは、まさか思わなかったでしょうに」
と、みんな哀れがった。
中宮さまのお食事のときは必ず、正面に伺候していたのに、いないのは
淋しいわね、と言い合って三、四日たった。




選ばれたつもりが実は排除され  伊藤良一






     犬一匹に大騒ぎの滝口や女房たち





お昼ごろだった、犬がたいへん鳴くので、どこの犬が、こんなに長鳴き
しているのかしら、と聞いていると、たくさんの犬が走り回って騒いで
いる。女官が走ってきて、
「たいへんでございます。犬を蔵人二人でお打ちになっておられます。
 あれは死にますわ。 お捨てになった犬が、帰ってきたといって、
 打ち懲らしめていられるのです」という。
「かわいそうに」翁丸なのだ。忠隆、実房が打っている。というので、
止めにやるうちに鳴き止んだ。
死んだから陣屋のそとに捨てたというので、私は不憫でたまらなかった。





影薄く生死不明になる噂  木口雅裕





      「春日権現験記」天皇と次の間に控える女房たち

一条天皇の怒りをかってしまった哀れな犬、翁丸は、蔵人2人に打ち叩
かれた。蔵人とは、天皇の側近として殿上の雑務をつとめる役職である。
翁丸と思しき犬は、階の柱のもとにうずくまり、呼びかけても応えなか
ったが、女房たちの同情する話を聞いて涙を流す。



ところが夕方、ひどく腫れ上がり、哀れなさまの犬が震えながら歩き回
っていた。
「翁丸かしら。こんな犬は、このごろ見たことないもの…翁丸」
と、呼んでも聞きも入れない。
「あれはたしかに翁丸だわ」、という人もあれば、「ちがうわ」という
人もある。中宮さまは、「右近が見知っているはずだから呼びなさい」
と仰せられるのですぐ召し出した。 右近は、
「似ておりますが…まあひどい姿。翁丸と呼ぶといつもは喜んでまいり
 ましたものを、これは呼んでも来ません。ちがうのでございましょう。
 第一、あの翁丸は殺して捨てた、と申しておりましたもの。
 あの屈強の男どもが、二人で打ったのでございますもの、どうして助か
 りましょう」
と、申し上げたので、中宮さまは可哀そうに思し召して辛がられた。




天秤が息を殺しているようだ  河村啓子




暗くなって、物をたべさせたけれど、食べない。やっぱり違うのねと、
結論を出した。
翌朝、中宮さまは、朝の御身じまいをなされていた。私が御鏡をささげ、
中宮さまが御髪をごらんになっているとき、犬が階の柱のもとにうずく
まっているのが目に入った。
「ああ、昨日、翁丸をひどく叩いたのでしたっけ。死んだのは可哀そう
 なことでした。こんどは何に生まれ変わっているのでしょう、どんな
 に辛い心地がしたでしょうね」
などと言っていると、うずくまっている犬が震えわなないて、涙をポロ
ポロ落とすので、驚いてしまった。
では、やはり翁丸だったのだ。
ゆうべは警戒して、隠れて堪えていたのだと思うと、可哀そうやら可笑
しいやらだった。
思わず御鏡をおいて「お前、それじゃ翁丸なの」というと、ひれ伏して
しきりに鳴く。中宮さまもたいへんお笑いになった。




赤チンがもう見当たらぬ薬箱  石田すがこ






       主人の許しを待つ健気な犬




右近の内侍を召して、こうこうと仰せられると、また大笑いになった。
主上も聞かせられてこちらへお渡りになった。
「驚いたものだね、犬などにも、こんな心があるものなのだね」
とお笑いになる。
主上つきの女房たちも聞いてまいりつどい、翁丸を口々に呼ぶと、
今は動いたり顔を見たりする。
「顔が腫れているので手当てをさせましょう」
と私が言うと、
「ほらほら、翁丸びいきの人が、ついに本音を出したわ」
とみんな笑った。忠隆が聞いて、
「ほんとですか、翁丸が帰ってきたとは」
とやって来たので、「ああ怖わ、怖わ…見つかればまた打たれるわ」、
と思い、かばって「ここにはそんなものいませんわ」
「そうですかね、いつまでも隠しておおきにはなれますまいよ、
 いつかは見つけますよ」
などと言うのである。




笑い泣き傘のしずくが切れるまで  佐藤正昭




でも、そのうち、お咎めも許されてもとのように飼われた。
あの、人に哀れがられて、震えながら鳴いて出てきたときの様子の、
おかしくもしみじみした哀れさは忘れられない。
人間なら、人に哀れまれ同情されると、思わず涙をこぼす、ということは
あるけれど、犬が同じように泣くなんて…そんなこともあるものなのね。





こんなにも不安だったかプチ家出  前中知栄

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ひらがなで怖い言葉が書いてある  上坊幹子






         十二単衣の清少納言




「清少納言出自」
清少納言清原元輔を父として康保3年(966)頃に生まれた。
「清」は姓を示し「少納言」は女房名である。元輔は「梨壺の五人」
一人として、源順(したごう)や大中臣能宜(よしのぶ)らとともに
『後撰和歌集』を編纂した有名な歌人である。
幼時から和歌や漢学の教育を受けて育ったらしく、981年頃に橘則光
と結婚し則長を生んだが離婚し、993年に中宮定子に宮仕えする。
宮中では藤原公任、藤原行成、藤原斎信らをはじめとする貴族と交際し、
当意即妙の才能を発揮して定子方を代表する女房となった。
定子が1000年に死んだ後は、世間との交渉を避け、愛宕郡鳥戸の南
にある月輪の棟世の山に隠棲した。
こうした晩年の状態から、清少納言が落魄して、遠国に流離したという
数々の説話が発生した。




リタイアをしてからいい味になった  河瀬風子





           枕 草 子





式部ー清少納言~枕草子




「をかしの文学」
清少納言は、鋭利な感覚と観察力によって自然や人事の断面を鮮やかに
描き出す。対象を知的な目でとらえる「枕草子」は、しばしば「をかし
の文学」
と評される。即ち、彼女の文章には、感傷や不安感が全くない。
これは稀なことである。しかし、彼女は、紫式部のように時間の流れの
中で、人間感情を多面的に叙述する物語や、和泉式部のように、情熱を
真摯に傾けて歌い上げる和歌は不得手であった。
このことは、人間生活に伴う悲哀や愛を「をかし」の世界にはぐらかし
ていた彼女の生き方と関連する。
宮中での彼女は、駄洒落や軽口をたたいて、笑いを作る役を買って出て
いたらしく、これは父の元輔が、「人笑わすを役とする翁」であったこ
とと無縁ではない。彼女の本質からして、物事を感覚的に断片化して把
える「随筆」形式が最適であり、その意味で『枕草子』の中には、王朝
時代の1人の女性の本質が表現されている。
これが『枕草子』の魅力ともいえる。




カジュアルなこむらがえりで浅葱色  井上一筒




「清少納言と紫式部」
『枕草子』において清少納言は、縦横に才気を走らせ、無邪気に正直に
語る。人物評においても、その姿勢は変わらず、中宮定子への絶大なる
賛美はもとより、敵方である道長を称える記述もみられる。
<よいものはよい>という一方で、敏感なもの、弱いもの、みじめなも
のへの嫌悪感を隠すことのない彼女は、紫式部の夫が、情趣を解さない
衣装で参詣したことを呆れかえっている。
清少納言と紫式部二人の才媛の生い立ち、環境、経歴は見事なまでに相
似形でありながら、性質的には対極にあった。
(因みに、清少納言の性格は、開放的で明るく、積極的でポジティブ、
ユーモアに富む、男好き・女嫌い。一方、紫式部の性格は、根暗内向的、
消極的でネガティブ、生真面目でユーモアが苦手、女好き・男嫌い)




面白くない話を聞いて笑うこと  奥田民生





        枕 草 子 絵 巻




 春はあけぼの-------
春は、あけぼのが情趣深い。だんだん白んでゆく山ぎわが、少し明るく
なり紫がかった雲が細く横になびいているなぞ、すばらしい。
 夏は夜-------
月のあるころはもちろん、闇もやはり、蛍がみだれ飛んでいるのなど、
すてき、雨などの降るのも心たのしい。
 秋は夕暮れ--------
夕日が華やかにさして山ぎわちかく、ねぐらへいそぐ烏が、三つ四つ二
つと、飛んでゆくのも情緒がある。まして雁などの、列をつくっている
のが小さく小さく見えるのも、秋らしくしみじみしていい。
日が入ってしまってのちの風の音、虫の音…。
 冬は早朝があわれふかい-------
雪の降っているときの面白さはいうまでもない。霜などがたいへん白く、
またそうでなくても、非常に寒い朝、火などを急いでおこして、炭火を
もってゆくのなど、冬の情感にぴったりである。
もっとも昼になって、寒さが和らいでくると、火鉢の火も白く、灰がち
になっている、などというのは、つまらないけど。
(灰がち=火桶の火が白い灰ばかりになっていること)




飾らねば時がひたひた押し寄せる  平田朝子






           破 魔 矢 ・ 羽 子 板




 正月-------     
一年中、どの月も私は好きなのだけれど、正月一日はまして、空の様子
がうららかにいつもと変わって、目新しい感じ、フレッシュであるのが
いい。あたりは初春らしく霞みわたり、世の人みな、身なりをあらため
美しくお化粧して、お仕えするご主人や我が身をもお祝いなどしている
のは、ふだんと変わった様子でおもしろい。
 七日は七草の日である-------
雪の消えたところに生い出ている若菜を摘むが、青々と美しい若菜を、
ふだんはそんなものを、見慣れぬ高貴なあたりも、もてさわいで珍重
されるのがおもしろい。




元日のどこかで笑う声がする  後藤梅志






                                             牛 車
普通は4人乗りで、2人乗りや6人乗りの場合もある。
整備の悪い牛車はぎしぎし音を立て、うるさかったのだろう。




 節会-------
節会の白馬をみようとして、宮仕えせぬ一般人の女たちは、牛車を美々
しく装ってみにいく。待賢門の敷居を引き出すときは、牛車をぐらっと
するものだから、同乗している女たちが、頭をぶっつけあって鉢合わせ
をし、飾り櫛が落ちたり、用心しないと折れたりなんかする。
みんなキャアキャキャというのも浮き立つ思いで、心たのしい。




ようするにアナタ油断をしましたね  太下和子





  宮中で正月七日に、青馬を見て邪を払う儀礼が行われた。




 建春門の外-------
左衛門の役人の詰所に、殿上人もたくさん立っていたりして、舎人の弓
をとって馬を驚かし、笑っている、それを牛車の隙間からわずかに覗く
のも面白く、立蔀(たてじとみ)などのみえる彼方に、下級女官たちの
ゆきかうのも、思わず目を吸い寄せられる。
いったい、前世でどんないいことをした人だろう。
尊い宮中をこんなになれなれしく行き交うて、などと、宮仕え人がうら
やましく思えたりするのも、そういう時である。
でも宮中と言ったって、いま見るのは狭い範囲で、もとより九重の奥深
くはうかがうべくもない。
舎人の顔の白粉がはげて、黒い土に雪がまだらに消え残っているように
見えるのも見苦しい。
女はそんな細かいところが目について困ってしまう。
馬が踊りあがって暴れているのも恐ろしく思われるので、車の中へ引っ
こみがちで、よく見れないものである。




ちっぽけな私に似合う蓋がある  牧野ねえね





 十五日は餅かゆの節句-------
15日の粥の歳時には「粥杖」の行事が流行し、枕草子には
「十五日節供まいりすえ、粥の木ひきっかくして…」とあり
邪気払いの十五日粥を作るために、新鮮な火を起こした薪の
木を削って作った「粥杖」で子供のいない女性の尻を叩くと
子宝に恵まれる、或いは男性の尻を叩けばその人の宿すとい
って粥杖を持ってお互いに隙を狙って打ち合って戯れている
様子が記されている。
 八日-------
この日は女性を対象に、位階を授けられたり禄をたまう日。
人々がお礼の言上に車を走らせる音も、いつもよりは喜びが溢れている
ようで晴れがましくていいものだ。
 十五日-------
餅粥のお食事を主上にさしあげる日。
貴族の家では「かゆの木」のさわぎがおかしい。これは粥を炊いた木で
女性の腰を打つと、男の子が生まれるという俗信があるのである。
公達や若い女房がそっと狙っているのを、互いに打たれまいと、用心を
していつもうしろに注意しているのも面白いが、どうやってうまく隙を
見つけたものか、ぴしりと首尾よく腰を打ち、「してやった」と面白が
ってどっと笑っていたりするのも、華やかでいいものである。
打たれた方は、くやしい、と思うのも尤もだ。




音のない日暮れに愛は育たない  森田律子






 
 粥杖をもって姫君を追いかける女房 下・粥杖





 新婚の姫君と婿君のところでも面白い-------
婿君は宮中へ参内されるために部屋を出られる、それを待ち遠しがって
古参の女房などが、奥の方にそっと佇んでいる。
姫君の前にいる女房たちはそれと気づいて笑うのを、「しっ、静かに」
と手まねで制するが、姫君は知らぬげにおっとりと坐っていられる。
「ここにあるものを取らせてくださいまし」などと言ってそばへより、
走りざまに姫君の腰を打って、逃げると、そこにいる限りの人々は、
どっと笑う。
 姫君も愛嬌よくにこにこしているのも面白い-------
女房同士打ち合ったり、はては男性まで打ったりするようだ。
油断して打たれた人は、どういうつもりか泣いたり、腹を立てたり、
しているのもおかしい。
宮中でもこの日ばかりは無礼講で大さわぎである。




姫君のうなじにも蚊の刺した跡  筒井祥文





        年中行事絵巻「朝覲行幸」



 官吏の移動-------
除目(じもく)の頃の宮中のあたりの様子は興味深いものがある。
雪が降り、道が凍ったりしているころ、申文(叙任申請の文書)を持っ
てあちこちへいく四位や五位の人々が、若々しい好青年であるのは、
いかにも見ていて前途洋々の感じでたのもしい。
しかし、年とって頭も白くなった人々が、つてを求めてじぶんのことを
たのみ、女房の局(部屋)にまで寄って、自分の経歴や業績をしきりに
売り込んでいたりするのはどうだろうか。
若い女房たちはおかしがって、かげで真似たりして笑っているのを本人
はむろん知るはずもなく、「どうぞよしなにお取り成し下さい」などと
頼み込んだりしている。それでも望みの官を得たのはよいが、得られな
かったのは、哀れげなものである。




これからのニッポンよりも今のボク  半田知弘




 三月三日、上巳(じょうし)の節句-------
この日は水のほとりで祓をし、曲水の宴を張る日である。
うらうらと長閑に日は照り、桃の花の咲きほころぶのがいい。
柳の美しいさま、それも葉のよく開かず、蚕の繭ごもりに似た様がいい。
広がってしまったのはにくらしい。
花の散ったあとも厭わしいものだ。
きれいに咲いた桜を長く折って、大きな瓶に挿してあるのもいい。
桜の直衣に出袿(いだしうちき)といって、下に着こめ美しい色の着物
の裾をわざと出すのだが、そういう有様も美しい殿方のそれが客にせよ、
御兄弟の青年貴族にせよ、その花の近くにいて、何かはなしていられる
のも、絵のように美しい風趣があるものだ。





泳いでる紙のパンツを穿いたまま  宮井元伸




             賀 茂 祭
五穀豊穣を祈念して京都の上賀茂
神社と下鴨神社で行われた。 





 四月の、賀茂祭りの頃-------
木々の木の葉もまだそう繁くはなく、若々しく、青々とし霞も霧もない
澄んだ初夏の空の快さ。
少し曇った夕暮、忍び音に鳴くほととぎすの、「あ、空耳かしら」と、
思わせるほど、かすかに聞こえるのなど、なんてまあ心ときめく素晴ら
しさであろう。
いよいよ「賀茂祭」も近くなって青朽葉や二藍(ふたあい)などの反物
を裾濃(すそこ)むら濃、巻染などに染めた布も、いつもよりおもむき
深い。
女の童の、あたまばかり洗って手入れしたものの、身なりは綻びて乱れ
ている、そんな子が、足駄や履などの緒をすげさせたりして騒ぎ、
「早くお祭りが来ないかな」と燥いでいるのも可愛らしい。
お転婆の女の子たちも、いよいよその日になると、物々しい衣装を着け
られ、まるで法会のときの、坊さんみたいにもったいぶって、練り歩い
ている。心もとないのだろう。それぞれ身近に応じて、親や姉などが供
をして、世話をやきながらついて歩くのも面白い。




階段に手すりに脈がある四月  なかはられいこ
                            つづく

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いつものことながら妖精と間違われ  酒井かがり





              任国への旅
因幡国守となり、任国へ下向する橘行平一行の様子





藤原伊周(これちか)らの「花山法王襲撃事件」(長徳2年)からほど
なく、10年あまりも仕事難民の生活を余儀なくされていた紫式部の父
為時は、為時の申し文に感銘した道長によって、越前守に任じられた。
北陸道は、中国大陸に面し、早くから菅原道真(加賀守)源順(能登守)
ら、文章道出身者が居留した土地である。
紫式部は、為時とともに都を離れ、越前に下向することになった。
友と別れ、故郷を離れたのは、6月のことだっただろうか。
長徳の変が巻き起こり、定子が髪を切ったのは5月である。
昨日の中宮が今日は、孤独な尼に堕ちる人生の無常を、紫式部は人の娘と
して感じていたことだろう。




ふり仰ぐ胸に悲の字を縫いつけて  太田のりこ




式部ー恋、結婚、別れ、それから……






彩絵檜扇  背景に流水や波を描く「扇流し図」

水流と結びつく扇の、漂い流れて変化する形と、やがて失われていく姿に、
趣や無常観が描かれる。「流れつく扇から愛する人の居場所を知り、再会
する」というエピソードのように、檜扇は男女や、離れた人と人をつなぎ
合わせる、運命を司る道具として用いられた。




紫式部には、下向先の越前まで恋文を送ってくる男がいた。
花山天皇時代、六位蔵人として為時と同僚だった、藤原宣孝である。
彼は紫式部の曾祖父である右大臣藤原定方の直系の曽孫で、紫式部とは
又従兄弟の関係にあたる。
信孝の父・為輔は公卿で、寛和2年(986)に権中納言にまで至って
亡くなった。母は参議・藤原守義女、宣孝とその兄弟たちは受領だった
が、姉妹は参議・佐理(すけまさ)に嫁いでいる。
また彼の妻の一人は中納言朝成女で、彼女と宣孝の間の子である隆佐も、
のちに後冷泉天皇の康平2年(1059)、75歳で従三位に叙せられ
公卿の一員になった。





返信のメール誠意の見せ所  加藤佳子





          藤 原 宣 孝





このように宣孝の周辺には、過去・現在、未来にわたって公卿が多い。
為時とは違い、彼の一族は、処世に長けていたのである。
宣孝自身は、正五位下右衛門佐兼山城守が極位極官だったが、
それは壮年で亡くなったためであろう。
彼は目端の利く男で行動力もあった。



積み上げたものに支えられている  吉岡 民










「episode」 『枕草子』しみじみと感じられる話。


『衛門佐宣孝は紫と白と山吹色、その息子は青と紅とまだら模様の派手
な服を着て連れだって参拝していた。 みんな珍しがって
「この山でこんな奇妙な格好をした人は見たことがない」と驚き呆れた…』
この話は全然 <しみじみと感じられる話>とは関係ないが、
清少納言は、紫式部の夫が亡くなった後で、ついでに書いたのだった。
紫式部はこれを読んで激怒し、清少納言を攻撃する日記を残している。
亡くなった夫の悪口を言われたら、それはもう悔しかったのだろう。
清少納言は、紫式部が宮廷に出仕する10年前に宮廷を退いており、
2人は顔を合わせたことがない。だから争いようもないのだが、
「清少納言が夫の悪口を書いた一件」に根をもって…、
紫式部は、しつこく清少納言をこき下ろすようになったようである。




目には目を遠い耳には悪口を  中村幸彦




道長も参詣した吉野山金峰山は、誰もが浄衣姿で行くとと決まっている。
だが宣孝「人と同じ浄衣姿では大した御利益もあるまい」また
「神様は質素な装いで詣でよとはおっしゃっていない」と、言って、
自らは紫の指貫に山吹の衣、同行の長男・隆光にも、摺り模様の水干
などを着させて参詣し、人々を驚かせた。
ところが、その甲斐あってか2ヵ月後には筑前守に任官できたという。
宣孝が筑前守になったのは事実で正暦元年(990)のことである。
参詣に同行した長男・隆光は、『枕草子』勘物に「長保元年(999)
6月蔵人、年29」と記される。




俺流を貫き通し冬木立  村杉正史




実際に彼が蔵人になったのは、長保3年(1001)6月20日だが、
いずれにせよ彼は、970年代初めの生まれとなり、紫式部と同年代、
或いは年上である可能性もある。
つまり宣孝は、紫式部の父といってもよいほどの年配だったのだ。
恋が進展した長徳3年、紫式部は20代半ば、宣孝は40代半ばか50
がらみで、十分に大人の恋と言えた。
『紫式部述懐ー①」
夫・藤原宣孝との結婚は30歳近くになってからで、晩婚でした。
しかも彼は、もう50歳近くになっていて、すでに妻もあり、わたしと
同じくらいの子供もいました。
年齢は離れていましたが、恋愛中や、わずか3年の結婚生活の間に男と
女の愛の機微を教えてくれたと思います。




泣きながらヒレ振る女よ春霞  笠嶋恵美子




宣孝は楽しい男だった。
春先の恋文には「春は解くるもの」という謎々を書いてきたりした。
何が解けるのか、氷や雪、そして冷たい女の心である。
「春だもの、君は私を好きになるさ」というのが謎々の意味だ。
いっぽう女性関係も盛んで、紫式部と同時期に近江守の娘にも言い寄っ
ているとの噂があったという。
『尊卑文脈』によれば、紫式部以外に少なくとも三人の妻がいた。
紫式部はこの年、秋ごろに帰京したと考えられる。
都では定子が天皇に復縁され、批判の的になって頃である。
結婚は翌年のことだったか、紫式部は本妻ではなく、妾の一人だったので、
終始、宣孝が彼女を訪う妻同婚の形であった。
たがて娘が生れ、紫式部は妻として、母としての日々を生きた。




持ち味をふたつブレンドして夫婦    菱木 誠





           藤原宣孝墓碑
春なれど白嶺深雪いや積もり解くべき程のいつとなきかな
「年が明けたら唐人を見にそちらへ参ります」 と言っていた
宣孝が、年が明けると、
「春になれば氷さえ解けるもの。あなたの心もとけるものだと、どうにか教えてあげたい」と、言ってきたことへの返歌。
「春になりましたが、白山の雪はますます積もって解けるのはいつのことかわかりません」



「夫の死」
だが幸福は長く続かなかった。長保3年(1001)4月25日、宣孝
亡くなったのである。
彼はその2ヵ月前まで、記録に名前が見えるので、長く臥せって居た訳
ではない。
紫式部にとっては唐突な、夫との別れであったに違いない。
加えて妾という立場でもある。
死に目にあう、ということもなかっただろう。
彼女は、その後、幾つかの季節を喪失感だけを抱えて、呆然と過ごすこ
とになる。




ひとり鍋季節は通り過ぎて行く  藤本鈴奈




紫式部の和歌は、夫との死別を境に一変し、人生の深淵を見つめ、逃れ
られぬ運命を嘆くものとなる。
彼女は夫との人生を「露と争ふ世」と詠んでその儚さを悼み、自分のこ
とは、「この世を憂し厭ふ」と言い捨てた。
「世」とは、命や人生、また世間や世界を意味する言葉だが、そこに共
通するのは、<人を取り囲む、変えようのない現実>ということである。
そしてそうした「世」に束縛されるのが、人の「身」である。
人は「身」として「世」に阻まれ生きるしかない。
ただ死ぬまでの時間を過ごすだけの「消えぬ間の身」なのだ。
夫の死によって紫式部は、そのことに気づかされたのである。




雑巾になってようやく味が出る  樫村日華






   紫式部の夫宣孝は、とにかくもてたらしい





夫に死別したあと、独りぼっちで憂鬱なもの思いに沈んで暮らしながら、
季節がめぐってくるにつけても、行く末の心細さ不安になっていた。
そうした折、物語を読んでは友人と慰め合っていた…。
ところが、やがて紫式部「身」でないもう一つの自分を発見する。
それは「心」である。
ある時、気がつくと、思い通りにならない人生という「身」は、変わら
ないのに、悲嘆の程度が以前ほどではなくなっていた。
数ならぬ心に身をばまかせねど 身に従ふは心なりけり
「心」「身」という現実に従い、順応してくれるものなのだ。
だがやがて、紫式部は心というものの、現実を超えた働きにも、目を向
けるようになる。




口呼吸しながらボラの逆上がり  宮井元伸





心だにいかなる身にか適ふらむ 思ひしれども思ひしられず
自分の心は、どんな現実にも合わないものだと、何度も思い知るのである。
現実に適応しない心なら、その居場所は虚構にしかない。
こうして紫式部は、寡婦であり、母である「身」とは別の所に、自分の心
のありかを見つけるようになる。
友人を介して物語に触れ、少しずつ前向きに生き始める様は『紫式部日記』
に記される。
「紫式部述懐ー②」
彼の死後、まもなく「物語」を書きはじめ、宮中に出仕する前後に、新しい
恋もし、裏切られもしました。
そういえば娘時代に、ある貴人の方を、本当に好きになった苦い思い出もあり
ます。そして、時の支配者・関白藤原道長殿から、娘の中宮・彰子様の家庭教
師に迎えられ、皇族や最上級貴族の恋模様を、本当にたくさん見聞きするよう
になりました。



光あるうちに歩けるだけ歩く  八木幸彦

拍手[4回]

水曜日君は鰯の目を見たか  雨森茂樹





 中級貴族である播磨国司(受領)の館での食事を描く。



大唐櫃に入れた大きなコイや果物だろうか、食材が運び込まれるところ。
中央の播磨守の横の2段棚に雉子や見事な伊勢えび、アワビなど豪華な
食材が並べられている。




左手には厨房から膳が運ばれてくる。高杯の中央に高盛をした強飯、
その周囲に調味料などを入れた小皿が並ぶ。

             台盤所と御台所



貴族の館には、「台盤所」という部屋があった。
そこには、縁の部分が一段高くなった四つ脚の長方形の台があり、
奥に朱の台盤が見える。その上で調理が行われた。
家司や警護の随身が詰める所にも置かれたが、多くは女房の詰所だった
ため、のちには貴人の妻を御台盤所、さらに御台所というようになった。



冬トマト点す贅沢な食卓  岡谷 樹





          平安時代の食事の再現





式部=平安貴族の食卓・画像とともに




紫式部の作品は「愛の機微」「華麗な装束」「贅沢なインテリア」等々
を細かく表現しているが、食事に触れるシーンはほとんどでてこない。
では紫式部は、食に関心が薄かったのだろうか。
どうやらそれは、紫式部にかぎったことではないらしい。
平安時代には数多くの女流文学者が輩出し、随筆、紀行、日記を残した
が、一様に食のシーンを語ることは少ない。
その一因は、京に都を移した貴族たちの間では、制度や形式を重んじる
生活が営まれて、食習慣も形式にとらわれたことが挙げられる。



タコが言うのよメガネがずれるって  酒井かがり



饗応食の献立



  「年中行事や儀式の中の典礼化した饗応食の献立」


貴族の館では、行事の日々が多くなって、諸国の山海珍味を集めた宴が
催された。『和名類聚抄』によると。
広大な領地を所有し、強大な権勢を誇った皇族や有力貴族のもとへは、
諸国よりあらゆる名産物が集まった。
魚貝ではタイ、マグロ、サメ、ヒオ、カキ、アワビなど、庶民では到底
口に出来ない美味珍味の数々があげられている。
なかでも好まれたのが、カツオ、アユ、タイ、タコ、コイ、アワビなど、
仏教の教えに従い、獣肉こそ鶏肉に代わるものの、食品としてのバラエ
ティーは、今と変わらぬ豊かさである。



あんな特技もってたんだと知る宴  細見さちこ





宮中では正月20日か、21から23日の間の子の日に内宴が催された。

その宴がまさにはじまろうとする場面。
並ぶのは、次のようなもの。


        

上は高つきに飯と「おめぐり」。
下左は、掛盤のアワビ蒸し、ハマチ塩煮、藻類取り合わせ、野菜汁。
下右は、折敷の唐菓子、干し果物などをたっぷり盛り上げている。





宮中行事の饗応や、大臣家の宴ともなれば、主賓の前の膳は豪華で生物
(つくり)、干物、和え物、焼き物、煎り物、煮物、漬物、汁物、餅、
果物や唐菓子など、二十数皿もの食べきれない程の馳走が並んだそうだ。
そして飯はこんもりと盛って、膾、乾物なども盛り上がるほどに食器に
盛られた。 沢山の品数と量は、丁重さを示すものだったとか。



鹿の身になって煎餅味見する  下谷憲子





          「源氏物語子の日・若菜図屏風」


光源氏四十の賀を祝して、正月初子の日、玉鬘(たまかずら)が若菜の
膳を奉る華やかな情景。 沈香の木でできた折敷(角盆)を4つにして
春の精気が宿る若菜の膳を奉った、と記される場面が描かれている。  
(几帳の陰にいるのが玉鬘)



     「行事の折々に健康と幸せを願う食事」
正月元日から3日まで、清涼殿で「御歯固めの義」が執り行われる。



まず屠蘇、白散、度嶂散(どしょうさん)を飲み、その後で、歯にこた
えるシカとイノシシ、押しアユ、大根、ウリ等と餅を食べ、長寿を願い、
祝う。(白散=お正月にその年の健康を願ってのむ薬酒。 度嶂散=新
しい年の健康を祈って元日に飲む薬)


       正月の行事から若菜摘む女房や子ら

その他、正月10日には餅粥の節句。
最初の子日には、春の精気に満ちた若葉を摘んで食膳に供し、野外に遊
んで常緑から長寿の木とされる小松を根ごと引いて飾り千歳の齢を願う。



素うどんが旨いおせちの三が日   柴辻踈星   





      「源氏物語色紙絵 初音」

明石姫君の前に置かれた、正月「お歯固め」の豪華な祝膳が描かれる。
姫君の傍に坐るのは光源氏。


宮中の儀式と年中行事を核とした饗応食の数々は、貴族の行事食の規範
となり、多くは「長寿招福」を願う縁起物として食べ物が使われた。
極端に運動不足で、不健康であった王朝人の何よりの願いは、おそらく
長寿繁栄だったのだろう。それが後世には「御歯固め」「屠蘇と雑煮」
となったように、民間にも伝統として伝えられることになる。



青空へするりと抜いた玉結び  上坊幹子


        ①                ②
 汁で湯通しした魚(今回はスズキ)→串焼きサザエの切り身・魚の
 切り身を竹串に刺して焼いたもの(今回はサケ)→スズキ膾・鯉膾→
 タイ膾→鯉の煮凝り
 中央・蓮の実→スモモ→まがり、唐菓子(和式ドーナツ)→ぶと
 (和式ドーナツ)→クリ→モモ→ミカン→マクワウリ(時計回りで)





           貴族の食事





「量はたっぷり、味は二の次」
何よりも形式や儀礼を重んじた王朝貴族。
食卓も慣習通りに整っていることが第一で、味は二の次であった。
ご飯は蒸した強飯でこんもりと高盛にして、品数と量がたっぷりの副菜
を食膳に出した。それが儀式の時だけでなく、ふだんの日もそうした食
事になった。
酒菜や総菜の調理法としては、揚げ物こそ見られないが、塩茹で、蒸し、
煎り、炙り、焼き、包み焼、和え、煮、羹、吸い物、鮨、塩漬け、醤漬
けなどさまざまに変化をつけて用いられた。
もっとも遠方から運ばれて来るため、身を細く切って乾燥させるなど、
食材に干物が多くなる制限がつきまとった。




転生は魔界むらさき食ったから  太田のりこ




調味料の基本は、醤、酒、酢、塩の4種。
醤は今でいう「もろみ」のようなもの。
菜や瓜、魚肉などにつけたり漬け込んで用いる。
これら調味料を「おめぐり」とも言い、ほかには味噌胡麻油、干魚など
の煎り汁、甘酒などの甘味料、香辛料も使われた。



夢を食むあなたも一ついかがです  田口和代





庶民の食事





枕草子よりー大工が昼ご飯を健康的に食べる様子

1,庶民の食事
2,庶民の食事



清少納言『枕草子』のなかで、大工が昼ご飯を健康的に食べる様子を
記している。朝夕2度の貴族の食事に対し、庶民が3度の食事をとって
いたことを示すものである。
また平安京の東西の市には、さまざまな食品が並び、食料品店ができて
いたことが他の資料からわかる。
殺生禁断の仏教の思想も庶民にはまだゆきわたらず、獣肉も食し、自由
な食生活をしていたらしい。京の貴族にくらべ、地方の貴族や自給自足
のできる土着の豪族も、豊かな食事をしていた。




午後からの意気込みすするちじれ麺  竹内幸子





         復元された蘇




牛や羊の乳は古代の人々にとって、当初は滋養強壮の薬として重用された。
しだいに酪、蘇、醍醐など乳製品として加工されるにつれ、食料として、
好まれ、宮中や大臣家で行われた宴席にもなくてはならない品になった。
牛や羊の乳を温めて「酪」とし、それを煮詰めたものを「蘇」、蘇をさら
に精製して作られる品を「醍醐」と呼んだようで、今のバターオイルよう
なもの。最高の美味を指す「醍醐味」は、ここからうまれた。




餃子のハネにも文化的スタイル  赤松蛍子

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ゴキブリの足が一本家系図に  きゅういち





         紫式部観月図 (土佐光起)
” めぐりあひて見しやそれともわかぬまに 雲かくれにし夜半の月かな "





「漢字・ひらがなとの出会い」
5世紀の古墳から「漢字」が彫られた鉄剣が発見された。
当時の人がすでに漢字を使っていたことがわかる史料である。
推古天皇即位の593年から、平城京へ遷都の710年までの飛鳥時代
には、当時代の遺跡から、貴重な紙に代わって「木簡」という薄い木の
札に、墨で書かれた漢字がみつかった。
中国生まれの漢字は、文字そのものに意味がある「表意文字」であって、
その文字だけで、日本語を表すのには不便があった。
そこで漢字の一部を使ったり、くずした文字が工夫され、
平安時代に日本独特の「ひらがな」と「片仮名」ができた。
かな文字は「音」だけを表しているので「表音文字」という。




カタカナの角が肋につきささる  天野紀一



かな文字を使うと心の細やかな動きや、思っていることが表現しやす
くなり、平安時代には日記や物語文学が発達した。
「物語」
源氏物語、竹取物語、伊勢物語、落窪物語
「和歌集」
在原業平・小野小町などの歌人が活躍。天皇の命令で、紀貫之らが
和歌を集めて「古今和歌集」を編集している。
「随筆・日記」
枕草子、紫式部日記、和泉式部日記、蜻蛉日記、更級日記などである。
紫式部清少納言など多くの女性の作者が活躍した。
土佐日記は紀貫之が女性のふりをして、平仮名を使って書いたという
実話ものこる。




日記書く惚けないように日記書く  靏田寿子





紫式部ー紫式部のために生まれたような…平安時代






             花山時代の藤原為時





「紫式部の父・為時」
紫式部の父は藤原為時、母は藤原為信女である。
母・藤原為信女は、大河ドラマでは道兼に刺殺されるが、実際の死因は、
分からない。物心つかないまに生母に死に別れ、惟規(のぶのり)と、
ともに母なき家庭に育ち、家庭のぬくもりには、恵まれなかった。
さて紫式部の幼少期は「まひろ」という名前だそうだ。
紫式部という名前はもちろん実名ではない。「まひろ」という名前には
「心に燃えるものを秘めた女性」という意味が込められているそうで、
内田ゆきさんが令和6年1月に名付けたものらしい。
もともと「紫式部」は、彼女が彰子に出仕した寛弘2年(1006)後
の名前で、当初は「藤式部」と呼ばれていた。
「紫式部日記」には、寛弘5年に「むらさき」と記されていることから、
20歳代に紫式部の名が生れたものと思われる。



ええあの子は乾燥機の中よ  山口ろっぱ




母親が居ないことから父・為時は、紫式部を不憫に感じていただろうし、
女子の養育に不安を持ったであろう。
母親がいない分だけ、子供との結合を強化することを選ぶ。
結びつき(絆)を強化するのには、甘やかすことが最も効果的である。
子供が依存性が強くなり、親から離れないという実感となって、
親にかえりそれが為時の心を安心させた。
それゆえ、紫式部は、漢学者の父に直接育てられたため、平安朝の平均
的受領(国守)階級の子女とは違った、幼少時代を体験することになる。




生真面目な父さん髭も伸びている  林ともこ





       「因幡堂縁起絵巻」 任国への旅
絵は、因幡国守となり、任国へ下向する橘行平の一行。


     申し文の案を練る橘直幹
申文とは希望する任国や官職名を書いて提出する申請書。
申文は思い入れたっぷりの名文調が多いのが特徴である。





為時は、大学に学び「文書生」となり、学業を終えると、諸国掾に推薦
任官される制度があって、播磨の権少掾から花山天皇のもとで蔵人式部
の丞の職についていた。
だが花山朝は2年で終り、その後10年間散位を余儀なくされる。
(散位=官人として位階はあるが官職を持たないもののこと)
彼が浮上したのは長徳2年、折しも伊周(これちか)たちが「花山法皇
襲撃事件」を起こした直後の正月25日であった。
為時はこの日の県召除目(あがためしじもく)で淡路の守に任ぜられた。
だがこの3日後、道長によって、俄かに大国越前の守に替えられた。
為時が申し分を作って奉り、その中の『苦学の寒夜 紅涙襟をうるほし
除目の後朝蒼天に在り』との句が、道長を感動させたという経緯にある。
北陸道は中国大陸に面し、早くから菅原道真、や源順(したごう)など
文書道出身者の補される所であった。
紫式部はこうした父の文章の才能を色濃く受け継いでいるのである。




背伸びしてやっと掴んだ棚の餅  高浜広川






          惟規を教える為時




「弟・惟規とのエピソードから」 『紫式部日記』ゟ
『この式部の丞といふ人の、童にて書読みはべりし時、聞き習ひつつ、
かの人は遅う読みとり、忘るるところをも、あやしきまでぞ聡くはべり
しかば、書に心入れたる親は、「口惜しう。男子にて持たらぬこそ、
幸ひなかりけれ」とぞつねに嘆かれはべりし』
<訳>弟の式部丞がまだ小さかったころ、漢詩や漢文を勉強していた。
私も横で講義を聴いていた。しかし弟の理解はものすごく遅く、さらに
習ったこともすぐ忘れる。一方、私はすらすら覚えられる。
漢籍を熱心に教えていた父は、いつも嘆いていた。
「残念だよ、お前が男じゃないのが俺の運の悪さだ」と。




きくらげを耳にしてみる日曜日  酒井かがり




漢籍の学問は、男子の立身出世の具で女子は教わるべきでもなかった。
その点は、父・為時も充分にわきまえていた。
紫式部が語るとき、弟の今は式部の丞になっている惟規(のぶのり)が
「書読み侍りし」で、紫式部自身はその時、「書きならひつつ」である
から、弟の惟規には「直接伝授」しているが、紫式部には「間接伝授」
または傍らで聴かせていただけで、男子と女子の教育は区別していた。
しかし漢籍の伝授をする際、子女である紫式部を、父の為時の近くに置
いたということ自体、父子家庭のため、普通の子女教育とは違った面が
生じていた。




耳たぶが落ちてる二幕目の終わり  中野六助




当時漢字は、男性にとっては、官人世界での出世の手がかりになったが、
結婚し母として生きる女性にとっては疎遠なものだった。
為時は、紫式部の将来像として、そうした人生しか想像していなかった。
とはいえ、この時期、紫式部は家庭において『史記』『白氏文集』
心から楽しみ、それに没頭する日々を送ったはずである。
紫式部の漢字素養は実に豊かであるばかりか、「知識教養」という程度
を超えて、彼女の物の見方や考え方そのものの土台になっている。




好奇心天まで上がる凧の糸  多良間典男





   
     藤原兼輔              藤原定方





「紫式部のルーツ」
為時の曾祖父・藤原兼輔は、醍醐天皇の時代に公卿となり、天皇に娘の
桑子を入内させた。 彼に桑子を心配して帝にた奉った歌がある。
「人の親の心は闇にあらねども 子を思う道に惑いぬるかな」
また、為時の母方の祖父で紫式部にとって、曾祖父にあたる人に藤原定
がいる。
兼輔と定方はきわめて仲がよく、紀貫之凡河内躬恒(おおあいこうち
のみつね)、清少納言の曾祖父である清原深養父らを代わる代わる自邸
に招き、和歌や管絃を楽しむなど、当時の文化の世界のパトロン的存在
であった。 そうした折の和歌は『後撰集』にも納められている。
同じ後撰集には、兼輔の子で紫式部の祖父である雅正(まさただ)の和
歌も収められている。 紫式部にとっては誇りであったろう。
そして紫式部の父・為時は、雅正と定方女の間に生まれた三男である。
長兄は為頼、次兄は為長で三人とも受領階級に属した。
三人ともに『拾遺集』『後拾遺集』に歌を採られる歌人であった。
このように、紫式部の家は「和歌の家」ということができる。




死んだなら解体新書になるつもり  木口雅裕






    漢字→平仮名→片仮名





「それにはそれのわけがある」

漢字は4~5世紀、百済から渡来した王仁が伝えたと日本書紀などに
ある。平安時代には、漢字から「ひらがな」「カタカナ」が生まれ、
日本語に大きな影響を与えた。
漢字の一部からカタカナが生まれ、草書体をさらに崩して「平仮名」
ができた。当時『漢文は男性が身に着ける教養』とされていること
から、男性は漢字とカタカナ、女性はそれらを学ぶことが避けられ、
平仮名で文章を書くようになった。
が、漢文や漢字に精通していた女性は数多くいた。
中宮の教育係を任じた清少納言紫式部らである。
女性にも漢字をの考え方を推したのが、藤原道長である。
自分の娘を教育するために詩や物語の才能がある女性を集めた。
漢文を学ぶ女性は多くはないが、少なくとも和歌の技術を磨くために
和歌集を詠んだり、歌作りのために文字を書く習慣は定着した。
この時代、女流作家たちがいなかったら、「平仮名」が存在してなかっ
たかもしれない。




急いでいるのに漢字で書く檸檬  高橋レニ

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