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川柳的逍遥 人の世の一家言
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見解の相違へ揺れている芒  笠嶋恵美子




   ムキクリ
甘いもの好きの信長が10話でも食べていたムキクリ

「麒麟がくる」 ご飯を食べる作法がダメだった信長





   信長と竹千代
 

「戦国時代に味噌は欠かせない」
先ず「麒麟がくる」10話の筋を少し。尾張へ入った光秀(長谷川博己)
菊丸(岡村隆史)に出会い、、味噌を並べていた菊丸に、「すべての
味噌を城に届けてほしい」と頼んだ。信長は濃い目の味付けをしてある
料理が好きで、特に大根の味噌漬けやネギ味噌、焼き味噌など、味噌を
使った料理が大好物と光秀は知っていたからだ。かつて信長が上洛をし
た際、京料理のプロが自信をもって出した料理を「水くさい」と激怒し
た話は有名。とにかく信長は、味噌が好きだっただけではなく、味噌の
重要性を知っていた。戦いに明け暮れる日々、重い鎧をつけて、戦場を
駆けまわり、汗をかく武将や兵士には、塩分は欠かせない。そこで味噌
が重要になるのである。信長の兵士たちの腰の印籠には、常に「味噌」
「山椒」「ムキクリ」「きんかん」が入っていたという。

湿り気がある健康な鼻の穴  新家完司

大豆を発酵させて作る味噌は、塩分が含まれているため、保存性が高く、
味噌汁に芋類や野菜などを入れることで、腹持ちを良くする。
さらに味噌には、大豆由来のタンパク質やビタミンなどが豊富に含まれ
ており、兵士たちの健康に欠かせない貴重品なのだ。仙台の伊達政宗は、
味噌の自給を目指し「御塩噌蔵」を製造していた。政宗が兵士たちの食
事に欠かせない健康食・味噌を重要視していたことがわかる。また甲斐
武田信玄も、長野・信州味噌の起源となる軍用の味噌を製造している。

まずは塩のみでいただくリコーダー  きゅういち
 
 

ご飯を食べる作法は、室町幕府が作ったもので、小笠原流・伊勢流とい
った礼法の流派が形成され、包丁や箸使いの所作があみだされた。この
室町礼式は、現在の私たちもそれに倣っており、婚礼の結納などのやや
こしい形式は、この時代に出来上がった。足利幕府は、南北朝の争乱の
中から出て来た粗野な大小名どもを、礼式で拘束しようとしたのである。
実力の時代といった戦国時代の、歴とした守護大名の家に生まれた筋目
の人々・武田信玄今川義元でも煩瑣な礼式の体得者である。つまりは
「躾」が出来ている。ご飯を食べるにも、箸をどのあたりからつけるか、
それはもう、実に煩瑣な決まりの食べ方があって食べていた。

鰐の生き肝は湯気の立つうちに  井上一筒
 




貉(むじな)の汁かけ雑穀めし

ところが信長の家は、守護大名の家ではない。尾張の守護大名・斯波家
の執事のようなことをしていた織田家で、いわば成り上がり大名である。
甲斐の武田家や駿河の今川家などのようないいうちではない。だから織
田家は室町風という公認のお行儀というものが、家風としてはない。そ
ういう織田家であるところへもってきて、信長という人が、性格として
煩瑣な堅苦しいマナーを受け付けるわけもなく、頭から覚える気もない。
思考が取り決めによって縛られていないから、飯というものは、かきこ
むだけで、とにかく腹が膨れればいいのだ。出は信長と同じでも、何事
にも食欲旺盛な明智光秀は、義昭のもとで仕官していたとき、そうした
室町作法を積極的に学び吸収したようである。

ややこしい理論に向かぬ河内弁  岸田万彩

「小笠原流ご飯の食べ方」
① 汁の中の魚の骨は、折敷に置くのは良くない。
② 飯を食べるときは茶碗の左右、向かい側から一箸ずつ飯をとり、
  一口にして食べる
③ 箸を添えて汁を吸う
④ 饅頭は、3分の1を箸で割って、餡をこぼさないようにして口に運ぶ
⑤ 料理人は、魚や肉の美味しい部分は上座の人へ提供する
⑥ 食事に対して賛辞を送る

4、5本はいつも晒に巻いている  くんじろう




  (拡大してご覧ください)

当時の最先端であった惟任日向守会の本膳と後段(再現)
 

「明智光秀、天正6年正月11日、惟任日向守茶会」
『天正6年元旦、安土城にて” 許し茶湯 "の許可者が総覧された。信長は、
限られた家臣にのみ茶道具を下賜して茶会を主催する権利を与えた』
(ご飯の食べ方がダメでも、茶道具の蒐集が趣味だった信長は、礼式に
沿わねばならない「茶会」の開催を許した。出来上がった城と自慢の茶器
を諸国の諸将に見せるためである。主は明智光秀。
永禄8年に室町流礼式を学び覚えた光秀の一世一代の晴れ舞台になる。

ええねんと何でも受けるお人好し  山本昌乃

天正6年元旦、安土城の信長の下へ五畿内および近隣諸国の諸将が信長
への新年の挨拶のため出仕。信長は挨拶を受ける前に一部の諸将を招き、
茶道具を下賜して、茶会を主催する権利を与えた。選ばれたのは、織田
信忠・武井夕庵・林秀貞・滝川一益・細川藤孝・明智光秀・荒木村重・
長谷川与次・羽柴秀吉・丹羽長秀・市橋長利・長谷川宗仁の12名。
茶頭は松井友閑がつとめた。安土城天守閣の障壁画も完成しており、
諸将は信長への挨拶を終えると殿中を巡り、狩野永徳が描いた三国の名
所を描いた絵や信長が収集した名物の数々を見て、感嘆するのみだった。

正直でありながら人間でいられるか  蟹口和枝




 タケノコ飯と和え物


この日、光秀が拝領した茶道具は、八角釜だった。信馬から釜を与えら
れたので取りあえず、茶会は開いてみたものの、光秀は、軽い身分から
出たため茶の湯の作法を知らず、このとき代行を立て、宗及の手本を見
て見よう見まねであったのかもしれない。一方で、光秀は、このときす
でに名物・八重桜を所有しており、永禄11年(1568)以来めきめ
きと上達を見せた連歌同様、茶席での作法にも、十分通じていた可能性
もある。自らもそれなりの知識と技術を持ちながら、堺の豪商・天王寺
屋宗及の粋人ぶりを持ち上げたのか…社交に不慣れであるにしては、彼
が用意した料理は見事なものだった。


門番に6匹もいる招き猫  木口雅裕




 
  生鶴汁と鮒の膾


光秀の側近には、進士貞連(しんじさだつら)という人物がいる。この
人物はのちに細川幽斎とともに田辺城に籠城しており『綿考輯録(めん
こうしょうろく)によると、貞連はもとは光秀の譜代衆で、山崎の戦
のあとも光秀に従った最後の七騎のうちのひとりである。
(『綿考輯録』は、貞連の父を進士美作守だと記録している)
美作守というと、進士晴舎(はるいえ)である。進士晴舎はルイスフロ
イス「内膳頭」として記録している室町幕府の有力御家人で、足利義
輝に仕えて、三好筑前守義長朝臣邸などへの「御成」を司った人物だ。
進士晴舎は、のちに嫡子ともども永禄の変で亡くなるまで、当代で料理
の式法に通じた人物だった。

人間を絞れば白し胡蝶蘭  河村啓子






鶉(うずら)の焼き鳥


当時、将軍が臣下の邸宅を訪問することは「御成」と呼ばれた。御成は
将軍にとっては世間に主従関係を知らしめるための機会であり、大名に
とっては家門の名誉、面目にかけて盛大に行うものだった。
その際の献立は、決して簡単に決められるものでなく、御成を司る役割
には、料理と有職故実に関する豊富な知識が求められた。またしきたり
に従い、滞ることなく朝から晩までつづく、饗応料理の手配を行うこの
職務は、決して一名で務まるものではなかった。というのも、当時の
膳料理は客一名に対して、三膳から六膳提供するもので、それらは客の
身分に応じて用いる膳を変え、用いる魚によって掻式(かいしき・器に
盛る食べ物の下に敷くもの)を変え、汁・吸い物は、用いる実によって
吸い口を変え、膳のうえに決まった配置で、皿を並べなくてはならない
代物だったからだ。

負けず嫌いな包丁の薄化粧  中村幸彦




   
   しょうの実          薄皮饅頭


にもかかわらず、御成への参加者数は10人や20人では済まない。
つまり進士晴舎のような饗応の責任者は、決して乱すわけにはいかない
スケジュールのなかで、ゆうに百を超える数の皿や、膳の盛り付けが、
故実通りであるか細かく点検しなければならなかった。加えて、酒や茶、
引き出物、能の手配といった仕事もあった。このことから、進士晴舎
単独でこの職務にあたっていたのではなく、御成の成功の陰には進士家
の一門を挙げた働きがあった。さて、そんな光秀が天正6年正月11日
朝に用意した膳を見てみよう。

愛は入れないでお鍋が焦げるから  高橋レニ





   本膳の説明

① とち折敷(おしき) 縁の一ヵ所を桜の皮で綴じたもの。
② 鮒の膾 膾は三鳥五魚の一つで格の高い美物。
③ 生靏汁 靏は鶴のこと。こちらも三鳥五魚の一つ。
④ アヘモノ 当時の定番料理で。
⑤ 飯タケノコ 季節(旬)を先取りした初物で。
⑥ 大かわらけタヒテ タヒテとは「塗って」のこと。
⑦ ウツラ焼鳥 盛り付けの脚の向きは鷹狩、網取かで異なる。
⑧ 土筆ウト ウトは独活のこと。
⑨ 薄皮のマンチウ ここに出ている饅頭は甘い近世的なもの。
⑩ イリカヘ ローストした榧(かや)の美。

燗番が燗見るたびに酒が減る  みぎわはな





  後段の説明

⑪ 木具 足打 
⑫ サウメン、レイメン 冷たい素麺。山椒の粉をつけて食べた。
⑬ セリ焼き 酢で芹を煮たものだが、焼きと言った。
⑭ 浮煎ノ吸物 すり身を用いた料理は心尽しのもてなしを表す。
⑮ 印籠ニ味噌 山枡 ムキクリ きんかん デザート


台本通りアップルパイを焼いている  西澤知子

光秀が用意した料理は、各膳の上の皿の数が陽数(奇数)となっている。
そういった細かな故実に従いながら、四条流由来の格式の高い料理と武
家料理、季節の品を取り合わせて味のバランスをとり、流行をとりいれ、
茶事用の簡素な膳ながら、幕府将軍の御成と同じ構成で手配してある。
また、後段に記録された木具の足打は、主人や貴人が見えた時に用いる
もので、殿上人ではない宗及に対しては、最上級の敬いにあたる。
こうして天正6年は、光秀が水を得た魚のように接待上手ぶりを発揮し
始める年となった。

影武者は影武者なりにそれらしく  岸井ふさゑ

【戦国時代の食】
庶民は、粟・稗・黍(あわ・ひえ・きび)といった穀物を食べ、白米を
口にすることはなかった。おかずは山菜や野草を使った料理が中心で、
たまに猪の肉や魚などを食したが、かなり貧しい食生活であったようだ。



【兵糧丸】
忍者が常備した兵糧丸は、きびだんごのような形をした携行食品で、忍
者の知恵で戦国時代の一般兵士たちも、戦場へ赴くときは、糧食として
配給されていた。「麒麟がくる」で、お駒が食べている画面があった。
 
 
 
 
  
 

【芋茎縄】
普段は縄として使い、万が一の際に非常食にもなる。
芋がらは里芋の茎を細かく裂いて皮を剥いて干したもので、 煮ても炒め
ても、和えても美味しい らしい。各種の栄養分を多く含み、カビなどが
生えなければ、かなりの長期保存が可能な食品。
食し方。ちぎって鍋に放り込み、水を入れて沸騰させると、染み込んだ
味噌が溶け出し、芋の茎が熱湯によって柔らかくなる。
煮込むことすら許されない状況であれば、芋茎縄を直接かじって生命の
維持に欠かせないカロリーと塩分を補給することも可能。普段は縄とし
使いながら、非常時には食品になるため、全くムダがない。戦国時代に
重宝された芋茎縄は、まさに一石二鳥、最強の存在なのである。
 

【味噌汁】
腹持ちを良くするため、芋類や野菜などを入れる。味噌は、塩分が含ま
れているため保存性が高く、タンパク質やビタミンなどが豊富に含まれ
ており、兵士たちの健康に欠かせない食べ物だった。
携帯する際は、乾燥させて固形にしたり、焼いて味噌玉にし、必要に応
じてお湯に溶かして食したという。いわば今の即席味噌汁である。



 
ぜったいに嫌あんたと鍋をつつくのは  安土理恵

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