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川柳的逍遥 人の世の一家言
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白には戻らない思い込んだ黒  松浦英夫




織田信長公相撲観覧之図(両国国技館展示)
上洛後、信長は大の相撲ファンになった。




「麒麟がくる」 信長とはどんな人

百年にも渡って戦乱が続いた戦国時代。この混乱を鎮めて世の中に新た
な秩序を取り戻す人物が現れることを、人々は望んでいた。その期待を
担って、彗星のように戦国の世に現れた天才児、それが織田信長である。
信長は天文3年(1534)に尾張守護代・織田信秀の長男として生ま
れた。母は土田御前。幼名は吉法師。弟・妹に信勝、信包、信治、信時、
信興、お犬の方、お市の方など。天文15年、12歳のときに古渡城で
元服し、翌年に三河国に初陣を飾る。美濃の斉藤道三の娘・帰蝶と結婚。
道三の娘と結婚したことで、信長は織田弾正忠家の継承者となる可能性
が高くなる。父・信秀の没後は、18歳で家督を相続し「上総守信長」
と称した。その後は同族との争い、周辺との戦いに明暮れることになる。

雲梯の途中で夢をみてしまう  井上一筒

信長の父・信秀は尾張国内に大きな勢力を有していたが、まだ若い信長
にその勢力を維持する力が十分にあるとは言えず、弟・信勝(信行)と
の継承問題で火が吹き出しかけていた。やがて天文21年8月、信勝の
いる清洲の織田大和守家は、弾正忠家との敵対姿勢を鮮明とする。萱津
の戦いである。この戦は、信長の勝利で終わった。これに関わった清州
城の信勝との抗争は、生母・土田御前の仲介により、一時、和解したが、
信勝は再び、謀反を企てたため、信長は誅殺をした。
このことなどが、信長の「あとを絶たない戦い」の、その典型である。

反省は何だったんだ練りがらし  前中知栄




さて信長とは、どんな人物なのだろうか。

「尊大」
 信長「上総守信長」を名乗った理由は、今川氏の代々の当主が
「上総介」を称したことを意識したからである。すなわち、今川氏の
称する「上総介」よりも「上総守」が上位であると、信長が考えたの
だろうと推測されている。
 信長公記の天正10年正月の下りに、「御幸の間」つまり天皇の
ための部屋が、「安土城本丸御殿」にあるという記述がある。さらに
この時期、信長と朝廷との連絡役、武家伝奏という役目を担っていた
勧修寺晴豊の日記『晴豊記』に次のような記述がある。
「行幸之用意馬鞍こしらえ出来」(行幸に使う馬に鞍の用意ができた)
天皇を招いて、自分の膝元に置く、そういう信長の考え方は、朝廷の
「権威」を、ないがしろにするものとも受け取られた。
 天正10年2月、信長はさらに思い切った要求を朝廷に突き付け
た。暦の変更である。朝廷の暦は、「宣明歴」を基礎とした京歴を用
いたのに対し、尾張などで使われていたのは、「三島歴」という。
暦の制定は、古来、日本では天皇だけが定める権限を持つ。いわば神
聖にして侵すべからざる事柄であった。その暦を、信長は尾張のもの
に統一しようとしたのである。

破り方をみてもA型だと分かる  竹内ゆみこ




髭も立派な顔は面長で鼻筋が通ている信長の肖像画
こちらが外人の絵師に描かせた本当の信長の顔らしい。


「印象」
背丈は中くらい、華奢な体躯でヒゲは少なく、声は高目、名誉心に富み、
睡眠時間は短く早起きで、正義においては厳格であった。貪欲ではなく、
非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。
また極めて清潔好きであり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、
対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来
とも親しく話をした。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。
一面憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては、甚だ大胆不
敵で、万事において人々は、彼の言葉に服従した。(フロイスの日記ゟ)

半ば枯れ半ばは青き心の臓  佐藤正昭






  バテレンの衣装

「ファッション」
少年期の信長は、馬術・弓・鉄砲・兵法の稽古、泳ぎの鍛錬のほか、鷹
狩りなども好んで行なっていた。一方、服装は、動きやすいように上衣
の袖を外し、七分の袴、腰帯は縄紐で、水の入った瓢箪や火打ち袋など
をぶら下げ、派手な朱色の大刀を差していた。また月代を剃らない髪は、
束ね赤い糸でくくり、茶筅のような髷にしていた
30歳の後半には、南蛮の衣装を好み。日常的にマントや襞襟を着用し
ている。信長が安土で催した祭りでは、御馬廻衆が爆竹をならしながら、
信長自身は黒い南蛮笠(山高帽)を被って、奇抜な出で立ちであったと
『信長公記』にある。安土城の煌びやかな天守の室を見るように、信長
はことさら、派手好きだったことが分かる。

理不尽を諫める言葉見つからぬ  合田瑠美子

「うつけ」
うつけとは常識外れの行為をいう。父・信秀の葬式の日に信長は、相も
変わらず茶筅髷、大太刀は縄で巻いて、見すぼらしい格好で現われた。
そして仏前の前にたつと、抹香をわしづかみにして位牌に投げかけて、
どたどた帰ってしまったという。一方、弟の信勝は、折り目正しい服装
作法で威儀を正していた。その場の誰もが、信長の行為を「やはり大う
つけだ」と口々にしたという。その以前に信長は、僧侶に父の回復の祈
祷を願い、僧侶は父の病気が回復すると保証した。しかし、信秀は回復
せず、数日後に亡くなってしまった。そういう腹立ちがあったのだろう
と一僧侶が語っている。

鼻にツンとくる水溶性悪意  くんじろう





信長のはでな甲冑


「戦術」
「攻撃を一点に集約せよ無駄な事はするな」という「桶狭間の戦」で吐
いた信長の名言がある。
永禄3年(1560))5月、信長26歳。今川義元が尾張国へ侵攻を
始める。駿河・遠江に加えて三河国をも支配する今川氏の軍勢は、4万
人にも余るという大軍であった。織田軍はこれに対して、兵力はわずか
数千人。今川軍は、松平元康(後の家康)が指揮を執る三河勢を先鋒と
して、織田軍の城砦に対する攻撃をかけてきた。信長は静寂を保ちつつ、
今川軍が三河と尾張の国境である「桶狭間」にさしかかるのを待った。
そして、午後1時、幸若舞『敦盛』を舞った後、号令をかけた。信長は
今川軍の陣中に強襲をかけ、義元を討ち取った。この勝利は、ひとえに
信長が若い頃、うつけを演じ、国境を知り尽くした成果であったという。

キャベツ畑でまどろむ戦場の薬箱  宮井いずみ
 





金ヶ崎の戦いで秀吉は名を高めた


「勇気ある撤退」
信長がすごいのは、追い詰められた時にとった行動である。
味方と思った人間に裏切られたらどうするか。元亀元年(1570)の
越前・金ヶ崎の戦いで、義弟の浅井長政が背いたとの情報が入ったとき、
信長は最初は信じなかった。しかし、次々に同様の報告が入ったため、
即座に退却を決意して、金ヶ崎城に秀吉ら殿軍を置き、退却したという。
この金ヶ崎の戦いで、信長がかろうじて京都に戻ったときの従者は、わ
ずか10人ほどだったという(継介記・信長公記ゟ)

型どおり進めなかった裁ち鋏  石橋能里子

「礼儀」
帰蝶信長に嫁がせる斉藤道三、「うつけ者」と評されていた信長は
どんな風で訪れて来るのか、影で様子を伺っていた。そうしたところへ
信長は800人程の鉄砲隊や槍持ちの配下を引き連れ、自身は茶筅髷の
襤褸着を着たなりで、会見場所である正徳寺門前に馬上から下り立った。
これを目のあたりにした道三は呆れ、家臣たちも「大うつけ」と囃した。
しかし、いざ会見の場に現れた信長は、正装に着替え岳父になる道三に
低調な挨拶をしたという。まだ20歳の若造であった信長だったが、そ
れを見た道三は、驚きと同時に信長を只者でないと判断した。そして、
家臣の猪子兵助に対して「我が子たちはあのうつけの門前に馬をつなぐ
ようになる」と述べたという。(信長公記ゟ)

語尾だってたまに意地悪するようだ  北原照子

「冷酷」
信長は自身に敵対する者を数多く殺害し、必要以上の残虐行為を行った。
そうすることで信長は「鬱憤を散じ」たのだと、自ら書状に記している。
例えば、天正9年(1581)4月10日のこと。
信長は琵琶湖の竹生島参詣のために安土城を発った。信長が翌日まで帰
って来ないと思い込んだ侍女たちは、桑実寺に参詣に行くなどと勝手に
城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出
を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、すべて成敗した。
また侍女たちに対する慈悲を願った桑実寺の長老も、やはり成敗された
という。(信長公記ゟ)

素面では出来ない蛸の殺し方  笠嶋恵美子





信長から寧々への返信


「優しさ」
美濃と近江の国境近くの山中という所では、「山中の猿」と呼ばれる体
に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き
来する信長は、これをたびたび見て哀れに思っていた。天正3年6月の
上洛の途上、信長は山中の人々を呼び集め、木綿20反を山中の猿に与
えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また、この者が
飢えないように毎年、麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」
と人々に要請した。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな
感涙したという(信長公記ゟ)

寒いのは季節などではなくこころ   新家完司

「フェミニスト」
 信長はある日、秀吉の妻・ねねから「夫の女性問題で悩んでいる」
という手紙を受け取った。それに対し信長は、「まったくとんでもない
男だ。あなたほどの素敵な女性に、あの禿げ鼠(秀吉)は何という奴か
きつく叱りおく」と返信をした。
 天正6年(1578)、お弓衆の邸宅から出火して火事が起きた。
信長「妻子を安土に移していない者がいるからだ」と考え、すぐに名
簿を作らせて、妻子の同居実態を調査させた。すると、お弓衆60人と
お馬廻衆60人合わせて120人もの該当者がおり、信長はこれらの者
を叱責し、子の信忠に命じて、尾張国の彼らの邸宅を焼き払い、宅地内
の竹木までも伐採させた。彼らの妻たちは取るものも取りあえず安土へ
引き移った。信長は罰として、彼ら120人に安土城下に新道を築かせ、
完成したところで、全員を許したという。(信長公記ゟ)

幸福は非売品だと神がいう  ふじのひろし

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