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川柳的逍遥 人の世の一家言
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酔いがさめると葉桜になっていた  井上一筒

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     緑のさくら

これは「葉桜」ではありません。

造幣局に咲く「緑色の桜」です。


「秀吉と家康」

万事がいい加減な織田信雄に、はしごを外され、

困惑の家康だったが、石川数正を、秀吉のもとに送り、

「信雄、秀吉の両所が和睦は、天下万民のためにめでたい」

と挨拶に言わせた。

それを聞いた秀吉は、家康も「おっつけ上洛する」のだと早合点して、

「家康殿の縁者のどなたかを、養子に迎えたい」

と言った。

さくらさくら空が見えないほど桜  吉田わたる

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通り抜けさくらの枝にかかっていた「吉田わたる」さんの短冊です。


家康は、とりあえず養子にと、

家康の母・於大の方三男・定勝に白羽の矢を立てた。

ところが、困った事に、於大の方がどうしても承知をしない。

於大の方は、

「信康と交換だといって次男の康俊を今川に人質に出したら、

 武田に連れ去られ、逃げ出してきたが、可哀そうに凍傷で両足の指を失った。

 わが兄の水野信元も、信長の指示だと言って切腹させた。

 末っ子の定勝は手元に置いて大事にしているのに、

 それを人質に出すとは、どこまで母を苦しめる気か!」

と烈火のごとく怒ったのである。

開花時期異常気象で狂い咲き  本多智彦

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 本多智彦さんの短冊

そこで家康は、しぶしぶ次男の於義丸(秀康)を出すことにした。

このとき於義丸は、11歳。

三男で6歳の長丸(秀忠)どちらが世継ぎか、確定していなかった。

たまたま手を付けた侍女が、生んだ於義丸は、

はっきりいって、自分の子かどうかすら確信がなく、

しかも気性も気に入らない。

それに比べて、愛妾の西郷局の子で、本人も従順そうな長丸のほうが、

世継ぎにはふさわしいかと漠然と考えていたので、思い切ったのだった。

夜桜よ新入社員群れをなす  伊達郁夫

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伊達郁夫さんの短冊です

家康は、養子として於義丸をさしだしたあとも、上洛の気配がない。

これには秀吉も、かなり気分を害していた、

実は、家康も追い詰められていた。

なにしろ秀吉は、関白になって朝廷をバックに権威も得ていたし、

「小牧・長久手の戦い」の時に、家康と呼応した勢力のうち、

根来・雑賀の衆は殲滅され、四国の長宗我部氏も、下がってしまっていた。

本願寺も天満に広大な土地を得て、大坂復帰を認められた。

しかも、越後の上杉景勝と秀吉の関係も改善していたので、

家康にとっては、八方ふさがりだった。

短冊を提げて桜の得意顔  久米穂酒

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得意顔の桜も今年はライトアップがないのが少し寂しい。

岡崎城代・石川数正らの家臣からも、

「いい加減にしないと、滅亡の危機だ」

という意見も出るが、家康は知らぬ顔。

せっかく獲得した領地の寸分でも、取られるのが嫌だったのだろう。

家康に業をにやした数正は、秀吉のもとに逐電してしまう。

同じ時期に、信濃の小笠原貞慶真田昌幸も離反する。

政界の騒ぎをよそに通り抜け  住田英比古

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    造幣局旧正門

住田英比古さんの句は見つけられませんでした。

 
絶体絶命に陥った家康であったが、

もって生まれた運の強さで、窮地をのりきる出来事が、九州で起きる。

島津氏の躍進である。

九州では、豊後のキリシタン大名・大友宗麟、肥前の竜造寺隆信、

島津義久の三大勢力が争っていたが、

天正12年(1584年)に隆信が敗死。

宗麟も病気がちで、往年の面影はなく、

島津軍は筑前まで迫り、

九州統一王国が、生まれようとしていた。

秀吉は、九州に独立王国が成立して、

海外と勝手に付き合い出したら、

日本という国の統一が維持できないと心配していた。

ケータイの窓に乾燥注意報  前中知栄

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 大坂城の桜はすでに葉桜

そこで秀吉は、天正13年(1585年)、

島津氏に領土拡大をやめるように勧告した。

「惣無事令」という。

しかし、源頼朝の子孫と称する島津氏は、これを無視。

もはや、大友氏の息の根を止める状態になっていった。

まずいと考えた秀吉は、

この際、「家康と和睦」して九州制圧に、力を集中したかったのである。

カーナビがそこはまずいと言っている  吉川幸子

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通り抜けの真ん中辺にある「投句所はこちら」。

なんとそこで秀吉は、妹の旭姫を夫と離縁させ、

家康の継室として、送りこむ決意をした。

実質上の人質としたのである。

さらに、旭姫に会いに行かせるという口実で、

実母の大政所まで、岡崎に送った。

まばたきが枯山水になっている  河村啓子

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緑の桜の名前は「御衣黄」という。

この秀吉のやり方に、さすがの家康も、

「横領した領地を取り戻される心配もなかろう」

と安心して、

天正14年(1586年)の10月に、大坂に赴き、

秀吉の家来になった。

そののち駿府に家康が移り、後顧の憂いがなくなった秀吉は、

天正15年(1587年)、20万の兵で九州へ出陣し、

島津義久を降伏させた。

勝つときの涙をいつも溜めておく  森中惠美子

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