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川柳的逍遥 人の世の一家言
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城一つ伸びゆく街の灯を見つめ  金子呑風

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大奥での御台所・お江が描かれた錦絵

≪慶長10年(1605)秀忠が2代将軍に就任。

  32歳にして江は、ついに徳川家の御台所となった≫

「江戸城」

秀忠との結婚生活を、伏見で始めたお江は、

婚儀から2年後の慶長2年(1597)に、

豊臣秀頼の妻となる長女・千姫を産む。

その後、生活の場を徳川家の居城・江戸城に移し、

ここに約30年にもわたる、江戸での生活が始まる。

そして江にとって、

江戸城が、54年の波瀾の人生を終える城となる。

石垣を積む一本に骨の音  通 一遍

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東御苑に残る「天主台石垣」

当時の江戸城は、徳川家が天下人となり、

幕府を開いた後の江戸城とは、まるで違っていた。

まず、天守閣がなかった。

江戸城が将軍の居城として面目を一新するのは、

秀忠が将軍に就いてからだった。

慶長9年(1604)に、江戸城増築の方針が打ち出されるが、

実際に工事が始まったのは、

秀忠が将軍に任命された慶長10年のこと。

工事は将軍が住むべき本丸から始まった。

その年、9月に本丸が完成。

慶長12年(1607)に、天守閣が完成する。 

城跡に佇つと聞える鬨の声  有田晴子
 
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      本丸(模擬)

そもそも、徳川家の当主である家康は、

豊臣政権の五大老筆頭として、上方にいることがほとんど。

そのため、江戸城は後継者に擬せられていた秀忠が、

預かる城になっていた。

天下人になった後も、家康は江戸城よりも、

駿府城にいることが多く、終焉の地も駿府城となる。

風生まれ命育む懐へ  合田瑠美子

秀忠は、二代将軍ではあるが、

”将軍のお膝元・江戸” とは事実上、

秀忠の時代に始まるのだ。

お江は、徳川最初の「御台所」として、

上方に行くことも多かった秀忠の留守を、守ったのである。

江戸城とは、

秀忠とお江によって礎が築かれた城だった。

点滅が止んで完成した私  西恵美子

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   「伏見城縄張図」

秀忠の将軍職を祝うため諸大名はこぞって伏見城に登城した。

秀忠が伏見城に朝廷からの使者を迎え、

将軍に任命されたのは、慶長10年(1605)のことである。

”御台所お江” が誕生した年でもあった。

家康の在職期間は、わずか2年に過ぎなかったが、

秀忠は元和9年(1623)まで、約20年間にわたり在職する。 

生きてゆく踏んだり蹴ったりされながら  籠島恵子

 

その間、秀忠は父・家康の路線を維持し、

開府まもない江戸幕府の基盤を、強化することに心血を注いだ。

将軍親政の体制を整え、

「武家諸法度」や「公家諸法度」など、

”幕府統治の根幹に関わる諸法” を定着させたのは、

秀忠の治世であった。

強がりを言ってしまったあほやなあ  新川弘子

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   「皇居東御苑」

≪皇居東御苑は、当時の本丸・二の丸三の丸を中心とした地域で、

    面積は約21万㎡。西の丸(下部囲み左は現在の宮内庁)≫

「恐い妻お江」

2人の正室と15人の側室をかかえた家康の息子でながら、

秀忠は江、一筋。

絵に描いた”恐妻家”として知られている。

お江は、続けざまに3人の子供を産んだが、

みな女子である。

後は世継ぎの男子を生むことだ。

お江は、秀忠を責めたてた。

偉大すぎる父の遺産をどう守るか、

それは胸が苦しくなるほど、難しいことだった。 

「自分にその資格があるのだろうか」

 

秀忠は自問自答の日々だったが、

いつも、お江が後押ししてくれた。 

「能ある鷹は爪を隠すといいます。

  殿さまはじっと周囲を見て学ぶのです」

 

お江の言葉は、胸に響いた。 

虚と実に揺れる女の息づかい  茂本隆子
 
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 ≪皇居東御苑「大奥跡」≫

≪今は広場になっている。奥に天主台を望む≫

その後、珠姫の誕生から、

御水尾天皇の中宮となる和子(まさこ)まで、

お江は、徳川家で2男五女の子宝に恵まれ、

江戸のシンデレラストーリーを描いていくのである。 

ゼブラゾーンを埋め尽くす蛇である  井上一筒

「江と秀忠の子供」 

長女、 千姫(1598) (豊臣秀頼に嫁ぐ)
次女、 珠姫(1599) (加賀藩三代藩主・前田利常正室)
三女、 勝姫(1600) (越前国福井藩主・松平忠直正室)
四女、 初姫(1603) (姉・初の養女になる)

長男、 5人目にして待望の男児誕生(1604)。 竹千代(家光)である。
次男、 秀忠が恐妻・江の目を盗んで出来た異母弟・保科正之
三男、 国松誕生(1606) (後の忠長)異母弟保科正之
五女、 和子(1607)  (東福門院)

 

もういいじゃないかと思うまで産んだ  藤井孝作 

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     保科正之

「秀忠・次男・保科正之について」

秀忠はお江との間に、二男5女を儲けたが、

お江以外の女性との間に生まれた子供は、

記録上は、男の子2人だけである。

それも密かに手を付け、妊娠すると御殿から出してしまった。

それだけお江の目を恐れたわけだが、

秀忠の乳母の侍女・お静の方が生んだ、

幸松丸という男の子こそ、

後の会津藩主・保科正之である。 

噴火する予兆か妻が黙り込む  上嶋幸雀

 

もう1人の男子・長丸は、家光誕生の前に生まれ夭折するが、

その母も侍女の身分であったとおもわれる。

その他、大橋局という、お江の侍女の名前が知られている。

大橋局との間には、子供はできなかった。

秀忠の女性関係は、

侍女などの範囲に限られていたようだ。

真ん中を目指せば嘘のない自分  森田律子

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       江の像と遺品

江は秀忠が浮気をひた隠しにせねばならないほどの、

”鬼嫁”だったのだろうか。

夫婦の実像は、想像するしかないが、

ともあれ、夫婦の仲のよさを証明するかのように、

江は次から次へ子を産んだ。

江は母のに似て、子を宿しやすい体質だったのだろう。  

子づくりのためという、側室を持つ口実を、

秀忠に与えなかったのだ。

  

にこにこと攻めてくるから恐ろしい  嶋澤喜八郎

enngyo.jpg  三田村鳶魚

『余談』

従軍記者として日清戦争にも参加し、

報知新聞記者などを経て、江戸風俗や文化を研究。

「江戸通の三大人の1人」と、いわれる三田村鳶魚(えんぎょ)が、 

「お江は、25歳から35歳までの10年間に、

  男女7人の母になった。

  この分娩と妊娠とを勘定してごらんなさい。

 その忙しいこと」

 

と、芸能ルポの如、やや皮肉を込めて「お江」を評している。

三田村鳶魚・・明治3年、東京八王子生まれ。

歴史考証家・随筆家として、

「御殿女中」「江戸ッ子」「大衆文芸評判記」の著書がある。

囁いてごらん覗いてみてごらん  河村啓子

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