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川柳的逍遥 人の世の一家言
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化粧しても耳はけもののままである  新家完司

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能面を被った家康のからくり(岡崎城)

「徳川家康」

その腹黒さとしたたかさから

「狸親父」
との異名を持つ徳川家康

表面上では、化けて周囲の目を欺きつつ、

内心では、虎視眈々と逆転を狙っている。

そんな家康のイメージは、

老獪さが身についた、晩年からのものだと考えられているが、

決してそうではなく、若い頃から、

しっかりと将来を見据え、じっくり考え、

行動に移す人であった。

枯葉一枚さて人間を欺そうか  森中惠美子

「人の一生は重き荷を背負いて遠き道を行くが如し。

  いそぐべからず・・・」

    

は、徳川家康の遺訓とされている。

その言葉のとおり、

家康はまさに”回り道”の男といえるだろう。

三河の国の一土豪にすぎなかった徳川家(松平)に、

生まれた家康は、
6歳から19歳まで、

織田氏、今川氏のもとで、人質生活を余儀なくされた。   

なにはともあれ進むしかないカタツムリ  加納美津子

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家康が能を踊るカラクリ時計(岡崎城公園)

   

信長と組んで、東海一帯に勢力は伸ばしたが、

信長の死後、秀吉が台頭すると、その臣下となり、

小田原の北条氏滅亡後は、秀吉の命じるままに、

当時はまだ、草深い寒村の江戸に移った。

家康は機が熟すのを、ひたすら待った。

しかし、それは無為の日々ではなく、

来るべき時に備えて、

着々と実力をたくわえる、雌伏のときだった。

だんだんと削って凡人になった  たむらあきこ

秀吉が、伏見城で一生を終えたとき、

いよいよ家康は、天下取りに立ち上がった。

このとき家康は、すでに57歳であった。

跡取りの秀頼は、わずか6歳。

人の好い顔をそろそろ脱ぐとする  牧浦完次

秀吉は、      

「五大老の筆頭・家康が秀頼を補佐して豊臣政権が存続する」

      

ことを願っていた。

五奉行の石田三成らも、同じ考えであった。

つまり、   

「秀吉政権は秀吉によって樹立され、基礎固めも済んだので、

  幼い秀頼ではあるが、世襲してやっていける」

   

という判断である。

「心配」と表札あげて赤とんぼ  時実新子

しかし、家康の考え方は違っていた。  

「まだ、世襲制でやっていけるほど安定はしていない」

  

という考えである。

また、「天下は実力あるもののまわりもち」

という思いもあった。

迷いなく着こなすライバルの黒よ  山本昌乃

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      若き日の家康

家康の頭の中には、本能寺の変後、

秀吉に一歩先を越された苦い思い出があった。

しかし、家康が、秀吉に一歩譲ったのは、

秀吉の器量を家康が、認めたからである。

つまり、家康は、秀吉の器量を認めても、

その子・秀頼の器量を認めていたわけではない。

このあたり、三成の、

「秀頼は名目にしても、まわりが固めれば豊臣政権は存続する」

という考え方と決定的に違う。

四角三角をとどめて石心室  岩田多佳子

「秀吉の臨終の枕で、家康が秀頼の補佐をしたのは汚い。

  腹黒いやり方だ」

とよく言われることがある。

これが、「家康狸説」の発端になっているところだが、

三成以下、豊臣家の方から見れば、そうなるのである。

家康の方から見れば、 

「秀吉だから臣従したのであって、   

  ”実力ある者が天下を盗る”

   という戦国の習いに照らしてみれば、
秀頼より自分が上」

 

という意識があった。

手の内は綺麗な嘘で飾りつけ  谷垣郁郎

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最も男前に描かれている家康

「天下分け目の戦い」といわれた関が原の戦いを制し、

征夷大将軍として江戸に幕府を開いた家康は、

全国支配の手を、次々と打っていった。

わずか2年で、将軍職を子の秀忠に譲ったあとは、

徳川の世を、万全のものにするために、

駿府城で大御所として力をふるい、

家康最後の仕上げは、

依然、大坂城に君臨していた秀吉の遺児・秀頼を、

倒すことだった。

裏切りも絆 心に痛く深く置く  森 廣子

1615年、大坂夏の陣で淀殿、秀頼母子が自害することで、

それは果たされたが、 

「秀吉の死から15年かけた」
 
というその周到ぶりに、
家康の性格の一端がうかがえる。

まさに家康は、沈思黙考の人、

狸に化けていた人間というか・・・?(もしかしてその反対か?)

先の自分の像を見据え、緻密に練り、

それを、実行していく人であった。     

≪周知のとおり、 

 これによって、天下動乱の時代は終わりを告げ、

 

    以後、260年余りにわたって、天下太平の世がつづくことになる≫

    

矢印の通りに進むニシキヘビ  井上一筒

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  地獄門(ロダン)

『余談』―「考える人」

有名なロダンの作品・『考える人』は、

実際は、像の人物は、”考える人”などではなく、

地獄の入口で、地獄へ落ちていく罪人達を、

「上から見下ろしている人」なのだ。

いわゆる、考える人の職業は、地獄の門番だった。

「考える人」の本当の姿は、

現在の世から末の世を睨む「管理人」なのである。

その奥を覗いて帰れなくなった  居谷真理子

”近代彫刻家の父”と呼ばれる、

この”考える人”の作者・ロダンは、

姉の勧めで美術を学び始めたが、彫刻は独学だった。

初めて発表した彫刻・「鼻のつぶれた男」は、

美しいものが評価される時代だったこともあり、酷評を受けた。

そのショックは、しばらく、

創作活動を行うことが出来なくなるほどだった。

わたくしが試されている試練とは  赤松ますみ

しかしその後、ロダンは創作活動を再開し、

「青銅時代」という作品を発表。

これが高い評価を得て、

「国立美術館のモニュメントを作ってほしい」

というオファーが届いた。

そこでとりかかったのが、

”ダンテの神曲”に登場する『地獄の門』を題材としたものだった。

その中の一部が、「考える人」なのである。

真相が漏れるロッカールームから  合田瑠美子

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ところで、「考える人」という題名の由来は、

ロダンとは作品の鋳造を通じて、長い付き合いがある

鋳造家・リュディエという人にある。

この「考える人」も、このリュディエが鋳造した。

この像が生まれた経緯を知らないリュディエは、

「何かを考え込んでいる姿」

と、勘違いして、

『考える人』と、命名したというわけである。

ただ、その経緯を知るも知らぬも、

この像は、「考える人」に違いない。

前頭葉の痛み上書き虫刺され  蟹口和枝


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