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川柳的逍遥 人の世の一家言
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目に刺さる三角定規直定規  時実新子

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           醍醐花見図屏風

「秀吉最期」

慶長3年(1598)7月上旬、        

「太閤秀吉が伏見城で病床についた」

        

家康から、江戸城に報せがあった。

秀忠は、あわただしく江戸城を出立した。

秀吉の病名は、咳気(がいき)だ。

咳気とは、咳き込むことだが、

肺炎また肺癌と考えられる、重い病気だった。   

整いましたと神さまから返事  桑原伸吉

同年3月、   「醍醐花見図屏風」に、

秀吉が京都の醍醐寺で、盛大に花見を行ったことが、

描かれている。

秀吉は気晴らしにと、花見を計画した。

3月15日に、醍醐寺で行われたその花見に参加したのは、

豊臣家の女たちとその侍女、

そして大名の女房衆だけという、異様なものだった。    

夜桜の優しさごっこ受け入れる  前中知栄

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醍醐の花見で能を舞う秀吉

    

その中で、秀吉は、思い切り楽しんだ。

これは慶長の大地震によって亡くなった、

多くの女性たちを弔うだけでなく、

秀吉自身が元気な様を、大勢に見せつけ、 

「最期が近いことを感じさせまい」

 

とした目的もあったとされる。

そして、花見から2ヶ月もしない5月5日、

秀吉は、伏見城で病床の人となる。

日本中重い気分の花便り  松本としこ

また病床の秀吉は、自分の死後、

豊臣家と秀頼の将来が不安で仕方なく、

新しい政治体制として、五大老と五奉行の制度を定めた。

五大老は、徳川家康を筆頭に、

前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家である。

政治をとりしきる集団指導制ではあるが、

顔ぶれを見れば、

家康に牛耳られてしまうことは必定だった。 

毒は微妙に輪の中で熟れていく  山口ろっぱ

 

そこで秀吉は、大老をチェックする「奉行制度」も作った。

石田三成を筆頭に、

前田玄以、浅野長政、増田長盛、長塚正家の五人が、

あらかじめ細目を決め、五大老にあげる仕組みだ。 

「よしよし」

 

秀吉は病床で安堵した。           

≪しかしこれがのちに、「関が原の戦い」を引き起こす要因となった≫

           

これでいいこれでよかったこれでいい  嶋澤喜八郎

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7月半ば頃になると、秀吉は再起しがたいことを悟り、

秀頼と豊臣家の将来を、いろいろと憂慮し、

大名たちを集めて、「11か条に及ぶ遺言」を述べた。

「第一条」は、家康に対してである。

秀頼を家康の孫・千姫の婿にしたのだから、

その孫婿・秀頼を取り立ててほしいと、

前田利家はじめ、五大老の前で何度も懇願した。  

雨降って拝み降らなくても拝み  通 一遍

  

「第二条」は、

若い頃から付き合いのある前田利家に対して、  

「秀頼の守り役として面倒を見てもらいたい」

  

と、咳き込みながら語った。

「第三条」は、秀忠に対してであった。  

「親の家康殿が年をとられ、いずれ秀忠の時代が来たら、

  家康公と同様に、秀頼の面倒を見てもらいたい」

  

と頼んだ。 

繭吐いたあとが大きな穴になる  赤松ますみ

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秀吉花押

五大老と五奉行は、それぞれ記請文をしたためて、

その命令に背かないことを神に誓い、

これに「花押」を書き、血判を押した。

「なごりおしく候。秀頼をよろしく頼む」

家康に最期の言葉を残して、

息絶えたのは8月18日だった。

享年62歳。 

経を読む第三頸椎が憎い  岩根彰子

 

天下人である太閤秀吉といえども、

最期は、このような姿をさらすことに、

秀忠は、実に気の毒に思った。

秀忠は、お江に秀吉の最期を詳しく話した。

秀吉はやせ衰えて声も細くなっていたが、

死ぬ2・3日前に、お江に対して、     

「今後は余を父といわず、家康を父と呼ぶがよい」

     

と、秀頼に話したことも伝えた。

散っていく最後の力ふり絞り  河村啓子

「秀吉辞世の句」  

”露と落ち露と消えにし我が身かな なにはのことは夢のまた夢”

  

『豆辞典』

≪辞世の句というのは、本当にその期に及んで詠むものでなく、

あらかじめ用意しておくもので、秀吉のこの句は、

孝蔵主が預かっていたものといわれる≫

蓮華座をほぐせば辛子明太子  井上一筒

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大河ドラマ・『お江』-第31回-「秀吉死す」  あらすじ

秀吉(岸谷五朗)が、火事の見舞いに徳川屋敷を訪れた。

秀吉は、江(上野樹里)秀忠(向井理)の、

夫婦ぶりに目を細め、
  

「嫁いでよかったであろう」
  
などと言い、余裕のあるところを見せる。

だが、人目もはばからず、

拾(須田琉雅)の肌着の匂いをかぐといった、

異常な行動を隠そうともしない様子は、

彼の老いと衰えを物語っていた。 

とりあえず午後から雲の動くまま  山本昌乃

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秀吉はその後、再び朝鮮に兵を送ると決める。

また、切支丹の弾圧にも乗り出した。

さらに、4歳の拾を元服させ、名を秀頼と改めさせる。

そうした行動を見て、家康(北大路欣也)は、

「殿下は、生き急いでおられるのやも」

と漏らす。

つまり、残された時間が長くないと悟り、

幼い秀頼のためにできるだけのことをしようとしていると・・・。 

鹿は野をかけるいつかは骨になる  墨作二郎

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迎えた慶長3(1598)年の夏、

ついに秀吉は、伏見城で回復することのない病に倒れる。

病床でひたすら秀頼の将来を案じ、

大名衆に、 

「秀頼を頼む」

 

と念を押すその姿はもう、衰弱した1人の老人にすぎなかった。 

三日月の欠けた部分がわたしです  岩田多佳子

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初(水川あさみ)は、秀吉を見舞うため、

高次(斎藤工)とともに急ぎ伏見城へ。

もちろん淀(宮沢りえ)も、秀吉のそばを離れない。

そして江は、秀吉にいよいよ死が迫ったころ、ようやく姿を見せる。

「私はあなたを殺したい。病などで死なれてはならぬのです」

涙をこらえながら、屈折した思いをぶつける江。

コンパスで正方形を書いている  和田洋子

そんな江に、秀吉は、「ひとつ頼みがある」と語りかける。

江は  

「秀頼のことなら知りませぬ」

  

と答えるが、それに対して秀吉は、

江の予想を裏切る意外な言葉を口にするのだ。 

昭和に戻れと出来ない事を言う  前中知栄

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その後の徳川の伏見屋敷では、秀忠と江は、

秀吉に死が迫り、家康が、天下に吹く次の風を、

読もうとしているところ、

絆を深めたかに思われた江と秀忠は、

相変わらず、微妙な距離のある関係を続けていた。

命を救われた江が、  

「あなたの妻として一心不乱に生きていきます!」

  

と力んだところで、

秀忠の反応は冷めたままなのだ。
 

妥協してもっと孤独になる夕日  杉野恭子
 
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だが、そんな状態であるにもかかわらず江は妊娠。

やがて、千と名付けられる女の子を産む。

秀忠は、千の誕生にも、

あまり感情を動かさないように見えたが、

実は驚くほど子煩悩で・・・。 

良かったね無事到着にまた感謝  庄田潤子

 

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