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川柳的逍遥 人の世の一家言
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あらあらとDNAの一夜干し  前中知栄

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   鳥羽上皇

40年余り院政を敷いてきた独裁者・白河法皇が亡くなると、

大治4年(1129)より、鳥羽天皇が院政を敷く。

まず鳥羽院は、

白河法皇に疎んじられていた藤原忠実を呼び戻して、

娘の泰子(高陽院)を入内させるなど、

院の要職を自己の側近で固めた。

同時に権力を掌握した鳥羽院の、

白河法皇への憎しみは、

白河の愛妾であり、自身の正妻である彰子へ向けられ、

白河と彰子の子である崇徳帝への報復となっていく。 

青空も渋滞らしい雪ダルマ  和田洋子
 
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そこから、

白河法皇の後ろ盾を失った中宮・璋子にかわり、

鳥羽院は、三人目の中宮として、

藤原得子(美福門院)を寵愛した。

程なくして得子は懐妊。

一人目の叡子内親王は、高陽院の養女となったが早死にし

二人目の暲子は、鳥羽院が手元で育てられ、

そして、3人目で、やっと男児が誕生する。

のちの近衛天皇、体仁(なりひと)親王である。 

孖の踊りからふと目覚ましか  湊 圭史
 
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     崇徳院

男子が生まれると、

鳥羽院には、待賢門院・璋子との間に、

雅仁親王(後白河帝)がいたが、

その得子が産んだ近衛が三歳になると、

鳥羽は自分が、白河にされたと同じように、

崇徳院に譲位を迫り、

近衛を崇徳の養子の形にすると説得して、即位させた。

だが、即位の際の宣命では、

「崇徳は皇太弟に譲位した」 と読み上げられたのである。

鳥羽は崇徳を欺いたのである。

(これが崇徳の怨念の始まりとなり、

  義清が無常の旅に出る原因のひとつとなる)

おとといの場所から起こる砂嵐  笠嶋惠美子

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    後鳥羽上皇

こうして14年が過ぎた夏。

近衛帝が重篤となった。

後継に関し、誰もが崇徳院の嫡男・重仁親王が、

次の天皇の最有力候補と思われていたが、

雅仁親王(のちの後白河)が、即位することとなる。

得子が、崇徳院が藤原頼長と組んで、

近衛帝を呪い殺したと信じ、

その子である重仁を排除するよう、

鳥羽院に働きかけかけたのだ・・・。 

入賞圏内に伝染病がある  井上一筒
 
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「はみだし者ー雅仁親王」

"イタクサタダシク御遊ビナドアリ"

皇位継承とは、無縁で気楽な立場にあった雅仁親王は、

『平治物語』によれば、

「今様狂い」と称されるほどの遊び人であり、 

「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」

 

と同母兄・崇徳院に酷評されていたという。

皇位継承とは無縁と目され、

帝王教育を受けることもなかった。

その没頭ぶりは、周囲からは常軌を逸したものと映ったらしく、

鳥羽上皇もまた、 

「即位の器量ではない」 とみなしていた(『愚管抄』)。 

百均のふたはさなれたままの首  阪本きりり

 

「そのかみ十余歳の時より今に至るまで、

  ”今様”を好みて怠ることなし」

≪雅仁は、十歳の頃からずっと「今様」が好きで、

   一日としておろそかにすることがなかった≫
 
遅々たる春の日は、

枝に開け庭に散る花を見、

鶯の鳴き郭公の語らふ
声にもその心を得、

粛々たる秋夜、

月をもてあそび、虫の声々にあはれを添へ、

夏は暑く冬は寒きをかへりみず、

四季につけて折りに嫌はず、

昼はひねもすうたひ暮らし、

夜はよもすがらうたひ、明かさぬ夜はなかりき。 

待ち合いに広がる摂氏23度の空  酒井かがり 

 

(春は花を見ては、あるいは鶯や郭公の声に感興を呼び起こし、

  秋は月や虫の声に、夏はどんなに暑くとも、

  冬はどんなに寒くとも、昼は一日中、

   夜は一晩中歌い明かしている)

 

羽毛のアダージョとレム睡眠に酔う  山口ろっぱ

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『梁塵秘抄口伝集』ー雅仁親王

" 昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。

  声が出なくなったことは三回あり、

  その内二回は、喉が腫れて、

  湯や水を通すのもつらいほどだった。

  待賢門院が亡くなって、五十日を過ぎた頃、

  崇徳院が、同じ御所に住むように仰せられた。 

  あまりに近くで、遠慮もあったが、

  今様が好きでたまらなかったので、

  前と同じように毎夜歌った。

  鳥羽殿にいた頃は、五十日ほど歌い明かし、

  東三条殿では船に乗って、人を集めて四十日余り、

  日の出まで毎夜音楽の遊びをした」

 

と自らも記している。" 

悪癖は星に行ったり帰ったり  くんじろう

 

「今様」に遊び更ける雅仁親王の遊び相手には、

源資賢・藤原季兼がいたが、

他にも、京の男女、端者(はしたもの)、雑仕(ぞうし)、

江口・神崎の遊女、傀儡子(くぐつ)など、

幅広い階層に及んだという。

 今様=田楽・猿楽などの庶民の雑芸が、

     上流貴族の生活にも入り込み、

   催馬楽・朗詠に比べて,自由な表現をする遊びが盛んとなっていた。

ご先祖のわたしと遊ぶ猿の檻  有田一央

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「遊びをせむとや生れけん」

「作品紹介」

これまで文学としてのみ扱われていた平安時代の、

流行歌集・『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』の詞章に、

世界の民族音楽のエッセンスを取り入れた

独創的な音楽をつけて、

現代によみがえらせた桃山晴衣の伝説の作品。

美しく楽しい夢幻世界の響き。

シルクロードの世界、

ペルシャの撥弦楽器、セタールにまで遡る三味線の系譜、

そして古代の音。

この三つの柱から紡ぎ出された「生命の讃歌」を携え、

桃山晴衣が、

日本全国・百十箇所を廻ったコンサート・ツアーは、

大きな話題となり、

新しく自由な音楽と文化を求める聴衆たちから、

熱く迎えられた。

平安の「今様」をしる機会のために。 

朽ち果てる刹那に燃ゆる赤い糸  小嶋くまひこ

 

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