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川柳的逍遥 人の世の一家言
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大きな月が庭に来ている  河村啓子

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「海賊討伐ー清盛18歳」

保延元年(1135)8月、

西国で捕虜にした海賊達を引き連れて、

鳥羽院より「海賊追討」を命じられてわずか4ヶ月。

京における平家の武威は、いやがうえにも高まった。

当時、瀬戸内海では、海賊がはびこり、

数十隻の船を操って海上を航行する船を襲って、

乗員を殺害し、
貨物を略奪していた。 

不届き者よしL字型金具よ  酒井かがり

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東国で源氏が武士団を組織したのと同じように、

西国では、後に「水軍」と呼ばれる海の武力集団が,

形成されつつあったのである。

6年前の大治4年(1129)にも一度、

忠盛は山陽・南海道の海賊追討を命じられている。

この時の手腕を買われたのであろう。

ふたたび海賊の横行が問題になったとき、

人選にあたる公卿たちは

「西海に勢力を有する
という理由で、

忠盛の再登板を認めた。 

大勢が正しいと言う そうだろう  高橋太一郎

 

この時、もうひとりの候補としてあげられていたのが,

源義朝の父・為義である。

公卿たちが最終的な判断を鳥羽院にゆだねたところ、 

「為義では追討使が進む路次の国々が滅亡してしまうので,

  忠盛がよいだろう」

 

という指示があったため、

最終的に忠盛の派遣が決定されたという。 

向うにはかなり足りない飴の数  大東ゆたか       

為義では国々が「滅亡」するというのは、

西国に地盤のない武士を送り込むことで、

かえって混乱が深まるということを心配しているのだろう。 

屑カゴのクズの名前にも序列  黒田忠昭

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すでに忠盛は、伯耆や備前などの西国の受領を歴任し、

前述のように海賊追捕の経験もあった。

大きな抵抗を受けることなく、

速やかに海賊を鎮圧することが期待されたのである。

だが、華やかな凱旋パレードの影では、

黒い噂が囁かれていたのも事実であった。 

しがらみは落としてくれぬ洗濯機  竹内ゆみこ

 

忠盛が京に連れ帰った海賊は、

日高禅師をはじめとする70人であった。

そのうち28人が、河原で検非違使に引き渡されたが、

実は彼らの多くは海賊ではなく、

忠盛の家人ではないものを「賊虜」と称して、

引き渡したに過ぎないというのである。

忠盛にとっての「海賊討伐」は、

西国の武士との主従関係を強める機会であると同時に、

「平家の武勇を京の人々に誇示するための、

  パフォーマンスでもあった」 のである。
 

手の平のくぼみ魚板の叩く音  前中智栄  

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平家にとって「海賊討伐」は、

瀬戸内海の水軍や在地武士を組織し西国に

幅広く平家の勢力を拡大するためのものでもあった。

期棟梁である清盛の姿を、

西国衆に披露する良い機会機会にもなったはずだ。

だとすれば、清盛にとって、

これが初めての実戦経験だったかもしれない。

だが清盛にとって、この海賊追討は、

武勇を磨く以上の意味があった。 

饒舌は途絶えて螺旋のけむり  富山やよい

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凱旋の直後、朝廷より忠盛に海賊追討の賞が与えられ、

その譲りによって、

清盛の位階が「従四位下」に上がったのである。

翌年4月には、「中務大輔」に任じられた。

祖父・正盛が但馬守に任じられたとき、

ある貴族は、五位程度しか上がれない家柄である

「最下品」の忠盛が、

但馬のような大国の受領になったことに

不満を述べたものであった。 

酸欠の青大将であった頃  井上一筒

 

それから30年。

18歳の清盛が、易々と、

「五位から四位」への壁を超えたことは、

平家の躍進を改めて人々に印象づけたに違いない。

実際、これより約40年後の「鹿ケ谷事件」の時、

捕らわれた西光法師が清盛を前にして、 

「四位の兵衛佐になったことでさえ、

 過分なことであると、当時の人々はいったものだ」

 

と罵倒した話が、『平家物語』に残る。 

煮て焼いて振り掛けにする言い掛り  岩根彰子
 

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「実は」

平正盛は永久2年(1114)、

伊予国で海賊を捕らえ、

元永2年(1119)、

肥前国・藤津庄(ふじつのしょう)の庄官を追捕している。

その間を含め、隠岐・但馬・丹後・備前・讃岐などの

受領に、
任じられている。

これらの国々が、

西日本の海沿いにあるのは注目すべきだろう。

正盛は任地の武士団を取り込み、

自らの武力に編成すると同時に、経済力をつけていった。 

手首まである生命線を見つめてる  大海幸生

 

正盛の子・忠盛も、大治4年(1129)に、

山陽・南海道の海賊鎮圧の追討使、

保延元年(1135)には、

西海の海賊鎮圧の追討使に任じられている。

しかし、大治4年には、

「追討使を派遣するほどの事件は起きていない」

そのため、当時、備前守だった忠盛が、

海賊を自分の勢力下に治めるための口実として、 

「追討使の任命を願い出た」

 

のではないかともいわれている。 

ピーマンのガランドウから呼び出され  谷垣郁郎
 

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[川柳瓦版 誌上競詠『咲くやこの花賞』のお知らせ]

皆様へ、「誌上競詠」へのご参加を心よりお待ちしております。

      内容は下記の通り、ハガキにて投句してください。

2月のお題 「始まる」 選者 森中惠美子

3月のお題  「食」     選者 井上一筒

4月のお題  「衣」    選者 赤松ますみ

参加料/1年間ー(24年2月~25年1月) 2000円 (切手可)

                          (同人、誌友は 1000円)
締切   毎月20日

表彰 毎年3月句会で発表。(一位に優勝杯 二位~十位に瓦版特製記念品贈呈)

投句先 (572-0844) 
        寝屋川区太秦緑が丘11-8    川柳瓦版の会宛

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