川柳的逍遥 人の世の一家言
カギ穴を一瞬ウフフが横切った 山本美枝
「田沼意次の相良資料館」
ここに来れば田沼意次に会える
「勝手元不如意で、貯えなきは、一朝事ある時役に立たない。 御軍用にさしつかえ武道を失い領地頂戴の身の不面目これに過ぎるものはない」 「江戸のニュース」
天明六年八月二十六日、老中の田沼意次は、病気を理由に辞職願を提出した。 そしてこの日、これが即刻受理されて意次は老中を解任された。
意次は、九代家重の小姓として取り立てられ、続く十代家治にも信頼されて
老中にまで登りつめた。その政治力を縦横に発揮してきた意次にしては、何
とも呆気ない解任劇だったといえる。しかし、この解任劇の背景には、田沼
派と反田沼派による激しい暗闘があった。
田沼派は,、意次を頂点とするグループであり、その才で家治の信任を得て、
政策・人事面で大いに権勢を揮っていた。
それを苦々しく思っていたのが、尾張・水戸といった親藩大名をはじめ、
伝統的な家門を誇る譜代大名たちで、その筆頭はこの前年に準老中ともいう
べき「溜之間詰」となっていた松平定信だった。
この反田沼派は、家治が健在であるうちは動きがとれなかったが、家治が病
に伏すようになると勢いを見せ始めた。そして家治の病状が悪化することに
よって、両派の立ち位置は逆転した。そして、ここから反田沼派による家治
毒殺説も生じている。
笑ったらあかんゴーヤがついてくる 酒井かがり 田沼の噂話をする大奥の女中
意次は家治の病状がいっこうによくならないのを心配し、途中から奥医師)の
大八木伝庵(おおやぎでんあん)にかえて町医師の若林敬順(けいじゅん)ら を江戸城中にまねき、家治の治療にあたらせた。 ところが、若林敬順の調製した薬をのみはじめてから、かえって家治の病は悪
くなり、そのまま死をむかえたため、家治は意次に毒殺されたのだという噂が パッとひろまった。 「ああ、おいたわしや。御上(家治)は、田沼どののさしあげた毒薬のせいで、
お命をちぢめなされた田沼どのは、おそろしいお人よ」 それまで、意次に好意的だった大奥の女中たちまでが、口を揃えて意次を非難
するありさまである 雲を掴む話が集塵車に溢れ 東おさむ
蔦屋重三郎ー田沼の時代の終焉
「潮干のつと」 喜多川歌麿作
浅間しや富士より高き米相場 火の降る江戸に砂の降るとは
「浅間しや…」は、天明の大飢饉の際に詠まれた狂歌で、田沼意次の政治を
皮肉ったものである。 「何もかも田沼が悪い」 水害も旱魃も米の急騰も何もかも、田沼が悪いというのである。
「賄賂政治」といえば、田沼意次の名がトレードマークのようである。
意次は徳川十代将軍家治に仕え、側用人から老中にまで出世し、二十数年間に
わたって権勢をふるった。その間を「田沼時代」と呼ぶが、当時の評価は低く、
賄賂が横行し、世の中の道徳観が乱れた時代であったという。 そうした混乱を招いた張本人こそ、意次だというのである。
江戸の町に繁栄をもたらした「重商政策」を大歓迎し、ちょっとした蹴つまづ
きで「賄賂」に置き換わってしまうのだ。
言い続けた嘘がホントになっていく 日下部敦世
「将軍家治の死亡の裏にある疑惑」
盤石と思われた、幕府内の田沼体制だったが、一つの出来事をきっかけに、
あっけなく崩壊してしまう。
8月19日、将軍家治の病状が日を追って悪化していく。
これを心配した意次は、自分が信頼する蘭方医2名を病床に送り込み治療に
専念させようとした。
ところが、翌20日には、御殿医・漢方医らに退けられる。
家治は、8月20日にはすでに亡くなったいたが、これを外部に伏せておく
ために、意次の息のかかった蘭方医を、病床から遠ざけたのだ。
そして、将軍危篤と聞いて駆け付けた意次に対して、病床への入室を許さず、
あげくのはてに、上意であるとして意次に、「引退願」を強要したのである。 結局意次は、「御上意である」と言われて抗しきれず、天明6年 (1786) 8月
27日、老中を罷免された。
本当を知っているのは私だけ 津田照子
かつては、人の出入りでにぎやだった意次邸の門前
大名、旗本、商人たちが意次詣をして金品を届け、忖度を期待した。
そして、将軍家治の死が公表されたのは、翌月の9月7日だった。
将軍の葬儀がすむと、一橋家から養子に入っていた家斉が、11代将軍とな
る。そして矢継ぎ早に、田安家から白河藩藩主に着任したばかりの松平定信
が老中筆頭となった。そして反田沼派の動きは、迅速であった。
田沼意次は2万石を召し上げられ、意次の活動拠点だった神田橋上屋敷と大
阪蔵屋敷を召し上げられ、さらに翌年10月、意次は蟄居謹慎を命じられ、
相良城とその所領は没収、奥州下村藩1万石に転封を命じられた。
田沼家は意次の孫・意明が家督相続することとなった。なお、下村藩五代藩
主意正のとき、将軍家斉の計らいで、旧領の相良に戻ることができた。
(これは、将軍就任に協力した意次の名誉回復を、将軍家斉が望んだためと
言われている) いつも風が吹いている壺の中 蟹口和枝 「意次失脚を企てたのは誰か」
意次を恨んでいた松平定信が第一にかんがえられる。
「定信は、意次を刺し殺したいほど憎んでいたことを、自らを老中に推薦する
将軍に宛てた上奏文」がある。
「…中にも主殿頭心中その意を得ず存じ奉り候に付、刺し殺し申すべくと存じ、
懐剣までこしらへ申し、一両度まかり出候処、とくと考へ候に、私の名は世に 高く成り候へども、右にては天下に対し奉り、却って不忠と存じ奉り候…」 キー捨てる指の先までジェラシー 井上恵津子
定信が意次を憎むきっかけとなったのは、まず、白河藩への養子縁組問題であ
ろう。定信が16歳の時、奥州白河藩への養子の話が持ちあがった。
田安家には、定信の上に五男の治察がいたが、彼は病弱だったため乗り気では
なかった。が、一橋治済と田沼意次の強い反対があって、田安家はしぶしぶな
がら、養子話を受けた。しかし案じた通り、その直後に治察が亡くなってしま
った。田安家は、定信の養子解消を願い出た。が、老中意次は、例を見ないこ
ととして許さなかった。田安家はその後13年間、当主不在の状態が続いた。
田安家の復帰が認められず、将軍になる資格をも絶たれたことで、定信は意次
を快く思えなかったことは事実だろう。
そして、8代将軍吉宗の孫という確かな血筋を持ちながら、足軽出身の意次が
政治を牛耳っていることも、苛立つ要因になったことも考えられる。
またの名を相対性理論という梯子 通利一遍
「松前屏風」 ニシンを求めて賑わいを見せる松前の漁港
意次は貿易による利益も幕府の財政建直しの財源として重んじ、貿易を広げる
ことには大変熱心だった。 「田沼時代が続いていれば」
田沼政治は、これまでの幕政とは異なる、気宇壮大な政策を次々と打ち出し
ていった。ただ国家の富を蓄積するために、貿易や産業を重視する経済思想
や経済政策である重商主義をとったことは、倫理観の転換にもつながり武士
ならず庶民からも、心理的な反発が起った。
天明3年(1783)、浅間山が大噴火して、噴煙による日照不足や長雨で東北地
方が大凶作となる。その最中の翌天明4年、意次の嫡男で若年寄の意知が、
旗本の佐野政言に刺殺される。跡継ぎを失った意次の権力は弱体化するが、
それでも二年間地位を保ち続けた。
ところが、不運は続くもので天明6年、後ろ盾の将軍家治が死去する。
そこで老中を免ぜられ、さら
に天明7年(1787)5月に起きた大規模な打ち壊しだった。大凶作による物価
の高騰で大坂の貧民が、米屋や商家を襲撃、さらに打ち壊しは江戸や長崎な
ど諸都市へ連鎖した。
この混乱の責任を負うかたちで田沼派は一掃され、松平定信が老中首座にの
ぼり、幕政を掌握した。同年、意次は、2万7千石を没収されて隠居・謹慎
を命じられ、孫の意明に一万石が与えられた。
バネだけになってしまったバネ秤 筒井祥文 ともあれ5万7千石がわずか1万石になってしまったので、田沼家では家臣の
大量の召し放ちを余儀なくされた。ただ田沼家に仕えていたということで、
「此の浪人ども、他家へ抱える人一向になし、定て難儀に及ばんと思う処に、
主人(意次)より銘銘に過分に配金して、路頭に立たざる様に労はられける
とぞ」(『翁草』)とあるように、
大減俸になったにもかかわらず、意次は家臣たちの行く末を憐れんで、惜しげ
もなく旧臣に私財を分与したのである。
さらに、藩の組織を大幅に改編することになったが、それにあたって意次は、
家老と用人を、家臣たちによる選挙で選ばせている。
そして天明8年意次は、70歳の生涯を閉じる。
田沼時代は終わりを告げたが、そのまま商業重視政策や対外開放政策を続け
ていたなら、我が国は欧米列強と時を同じくして産業革命を達成し、もっと
早く資本主義国家になっていたかもしれない。
笑い飛ばすことに決めたよホウセンカ 服部文子 印旛沼の工事
大洪水のため完成ま近にして断念した印旛沼の干拓工事。
「意次の遺言」 田沼が失脚後、将軍に送った手紙。
「老中職にあるときはひたすら天下のためと、粉骨砕身努めてまいりました。
私が少しも偽りを行わなかったことだけば、伝えたいのです」 将軍のため、幕府のために尽くした人生。最も清廉潔白な男は、彼だったの
かもしれません。定信は田沼失脚後、老中となり江戸で寛政の改革を実行し
ます。飢饉にそなえ、農業重視の政治で町人文化を取り締まり始めました。
世に言う〔倹約令〕です。
しかし、江戸ではすでに広く貨幣経済が浸透していました。
「なぜわからぬ!全ては、のさばる商人をこらしめ、武士が権威を取り戻す
ためなのに」
定信の政治は、民を苦しませ結局、11代将軍斉昭に失脚させられます。
タイプの違う二人の改革者。
…ふたりは、今の日本をどうみているのでしょうか 『意次と定信 童門冬二ゟ』 江戸か火星か棺の中で思案中 桑名千華子
「べらぼう32話 あらすじちょいかみ」 (新之助の儀)
御三家は新たな老中に定信(井上祐貴)を推挙する意見書を出すが、田沼派
の水野忠友(小松和重)や松平康福(相島一之)は、謹慎を続ける意次(渡
辺謙)の復帰に奔走し、意次は再び登城を許される…。
そんな中蔦重(横浜流星)は、新之助(井之脇海)を訪ねると、救い米が出
たことを知る。蔦重は、意次の対策が功を奏したからだと言うが、長屋の住
民たちから、田沼時代に利を得た自分への怒りや反発の声を、浴びせられて
しまう。
ぶち切れた輪ゴムがあらぬ方へ飛ぶ 両川無限
江戸市中では米の値が跳ね上がり、奉行所には怒れる群衆が押し寄せていた。
そこには新之助や長七の姿も。そんな中大坂で打ちこわしが始まったという
報せが入り、事態はさらに緊迫。定信に対し、意次は奥州からの米回送を懇
願するが、定信は、「見返りは不要」と断言。
「米を出すことが、徳川の威信を保つ手段であり、自分の出世と引き換えに
するつもりはない」きっぱり言い放ちました。
重三郎は、読売を使ってお上の策を伝え、混乱を鎮めようとしますが、本屋
仲間からは「お上の広報などやっていられない」と冷たい反応。
それでも重三郎は諦めず、打ち壊しの準備を進める新之助のもとを再び訪れ
ます。
「この布に、思いの丈をぶつけてほしい」と白い木綿を差し出し、重三郎は
「暴れるより何に怒っているかをしっかり伝えましょう」
と訴える。そして
「俺のわがままを一つ、誰も捕まらず死なないこと。それだけが望みです」
と頭を下げました。その真摯な姿に新之助は心を動かされ、重三郎の布に筆 をとります。
「たすけて~」と干ぴょうは叫べない 岩田多佳
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