忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[1202] [1201] [1200] [1199] [1198] [1197] [1196]
言いたくは無いがと言って言い募る  渋川渓舟






   定信が将軍家斉に拝謁する場面を描く

「将軍家心得十五か条」を献上、定信の家紋「梅鉢」が見える。




「江戸のニュース」 
松平定信が、将軍補佐となる 天明八年三月四日
前年、三十歳の若さで老中首座となっていた陸奥白河藩主の松平定信が、将軍
家斉が年少(十六歳)であるとの理由で、将軍補佐役も兼ねることになった。
これにより、松平定信は、幕府の大権を掌握したのだが、ここに至るまでは、
それまでの実力者であり田沼意次を中心とするグループとの暗闘があった。
松平定信は、一橋家の一橋治済や御三家の後押し、そして続発する天明の打ち
壊しなどの世情不安を背景にして、その暗闘に勝利したわけである。
定信は将軍補佐となるや、三月二十八日老中水野忠友、四月三日に同じく老中
松平康福を解任。ともに田沼派の面々で、これに代って定信派の松平信明を
はじめとする四名を老中とした。こうして田沼色を一掃し、寛政改革に取り組
んだ。定信は五月に入ると京に上り、大坂まで足を伸ばして儒者の中井竹山
招いて経世作の講義を受けた。
その影響から定信なりの大政委任論(天皇ー将軍ー諸大名は、委任関係にある
との考え)を構築。十月に、将軍家斉に「将軍家心得十五か条」を献上した。
定信の新政権の権威付けを考えたものだったとされている。




幸せのシャワーを浴びる花の下  髙橋兎さ子




蔦屋重三郎ー松平定信






          松平定信肖像





「松平定信とは」
松平定信は、御三卿田安家・田安宗武の七男として誕生した。
宗武の7人の息子のなかで長男から4男までが夭折。残された3人のうち1人
は養子に出されていたので、5男の治察(はるあき)が父の死後、田安家を継
いだ。田安宗武は、父である八代将軍・吉宗に似て、文武に優れた人物だった
ので、宗武を九代将軍にと推す声もあったが、叶わなかった。
田安家とは、家康が定めた一橋家、清水家と合わせて御三卿一つである。



枕カバーじゃぶじゃぶ夢が消えました  和田洋子






78年ぶりに発見された松平定信作「紅梅叭々鳥」(桑名市博物館提供)

松平定信は絵画のほかいろいろな方面に才能を発揮した。
逆にいえば政治の世界に手を染めたことは彼にとってマイナスであった。
幕閣を辞して、隠居の身になって多才な趣味を謳歌したのであるから。



定信は17歳の時、田安家を継いだ兄の治察が、この年の7月病にかかり翌月に
22歳の若さで亡くなってしまう。治察には後嗣がいなかったので、田安家は
松平白河藩へ養子に出されていた定信を、戻したいと交渉はしたが、幕府は認
めなかった。定信が、松平定邦へ養子に出されることになったのも、田安家の
相続を拒絶したのも、田沼意次の裏の動きがあったものと言われている。
意次は成り上がりの自分とは違って、門閥出身で優秀な定信が将軍になること
を恐れていたのかもしれない。真相は定かではないが、定信は意次によって、
将軍への道を阻まれたことになる。



理由まで知らぬ体重計の針  安倍俊八




実家の田安家へ戻れなかった定信は、天明3 (1783) 年10月に26歳で松平家
の家督を継ぐことになった。ちょうど深刻な飢饉として知られる「天明の大飢
饉」の最中だったが、定信は、手腕を発揮した。
家臣や領民に質素倹約を徹底させるだけでなく、自らも贅沢を禁じ「救い米や
塩、味噌の支給」など飢饉対策を講じた。また、農民に「荒地の開墾」による
作物の増産を命じるなどして難局を乗り切り、名君としての評価を得た。
こうした功績を評価されて、十一代将軍・家斉の時代に、将軍の補佐役として
老中首座に就任。天明8年 (1788) 3月4日に老中首座となり、「寛政の改革」
を主導することになる。




ときめいた場面でちゃんと涙出る  古賀由美子






        「近世職人尽絵詞 茶屋之図」

江戸で暮らすさまざまな職業の人々を、鍬形蕙斎が3巻に描いたもの。
蕙斎は畳職人の子で北尾重政に浮世絵を学び北尾政美と号した。
幕府老中を勤めた松平定信が発案したとされ、上巻に大田南畝、中巻に
朋誠堂喜三二、下巻に山東京伝が詞を加えている。


「定信 意趣返しのはじまり」



「江戸の臨時ニュース」
十代将軍家治が死去する。天明六年八月二十五日
この年八月の初め頃から、全身に水腫(むくみ)の症状を見せていた将軍家治
の容態が、九月に入って急速に悪化。六日に危篤状態となりこの日に死去した。
享年五十。家治が九代家重から将軍位を継いだのが宝暦十年だから、二十六年
間将軍位にあったことになる。
この間の家治自身の政治実績として挙げられるものは何もない。しかしそれは、
在位の前半を松平武元に、後半を田沼意次にと、二人の老中に任せていたこと
によるもので、人材をよく用いたという考えに立てば、評価されても良い将軍
だったといえるかもしれない。




一番の褒め言葉です地味な人  山下由美子




「ところで、この家治の死だが、現在でもいくつかの点が謎に包まれている」
まず死去した日だが、これがはっきりしない。
公式記録の『徳川実記』では九月八日となっているが、最も信頼していた老中
田沼意次「辞職願」を出したのが、八月二十六日、罷免されたのが翌二十
七日であった。そして九月七日に大名・旗本らに対して、総出仕するよう触れ
が出ていることを考えれば、公式記録の九月八日以前に死んでいたのではない
かとの疑いが出てくる。
「次いで死因だが水腫で急激に容態が変化するとは考えにくい」
この点から、田沼意次の推薦していた医師が、毒を盛ったとの説もあるが意次
が自分の重用してくれている家治に毒を盛るとすることには無理がある。
そうすると、幕府内にあって次期将軍に取り入ろうとする反田沼勢力によるも
のかとの憶測が飛び交った。




堂々めぐり出口探している焦り  原 洋志




定信は、天明5(1785)年に意次に近づき、溜間詰(たまりのまづめ)に準ず
る扱いとなる。白河藩にとって破格の処遇である。が、意次蹴落とし糾弾を考
える定信にとっては、これは「意趣返しの始まり」でしかない。
前年に息子の田沼意知を刃傷事件で失った意次のダメージは大きく、求心力の
低下は防ぎようもない状態だった。
財源確保のために打ち出した改革も失敗し、意次の政治的責任を問う声が幕府
内から出るようになっていた。
そして天明6(1786)年8月に、頼みの綱の将軍・家治が病に倒れて生涯を閉
じると、老中辞職を余儀なくされた。意次の失脚を受けて御三家は、定信を老
中へと推挙をするが、この時は、反対派により頓挫した。
(溜間詰=将軍や老中と政治的な相談をすることもある立場)




尻尾ふり含み笑いをしてる猫  宇治田志寿子






職務に励む定信 改革の成果の報告を受けているところか




家治の死を受けて、天明7(1787)年4月に世子の家斉が将軍の座につくこと
になると、まだ14歳という幼い年齢だったこともあって、老中を誰にするの
か激しい政争が繰り広げらた。
時を同じくして、米価高騰が改善しない事態に苛立った民衆によって、米問屋
の居宅や蔵が打ちこわされる騒動が勃発。打ちこわしによる市中の混乱を知ら
されていなかった家斉は激怒して、定信の老中起用を反対していた御側御用取
次の家臣を罷免。これによって幕府は一転して、定信の老中起用を受け入れ、
その首座をつとめることになった。




風下にいるからわかる腐敗臭  正岡鏡花




天明7年に30歳の若さで念願の老中首座となった定信は、「米価の安定」
「社会の引き締め」を決意、改革を進めていく。定信は、尊敬していた祖父・
吉宗にならって、質素倹約に努めるとともに、幕府の歳出にも目を光らせ、
今まで誰も口出しできなかった大奥の経費も、3分の1に減らすという徹底ぶ
り。自らが模範となるように、江戸城に初登城した時には、木綿と麻の質素な
礼服を身につけたという。




句読点をうつ僕の言葉にするために  前田一石




ほかには、社会政策として寛政元 (1789) 年、「棄捐令」を出して、札差など
の金融業者に借金を重ねて困っている旗本・御家人を救うことにも着手。
また寛政2 (1790) 年、隅田川河口の石川島に「人足寄場を設置」し無宿人や
刑期を終えた者などの自立を支援するために、技術を学ばせもした。
さらに定信の「改革」は、高価な菓子の製造は中止、女性の衣類も豪華な織物
や染物は禁止と、民衆の日常生活にまで立ち入って規制を行った。
当初は、若い老中の登場を歓迎していた世間も、次第に息苦しさを感じ始め、
「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌が詠ま
れる始末だった。




見た目ほどやさしくはないトリカブト   新家完司






黄表紙『江戸生艶気樺焼』に向き合う京伝


北尾政演役・古川雄大さんが演じた『江戸生艶気樺焼』の主人公の艶二郎



田沼時代の自由な風潮の中で流行した、遊郭を小説の主題とした洒落本や多色
刷を用いた錦絵も、定信は取り締まりの対象とした。
黄表紙・狂歌本、そして浮世絵の出版にまで手を広げて、版元として成功した
蔦重は、民衆の不満を感じ取ると「黄表紙」で、改革を茶化す作品を発表し、
喝采を浴びることになるが、老中の定信としては、政治を批判する出版物を見
過ごすことはできない。定信は、そうした不満を無視し、信念を持って改革を
続けたが、武士から庶民にいたるまで、文化や思想までも統制するやり方に、
人々の不満は、政治を動かすまでにおおきくなっていく。




生まれつき嫌れ者と蛇が泣く  ふじのひろし




「べらぼう~30話あらすじ ちょいかみ」 (人まね歌麿 )





蔦重は狂歌師と絵師が協業した狂歌絵本を手掛けるため「人まね歌麿」と、
噂になり始めた歌磨を、今が売り時と判断する。





黄表紙の「江戸生艶気樺焼」が売れ、日本橋で蔦重(横浜流星)が営む耕書堂
は開店以来の大盛況となった。蔦重は、狂歌師と絵師が協業した「狂歌絵本」
を手掛けるため、〔人まね歌麿〕と噂になり始めた歌磨を、今が売り時と判断
し起用。その後、蔦重は、「歌麿ならではの絵を描いてほしい」と新たに依頼
するも歌麿は描き方に苦しむことに。
 一方御三卿の田安徳川家出身で、陸奥白河藩に養子に出されていた定信(井
上祐貴)は、同じく御三卿の治済(生田斗真)から、公儀の政に参画しないか
と誘いを受ける。
定信は一橋治済を訪れたが、自身の家格が低いこと、養母宝蓮院(花總まり)
の体調がすぐれないことを理由に、丁重に断りをいれた。
定信の生家・徳川田安家には、跡継ぎがいない。
もし宝連院が亡くなれば、家そのものが取り潰されてしまう可能性がある。
すると治済は、次の将軍となる倅・家斉の代になれば、必ず田安家を復活させ
ると約束。その言葉を聞いた定信は、決意を固め、公儀の政に身を投じること
を選んだ。




蘊蓄を並べて蕎麦を捏ね始め  萩原鹿声




蔦重は、やってみると答えた歌麿(染谷将太)に、須原屋所有の枕絵を借りて
きます。部屋にこもり、食事も取らずに枕絵に取り組む歌麿が心配な蔦重がの
ぞいてみると歌麿は、心の中の深い傷に苦しめられている。
蔦重は、夜中に荷物を抱えて出かけた歌麿の後をこっそりつけていくと…。
 同じ頃、幕臣にとって最高の席である江戸城溜場に老中たちとともに、顔を
並べた定信は、天敵・田沼意次に対して、質問を浴びせ続けています。
疲れ切った意次は、帰宅して三浦庄司に「武家の借金に対する考え」を聞きま
した。三浦庄司は、蔦重の「広く安く入銀を募って狂歌本を作る」システムを
説明します。




珍しく0時過ぎてもこない明日  小原由佳

拍手[2回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開