川柳的逍遥 人の世の一家言
梯子ですかいいえおぼろ昆布です 酒井かがり
「的中地本問屋」(あたりやしたじほんどんや)十返舎一九作画、 (享和2年(1802)版元・村田屋次郎兵衛)
この絵は、十返舎一九作の草紙が大人気、版元から品物を担いで向かう世利
が引っ張りだこになる場面。 (国立国会図書館デジタル化資料)
「本の流通」
本の流通は、物之本では、三都(京・大坂・江戸)に限られた本屋が握って
いたが、大衆本である草紙の類は零細だが全国にあった貸本屋たちが広めた。
物之本屋がじっくり本を作るのに対して、草紙屋は「生き馬の目を抜く」
勢いがあったが、悪く言うと「粗製乱造」でもある。
次から次へと目先を変えて新刊本を売った。
とくに合巻の時代になると、二冊セットの値段が百文を超えて(二、三千円
くらい)、庶民が買うには高すぎる。そこで貸本屋が活躍した。
江戸だけでも、六百軒の貸本屋が記録されている。
多くは風呂敷包みを背負って、顧客の家に持ち込む行商である。
出版元もこの需要に左右され、人気のバロメーターにしていた。
さらに丁子屋兵兵衛などのように、貸本屋が自ら出版に乗り出した。
ナンバーディスプレイに山ほどのありがとう 井上恵津子
『屈伸一九作』(えいやっといっくがさく)
蔦重方に寄宿してドウサ引きした十返舎一九作、「本のできあがるまで」を
題材にした黄表紙である。
蔦屋重三郎ー本の出来上がるまで
十 返 舎 一 九 「本の出来上がるまで」
今日ではコンピューターの力に与かる本作りが一般的になりつつあるが、
その少し前は活字印刷が主流であった。江戸時代も初期においてはキリスト
教の宣教師による印刷技術の輸入と同時に、活字印刷が行われたものの、
木製の活字という制約は、コスト高と耐用性に欠けることから長続きせず、
これに代わって普及したのが「製版印刷」である。当時の製版とは、
一枚板に彫刻して印刷するものだった。
執 筆 依 頼 ・打 合 わ せ ① 草稿
作者が書いた下書きで、絵の指定や要望が指示される。
② 板下本
画工が絵組みを画き、空白部分に筆耕が本文や詞書(台詞)等を浄書する。
浄書が終わった段階で作者は、校合(校正)や書き改めをすることもある。
特に絵本読本などの場合では、この段階で注文も多い。
また自画の場合は、筆耕の浄書(清書)の具合をチェックするわけである。
※ 黄表紙の敵対物の祖とされる初代・南仙笑楚満人や丈阿・鼎峨などがこの
筆耕を業としていた人物で、後の合巻時代には、筆耕から作者に転じた人物も 少なくない。 七色を掴んでからの筆選び 近藤真奈
版下聖書・作成・彫り ③ 彫刻
板木に板下本を裏返しで貼り付けて板木を彫る。
訂正を加えられた板下本は、次に彫刻されるわけだが、当然、板木師の彫り
損じも予想されるため、板下本ができて直ぐに試し刷りが行われて、作者の
許へ届けられる。そこで作者の校合(校正)があり、部分的な訂正や手直し
は入木(埋木)で彫り直しを行なって修正される。
(これで④の印刷にとりかかるわけだが、②→④の前で、板下や校合刷りが
版元とを何度か往復することがあった)
帰宅する目玉がやっと元の位置 桑名千華子
印 刷 ④ 印刷
完成した板木に礬砂引(どうさひき)=和紙に墨が滲むのを防ぐ加工。
※ 式亭三馬の実父・菊池茂兵衛は、晴雲堂と号した板木師で、楚満人も板
木師を兼ねていたと伝えられる。
製版による本作りでは、この板木師の腕に委ねる比重は高かったといえよう。
輪転機に旬と嵐と代議士と 岩田多佳子
製 本 ⑤ 製本
5枚づつを袋綴じ(印刷された一枚紙を中央から二つ折りにて、一丁オモテ
と一丁ウラとする)にて表紙をかける。 ※ 印刷後の製本・販売過程は、本屋の仕事になるのだが、大阪から江戸へ下
った十返舎一九は、一時、蔦屋の食客になって、礬砂引(どうさびき)をして いたと伝わる。 ※ 礬砂引=印刷紙への滲み留め
製 本 ひとひねりふたひねりして鉤ホック 荒井慶子
販 売
⑥ 販売(店頭売り、行商、貸本屋へ) 前年の霜月頃より新作販売というから、歌舞伎の顔見世興行などと同じ11月
頃より、順次、新作草双紙が地本問屋の店先に並べられ、地方向けの田舎注
文も纏めて荷商いが担いで運んだものであろう。
行 商 (当時の地本問屋の店先風景の絵には、そうした荷商いする者の姿が描かれ ていることが多い。 言葉を流すと変温動物に 近藤真奈
「多満宇佐喜(たまうさき)」
深川芸者が貸本を読みかけにしている図。
さて読者の好評著しく伝わり、続編を望む意向が強いとなると、版元は早速
早速それに応えるべく二編、三篇に嗣作を作者に依頼する。
ここに、かの『道中膝栗毛』や『南総里見八犬伝』柳亭種彦の合巻『偐紫田
舎源氏』といった、あらゆるジャンルにおいて、十年以上も読者を確保しつ つ長編化した作品の出現する理由があったのである。 それが結果的に発行部数の増加となり、版元は、毎年のごとく続編と同時に 旧編を幾度も再編して利を得ていったのである。 身近なところにあります感嘆符 山本美枝
「人情本の祖・為永春水の絵」 自らも貸本屋営んでいた為永春水などは、殊にそうした読者の反応に敏感で あった。一時、二代目・南仙笑楚満人を名乗った春水は、筆耕を業としてい
たとも伝えられる。それ故に、「為永連」と呼ばれる人情本製作スタッフを
抱えて、婦女子の読者受けする作品を次々に世に送り出し、人情本を一つの
ジャンルに成長させて「人情本の祖」と自称するに至った。これなどは配給
システムの機能を最も有効に活用した例であり、現在におけるマンガ・劇画
の工房と本質的には同じことで、春水が早く先蹤(せんしょう)であったと
考えればよい。
創作を協同作業でするという、一見、相容れない行為踨が合体して文学作品を
産みだす仕掛けは、読者の反応を、逸早く伝える貸本屋の存在を抜きに語れな
いのである。
吹き出しはゆらりのことで点滅中 桑名千華子 PR |
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