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川柳的逍遥 人の世の一家言
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針金で縫いたいほどの心傷 伊藤良一




光秀に諫められ信長激怒

 

「詠史川柳」 明智光秀の連句と本能寺の変


 

戦国時代革新的にのし上がってきた織田信長のイメージは、
映画や歴史小説に描かれるように大胆不敵な異端児である。
だが実像は、違う。
自分より強いと思う相手には極端にへりくだった態度を見せている。
武田氏との例にとれば、信長は武田信玄に対して、贈り物をしたりして
ご機嫌をとったり、時に自分が信玄の臣下であるような手紙を送ったり
信玄の子・勝頼と自分の養女の縁組を進めたり、信玄の娘・松姫と長男
信忠の縁談を提案したりしている。
むろん彼が本心から相手を恐れていたわけではない。
相手の優越感を刺激して戦意を喪失させるための戦術であり、
自らが力をつけるまでの時間をそうして稼いでいたのである。

菜の花菜の花黄色の絵の具足りません 浅井ゆず

その一方で信長は身内に対しては、超合理的な組織を築いた。
出自にかかわらず実力を重んじ、有能な者をどんどん抜擢した。
農民出身の豊臣秀吉、浪人の明智光秀、忍者出身といわれる滝川一益に、
大きな領地と仕事を任された。
反面で信長は、使えない家臣には容赦がなかった。
石山本願寺との戦いが終結すると、すさまじいリストラを断行。
林通勝や佐久間信盛ら老臣を次々と追放していく。
その行き過ぎた信長の合理主義が、神経の細い明智光秀をして
「自分も追放されるのでは」と疑心をもたせるにつながっていく。

晩春の出口はみどり色螺旋  山本早苗


そして、天正10年6月2日、明智光秀による「本能寺の変」が起こる。
これより先、信長は丹波亀山の光秀に対し、毛利攻めの最中の秀吉への
応援を命じた。光秀は命に服し、亀山で軍勢を整え、山陽道に向かうと
みせて俄かに京に討ち入った。その数日前(5月27日)光秀は子息の
十兵衛光慶と家臣の東六郎衛行澄を従え、京都の愛宕山へ参詣に出た。
帰途、その愛宕山の山上で、連の会(明智光秀張行百韻)を催している。
それには、光秀ほか当代隋一の連歌師・里村紹巴(じょうは)一門・昌叱
(しょうしつ)兼如、心前、行祐(ぎょうゆう)宥源らが参加した。

欲が出て神のしっぽを踏んじゃった 岡田 淳


 

連歌のについて説明すると、平安末期、京の宮廷とその周辺で生れ発達。
一人が和歌の「上の句」(かみのく)を詠むと他の一人が下の句を詠み、
最後の「挙句」まで繋げて楽しむ遊びである。
順序として、先ず、「発句」で始まる。
発句は、挨拶の句とされ、通常はその会の主賓が詠む。 
連歌の宗匠・紹巴(じょうは)が発句についてルールを述べている。
「連歌の発句は、「切字」というものが入っておりませんと、発句とは
言えません。もし、切字が入っておりませんと、それは「平句」という
ことになり、まずいのであります。
また発句には、必ず「季語」が入っていなければならず、「無季」
発句と
いうものはありません。「俳諧」発句も、まったく同じです。
切字と季語を、必須の条件とします」 
即ち、発句はすべての起こりとして、
ここから変転、果てしない「連歌の世界」が始まるのである。

 

あざやかな切り口文体が透ける  荻野浩子




二番手は「脇」といい、発句に添えて詠み、座を用意する亭主が詠む。
「当季、体言止め」とする。
体言止めとは、句の最後を体言(名詞)で終えること。
そうすることで、余情・余韻が残るということ。
また「挙句の果て」「挙句」は、この連歌から生まれた言葉である。
三番手は「第三句」といい、相伴客又は、宗匠の次席にあたる者が詠む。
発句・脇句の次にくる17字の付句で、発句と同じ季語を入れること。
脇句からの場面を一転させ、多く「て」で止める。
「第三も脇の句程わなくとも、是も発句に遠からぬ時節をするべし。
発句、真名字留の時は、第三まな字留は、かしましき也」(長短抄)
第三句は転回をしなければならないルールがあり、前句には付けるが、
そのもうひとつ前の句からは離れる。
次の四番手の第四句は「軽み」「あしらい」を要求される。
これもルールである。では、どのようにあしらうか。
あしらうのにもかなりの芸能がいる。


 

虹になる真っ最中のアメフラシ 河村啓子



 

では、明智光秀が主催した「張行百韻」の歌をルールに合わせみる。
時は今  雨が下しる  五月哉  光秀
水上まさる  庭の夏山  行佑
花落る 池の流れを せきとめて  紹巴
発句に光秀は「時は今雨が下しる五月哉」と詠みあげ、
続いて脇が、「水上まさる庭の夏山」 と詠み。
そして第三句は花落る池の流れをせきとめて」と続いた。


光秀が美濃の土岐源氏であることは、席につく誰もが知っている。
光秀の華麗な「暗喩」に富む句は、土岐の世が来るということを「時」
ほのめかし、その時こそ「五月の雨」の季節であり、「雨は天」と掛け、
「しるは統べる」に重ねた。


脇を付けた愛宕西之坊威徳院住職の行佑「水上まさる庭の夏山」は、
光秀の真意を察し、鮮やかに毒を抜いた句になっている。
次の第三句では、脇から句境を一転せしめ「て留め」にする決まりがある。
そこで紹巴「花落る池の流れをせきとめて」と、光秀の世間に知られると
危険な句を、さらに無毒にする「て止め」にして句を詠んだのである。
この句会は光秀が「本能寺」へ決意を固めたあとの主催であった。


 

その話ふくらみすぎてカットせよ  畑 照代


 

4句目から挙句までを平句と呼ぶ。季語にはこだわらない。
次のように、続いた。
かせは霞を吹をくるくれ  宿源
松も猶かねのひひきや消ぬらん  昌叱
かたしく袖は有明の霜  心前
うら枯に成ぬる草の枕して  兼如
きヽなれにたる野辺の松虫   行燈

そして光秀は、百韻のうち15句を詠んでいる。
秋の色を花の春までうつしきて
尾上のあさけ夕くれの空
月は秋あきは寂中の夜半の空
おもいになかき夜はあけしかた
葛の葉の乱るヽ露や玉かつら
みたれふしたるあやめ菅原 
これらの句から、光秀の「信長打倒の執念」が、ひしひし伝わってくる。


 

ひと言が多くていつも蹴躓く 津田照子


 

ただこの連歌の会の催しは、光永の大失敗だったのではないか。
秀吉が「中国大返し」と称される尋常でない速度で備中高松城から上洛し、
同年6月13日の「山崎の戦い」で明智光秀を討った。
所要日数10日。距離200㌔。重装備の大軍団。この悪条件の中、
光秀のいる現場へ戻るのには、どのように計算をしても、無理がある。
秀吉が事前に光秀の計画を知っていないと不可能である。
 すなわち、この会の模様が何らかの形で外に漏れたのではないか、
連歌の会の日から考えてみれば、6日の追加準備ができるのである。
「秀吉は事前に(本能寺の変)は知っていた」という真しやかな噂が、
真実味を帯びてくる。


尻尾からぞろぞろ喋りだしそうだ 谷口 義



 

「詠史川柳」




   本能寺の変



 

≪明智光秀≫


 

三日咲く桔梗を散らす猿の知恵


 

光秀はせっかく信長を討ったものの、備中高松から急いで帰ってきた
羽柴秀吉軍に山崎の戦いで敗れ、近江坂本へ帰ろうとした途中の小栗栖
(おぐりす)で藪に隠れていた土民の槍に突かれ、結局、自刃する。
本能寺の変から10日余り「三日天下」と呼ばれる短いあいだだった。
桔梗は光秀の家紋。
猿(秀吉)の知恵が、たった三日だけ咲いた桔梗(光秀)を散らした。


 

小栗栖を通る時分に丹波色


 

丹波色は青い色。
敗走をして小栗栖を通る頃には、真っ青な顔色だっただろうという。
光秀の領国「丹波」をかけている。


 

藪からは棒よりひどい槍が出る
四日目は早い因果の巡りよう


 

主殺しの罪は重い。いづれ因果は巡って自分の身に降りかかろうが、
それにしても四日目とは、早いのではないか。


 

愚かさを自分探しの旅で知る  ふじのひろし


 

≪織田信長≫


本能寺寝耳に土岐の声がする
駒組みをせぬに王手は本能寺

 

「駒組み」は、将棋で駒の陣形を整えること。
普通の合戦なら陣形を整えて対戦になるが、わずかな手勢で本能寺に
いたところを襲われた信長は、まだ腕組みも出来ないうちに王手にされた
ようなものだと言うのである。


 

本能寺窮鼠かえってとんだ事

 

「本能寺の変」の諸説にはさまざまあるが、信長に冷遇された怨みが爆発
したとの説もある。その説に従って「窮鼠かえって猫を噛む」という状況に
なったため飛んだことをしたというのである。
光秀は「子年」であったという説も踏まえている。


 

十兵衛でよいにお目がね違いなり


 

光秀は信長の直臣として5万石を与えられて近江坂本に居城を持ち、
日向守の官職を得「惟任日向守光秀」(これとうひゅうがのかみ)とした。
信長も光秀をただの明智十兵衛としておけばよかったのに、
惟任日向守などに取り立てたものだから、力をつけて反逆に及んだのだ、
とんだ眼鏡違いになってしまったという。



 

馬の背の透けて遥かな旅終る  笠嶋恵美子

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