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川柳的逍遥 人の世の一家言
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煮くずれているが男爵芋である  福光二郎






      佐野善左衛門政言・江戸城中にて刃傷におよぶ




「江戸のニュース」
若年寄・田沼意知が殿中で刺される 天明四年三月二十四日
若年寄の田沼意知は、老中の田沼意次の長男で、三十六歳の働き盛りだった。
その意知が、殿中で刺された。事件は、この日の正午過ぎに起きている。
意知が、執務を終えて、御用部屋から新番所前の廊下を通って、桔梗の間に
さしかかったところ、控えていた一人の男が突然立ち上がり、
「申し上げます、申し上げます」
と低い声で言いながら、脇差を振りかざして肩口に斬りかかってきた。
たまらず意知は逃げたが、男は意知を追い、逃げきれず倒れた意知の股間を、
二突き三突きした。近くにいた大目付の松平忠郷らが、この異変に気づき男
を取り押さえた。男は旗本の佐野善左衛門。凶行の動機は、もとは紀伊徳川
家の鉄砲足軽の出の意次が、先祖を粉飾するために、佐野家の系図と七曜旗
を善左衛門から借りたにもかかわらず、何度督促しても返却しなかったから…
ということだった。
意知は、この傷がもとで四月二日に死亡。翌三日、善左衛門には、切腹が命
じられ、のち浅草の徳本寺に埋葬された。
この事件であるが、賄賂を取ってのし上がった田沼父子は、同情されずそれ
に鉄槌を下した善左衛門を「世直し大明神」として世間はもてはやした。
しかし、善左衛門がそのような決意に至る過程が何とも不自然なため、裏で
善左衛門を、そそのかしたり、けしかけたりした人物が、いたのではないか、
との説もある。




湿っています言いたいことも言えぬまま  竹内ゆみこ





  下野國田沼山城守田沼實秘録 田沼意知殿中殺傷事件の顚末書





蔦屋重三郎ー田沼意知城中で刺される




異例の出世を遂げた田沼意次の田沼家は、もともと佐野家の家来だった。
政言(まさこと)は、飛ぶ鳥をも落とす勢いの田沼家のおこぼれを、昔のよし
みで貰いたいと、思ったようだ。当時、田沼は、賄賂を貰って政治を動かして
いるとされていたから、政言も、田沼意次の息子で、若年寄の意知に金を渡し、
出世への道筋をつけてほしいと頼んだ。
しかし、政言は、相変わらず新番士のまま、石高も変わらない。なんどか問い
合わせてみたようだが、変わらない。
その上、佐野家の系図も、意次のところに行ったまま返ってこない。
そうした状況に耐えきれなくなった政言は、天明4年3月24日、江戸城内で
意知を斬りつけ、その傷が原因で、意知は翌日亡くなった。
江戸城内での刃傷沙汰というと、「赤穂事件」のきっかけとなった浅野内匠頭
吉良上野介に斬りつけた事件だけかと思われがちだが、江戸時代を通じて、
他にも数件起きている。




栴檀の高さだうっとおしい森だ  井上恵津子










早々と江戸のニュースが採りあげたように、天明4年(1784) 3月24日の正午
過ぎに事件が起こった。執務時間が終り、執務を行っていた御用部屋から下城
しようと城内の廊下を歩いていた若年寄の田沼意知は、中ノ間から桔梗の間へ
向かう廊下で新番士の佐野善左衛門政言に意知が斬りつけられた。
意知は、脇差を抜き防ごうとするが防ぎきれず、肩などを斬られ近くの桔梗の
間に逃げ込む。後にこの事件で処罰された者が21名であるため、これぐらい
の人数が、事件現場周辺にいたと考えられる。
最初に意知が刺された時点で、周りの者が佐野を取り押さえ、彼が医師による
適切な治療を受けられれば、亡くなることはなかっただろう。
しかし、桔梗の間で意知は倒れてしまい、股を刺された。
刺し傷は三寸五分から六分で骨に達し、この傷による出血多量が死因になった
と伝えられている。大目付の松平対馬守忠郷(ただくに)が佐野を取り押さえ、
目付の柳生主繕正が、佐野の手から脇差を落とした。
この事件から9日後の4月2日に意知は享年36歳で死亡。
翌日の4月3日に佐野が切腹させられた。





天啓が下りてつくつくほうし泣く  寺島洋子




「佐野の刃傷事件の記録に『徳川実記』はどう書いたか?」
『4月17日には、大目付と目付は、「佐野が狂信して犯行に及んだ」とし、
「同僚におかしな様子なら注意して観察し、場合により自宅で治療させるよう」
にという趣旨の触れを関係各所に出し、「佐野の狂信」とし、巷で流れる政治
テロ説を改めて否定した。
もっとも、佐野「ある幕府高官もしくは大名の指図で実行した」と自白したと
しても、公にすれば、黒幕である人物を処罰する必要が生じる。
これだけの事件なら、黒幕は切腹、黒幕が武家の当主であるなら、その武家は、
改易という厳しい処分を下すことになる。改易になった武家に仕える者は、浪人
になり、黒幕の武家の親戚も、連座という形で何らかの処分を下すことになる。
公にすれば、影響を受ける人物の数が多く、事件の影響を最小限に留めるため、
公にせずに「佐野の発狂」という個人の犯行して幕引きを図ったものである』
となる。




真に受けてしまった奴の口車  松浦英夫




「追而」
幕府の記録には、「意知が脇差で防いだ」と記載されている。
意知が逃げ回り一方的に刺され殺されたのでは、「武士としてあるまじき行為=
不覚をとる」ことである。武士は事件の被害者であっても、相手から逃亡し、
背後から斬られることは、「不覚」であり、事件被害者であっても御家断絶か
御役御免など厳しい処分が下されることもあった。
本当に彼が防いだかは定かではないが、体面上そういうことにしておかなければ、
彼の武士としての名誉が守られない。




辻褄の合わぬ話に夜が更ける  高野末次











「世直し大明神」
意知が斬られた翌日から米価が下がったこともあって、佐野「世直し大明神」
とあがめられたという。
『蜘蛛の糸巻』という随筆によると、佐野は「世直し大明神」とあがめられて、
香花を手向ける者も数多く見られたという。一方で、意知の葬列において石を
投げる者まで現れた。田沼父子の権勢への反感が、それほど強かったというこ
とだろう。町の狂歌師たちは、こぞってこの事件を題材に歌を詠んでいる。
 「剣先が田沼が肩へ辰のとし 天命四年やよいきみかな」
 「金とりて田沼るる身のにくさ故 命捨てても佐野みおしまん」
なお、この時の傷がもとで意知が亡くなったため、政言は4月3日、切腹を申し
付けられた。





 田沼意次・意知父子が系図の件で密談を交わす




べらぼう27話 あらすじちょいかみ 「願わくば花の下にて春死なん」




蔦重(横浜流星)は、吉原細見だけでなく挿絵入りの青本を作ろうと、鱗形屋
孫兵衛(片岡愛之助)と共にアイデアを考え、ネタ集めに奔走する。
そんな中、須原屋(里見浩太朗)から『節用集』の偽板が出回っていると聞き、
蔦重の中に、ある疑念が生じていた…。
一方、江戸城内では、松平武元(石坂浩二)が莫大な費用がかかる日光社参を
提案する。田沼意次(渡辺謙)は、予算の無駄遣いを理由に、徳川家治(眞島
秀和)に中止を訴える…。




窓枠で切りとるどこにもない景色  宮井いずみ




一方、江戸城内では、財政が持ち直したことを受け、老中首座・松平武元(石
坂浩二)が日光社参の復活を提案します。対して予算の無駄遣いを理由として
田沼意次(渡辺謙)は、将軍家治(眞島秀和)に中止を訴えます…。
さらに将軍になると考えられていた嫡男・徳川家基(奥智哉)も、日光社参を
望んでいると言い、家治は話をはぐらかしてしまいました。
その後、意次は、各家から届いた日光社参取りやめの嘆願書を示すも、家基が
<意次は、幕府を骨抜きにしようとする奸賊>とまで考えている事実を告げた。
家治は、ついに実施を決めてしまいます。





酸欠のまんま 角取れないまんま  中村幸彦




やむなく老中たちの前で、実施決定の旨を告げた意次
その話を聞いた武元は、暗に「成り上がりの田沼が、大名行列の作法を知って
いるのか」と揶揄。すると意次は、「高家・吉良のように指南してほしい」
軽口を叩きますが、その表情からは笑みが一瞬消えるのでした。





スパイスが効きすぎているいる一行詩  西田雅子






         佐野善左衛門政言 (矢野悠馬)


一方、そのころの田沼屋敷では。
意次の息子・意知が旗本の佐野善左衛門政言と名乗る男と面会することに。
意知の前で「ご覧いただきたいものが」と、家系図を広げた政言。
続けて「田沼家の祖先は、かつて佐野家の末端家臣であり、その家系図は
田沼家の由緒として好きに改ざんしてよい。
その代わりよい役職が欲しい」と意知に伝えると不気味な笑みを見せる。
しかし、江戸城で家柄を揶揄されてきたばかりの意次。
その話を聞いて、政言が持ってきた家系図を、そのまま庭の池へ放り投げる
と、意知に対して「由緒などいらん」と言い放つのでした。



すがりつく腕の力は持っている  吉川幸子

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