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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ゆっくりと生きよう菜の花のように 谷口 義




  江戸の釣り


「釣りは江戸の娯楽」「釣り船に乗れば社会的名誉は重要ではない」
一文を添え、東京湾品川沖のキス釣場から神奈川側にいたる詳細な釣場、
さお,針,おもり、などの釣り情報誌が刊行されるほど、江戸の中期に
なると釣りが娯楽として大流行した。(日本最初の釣りの本『何羨録』)

 

「詠史川柳」 江戸の景色ー② 釣り

 

魚を釣る。その歴史を遡れば、石器時代の遺跡から骨角器の釣針が見つ
かっていることから、約4万年前頃に始まったとされる。
長い間釣りは、楽しむためのものでなく、あくまで食べるための手段で
しかなかった。そして戦国時代になり、釣りは、漁師の職業となった。
職業となれば、権力者から勝手な税が課せられる。
関東地方に勢力を張った後北条氏は、国府津の船主・村野に毎月250
文分の魚を納めるように命じている。
(例えば、二尺五、六寸の鯛、一つ30文、一尺の鯛15文」との基準
を示し、鰹、鯵、鮑、鰯、イナダの一匹あたりの代金をも取決めている)
そして、この令状の最後には、「右、定め置くところ無沙汰せしむるに
ついては、船持頸(くび)を刎ねるべし」と、取り決め通り魚を納めな
かった場合、船主は斬首に処すとも記している。
これではとてもではないが、釣りは楽しいものではなかった。

「ぜえぜえ」と息が聞える申告書  ふじのひろし

楽しみとしての釣りが始まったのは、江戸時代になってからである。
大平の世となり、戦いに備えてぴりぴりしたり、他国まで長期間遠征す
ることもなくなった。心と時間にゆとりが生まれると、趣味に興じるの
は今も昔も変わらないようである。
今まで戦いに用いられていた技術が、釣りに転用されることもあった。
竿の制作には、竹を扱う弓師と矢師の技が影響を与え、鉄砲の玉は鉛の
錘になった。
紀元前の周の国の太公望は、軍師としてだけではなく、釣り人としても
知られている。仙台藩の伊達政宗「わきて釣りには他念なきものなり。
太公望、面白がりたるも、道理かな。…とりわけ釣りは没頭できる。
太公望も面白がるわけだ」と釣りの面白さを認めている。


風の門あけてください奔ります  吉松澄子


江戸で釣りが盛んになった要素のひとつに、江戸の地形があげられる。
房総半島と三浦半島に囲まれた江戸の内海は、外海に比べて格段に穏
やかだった。また、墨田川や中川の運ぶ土砂で大小の洲が発達し、多
くの魚介類を育んでいた。越後村上藩藩主・松平直矩(なおのり)が
万治2年(1659)9月、江戸湾沖に出て、ハゼ釣りを楽しんだと日記
に残している。これが日本最古の大規模な遊びの釣りの記録とされる。
やはりその穏やかな波を保つ地形のよさが遊び心をくすぐったのだろう。


大きな虹だ誰の企みだ  居谷真理子

 

釣りを趣味として楽しんだのは、初めはもっぱら武士であった。
非番の日に近場の池や川で釣り糸を垂れ、釣れた魚は煮たり焼いたり
甘露煮になり、有用な趣味であった。
徳川5代将軍綱吉により「生類憐れみの令」が施行されると、
「釣魚は武士の修練のうち」とされ黙認されていたが、その後の数度
の法改正により釣りは規制対象となり、違反者の処罰や釣り道具の販
売も禁止された。このような釣りを取り巻く環境は、綱吉が死去し、
宝永6年(1709年)に新井白石によって生類憐れみの令が廃止により
解禁されるまで続いた。

 

善人になった証しの尾骶骨 前川和朗


 
正式に釣りが解禁されたのは、八代将軍吉宗の享保期(1716-1736)で、
江戸湾は再び釣り人で賑わった。広大な湾内を西の方、武州品川洲崎一
番の棒杭。東の方、武州深川洲崎松棒杭と東西に二分して、春と秋に百
近くの釣り場に多くの釣りキチが、繰り出し釣り糸を垂れた。
江戸湾ではキスのほかにハゼ釣りも盛んで、『本朝食鑑』には、
「ハゼは江戸の芝口、浅草川、中川、小松川などに最も多い。……
江都の士民・好事家・遊び好きの者たちは、平船に竿さし、蓑笠を着け、
銘酒を載せ、竿を横たえ、糸を垂れ、競って相釣っている。これは江上
の閑涼、亡世の楽しみである」とある。
江戸湾は釣りキチにとって無上の楽園であり、釣りは最高の道楽になった。

 

雨宿り僕はカエルに化けました 井上恵津子

 

さらに江戸の太公望たちにとって愉悦だったのは、文化・文政(1804‐30)
以後、釣り道具が改良開発され、仲間で自慢しあうネタが増えたことだ
った。釣り道具専門店では江戸湾だけでなく、房総から相模、また渓流
ならばどこで何が釣れているかという「釣り情報」も得られ江戸の釣り
人口は増え続けた。

 

ねぇ・なんや四月の風はそっけない  桑原すヾ代



 
  佃島白魚網夜景

 

【知恵袋】 江戸前

「江戸前」とは江戸前面の海・川の意味でここで獲れる魚を江戸前産
として賞味したのに始まるという。
また江戸前という表現は、享保18年(1733)の雑排が最初といわれ、
このころから江戸前の海や川で獲れた「美味な魚の産地名」としてのみ
ならず、「名物意識が込められた表現」になり始めたという。
ところで、江戸前の魚といえば佃島の漁民から将軍家へ献上された冬
の白魚が有名であるが、享保末頃(1733-36)から鯛や平目以上に鰻や
鯵が江戸前産として珍重されるようになる。
さらに宝暦頃(1751-1764)になると、江戸前の鰻の蒲焼が評判となり、
江戸前の風を団扇で叩き出し
江戸前の息子ぬらりくらりする
と江戸川柳にあるように、江戸前とは「鰻を意味する」ようになった。
江戸前とはやがて江戸名物や江戸自慢を意味するほかに「江戸風」の意
味にも使われるようになった。
上方の「箱鮨」に対する酢飯にネタを載せて握った「江戸前寿司」は、
江戸前の魚を使った江戸風の、ひと手間かけた鮨の意味である。



ゆっくりと水車お米がぽくりぽく 前中知栄

 

「詠史川柳」 

 
呂尚と文王の邂逅

≪呂尚(太公望)≫

 


仕事を持たないニートの呂尚(太公望)は、釣りが大好きで、仕事より
も釣り、飯よりも釣り、というほどの釣り気狂いだった。釣りに出かけ
ては、家にも帰らない日々が、何度もあった。生活を顧みない呂尚に
愛想もつきはてた妻から、ある日、三行半を突き付けられ、別れる破目
になった。(この時、彼が語った言葉が、「覆水盆に還らず」である)


その日も呂尚は、西岐の渭水でやはり釣りをしていた。
そこに有能な人材を探し求めていた姫昌(のちの周の王)が通りがかり、

 

釣れますかなどと文王傍に寄り


姫昌も釣りが好きなので、ついつい釣りの話に。


妻をさり鯛を半ぶんつり上る 


話のついでに姫昌は、「周の国で働いてみないか」と声をかけた。
呂尚は「めんどくせぇ」と返答したが、少しは働かねばと考える矢先、
文王から「我が太公(周の祖)がんでいた賢人だ」とべた誉めされて、
その気になって士官が決めた。これが「太公望」の謂われになる。
上の句は、「鯛」の漢字の片側は「周」で、妻は去ったが、周を釣った
というのである。

 

すぐな針鯛を半ぶんつり上る
此はりでつれるものかと大げんか
釣た鯛直クな針ゆへ魚がおち


呂尚は暇にまかせて、真っすぐな針で釣り糸を垂らしたりもしていた。
それを見た姫昌も「真っ直ぐな針で魚が釣れるものか」と呂尚に喧嘩
口調になっただろうと川柳子は思ったのである。


 
釣竿をしまつて周の代をはしめ 

 

士官ののち呂尚は、周の国の軍師として、文王・武王を助けて殷を滅ぼし、
その功によって「斉」に封ぜられている。


よろこびをつつんで生きている人だ  居谷真理子

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