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川柳的逍遥 人の世の一家言
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その昔鱗であった髭を剃る  嶋沢喜八郎




 (各画像をクリックすると拡大します)
  髪結床屋の風景




「詠史川柳」 江戸の景色ー④ 髪結床

 


江戸時代の床屋(散髪屋)のことを「髪結床」といった。
男たちは髷を結い、月代といって前頭部から頭頂部まで剃り上げていた。
だから、10日もすれば月代の毛が伸び、髷も崩れてくる。
でも自分ではうまく剃ったり、髷を結べない。
みすぼらしいのも江戸っ子の肌になじまず、そんなわけで足繁く髪結床
に通ったのである。

 

散髪をすると必ず風邪をひく  西山春日子




  江戸の高札場

 

江戸における髪結床は、家康の関東入国の時、日本橋、常盤橋、筋違橋、
浅草橋、高輪大木戸、半蔵門外の「大高札場六ケ所」近くに出店したの
が始まりで、床屋たちが、「高札の番をするから店を開かせてほしい」
と願い出たのがきっかけだった。
高札場とは、江戸時代藩や幕府のおふれ書「高札」を立てた場所で、人の
往来が多く、ニュースを求める人が集まった。
大坂でも髪結床が高札の番役をするのは同様で、火事のときには、高札
を引っこ抜いて火から守ったとう話が残る。
高札は橋のたもとに立てられるので、はじめは髪結床の出店も必然的に
橋のたもとが多かったが、やがて各町に一つ生れ、幕末の頃には二千軒
も存在した。


漬物屋の隣に渋いモノクロ屋  くんじろう

 

髪結の代金は20文程度(現在の500円程)で営業時間は夜明けから
日没後2時間まで。午前10時頃がもっとも人が多かった。
屋号が大きく描かれた油障子を開けて中へ入ると、3尺の土間があり、
その先に板の間があり、客はここに腰掛けて散髪してもらう。
この奥は畳敷きの座敷になっていた。
ここが待合所なのだが、碁盤や将棋盤読み物や春画なども置かれ、
客たちの憩いの場、社交場になっていた。

 

この人とお茶を飲んでるミステリー  上山堅坊

 



 式亭三馬 浮世床

店内をちょっと覗いてみよう。
「欠伸をしたり、居眠りをする者。女郎からの手紙をこっそり詠む者。
煙草を吸ったり、歯を磨く者。まったくくつろいでいる。
さらには、昨日の遊郭の自慢をしたり、近所の人妻を品評したり、
心中の男女について語るなど猥談も花盛りで。芝居の出来不出来、
相撲の勝負など芸能話も聞こえてくる」(寺門静軒・『江戸繁盛記』)
このように髪結床は、まさに「話のたまり場」ともいえる社交場だった。
落語では、申し合わせもなく町内の若い衆が集まって、将棋をさしたり、
ときには酒を飲んだり、冗談を言い合ってふざけたり、適当に暇を潰し
ていたところのようにいわれている。なかには「無精床屋」というのも
あって、主人が無精で、汚らしくて、またそれが愛嬌になって遊びがて
らの客がくる。
そんな髪結床の風景を、戯作者・式亭三馬『柳髪新話浮世床』という
滑稽本に著している。次のような話が載っている。


聞き役をひたすら待っている仲間  森田律子

 

漢字にこり、片田舎から江戸に出てきて、読み書きを教えている孔糞
(こうふん)先生という人、浮世床へぶらりやってきた。
孔糞先生腰を掛け、壁に貼った寄席のビラをみて。
「ははあ竹本祖太夫(ちくほんそたゆう)鶴沢蟻鳳(かくたくぎほう)
さておつなことがあるのぉ、漢には買太夫などというものもあったが、
日本には珍しい。もっとも秦の始皇帝が松に太夫の官を与えたが、
竹に祖太夫の官をやったこともおぼえず、さてまた鶴沢とおいて蟻鳳と
対をとった心は、どういう意であろうな、これ主人、あの書いたものは、
なににするのだ」

「あれは座敷浄瑠璃さ、祖太夫、蟻鳳で夕べも三百ばかりはいった」
「うむ、おれは俗事にうといから、とんど解せぬ、今昔物語(こんせ
     きぶつご)となんだ朝寝房(ちょうしんぼう)夢羅久(むらきゅう)
     うーむ林屋正蔵(りんおくせいぞう)、はてな、風流八人芸(かぜに
     ながれはつじんげい)、ははあ、これは、いわゆる季氏(きし)が八
     佾(はついつ)の類いと見えるな、この季氏も魯国の太夫だて。
     佾は舞列なり、天子は八つ、諸侯は六つ、太夫は四つ、士は二つ、
     佾するごとに人数其、佾の数のごとし」

「もしもし、それは何の数でございます」
「これは八といって舞の数だ」
   あれは、そんな難しいものじゃあございません。
      八人芸といって、一人で八人の芸をする、めくらでさあ」
「はてな盲人ですら八人の業をするに、おれらは両の目を持っていて、
      ひとりの行いが務まらぬとは、はて残念」
「それ、ふたつ」
「あの、なにはどうかな、今という字の書いてあるのは」
「む、あれは今昔物語(いまむかしもんがたり)さ、朝寝房夢羅久、
林屋正蔵、こっちのほうが円生さ、どれも上手な噺家さ」
主人が「今昔物語」を、いまむかしものがたりと読むのも、
式亭三馬の落ちにしている。


一日に何度も炎上するアタマ  木口雅裕

 

こういう漢字にこった知ったかぶりをするような人たちのことは、
中国の「笑話本」から伝わって、「江戸小咄」にもなっている。
 ① 兄弟が喧嘩をしていると、隣の漢学先生が来て
「これ亀松殿も竹次郎殿も、さてさて悪いことじゃ、
      喧嘩はせぬもの、
兄弟は左右の手のごとし、とあるではないか」
「それなら、俺たちも手に違いないか」
「知れたこと、兄は右の手、弟は左の手とあります」
「兄貴が右の手、おれは左の手かえ」
「はてくどい、それにまちがいない」
弟「兄貴は下戸だが、おれは酒が好きだ」

 

ビの尻尾か深酒の報いか  酒井かがり

 

 ② 近所に物知り顔の者あるゆえ、亭主ども集まって
「なんと、あの物知りにこのヤカンをきいてみましょう」
 とヤカンを持って行って聞くと
「これは唐人のカブトである」
「へぇ、それならこの天狗の鼻のようなところはなんでござりますか」
「それは耳じゃ」
「とんだことを言う、耳なら両方にありそうなものだ」
「されば、両方にあると寝る時に不便であろう、そ
 れゆえ片方にはつけてない」

 

生麦に転生しない生卵  川合大祐

 

 ③ 腰の曲がった隠居、杖をついてぽくぽくと出てくる。
「もし、ご隠居さま、あなたの形は、とんと、杖をついて『乃』の字の
 ようでございます」 
と言えば

「おのれ、主人に向かって不届千万」と脇差に反りを打つと
「おっと、これでは『及』という字になります」

 

髭も髪も白優勢となるオセロ    村岡義博

 


【詠史川柳】




   
千 姫

 

≪徳川家康≫

 

1603年、家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開きました。
この年、家康は亡き太閤との約束を守り、孫の千姫秀頼に嫁がせてい
るので、この時点では、豊臣氏を滅ぼす気はなかったといえ、おそらく
西国の大名として存続させるつもりだった。
ところが豊臣方は、二代将軍・秀忠が秀頼に会うためわざわざ上洛し、
再三使者を送っても大坂城から出てこず無視しました。
家康が豊臣滅ぼすべしと思ったのは、この時でしょう。
家康は太閤殿下の霊を慰めるためにと、豊臣氏に盛んに寺院の建立など
を勧めました。財力を消費させる策です。老獪な家康の策に乗り、豊臣
氏は次々に寄進していきましたが、京都方広寺に奉納した梵鐘でケチが
つきまっした。鐘の銘文に「国家安康 君臣豊楽」とあり、これは家康
を切り離し、徳川を亡き者にし、豊臣の楽を願うものと、家康がいちゃ
もんをつけてきたのです。

 

国家安全と書かぬが落ち度也
あらの出る長口上は鐘の銘

 

これに「危い」と考えた秀頼の後見人の片桐且元は、弁明のため駿府に
行き、家康に面会を求めましたが、門前払い。
そこで片桐は豊臣家存続のため、秀頼が駿府に出向き、説明するように
必死に歎願しましたが、淀君と秀頼のもう一人の後見人大野修理は承知
せず、それどころか「ならば一戦交え、決着をつける」とまで主張して、
片桐を追放してしまいました。

 

卵焼きの匂いがする始発駅  神乃宇乃子

 

猿の子を犬が補佐する潰れ前
女賢しうして六文をただ遣い


猿の子は秀頼。犬は大野。六文は真田幸村。
追われた片桐は、居城の茨木に籠り。

 

蟄居してそうめんばかり食っている
片桐のためには茶々の局也




そうめんは茨木の名産。
その後、片桐は冬の陣で徳川方に参陣している。
茶々は優秀で真面目な部下を失い、軽率なことをしたと茶化される。

 

「そのはずじゃない」と言う間に堀を埋め
寅二体世に争いは止みし頃


大阪冬の陣。家康は大阪城を目掛けて大砲を打ち込んだものの、
大きな堀にはばまれて城まで届かず、家康は自分から和議を申し入れ、
条件に外堀を埋める約束をとりつけました。
 埋め立てられては、天下の堅城も丸裸。
家康は約束を反故にして、再度大阪城を攻撃します、夏の陣です。
城はひとたまりもなく焼け落ちてしまいました。
こんなこともあったおかげで、争いのない世の中になったいうのです。

 

裏切らぬ表舞台のピース缶  中村幸彦

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