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川柳的逍遥 人の世の一家言
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やんわりと包んでみたが地雷です たむらあきこ

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   桜山神社の招魂場

高杉晋作の発議で、明治維新の志士たちを祀るために築かれた。

吉田松陰から、無名の奇兵隊隊士まで、396柱の霊標が並ぶ。

師の松陰以外はみな同じ高さである。

(むかって松陰の左に久坂玄瑞、右に高杉晋作)

「長州とは・・・?」

長州藩領とは、いまの山口県に相当する。

真ん中に中国山脈が横たわり、平野部が少ない。

稲作も充分にできず、

米だけでは食べてゆけぬ長州藩は、

塩、紙、蝋といった特産品開発に、力を注いだ。

さらに、北前船(きたまえぶね)交易を、本州最西端の”馬関(下関)”で牛耳る。

麦畑明日の作戦立てている  杉山ひさゆき

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    現在の下関港

財政改革に成功し、幕末になると表高は、

36万9千石だが、実力は100万石以上と噂された。

欧米列強や日本全国を相手に、戦い抜き、

薩摩藩とともに、新時代のリーダーとなれたのは、

精神力はもちろんだが、

永年にわたり蓄積された、経済力があればこそなのだ。

銃や軍艦も、経済力がなくては手に入らない。

ひと蹴りでV字人気のオサムライ  ふじのひろし

長州藩は、人材育成に熱心だった。

萩の藩校・明倫館を核とし、藩内各地に郷校、私塾、寺子屋が設けられた。

吉田松陰という若き兵学者も、そうした教育熱の中から生れる。

欧米列強が、アジアを侵食していた時代、

松陰は、

「三千年続く日本の独立を、維持するために働きたい」

との志を立てた。

あとがきを先に読むのが私流  岩田明子

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   吉田松陰・村塾

外圧の実態を知ろうと考えた松陰は、

伊豆・下田からアメリカ密航を企てたが失敗。

”かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ大和魂”

と詠み、

萩に送り返された松陰は、”松下村塾”を主宰し、

主に下級武士の子弟たちを教えた。

ところが外圧に屈して開国した幕府を、激しく非難した松陰は、

『安政の大獄』に連座して江戸に送られ、

安政6年(1859)10月、30歳で処刑されてしまう。

今日の話題をおくやみ欄で探す  新家完司

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この松陰の死が、門下生の魂を、激しく揺さぶる。

その代表が、雷電・風雨にたとえられた「高杉晋作」だ。

晋作は、松陰門下の逸材として、若いころから期待された。

長州藩の大身の御曹司ではあるが、性格はかなり過激で奔放。

江戸で英国公使館焼き討ちを決行し、

”尊皇攘夷派”のなかでも、一目おかれる存在となる。

冷蔵庫の残りも食べに来てくれる  西美和子

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晋作は、藩命で中国・上海に渡航したおり、

アヘン戦争後、欧米列強の支配を受ける街を目撃し、

「日本も二の舞になる」 

と危機感を抱く。

そして農民や町人から、広く兵を公募して奇兵隊を組織。

そして”第二次長幕戦争”では、

海軍総督として、軍略の才を発揮し長州を勝利に導いた。

爬虫類ではないが近いと言うておく  井上恵津子

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  晋作の妻・マサ

「晋作を支えた女性」

第二次長州征伐での幕軍撃退を成し遂げ、

幕末の快男児として、自由人的な印象が強い晋作だが、

実は郷里に妻がいた。

名前はマサという。

マサは、長州藩の上位藩士・井上平右衛門の娘である。

また高杉家も戦国以来の名門藩士であり、家格の釣り合う結婚であった。

晋作の父とマサの父は、同世代の同僚、

この結婚は、親同士の話し合いで進められたようだ。

誤字のない求愛にためらっている  山本トラ夫

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晋作が描いたと言われる”おうの”の後姿。(東行のサインが右下に見える)      

晋作は自筆の履歴の中で、

「父母の命により、井上家の娘を娶る」

と書く以外に結婚について何も語らず、関心は薄かったらしい。

晋作の両親は、ハネッ返りの息子に所帯をもたせることで、

落ち着かせようと考えたのだった。

万延元年(1860)の結婚当時、晋作は22歳、マサは16歳である。

マサは、「萩城下一の美人」と称される美貌であり、

晋作は結婚1年後に、藩士としての出仕をスタート。

このままいけば、美男美女の若夫婦として、

つつましく生活を送っていけるはずだった。

夏の所為だと思う手も握らない  森田律子

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”西に行く西行、東に行く東行”        

だが時代は、晋作を放っておかない。

彼は結婚2年後に、藩命を受けて上海を視察し、

その後は、尊皇攘夷のために各地を奔走。

ほとんど実家に帰らず、結婚生活7年のうち、

妻とは1年半程度しか、一緒に生活しなかった。

寄りかかるのは椅子だけと決めている  八上桐子

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また晋作は、美人の妻がいるにもかかわらず、

洒落者で遊郭好きの男である。

元治2年(1865)に、

藩内クーデターを起こして俗論党を打倒した際には、

芸者たちに三味線を弾かせながら、藩庁に入城するほど、

彼は花街を愛した。

そして晋作といえば、芸妓・おうのとの愛が有名である。

正妻の家には、帰らなかった晋作だが、

おうのといると、心が安らいだようで、

時間の許す限り、近くにおいたという。

こんな世に極楽がある膝枕  菱木 誠

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晋作の墓、奥が東行庵ー(近くに、おうの・[谷梅處尼]が眠る)

長幕の戦に勝利した高杉晋作だが、肺結核が悪化。

馬関新地の庄屋林算九郎邸の離れで療養するも

慶応3年(1867)4月14日に没する。

享年29歳だった。

晋作は、この死の間際、

「吉田へ・・・・・」

と、うわごとを言ったという。

奇兵隊の本拠地・吉田郷のことと皆が思い、

遺体は、吉田の清水山に葬られた。

おうのと晋作、二人の出会いから、わずか4年で愛の終焉を迎えた。

≪晋作の死後、明治14年、おうのは剃髪、、谷梅處(たにばいしょ)」(梅処尼)と名乗り、

  明治42年8月7日 、67歳でこの世を去るまで、

  42年間、「東行庵」と名付けた庵で、生涯、晋作の菩提を弔った≫

  「谷」の姓は、晋作が晩年 藩主から授かった苗字で、晋作の死後、

  梅処尼に引き継がれた≫

無いはずのものがレントゲンに写る   井上一筒   

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『龍馬伝』・第39回-馬関の奇跡 あらすじ

慶応2年(1866)6月7日、ついに幕府と長州との戦が始まった。

総勢15万の幕府軍に対し、長州藩はわずか4000。

このまま手をこまねいていては、長州がやられる。

龍馬(福山雅治)は、苦悩の末、

亀山社中の面々とともに、長州側として参戦する覚悟を決めた。

ブーツ履きもう隅っこを歩けない  桑名知華子

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だが、兵力に圧倒的な差があったにもかかわらず、

戦況は互角。

中でも、高杉晋作(伊勢谷友介)が率いる騎兵隊の活躍は、

目覚しいものがあった。

農民や商人など、武士ではない者たちも混在する奇兵隊。

龍馬は、身分にとらわれることなく団結する彼らと交流し、

「こういう人たちのために、新しい世の中を築かねば」

と思いを新たにする。

船乗りの描く魚はみなでかい  石井華連

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そして、長州軍は社中の操船術をいかした奇襲作戦を敢行。

その結果、長州軍は大勝利を収める。

さらに将軍・家茂(中村隼人)も死去し、幕府は停戦する以外になかった。

長州では、これに乗じて幕府を武力で倒そうという機運が高まる。

一方弥太郎(香川照之)は、溝渕(ピエール瀧)を土佐商会に入れ、

長崎で商売を始めようとしていた。

あしたが見たくて地球儀を回す  森中惠美子

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