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川柳的逍遥 人の世の一家言
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温泉で男をやわらかくしよう  森中惠美子

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      高千穂の峰

日ごろから、霧島の温泉の効用を知っていた小松帯刀らの助言により、

龍馬とおりょう、寺田屋で負った傷の治療のため、霧島への旅に出る。

現在の人々が旅の前に、ガイドブックなどで訪問先を確認するように、

龍馬も『西遊記』などで、霧島に関する基礎知識を得ていたようである。

日当山(ひなたやま)や、塩浸(しおひたし)、硫黄島栄乃尾といった温泉を楽しみ、

犬飼滝高千穂峰などの大自然にも触れる旅は、

龍馬とおりょうに深い印象を残したことだろう。

ゆっくりとつかる温泉ふたりづれ  高畠陽子

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 高千穂頂上

「高千穂峰登山」

龍馬とお龍は、小松帯刀から「弁当のかわりに」と、

渡されたカステラを持参して、高千穂の峰を登った。

頂上で二人は、抜くと火を噴くとも伝えられていた”天の逆鉾”を、

「エイヤ!」 と引き抜いたという。

また登山途中には、美しい霧島ツツジ(ミヤマキリシマ)の咲き方に感動したり、

御鉢の火口を、興味深く眺めたりしたと言われている。

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坂本龍馬が故郷の姉に宛てた手紙の中では、

登山の様子を図入りで綴っている。

若ぶって筋肉痛に泣いている  森 廣子

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「霧島神社」

6世紀の中頃、慶胤という僧が、霧島山に建立したのが始まりとされ、

その後、霧島山の噴火などによって、焼失が繰り返されたが、

現在国指定の”重要文化財”に指定されている壮麗なつくりの社殿は、

正徳5(1715)年に島津吉貴によって、寄進されたものである。

その本殿では”ニニギノミコト”以下、7柱が祀られている。

歴代藩主の崇敬は篤く、

島津斉彬も嘉永6(1853)年、巡検の際に参拝している。

半畳もあればわたくしを置ける  たむらあきこ

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「塩浸(しおひたし)温泉」

龍馬とおりょうが霧島の旅のなかで、

一番逗留した地がここである。

合計18日間の滞在は、この温泉の効用と無関係ではなさそうだ。

江戸後期に記された地誌である「三国名勝図会」には、

「刀や斧による傷になどに薬効がある」

と記されており、

左手に傷を負った龍馬には、打って付けの泉質といえるかもしれない。

現在は使われていないが、

この時に龍馬夫妻が入浴したとされる湯舟が、

脇の川沿いに今も残されている。

釣ったサカナに餌をやってる惚れてるな  有田一央

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「花林寺跡」

霧島神宮(西御在所霧島六所権現)の別当寺で、

”霧島山錫杖院”と号する真言宗の寺。

その歴史は古く、霧島山の火山活動によって、焼失する時期もあったが、

文明16(1484)年に島津忠昌によって、再建されている。

その規模は大きく、支坊も天保年間には、6坊あったという。

そのひとつに坂本龍馬は、一泊している。

また島津斉彬も、支坊の華蔵院に立ち寄り、

霧島六所権現に参詣している。

現在は当時を偲ばせるものとして、

支坊の石垣や累代住職の墓などが点在している。

思い出をつまむ前田のクラッカー  本多洋子

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     犬飼滝

「和気神社」

坂本龍馬が、この地域を訪れたときには、まだ神社は祭られていなかった。

和気神社の成立は、

この地が和気清麻呂公にゆかりのある地であるとして、

昭和12年に、和気祠堂が建立されたことに始まる。

そして終戦後にあたる昭和21年に、鎮座祭が行なわれ現在に至る。

和気清麻呂は、神護景雲3(769)年の宇佐八幡宮神託事件によって、

当時の権力者である道鏡によって、大隈国に配流されたが、

後に中央政界に復帰し活躍した人物である。

あの日とこの日を糸電話で繋ぐ  岩田多佳子

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  高千穂を望む日当山

「日当山温泉」

特に西郷隆盛のお気に入りだった日当山温泉へ、

龍馬とお龍は、行きと帰りの両方で滞在している。

つまり3月16日と4月8日である。

ほぼ同時期には、西郷隆盛も湯治に訪れていることが、

大久保利通の記録で確認されていて、

この地の浴場での、ふたりの語らいが想像される。

ちなみに西郷は、明治維新後は頻繁に滞在しており、

釣りやうさぎ狩りなどを、楽しんでいたようである。

老眼鏡かけて混浴してる  山本真照

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浜乃市の湊

「浜之市」

古くから湊として栄え、戦国期には島津義久が、付近の富隈を居城にした。

それは、湊を重要視してのことと考えられる。

特に藩政時代には、鹿児島城下から日向方面へと向かう、

道筋に位置する湊として利用され、

坂本龍馬らも、鹿児島城下を船で出発し、ここに降り立ち、

帰りもここから船を利用して、

鹿児島城下へ向かっている。

明治以降も浜之市は、姶良(あいら)郡部の重要港として、

機帆船も就航していた。

現在は、鉄道の開通や道路設備によって、

漁港としての役割が強くなっている。

夫を背負い三段跳びができる  井上一筒

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     栄乃尾温泉

【余談-1】

さて、新婚旅行の第一号は、

坂本龍馬が妻おりょうと塩浸温泉に行った、慶応2年(1866)とされて来たが、

「薩摩藩家老・小松帯刀のほうが10年早かった」

と鹿児島の郷土史家が紹介した。

帯刀は結婚直後の安政3年(1856)に妻・お近と、

高千穂の栄之尾温泉に行き、

12日間滞在したと日記に記述。

龍馬と親しかった帯刀が後に、勧めたのではないかと推察している。

あれも道これも道標識は僕  壷内半酔

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【余談ー2】

『「幕末の京都で起きた”寺田屋騒動”」の旅館・「寺田屋」は、
 
騒動後の1868年に起きた、鳥羽伏見の戦いで焼失したと考えるのが妥当。

いわゆる、偽装があったものと判断した』

と京都市が発表した。

2008年9月のことである。

心にも欠片見つけた刺してみた  松宮きらり

この発表に対して、複雑な残念感が残る。

偽ものであった”残念感”と、嘘も方便的な情が無かったことの”残念感”。

決して嘘は良くない事だけど、それを見た人間にとって、

また龍馬の一フアンとして、

ファンタジックなロマンは、残しておいてほしかったなと・・・

こんなに大袈裟にしなくても、「良かったのではないか」と思うのである。

もともと歴史なんて、ほとんどが仮説の上に、出来上がっているものなのだから・・・。

≪しかし、この余談二つも余計なお世話か・・・ ( iдi ) ハウー

棺桶に釘を打たれて目が覚めた  上原昭彦

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