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川柳的逍遥 人の世の一家言
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前略とサヨナラの隙間の重要案件  山口ろっぱ
 

 
      町方役人の夜回り


奉行所に属した同心と密接な関係を持ちながら、自治組織による町方役
人も町廻りを行った。中央の少し右ー提灯を提げている町方役人、右上ー
男を誘う夜鷹、左下ー蕎麦屋が描かれている。(近世職人尽絵詞     鍬形蕙斎画)


隠し立てできぬ闇夜のホタルイカ  銭谷まさひろ
 



 江戸の捕物に描かれた同心ー①
石川五右衛門を捕えようとする芝居絵に描かれた同心で、文久元年頃の
風俗を伝える。同心は十手を咥えて捕り縄を持つ。(歌川国明『増補双級巴』)




「江戸の定町廻り同心」



江戸の町奉行所は今日の裁判所であり、警視庁・東京消防庁を含む東京

都庁に相当する。吟味筋(刑事)双方の事件を南北奉行所月番制で扱っ
ている。奉行所の廻り方(外勤)同心は与力の下役で、禄米三十俵二人
扶持の待遇の低い待遇のもと、定町廻り、隠密廻り、臨時廻りの三廻り
に配属されていた。与力・同心は、拝領地八丁堀に住んでいたことから、
「八丁堀の旦那」と呼ばれた。
町廻りは、町奉行支配地である江戸御府内を、芝筋、本郷筋、麹町筋を
中心に定員12人(南北で24人)の少数同心が、昼夜に分かれて巡回
した。寛文2年(1667)5月、新開地の本所・深川筋が町奉行の管轄に加
えられて以来、それを「定町廻り」と呼ぶようになった。


心音を数えて一日が終わる  合田留美子




 
江戸の捕物に描かれた捕り方ー②

 五右衛門に与力が刀の鍔に手をかけ捕り手が投げ飛ばされている


 
その役目は、当初は浪人の辻斬りへの警戒、明暦3年(1657/1月18日~
20日)の明暦大火後には、火気取締りに重点が置かれるようになったが、
享保6年(1721)からは博奕・市中風聞虚説や奢侈風俗取締りに重点が移
されている。ともかく、江戸100万人と言われた大都市をたった24
人で犯罪防止に務めるのである。


お互いが入れた切り取り線でした  有海静枝


「定町廻り」と改称されたように、同心たちは昼は四ツ(朝ー10時)夜
は暮六ツ(夜ー6時)の定刻より、自身番屋伝いに巡回して、事件の有無
を問うたり、留置のと科人については、事犯によって大番屋送りの指示
をおこなったりした。定廻りは、夫々の町奉行の下で、担当地区を巡回
し、お上が出した法令が守られているか、如何わしいことはないかなど
を監視し、犯罪が発生すれば取り締まる。犯罪捜査よりもパトロールの
意味が強かった。


青空を破いてグイと鼻をかむ  菊池 京



江戸の捕物に描かれた捕り手と五右衛門ー③

五右衛門は食らいつく捕り手たちを千切っては投げ千切っては投げる。

 
廻る地域は広域であるため「足早に背中にひびを切らして歩いた」と言
い伝えられ「竜文の裏の付いた三ツ紋付の黒羽織(夏には紗か絽)暑い
時分には「菅の一文字菅」「背に十手を差す」という。髪型は「八丁堀
銀杏」という独特のスタイル。通常、腰に木刀を差す供(小者)を一人
連れ、さらに後に二人の岡っ引きを付けている。この姿が、力士や役者
と並んで「八丁堀の旦那」と町方からもてはやされたものである。


罪と罰烈しく掻き混ぜてパフェ  酒井かがり


因みに、与力と同心とでは、十手の差し方が違う。
刀と揃えて腹の前に刺すのが与力で、腰の後ろに隠して差すのが同心。
その根拠は定かではないが、現場を動き回る同心としては、町に溶け、
身分を悟られるのがまずかったのかも知れない。また与力には、訴訟
を処理する権限があり、ほとんどの事件は、与力の処理を町奉行が白
洲で追認していたが、同心の職務は捜査、逮捕、取り調べまでだった。


二者択一に割り込む粒あんトースト  山本早苗


いわゆる与力は検察・裁判官。同心は、大岡越前守や必殺仕事人のドラ
マを見ての通り、定廻りがメインの仕事で、現場検証をし岡っ引きを情
報屋に雇い、下手人を捕縛し、番屋で取り調べもするが、取り調べで容
疑が固まった段階で、与力に犯人を引き渡す。
そこから先は権限外となる。
与力との関係は職務上はっきりと上下の関係にあり、同心が与力に昇格
することは、極めて稀である。


草間弥生で隠す心の破れ  合田留美子



         捕り縄の極意書


与力を長としない奉行直結の同心の掛りがあった。
「遠山の金さん」のお白州の場面などを見ても、なるほどと分る通り、
用部屋手付、隠密廻り、定町廻り、臨時廻り、下馬廻り、門前廻り、御
出座御帳掛り、定触役、引纏役、定中役、両御組姓名掛がある。
また「隠密廻り、定町廻り、臨時廻り」「三廻り」という。
同心の役格は、年寄役、増年寄役、年」寄並、書物役、物書役格、添物書
役、添物書役格、本勤、本勤並、見習、無足見習の11に分かれている。


真実を前に節穴が並ぶ  居谷真理子


「定町廻同心」
 同心の花形といわれ、法令の施行を視察し、非違を監査し、犯罪の捜査、
逮捕をする役で、現在のパトロール警官である。これが映画、小説で同
じみの「定町廻同心」であるが、その定員は一町奉行所にわずかに6名
である。南、北町奉行所で12名。臨時廻同心も同数であるから合わせ
て24名、これで江戸府内を巡回して治安に勤めたのであるから驚異的
である。この12名がそれぞれの受持区域をもって、常時廻っているが、
つい手が足りないから岡ッ引・下ッ引が動員されるようになるのである。


新しいナビには古地図古代文字  くんじろう


「臨時廻同心」
定町廻同心の予備隊のような存在であるが、その職務は全く同じであり、
定員は一組6人、両町奉行所で12人である。れは定町廻同心を永年勤
めた者がなり、定町廻同心の指導、相談に応じる先輩格であった。


チョイ悪の目つきのままで爺さんに  上田 仁


「隠密廻同心」
「江戸町奉行事蹟問答」に次のようにある。
「隠密探索は同心へ奉行より申し付けるなり。予審中主任与力より申し
含めることもあり、その方法は、同心職務につき奉行も与力も指図する
ことなし、専任するなり。何事に不依聴込たることは、善悪ともに奉行
に告げ、奉行の耳目となって働くなり。捕縛すべき罪悪と認めるものは
奉行へ告げるまでもなく時期を移さず町廻りとはかり捕縛し、忠孝美事
に至るまで奉行へ告げるなり」


ぴったりと背中合わせの幸不幸  清水英旺
 
「同心の服装」
江戸の町を巡回している南北あわせて20人の定廻りと臨時廻りは、独
特の格好をしている。御成先着流し御免といって、将軍の御成先でも着
流しを許されていて、武士なら必ず身に付けなければならない袴をはか
ない。着物の柄は派手な格子か縞。身幅は裾が割れやすいように女幅。
その上に竜紋裏三ツ紋付の黒羽織の端を巻羽織といって裾を内側にまく
りあげて帯に挟み、茶羽織のように短く着る。髷は八丁堀風といって一
を詰める。
(一とは髷の元結で結んだところから後方に突き出た部分)


もう一度やってみないかサラリーマン  中村秀夫
 


      秘伝の捕縛術
制剛流に「早縄」をはじめ当時の捕縛術は8種類あった。


「例繰方という役職」
廻り方の事務部門にあたる。「例繰方」は捕らえた下手人の状況に応じ
て断罪の擬案を行い、前例の御仕置・裁許帖に照らし合わせて書類を作
成し、奉行所に提出する役回りである。罪因の犯罪捜査、被害者の情状、
断罪の議案を擬案を蒐集記録し、他の事件捜査の参考に資し、また検討
索例を掌る。事件解明のための重要な仕事をこなし、かなり繁多な業務
だが給料は安い。(居眠り磐音というお薦めの本がある)


雑音はまとめましたと粟おこし  美馬りゅうこ
 


      秘伝の捕縛術ー②

「岡っ引き」
同心が自分の身銭で雇う町人の情報屋を「岡っ引き」という。
定廻り同心は、巡回のときに「小者」を連れている。これは正式な配下
ではないが、同心直属の部下になる。
これに対して、その区々の持ち場で手助けをする者を「岡っ引き」とい
った。岡っ引きは「御用聞き」ともいわれ、江戸以外では「目明し」
西では「手下」とも呼ばれた。小者が同心屋敷で生活している下男とす
れば、 岡っ引きは同心に個人的に仕えるだけで、保証らしいものはない。


口先だけは立派な男だったのよ  森田律子


「下っぴき」
同心の下には岡っ引きが、2、3人付いているが、その岡っ引きの下には
また4,5人の手先が付いている。岡っ引きも、一人前になると一人で7,
8人くらいの手先を使っていた。それらを「下っ引き」といい張り込みや
連絡が必要な時に、 緊急で招集をかけるときの手数である。
岡っ引き、下っ引きを合わせると千人ほどが江戸市中を廻っていた。ドラ
マなどに登場する岡っ引きは、正義の味方が多いが、実際は、その立場を
利用して強請を働くような必要悪的なものだった。しかし犯罪の捜査には、
裏の世界に精通している彼らの存在が、どうしても欠かせなかった。


小塚っ原から胴体だけ戻る  井上一筒

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帆をあげよ鼻腔に南風のいい薫り  くんじろう



「渋沢栄一」 『論語と算盤』漫画と名言


「論語」は、孔子が残した言葉を弟子たちがまとめたものである。
それは儒学となり、そこから朱子学も派生して、徳川幕府の支配思想と
なった。徳川幕府が倒れ、明治になると、朱子学は廃れ、何もかもが西
欧風に変わっていった。渋沢は明治政府に仕えながらも、こうした時代
風潮に違和感を覚えていたのだろう。論語を道しるべに生きた渋沢イズ
ムを『論語と算盤』に書かれた名言を、通して渋沢栄一に触れてみる。


引導を渡す間合いの最初はグー  中 博司


     














 





 

















 







 















 







 「民、信なくば立たず」


「子貢 政を問ふ」 子貢が孔子に政治の要諦を問うた。
子曰く「足食、足兵、民信之矣」
孔子は、まず第一に食生活の充実をはかってやること。次に軍備をとと
のえること、そして、民の信頼を得ること、と答えた。
子貢が問うた 「必不得已而去、於斯二者何先」
子貢は、ではその三つのうち、止む得ずして一つを除くとしたら、
どれを除きますか、と尋ねた。
孔子は言下に「軍備を捨てよ」と答えた。
子貢は続けて「その二つとも保持し得ない事態が到来した場合、どちら
を捨てますか」と聞いた。
孔子曰く「食を去らん。古よりみな死あり、民信なくんば立たず」
つまり、食を過大視してはならぬ。道が信じられず、道がすたれるよう
ではおしまいだ、というのである。


カンガルーの最短距離のジャブ  井上一筒









 


渋沢 「私が考え実践してきた合本主義は、単に私利お追及資本主義と
は異なり…私利と公益の合一を考えるものです」
「仁義礼智信」
「孔子を始祖とする儒学の五つの項目は、ここに『信』がありますが…
もう一つ『義』がありますね」
孔子が言ってます「行動に際して義を優先させるのは、小人である」
「私も、事業に関して利を優先せず、義お優先してきました。
『義』とは世のため人のためになること…公益だと言い換えられます。
社会・国・世界…公(益)私(利)お合一させること、つまり合本主義
です」
「国家社会の助けがあって初めて自分でも利益があげられ、安全に生き
ていくことができる。私が常に希望しているのは<物事を進展させたい>
<モノの豊かさを実現したい>という希望をまず人は、心に抱き続ける
一方で…その欲望を実践に移していくために『道理』お持って欲しいと
いうことなのです」
「その『道理』とは、社会の基本的な道徳を、バランスよく推し進めて
いくことにほかなりません」
「道理と欲望とがピッタリくっついていないと国や社会は衰えていくで
しょう」
「一方、欲望がいかに洗練されようと、道理に背いてしまえば、いつま
でも<人から欲しいものを奪い取らないと、満足できなくなる>という
不幸を招いてしまう」


ニッポンと叫ぶ時だけ日本人  一階八斗醁


 

 


「孔門十哲の一人・子貢(しこう)が孔子を語る」
孔子「言語は子貢」と称するように、子貢は雄弁な人物であった。
子貢の雄弁さは、孔子に限らず多くの人が褒めそやしており、人から
「孔子よりも君の方が優れているよ」と言われることも多々あったが、
子貢は奢ることなく、孔子の方が素晴らしいことを弁舌爽やかに一人
一人に諭した。という。


あんた何時から味醂になりはった  山口ろっぱ


「告げ口好きな魯の子服景伯(しふくけいはく)へ説得する場合」
「屋敷の塀にたとえれば、私の家の塀は肩くらいの高さですから、
家の中が小奇麗であることが窺うかがえるでしょう。
しかし、先生の家の塀は、優に背丈以上の高さがありますから、
門を叩いて中に入らなければ、その宗廟の美しさや役人たちの元気な様
子を見ることができません。その上、敷地が広大すぎて、その門を見つ
けることができる人が少ないようですから、子服景伯殿が「私を先生よ
り優れている」
と言われたのも仕方のないことです」
(ともかく孔子とその弟子の言行録である「論語」の中に子貢は、最も
多く登場してくる人物である)


曇天を切り取り血豆をひとつ  酒井かがり


「斉の26代君主・景公と子貢との孔子についてのやりとり」
景公「あなたは誰を師となさっているのか」
子貢「仲尼(孔子)が私の師です」
景公「仲尼は賢いですか」
子貢「賢いです」
景公「どのように賢いのですか」
子貢「存じません」
この子貢の答えに景公は、訝しんだ。
景公「貴方は仲尼は賢いと言いながら、その賢さが、どのようなもので
あるのかは知らないという。それでよろしいのですか」

それに対して、子貢は、
「人は誰でも、皆天が高いことを知っておりますが、では、天の高さは
どのようなものか、と聞かれたら皆知らないと答えるでしょう。わたし
は仲尼(孔子)の賢さを知っておりますが、その賢さがどのようなもの
であるのかは知らないのです」

と、子貢は孔子の偉大さを天の高さになぞらえて答えた。


忖度の胃もたれに効くパンシロン  中野六助


「渋沢栄一・名言」


名言 ①
「金儲けを品の悪いことのように考えるのは、根本的に間違っている。
しかし儲けることに熱中しすぎると、品が悪くなるのもたしかである。
金儲けにも品位を忘れぬようにしたい」


エレベーターの十八階で肩がこる  森 茂俊


名言②
「人間の世の中に立つには、武士的精神の必要であることは無論である
が、しかし、武士的精神のみに偏して商才というものがなければ、経済
の上から自滅を招くようになる。ゆえに、士魂にして商才がなければな
らぬ。その士魂を養うには、書物という上からはたくさんあるけれども、
やはり「論語」は、最も士魂養成の根底となると思う。


音のない日暮れに愛は育たない  森田律子


それならば商才はどうかというに、商才も、論語において充分養えると
いうのである。道徳上の書物と商才とは何の関係が無いようであるけれ
ども、その商才というものも、もともと「道徳」をもって根底としたも
のであって、道徳と離れた不道徳、詐瞞、浮華、軽佻の商才は、いわゆ
る小才子(こざいし)小悧口(こりこう)であって、決して真の商才で
はない。ゆえに商才は道徳と離るべからざるものとすれば、道徳の書た
る論語によって養える訳である」


無駄縒りは1本もない蜘蛛の糸  新家完司


大正3~7年(1914-1918)の間、第一次世界大戦が繰り広げられた。
それをきっかけに空前の好況を迎え、「大戦景気」と呼ばれるバブルが
始まった。世界的に船舶が不足したことから「船成金」と呼ばれる大金
持ちが続出し、財閥も力を強めていった。工業生産額は農業生産額を追
い越し、求人率が増え、仕事をもとめて人が都市へと集まる結果を生む。
急速に近代化がすすむと、若者の間にも「立身出世、金儲け」が注目さ
れる時代となった。
しかし、大正7年、終戦にともなって「戦後恐慌」が起き、さらには、
大正12年に「関東大震災」が発生し長期間の不景気に陥ることとなる。
そうした時代の中の大正5年、渋沢栄一『論語と算盤』を出版した。


過去帳が湿る少しの悔いがある  西澤知子


名言③
「算盤は論語によってできている。論語はまた算盤によって本当の富が
活動されるものである。ゆえに「論語と算盤」は、甚だ遠くして、甚だ
近いものである」
「富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。 正しい道理の富でなければ、
その富は完全に永続することはできぬ。 ここにおいて論語と算盤という
懸け離れたものを一致せしめることが、今日の緊要の務めと自分は考え
ている」と説き、論語(道徳)と算盤(経済)との一致を試みるのだ。


じいちゃんの一喝満月が上がる  和田洋子


名言④
「そのため仁義道徳によって利用厚生の道を進めていくという方針を取り、
「義理合一」の信念を確立するように勉めなくてはならぬ」と説く。この
義理合一こそ孔子の、すなわち論語と、算盤を一致させる精神なのだ」


煙突を抜けると美しい敬語  山本早苗


名言⑤
「道徳を論じている書物と商才とは、何の関係もないようだが、商才と
いうものは、もともと道徳を基盤としているもの。道徳から外れたり、
嘘やうわべだけの軽薄な才覚は、いわゆる小才子や小利口ではあっても、
決して本当の商才ではない。したがって、商才は道徳と一体であること
が望ましい」
すなわち渋沢は「事業上の見解としては、一個人に利益ある仕事よりも、
多数社会を益していくのでなければならぬ」と言い「多く社会を益する
ことでなくては、正経な事業とは言わない」と断言する。


度の合わぬメガネと遊ぶおぼろ月  田村ひろ子


名言⑥
「道理は天における日月の如く、終始昭々乎(しょうしょうこ)として
毫も昧(くら)まさざるものであるから、道理に伴って事をなす者は必
ず栄え、道理に悖(もと)って事を計る者は、必ず亡ぶることと思う。
一時の成敗は長い人生、価値の多い生涯における泡沫の如きものである」


引き際を探しあぐねている蚯蚓  河村啓子 


名言⑦
「いやしくも正しい道をあくまで進んで行こうとすれば、絶対に争いを
避けることはできぬものである。絶対に争いを避けて世の中を渡ろうと
すれば、善が悪に勝たれるようなことになり、正義が行われぬようにな
ってしまう」


明日を語る資格などありません 雨森茂樹    


「子貢が孔子に言った。それに対して孔子は何と言った」
子貢曰「他人からされては嫌だと思うことを、自分も他人にはしない。
私は、こういう人間になりたいと思います」

孔子曰「それは、とても難しいことだ。お前にできるか?」
普通の人なら「いいことだ。おおいに頑張れよ」
と言うところだが、孔子はそうは言わなかった。
孔子は子貢が日ごろ、口先が達者で、実行が伴わないことが多かったので、
嗜めたのである。


鑑みる右脳辺りの二毛作  蟹口和枝
 

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テロップのニュースへリンゴ剥きながら  山本昌乃


             
               読売は読んで売るから読み売り屋

「青柳たたくあだ口の波 読売の双帋の名 残雁鳴いて」
双帋=草紙・半紙
「読み売り」は、かわら版を面白おかしい呼び声で売り歩きます。
「黒船来る」など、時事問題からうわさ話や、全くのウソ話まで、
口先ひと
つで売れ行きが決まります。
また幕末には長編の事件物も売られ明治の演歌師に引き継がれた。

「新米の 歌も出来秋 よみうりの くちに年貢も いらず儲ける」


帽子から仏像を出す象も出す  嶋沢喜八郎


「読み売り」 ー瓦版


「読み売り」とは、江戸時代、世間の出来事を摺り物とした瓦版を面白
おかしく読み聞かせながら街を売り歩くこと。また、その瓦版やそれを
売り歩く人を言った。
「きのう、芝居で、大きな喧嘩があった」
「ムム、それは、どうした」
「いやも、大乱(大騒ぎ)よ。相手はひとりじゃが、強い奴さ。
大勢かかるところを取って投げる。踏みつける。桟敷へほうりあげるや
ら、ぱらりぱらりと人つぶて。これは叶わぬと、舞台へ逃げ上がるとこ
ろを、足を取って引っ張ると、ぐっと足が抜けた」
ーなんともオーバーな報告だが、こういう巷の噂話を、瓦版に摺って売
り歩いたのが「瓦版」だった。(安永二年四月序『芳野山』)


年収は讃岐うどんが五本ほど  中野六助


ー読み売りというものに数種あり、三、四人より六、七人づつ伍をなし
て、時の出来事を探り、公に関せざる珍しき事ある時は、善悪とも即時
に印版に起し、駿河半紙という紙に摺り立てたるを、互いに珍しそうに
呼びつつ歩く。これは、この度世にも珍しき次第は、高田の馬場の仇討
ちなどと言いて売り歩くなり。
 大火ある時は、焼場所を図面に起し、焼失したる戸数、屋敷、寺社、
町名、町数、火消しの消し止めより、死傷の次第を明細に記して売る。
地震、暴風、天変地異ある時も同じく印して売るなり。
また、敷き物を路傍に敷きて店を張り、坐して売るものは、大火の記事
を面白く読み聞かせつつ売るなり。
また、路傍に立ちて、図面を手に持ちて売るあり。焼け場、方角、場所
付けを御覧なさいと言いながら売るあり。(『絵本江戸風俗往来』)


捨てても捨てても正直には遠い  山口ろっぱ


ーこの種の読み売りばかりでなく、世上の事件を節付けして歌い歩く者
もいた。世上にあらゆる変わったる沙汰、人の身の上の悪事、万人のさ
し合い(さしさわり)をかえりみず、小歌に作り、浄瑠璃に節付けて、
つれぶし(連節)にて読み売るなり。愚かなる男女、老若の分かちなく、
辰巳あがりそそりもの。これを買い取りて楽しみとす。
(つれぶし=他の人と節を合わせてうたうこと) (『遊笑覧』)


棺桶が軽い中味はいれたかい  中村幸彦



葛飾北斎画、瓦版を売る読売の姿。
 江戸時代、瓦版の配布は禁止されており、時代劇などでは、左側の姿で
しばしば登場するが、このように顔を露わにするのは明治維新直前まで
無く、右のように編笠を被って、顔がわからないように売った。


瓦版の売り子を「読み売り」と呼ぶ。江戸時代、先にも書いたが、読み
売りの実際にしていた格好は、多くの場合「深い編み笠で顔を隠す」
いうものだった。瓦版販売は、幕府によって禁止されていたので、上の
絵のように二人は顔を隠して瓦版を売り歩いた。大体、二人一組で活動
し、一人が販売し、もう一人が見張り役をした。
【知恵袋】 瓦版が世に出はじめるのは、天和年間(1682~83)頃から
で大量に出版されるようになるのは、天保期(1831-45)以降とされる。


 その時刻には沈黙を手向ける  居谷真理子


封建制を敷く江戸幕府は、瓦版のような世間の出来事を広報する庶民の
メディアを良く思ったはずはなく、貞享元年(1684)には、報道を制限
する「読売禁止令」を出した。とはいえ、江戸時代の「お触れ」という
のは、ノルマのようなものがあり、適当なもので、役人も余程のことが
ない限り、読み売りを捕えたりはしなかった。互いに「空気」を読んで
いたのだろう。なお、当時は「われわれが瓦版と呼ぶ刷り物」「瓦版
の販売者」も、ともに読み売りと呼ぶ。


少しだけ飾りつけてる舌の先  原 洋志


瓦版は、時事問題を伝えることが使命だが、商売だから、売れなければ
成り立っていかない。だから、取り上げるニュースは「社会的に意義が
あるかどうか」というよりも「庶民が興味をもってくれるかどうか」
いうものだった。当時、瓦版の売り上げがよかったナンバー1、2位は、
やはり「黒船来航と安政江戸地震」だった。驚きと信じられない情報で
庶民は、「何事!?」と、瓦版を買い漁ったものだった。


瓦版めくってブランデーちびり  新家完司



          「黒船来航の瓦版」


嘉永6年(1853)6月3日、アメリカのペリー提督が率いた黒船四隻が
神奈川県浦賀沖にやってきた。彼らは幕府に、開国を要求しに来たわけ
だが、庶民は、そのような交渉よりも黒船自体に興味があった。
(何!あれ何?何で、何しに来たん、という感じ程度のものだった、か)
右上には、「長サ 三十八間、巾 十五間、帆柱 三本、石火矢 六挺、
大筒 十八挺、煙出長 一丈八尺、水車丸サ 四間半、人数 三百六十
人乗」と、黒船の詳細なデータが記されている。
(因みに、黒船来航のニュースは瓦版史上最大のヒットになった)
 
 
三日月の顎で刈り取る虚栄心  斎藤和子



    「蒸気機関車が描かれた瓦版」


 ここにも詳細なデータがあり、左上に主にアメリカという国について
の説明があり「アメリカの首都はワシントンである」という情報までが
書き込まれている。当時、日本は、オランダ、中国、朝鮮、琉球の四ヶ
国としか国交がないところへ、アメリカが割り込んできた格好であり、
続いてロシア・イギリスも加わり、開国の波が押し寄せ、日本の危機を
報せるニュースであったが、庶民は、この後、結ばれる日米和親条約が
何であろうと、また開国の何たるかは知らず、関心ごとは、アメリカ側
の贈り物である蒸気機関車の模型などにあった。


二度三度聞き直してもカタカナ語  美馬りゅうこ



「米俵を船まで運ぶ要員として集めた力士を報じる瓦版」


日本政府はアメリカに沢山の米俵を贈り、それを運ぶため力士を雇った。
アメリカ人は背丈が高い。180㎝を超える巨漢のアメリカ人が多くい
たのに対し、日本人男性の平均身長は、155㎝ほどだった。こういう
対抗策として弱味を見せたくない日本は「日本にも大きな人間がいるぞ」
ということを見せたかったのだろう、力士はそういう要員としてかりだ
された。


ほんものの馬鹿になれたら強いもの  奥野健一郎



    「安政江戸地震の瓦版」
安政江戸地震の直後に出た瓦版「関東江戸大地震井大火方角場所附」は、
被害状況や幕府が被災者のために作った「お救小屋」の位置などが書か
れている。


安政2年(1855)10月10日、江戸で起きた直下型地震。震度は
6以上だったと言われ、木造ばかりだった江戸の建築物は、ほとんどが
被害を受けた。死者は、江戸府内に限っても、一万人前後と推察され、
この地震の被害状況を伝える瓦版は、600種以上発行されたという。


神様もリセットしたい過去がある  前中
 


「ゆるがぬ御代要之石寿栄(みよかなめのいしづえ)」


ここに地震の被害状況が詳細に書かれている。記事のはじめの方を要約
すると「結婚や仕事で地方から江戸に出てきている人々は、一刻も早く
故郷の両親に『私は無事でした』と知らせて安心させてあげなさい」と
ある。瓦版製作者の優しい気遣いが感じられる、記事もあった。


巡りくる春へと命立ち上がる  平井美智子



 「妖怪アマビエのニュースを伝える瓦版」


令和の時代にも登場するアマビエは、弘化3年(1846)4月、現在
の熊本の肥後国の海に夜ごと光り物が起こったため、土地の役人が赴い
たところ、アマビエと名乗るものが出現し、役人に対して「当年より6
ヶ年の間は諸国で豊作がつづく。ただし、同時に疫病が流行するから、
私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ」と予言めいたことを告げ
て海の中へと帰って行った。当時も拝んだ、神様仏様アマビエ様~だ。


他人事と厚意は高い棚に置く  有田一央
 

 「遠くの出来事をどのようにして取材をした?」
幕府や大名、役人の書状を運んだ「飛脚」は、命ぜられて火災や洪水の
取材をして、情報を伝える役割を担った。江戸の中期以降は、飛脚屋が
公式の災害通信を扱うようになり、大地震や大火事が起きたときには、
めざましい活躍をみせている。飛脚は各地のニュースを集めるだけでな
く、その情報を手書きや印刷して、関係方面にも届けた。かわら版を取
り扱う書店なども、飛脚をニュースソースにして江戸時代における通信
社的な役割を担った。


セミが鳴く生保の額を調べてる  靏田寿子


 

「瓦版はなんぼ」
瓦版は、戦争の陣地の様子や火事・地震や火山の噴火など、災害の報道、
心中や敵討ちなどの人情話やゴシップから、徳川家と天皇家の動きなど
の報道まで、人々が知りたがる情報を1ー2枚ほどの紙に刷り、読み聞
かせたりしながら売った。瓦版の値段は、江戸時代を通じて3-4文。
当時のかけそばの値段は16文だから、庶民が気軽に買える値段だった。


やわらかいティッシュは名刺がわりです  森田律子


しかし、瓦版は心中事件などをセンセーショナルに書き立てて煽った為、
時には「人心を惑わすべからず」と幕府に取り締まられるようになった。
ペリーの黒船が来航したときなどは、幕府は「異国船について書くこと
ならず」と厳しいお触れを発した。が、したたかに瓦版の商売人は、使
命感?というものか、今、起こっている事実(情報)を書いた。
それにより庶民は、黒船の来航や地震のことを知ることができた。
やがて幕府が揺らぎだすと、政治の動きを伝える瓦版は、「新聞」とい
う名で明治3年、発行されるまで、庶民の知る権利という、大きな役目
を果たてきたのである。


ふるさとの駅にむかしの風の音  みぎわはな

拍手[4回]

なんとなく非常階段になっている  河村啓子



御開港横浜之全図 (五雲亭貞秀画)
安政6年6月2日に開港した、浜全域を描いた3枚続きの錦絵。


「渋沢栄一」 横浜焼き討ち計画


安政5年(1858)12月。18歳の栄一は、学問の師匠、尾高惇忠
の妹と結婚した。栄一より一歳下の千代である。尾高家と栄一の関係は、
さらに強固になった。
半年後の安政6年6月、横浜港が正式に開港し、貿易が始まる。以後、
武士たちの間で「尊王討幕運動」が急速に激化した。
開港にともなう輸出の激増で、国内物資が品薄になり物価が高騰、下級
武士の生活を直撃し、その恨みが外国人と開港を許した幕府へ向かった
のだ。


カタカナ語お湯で戻してから喋る  森田律子



海保漁村自画像
上総出身の儒学者。江戸で太田錦城に学び天保元年(1830)に塾を開いた。


栄一は、藍玉の商略や作物の改良に、強いやりがいを感じながらも「木
っ端役人にも軽蔑される農民や商人はつまらぬ」という気持ちも抱いて
いた。つまらなさの源が、幕府が作った世にあるとするなら、栄一も、
また「憂世の情」を抱く当時の若者の一人であった。そんな栄一に江戸
から友人連れで憂世の情を運んできては、さかんに談論を繰り広げる人
物があった。尊王攘夷派の惇忠の弟で、妻・千代の兄、栄一より2歳年
上の尾高長七郎である。体格と撃剣の才に恵まれた長七郎は、以前より
江戸に出て、儒学者・海保漁村の塾と伊庭秀業の道場に在籍。討幕派の
長州や水戸、宇都宮藩の志士とも親交があった。


はにかんだホタルは出番模索する  山口ろっぱ



千葉周作
千葉周作は栄一が通った千葉道場・玄武館の創始者。栄一が通ったころ
は周作の三男・道三郎が道場主だった。
 
 
長七郎から刺激を受けた栄一は、江戸への思いを募らせる。強く反対す
る父を「ならば農閑期の2カ月だけ」と説得し、出郷を果したのは開港
から2年後の文久元年(1861)3月。桜田門外の変の翌年のことだ。
江戸での栄一は、海保の塾に籍を置き、北辰一刀流の千葉道場に通った。
 自伝『雨夜譚』では「書物を十分に読もう、また剣術を上達しようと
いう目的でない。ただ天下の有志に交際して、才能・芸術のあるものを
己れの味方に引き入れようという考えで…中略…抜群の人を撰んで、つ
いに己れの友達にして、ソウシテ何か事ある時にその用にあてるために、
今日から用意して置く」ためだと語っている。


あと一枚めくればきっと喜望峰  宮井元信
 
 
5月に帰郷した栄一は、家業に戻る。が、以前のようには身が入らなか
った。父は気を揉んだが、どうしようもない。文久3年(1863)8月、長
女が誕生。この月、栄一は妻子を郷里に置いたまま、ふたたび江戸に向
かう。2年前に世話になった海保の塾に身を寄せ、千葉道場に再入門し、
今回は郷里と行ったり来たりしながらの、4ヵ月ばかりの在府だった。
 
 
雲はいつもかならず話しかけてくる  田中博造
 
 
その間に栄一は、従兄の惇忠や、同じく従兄の渋沢喜作と密談し、大規
模テロを企てる。幕府には攘夷を行う気も力もないようなので、自分た
ちで幕府が倒れるくらいの大騒動を起こそう。まずは血洗島から遠から
ぬ高崎城を襲い、武器を奪って軍容を整え、高崎からは鎌倉街道を経て
横浜へ入り、市街に火を放ち、外国人を片っ端から斬り殺す。
そんな荒唐無稽な「横浜焼き討ち計画」を書を読み、剣も学び、算盤や
農作の経験もある青年たちは、大真面目に決行しようとした。
 
 
大ぼらを吹いて地球を裏返す  靏田寿子



高崎城古写真



遠からず、腐敗する幕府は滅亡する。農民であっても一個の国民であり、
日本が滅亡するのを座して見ているわけにはいかない。攘夷を断行する
には先ず軍備を整えねばならない。そのためには手近で調達するほかあ
るまい。白羽の矢が立ったのが血洗島からほど近い高崎城であった。
高崎城は烏川に沿って築城された平城、周囲は土塁で囲まれているだけ
だった。攻め落とすのは、さほど難しいとも思えなかった。
 
 
一波乱起きそうな絵手紙のドリアン  笠嶋恵美子
 
 
刀は惇忠が六十腰、栄一が四十腰、あちらこちらで買っては、そこここ
の蔵に隠した。防具や提灯の類いも揃えた。同志は海保の塾や千葉道場、
郷里の一族郎党などから70人ばかり集め、資金は藍玉商売から横領し
た。その額は百五、六十両。今なら6、70万円くらい、呆れた行動力
である。決行は冬至の11月23日と決めた。もとより、命があるとは
思っていない。9月、栄一は郷里の父に「国事に身を委ねたい」と告げ、
言外に勘当を求めた。実家に累が及ぶことを怖れたのである。
 
 
逃げるなら空一枚とすべり台  郷田みや
 
 
10月、かねてより京に行っていた惇忠の弟・長七郎が、栄一の手紙を
読み大慌てで戻ってきた。暴挙を止めるためだ。惇忠の家では、夜を徹
して激論が交わされた。
「烏合の兵などすぐ討滅されるぞ」と、長七郎が言えば、「それを見た
天下の同志が立てば本望」と栄一が返し「なに、百姓一揆と見做されて
仕舞だ」と長七郎が抑える。栄一は、長七郎を刺してでも阻止すると言
って退かない。ならばと栄一が、少し退いてよくよく考えてみたところ、
なるほど長七郎の言い分が道理だと気がついた。少し退けるところが栄
一の栄一たるところである。集めた同志には手当を渡し中止を告げた。
 
 
踏み切りは開かずマスクが捨ててある  桑原伸吉
 
 

欧州視察旅行帰りのスーツが似合っている渋沢喜作35歳。
喜作は25歳のとき、栄一とともに京に出、戊辰戦争では彰義隊の隊長
となり、後に振武軍を組織するも敗北。五稜郭でも敗北。新政府に捕縛
されるが特赦されて大蔵省に入る。海外視察は外国の生糸事情を調べる
ため、イタリア、スイス、フランスを巡歴した。
 
 
だが、この後、話が捕吏の耳に入らぬとも限らない。栄一喜作と共に、
しばらく身を隠すことにした。11月8日、2人は、故郷を後にする。
栄一23歳。目指すは京であった。


季は巡りあの日の正義裏返る  渡辺信也

拍手[3回]

蹴り上げた楕円は神の領域へ  斉藤和子
 
 

          楽屋之図
 歌舞伎役者の舞台裏の様子を描いた図。 裃を身に付ける役者やカツラ
をかぶる役者、芝居関係者など、役者絵が得意な歌川国貞は芝居の楽屋
にまで入り込み、舞台の上では見られない、舞台裏を細やかに描いた。

 
 
江戸後期から明治へと長期にわたって、浮世絵画壇の覇者として君臨し
続けたのは「歌川派」であり、その礎を築いたのは、歌川豊国である。
豊国によって平明な作品たちは、より多くのファンを獲得することにな
ると同時に作品の様式化は数多くの門人を生み出すもととなった。ここ
にその豊国門下の俊才たちを紹介しておこう。そして、やはり殿に歌川
派の天才・歌川国貞をとりあげる。


浮世絵に潜んでいるのはゴッホです 木口雅裕


「豊国一門と年齢と夫々の絵師の冠」

万民のスター
歌川豊国 明和6年 (1769ー1825)
師豊国を凌ぐ実力派
歌川国政 安永2年 (1773-1810)
温雅な個性派
歌川豊広 安永3年 (1774-1830)
歌川派の総帥・三代豊国 役者絵の国貞
歌川国貞 天明6年 (1786-1864)
合巻から浮世絵までの正統派
歌川国安 寛政6年  (1794-1832)
「国安」「国丸」とともに豊国門人三羽烏
歌川国直 寛政7年 (1795-1854)
風景画の奇才
歌川国虎 (生年不詳)
風景版画の第一人者 けしきえの広重
歌川広重 寛政9年 (1797-1858)
国貞の向こうを張った武者の国芳
歌川国芳 寛政9年 (1797-1861)
初代豊国の養子・二代豊国
歌川豊重 享和2年 (1802-1835)


前略、娑婆は暑いだけです かしこ  河村啓子


「にがおえの国貞」 歌川国貞



         市村羽左衛門と尾上菊五郎  


歌川国貞は、初代・豊国が築き上げた歌川派を継承し、長期にわたって
活躍した浮世絵師である。
国貞は天明6年(1786)本所渡船場を経営するに生まれた。ちゃき
ちゃきの下町っ子である。絵の勉強は、初めは独学であった。国貞の少
年期はちょうど浮世絵界の最盛期にあたるため、手本となる浮世絵が、
たくさん手に入ったのである。とりわけ役者絵を好んだ国貞少年にとっ
ての憧れの絵師は、初代・歌川豊国であった。そこで思い切って入門を
願い出た。


宿命へ畳鰯の独り言  中村幸彦


このとき豊国が、国貞の実力試しに、手本を見せて写し描きをさせたと
ころ、仕上がりがあまりにも巧みで驚いたという。入門の許しを得て、
師匠の信頼を得た国貞は、すぐに細々とした仕事を任されるようになり、
22歳のときに絵草子の挿絵でデビューを果たす。これが大当たりを取
って、歌川派の次代を担う若手絵師として、その名を世間に轟かせた。
因みに、この年に歌川派に入門をして来たのが国芳である。国貞は、弟
弟子として国芳を「芳、芳」と呼んでかわいがったが、国芳は、この上
から目線が気にくわず、生涯国貞を煙たがったらしい。


陰と陽リバーシブルの帽子です  合田瑠美子



  国貞の描く美女にじゃれる猫


対する国貞はというと、柔和温順で人の気持ちをよく考え、自己主張を
好まない人格者だった。そんな性格を反映するように作風も明るく率直
で安心して見られるのが特徴である。下町に育ったせいか庶民的な親し
みやすさも抜群で、大衆受けする絵が自然に描けた。


花も葉も水に流して現在地  佐藤正昭



「滝夜叉姫 尾上菊次郎 梅花」
最晩年の作。鉱物性顔料を大胆に使い、迫力に満ちた画面を作り出した。


国貞が最も得意としたのは「役者の似顔絵」である。普段は冗談を言わ
ない真面目な性格だったが、役者絵のモデルになる役者と話すときは別。
現代のベテラン・カメラマンのように、冗談を言って相手の気持ちをほ
ぐしながら、いろいろな表情を引き出し、ウイークポイントを捉え、そ
の人の顔の中でいちばん魅力のあるところを似顔絵に反映させた。
役者からの信頼も厚く、家には役者からの付け届けが山のように届き、
なかなか豊かな暮らしぶりであったという。こうした人付き合いの丁寧
さが、国貞の評判をさらに上げていった。


冷やかして景気をつけて盛り上げて  田口和代



 当世美人合 身じまい芸者


「国貞の美人画」
国貞は役者絵だけではなく、「美人画」にも優れていた。むしろ下町の
庶民は絵師としての本領は、こちらの分野に発揮されたといっても過言
ではない。清長美人や歌麿美人のような、理想化された美人像とは違う
親しみやすさがった。



         「国貞の挿絵」
 さらに戯作者・柳亭種彦とタッグを組んで挿絵を描いた合巻本『偽紫田
舎源氏』が大ヒットし、これ以降、錦絵業界で源氏絵がブームになるな
ど後続の絵師たちに多大な影響を与えた。


キャンパスの龍が飛び立つ筆づかい 佐々木満作



天保14年(1843)9月、水野忠邦の失脚後、国貞は忠邦改革の的にな
って低迷する浮世絵界の巻き返しを図り、自身の二代目・歌川豊国襲名
披露の書画会を開催した。しかし、この襲名が大スキャンダルとなる。
実は国貞は正式には三代目なのだ。二代目は初代・豊国の弟子で豊国の
養子に入った豊重といううだつの上がらない絵師で、これには師匠の娘,
もしくは嫁に取り入ったらしいという裏事情があった。真面目な国貞は
これを「よし」とせず、また「人気・実力ともに十分な自分こそが、正
統な後継者だ」という自負もあったのだろう。


二週間前のトマトと高飛車と  宮井いずみ


二代豊国は、文政年間初めに初代豊国の門に入り、やがて養子となった。
初め豊重と名乗り、師風を受け継いだ堅実な作品を描いていた。文政8
年(1825)初代の没後、二代を継いだとされる。天保5年頃までの
作が確認され、「名勝八景」という風景版画の注目すべきシリーズを描
いているものの、全体としては、師の作風を墨守するところから脱しき
れなかった。


出た釘を何度打ったか痩せた槌  西陣五朗



  オレがあ豊国二代目よ


「歌川を疑わしくもなのりゐて二世の豊国にせの豊国」
文政8年に師・豊国が没したのちは、実質的な歌川派の棟梁として君臨
するにいたる。そして弘化元年(1844)には、師の豊国号を継いで
二代を名乗り、名実ともに歌川派の総帥となった。しかし、豊国の没後
間もなく養子の豊重が二代を名乗っており、実質は三代目にあたる。
それでもなお国貞が二代目を名乗ることができた裏には、初代の複雑な
家庭事情と、腕のたつ国貞を、豊国の正当な後継者とみなす勢力の優勢
であったことを示すものであろう。


不条理にさからう渦を巻きながら  笠嶋恵美子


豊国を襲名してからの国貞には、門人も増え、版元からの注文も殺到し、
作画量はこの時期にピークに達するが、さすがに濫作による価格の低下
は隠すことができない。とはいえ、人物が映えるように画面全体を整理
する構成力には相変わらず非凡なものを見せている。


斜めから吹く風斜めから躱す  岸井ふさゑ



星の霜・当世風俗 蚊帳

幕末には「もっとも人気のある絵師」であった国貞だが、現代の知名度
は今一。なぜなら、彼が描いていたのは「当時最新の流行や風俗」であ
って、当時のことを知らなければ何のことだか解らないものが大半であ
ったからである。
 「星の霜当世風俗・蚊帳」では、蚊帳の中で紙縒りを使って害虫を焼く
庶民的美人と、蚊帳の下から覗いている団扇にさりげなく、当時の人気
役者・尾上菊五郎の似顔絵が描かれている。似顔絵は、国貞の最も得意
分野で面目をはたしている。


だとしても諦めきれずにいる思い  川畑まゆみ



  星の霜・当世風俗 行灯


幕末の浮世絵界で庶民から圧倒的な支持を受けた浮世絵師は、前にも述
べるように広重でも国芳でもなく、歌川国貞だった。国貞は初代・歌川
豊国の正当な継承者として、人気流派歌川派を率いて浮世絵界に君臨し、
生涯に一万点の作品を世に送り続けた。というのも、彼の絵はとにかく
よく売れたのだ。「広重が風景画、国芳が武者絵」を得意として売れた
とはいえ、国貞が美人画・役者絵という王道二大ジャンルを制しており、
そこに割って入る隙がなかったからである。22歳のでビューから元治
元年(1864)79歳で永眠するまで、国貞は、半世紀に亘って第一
線の人気を保ち続けた。


口よりも確かなことを目が語る  ふじのひろし



      国貞自画像


順風満帆な国貞の人生にも一時、影がおちる。天保の改革の野忠邦
失脚して間もなく、国貞は、二代目・歌川豊国襲名披露の書画会を開催
した。この襲名披露が、大スキャンダルとなったのである。実は国貞は、
正式には三代目なのだ。二代目は初代・豊国の弟子で豊国の養子に入っ
豊重といううだつの上がらない絵師で、これには師匠の娘,、もしくは
嫁に取り入ったらしいという裏事情があった。世間ではこの騒動を皮肉
った上記の「偽の豊国」のように狂歌が生まれた。しかし、もって生ま
れた運の強さか、その騒動によりさらに注目が集まった。あまりの発注
の多さに版下絵の制作が追いつかず「三代豊国」というだけで売れ続け
たという。


聞えないふりして今日は切り抜けた  山口ろっぱ

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