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川柳的逍遥 人の世の一家言
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そうはいっても見事な黒でございます  田口和代


「鼠小僧」 鼠と滝沢馬琴



鼠小紋東君新形(三代目・豊国〔似顔絵の元国貞〕)
 
左から、与惣兵衛忰与吉(稲葉幸蔵<小僧>)/市川小団次
 松葉屋傾城松山(幸蔵女房)/尾上菊五郎
 松葉屋息子文三/河原崎権十郎
 
河竹黙阿弥作の歌舞伎演目『鼠小紋東君新形』ねずみこもんはるのしんがた)は、
賊・鼠小僧が活躍する内容で、江戸庶民の大人気を博し、安政の初演
から最も多く上演された。(稲葉幸蔵<幸蔵><小僧>のもじり)
 
 
  鼠小僧ウイキペディアにも潜り  通利一辺
 
 
 鼠小僧次郎吉は、文化文政時代に活動した実在の盗賊。
歌舞伎芝居小屋の出方兼大道具係の父・貞次郎(定治郎)の子として、
寛政9年(1797)に元吉原に生まれる。本名は次郎吉。10歳の頃、
父の見様見真似で覚えた知識を活かして、木具職人の家へ奉公に入る。
16歳で職人が肌に合わず、親の元へ戻る。その後は鳶人足となったが、
五尺足らずの小柄であまり役にもたたず、25歳で鳶職を飛び出した為、
父から父子の縁を切られる。そこからはお決まりの身を持ち崩し、博打
に嵌り、その資金稼ぎのために、盗人稼業に手を染めるようになった、
と伝わる。


ジョーカーとわかってからの処世術  木口雅裕
 


『鼠小僧実記』 (鶴声社 国立国会図書)


五尺の小柄が今度は役にたつことになった。小さな体でちょろちょろと
身軽に動き回る身のこなしは、盗人には、向いていたのかもしれない。
文政 4年(1821)父に勘当されて、間もなく、某大名・武家屋敷に
忍びこみ、誰も傷付けることなく、金だけを盗んだのが、泥棒稼業の初
仕事であった。以後、文政8年に捕縛されるまで、武家屋敷ばかりを狙
って、盗むこと28箇所32回に及んだ、という。武家屋敷は盗難があ
っても、泥棒に入られることを恥とし、奉行所には届けないから、現場
で捕まらない以上、気楽な稼業だったようだ。


軽かったんだねあの日のサヨウナラ  赤松蛍子


盗っ人というのは、すたすたと屋根から屋根を走り、塀を乗り越え、抜
き足・差し足・忍び足で忍び込み…というのが映画などでお馴染みだが、
次郎吉の場合、「だれそれに面会の用事がある」と御用を繕って、脇門
から屋敷内に入り、堂々と盗みをして帰る、などの手際をも駆使した。
被害にあった大名には、美濃大垣藩・戸田采女正の屋敷のように、一度
に424両の大金を盗られた大名もある。会津若松の松平肥後守の屋敷
のように、1年おきに、数回も度重なり盗まれた大名もいた。これらは
次郎吉が供述した、屋敷の内情を細かく調べたうえでの犯行だった。


番犬は寝てるし窓は開いてるし  雨森茂樹
 


歌川豊国、鼠小僧の捕縛の図


それでも次郎吉は、一度捕縛されたことがある、文政8年(1825)、
土浦藩上屋敷に忍び込んだときのことである。その時は、与力の詮議に
おいて初犯と嘯き、入墨・追放の刑止まりで、定法の死罪は、まんまと
免れることができた。
(江戸時代の罰則では、十両の金を盗むと「死罪」と決まっていた。
そこで九両二分三朱まで盗んで、あとの一朱をとらないという、法律
通の泥棒もいたという、ずる賢い次郎吉もその手を使った、のかも)


ペラペラの嘘を束ねた置き土産  高野末次


次郎吉は、大名屋敷のみを狙って盗みに入り、貧しい人達にそれを施し
たとされる事から、後世に「義賊」として伝説化されている。
その「義賊伝説」は、処刑直後から語られ、広まったようだ。曲亭馬琴
が見聞録『兎園小説余禄』に書き留めている。
『此のもの、元来、木挽町の船宿某甲が子なりとぞ、いとはやくより、
放蕩無頼なりけるにや。家を逐れて (勘当されて)…中略…処々の武家
の渡り奉公したり。依之(これより)武家の案内(内情)に熟したるか
といふ一説あり。…中略…盗みとりあい、金子都合、三千百八十三両余、
是、白状の趣なりとぞ聞えける』
この金額は、ざっと今の五億円前後と算盤が弾き出す。


憚りながら裏街道の海月です  太田のりこ
 
 
 
 歌川豊国、捕り手と奮戦の図


 泥棒は一度やると止められない。一度捕まって性懲りもなく、また盗み
をはじめ、天保3年(1832)5月、日本橋浜町の松平宮内少輔邸に
忍び込んだところを、北町奉行所の同心・大八木七兵衛に捕縛された。
「捕まるときの有様について、馬琴は」
『浜町なる松平宮内小輔屋敷へ忍び入り、納戸金(手許金)を盗みとら
んとて、主侯の臥戸(寝室}の襖戸をあけし折、宮内殿目を覚まして、
頻(しきり)に宿直の近習を呼覚して…中略…是より家中迄さわぎ立て、
残す隈なくあさりしかば、鼠小僧庭に走り出で、塀を乗て屋敷外へ堂と
飛びをりし折、町方定廻り役・榊原組同心・大谷木七兵衛、夜回りの為、
はからずもその処へ通りかかりけり、深夜に武家の塀を乗て、飛びおり
たるものなれば、子細を問うに及ばず、立ち処に搦め捕えたり』


爆睡はネズミが走ってからにする  岩根彰子


次郎吉は捕まって、同心の大谷にこんなことを言った。
「ここで命を奪わず、町奉行所に差し出してくれ。奉行所で吟味を受け
てから処刑されたい」理由に「俺が盗みに入った屋敷では、その責任を
とって切腹した人もいる。金銀が紛失したので、疑われている人も多い。
奉行所で残らず白状して、その人たちの罪をそそぎたい」
時の奉行は、北町の榊原忠之。芝居小屋育ちの次郎吉得意の芝居っけの
ある供述は名奉行には通じず、奉行は、次郎吉に死罪を求めた。
そして獄門、市中引き回し時には、奉行の配慮で薄化粧の口紅を許され、
悪びれた様子も見せず、馬上で目を閉じて「何無妙法蓮華経」と唱えた
という。やがて次郎吉が日本橋3丁目あたりへ差し掛かった時、二人の
女が目礼をした。次郎吉に深い恩を受けた情婦だったのだろう。


二メートル先には地続きのあの世  和田洋子


牢獄での取り調べの後の8月19日、市中引き回しの上、千住小塚原
(一説-品川鈴ヶ森)で磔、獄門に処された。
「この日の様子について、馬琴は」
『この者、悪党ながら、人の難儀を救ひし事、しばしば也ければ、恩を
受けたる悪党(仲間)おのおの牢見舞いを遺したる。いく度といふこと
を知らず、刑せらるる日は、紺の越後縮の帷子を着て、下には、白練の
ひとへを重ね、襟に長房の数珠をかけたり。歳は36、丸顔にて小太り
也。馬に乗せらるるときも、役人中へ丁寧に時宜(お辞儀)をして、悪
びれざりしと、見つるものの話也。この日、見物の群衆、堵(垣)の如
し、伝馬町より日本橋辺は、爪もたたざりし程也しとぞ』


真っ先に鼻の形を思い出す  高橋レニ



  歌川国貞の描く鼠小僧


馬琴は、教養人としての自負があってか、記事を「虚実はしらねど風聞
のまま記すのみ」と結んでいる。
『世に様々な風聞風説が流れ、それが読書に記されている。たとえば、
捕らわれてしまう失策は、『自々録』によると、大きな鼾のせいだ』
という。
「松平宮内小輔の深殿の天井に、『日ごろの大胆をもて、深更をまつ
うち、眠りにつき、大なる鼾よりしてあやしめられ、堅士捕者の達者
や有りけん、搦め捕られたり』と、まことに無様である」


目を開けたら既に三日がたっていた  寺島洋子


「盗み取った金額について」
「『天言筆記』には、盗賊に押し入りしは、大抵諸侯にして、七拾軒、
盗みし金額は、凡そ二万二千両なり」とある。
今のざっと35億円前後である。
この金高について『巷街贅説』(こうがいぜいせつ)には、
『大名方九十五ヶ所、右の内には、三十四度も忍入り候所も有之(これ
あり)、度数の儀は、八百三十九ヶ所程と相覚へ、諸所にての盗金相覚
候分、凡三千三百六十両余迄は、覚候由申し立て候』


見えぬことだけで溢れる空の箱  山口美代子


…中略…『しかとは申し立て難き候得共、盗み相働き初めより当時まで、
凡そ一万二千両余と覚え申し候由、右盗金悉く悪所盛り場等にて、遣ひ
捨て候事之由』とある。
さらに、九十五ヶ所の氏名と、被害の金高を逐一列記している。
『その屋敷には、尾張、紀伊、水戸の御三家や、田安・一橋・清水の御
三卿まであり、盗人ながら見上げたものである。金額が最も大きいのは、
戸田采女正の四百二十両(6500万円前後)である』


三度目は許さぬよりも慣れてくる  深尾圭司



   歌川国周の描く鼠小僧


「義賊ということについて」
学芸大名として名高い松浦静山が、鼠小僧について
「『金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け
与えた』という伝説がある。この噂は、彼が捕縛される9年も前から流
れていた。事実、彼が捕縛された後に、役人による家宅捜索が行われた
が、盗まれた金銭はほとんど発見されなかった。傍目から見ると、彼の
生活が分をわきまえた慎ましやかなものであったことから、盗んだ金の
行方について噂になり、このような伝説が生まれたものと考えられる」


とりあえず空っぽになってみようかな  山口美代子


「だが、現実の鼠小僧の記録を見ると、このような事実はどこにも記さ
れておらず、現在の研究家の間では『盗んだ金のほとんどは博打と女と
飲酒に浪費した』という説が定着している。
鼠小僧は、武士階級が絶対であった江戸時代に於いて、大名屋敷を専門
に徒党を組むことなく、一人で盗みに入ったことから、江戸時代におけ
る反権力の具現者のように扱われたり、そういったものの題材して使わ
れることが多い。 しかし、これについて、資料が残されていない中で、
鼠小僧自身にその様な意図が無かったという推測もある。


伏せ字には発情しないお約束  木口雅裕


「鼠小僧が大名屋敷を専門に狙った理由について」
敷地面積が非常に広く、一旦、中に入れば警備が手薄であったことや、
男性が住んでいる表と、女性が住んでいる奥が、はっきりと区別されて
おり、金がある奥で発見されても、女性ばかりで、逃亡しやすいという
理由が挙げられている。
また、町人長屋に大金は無く、商家は逆に、金にあかせて警備を厳重に
していた。大名屋敷は、謀反の疑いを、幕府に抱かせるおそれがあると
いう理由で、警備を厳重に出来なかったものと考えられ、また面子と体
面を守るために被害が発覚しても公にしにくいという事情もあった。


ふくらはぎだけが眠っている童話  くんじろう


「松浦静山『甲子夜話』」
幕政での栄達という青雲の夢破れ、47歳で平戸藩主を隠退した静山は、
以後、82歳で没するまで、学芸に親しみ、怪談奇談に耳をそばだて、
隠居仲間やお抱え相撲取り・弓職人など多彩な人々との交流を楽しんだ。
本所下屋敷で隠居暮らしを堪能しつつ、鼠小僧の評判に興味をもち、そ
の名の由来について、『甲子夜話』に書き記している。
「或人言ふ。このごろ都下に盗ありて、貴族の第(屋敷)より始め、国
主の邸にも処々入りたりと云ふ。然れども人の疵つくること無く、一切
器物の類を取らず、唯、金銀のみ取去ると。されども、何れより入ると
云ふこと、曽(かつ)て知る者なし。因て人、「鼠小僧」と呼ぶ」と。


くずかごにまじめをぽいっと捨てぬよう  岡田幸男

 
 
鼠小僧こと稲葉幸蔵・松山・二人の娘・みどり
 
 
「鼠小僧の母」
江戸の末期、天保(1831~)のころ、西の郡と呼ばれていた蒲郡に、
江戸から一人の老婦人が、ひっそりと帰ってきて暮らしはじめた。35、
6年ぶりのことだ。家の裏手には、鬱蒼とした藪が広がっていた。その
藪の中に、名前も戒名も書かれていない粗末な墓らしきものがある。と、
近くの住民が気づいたのは、それからしばらくたってからのことだった。
老婦人の名を「かん」といった。ある日のこと、道でかんとすれ違った
住民が尋ねた。「藪の中にある墓は、どなたをご供養なさっているんで
すか」 かんは一瞬、驚いた様子を見せ、顔をくもらせた。


知り合いではないが知らないでもない  佐藤正昭


暫くたって小さな声で「倅の」とだけ、言って立ち去った。
『がまごおり風土記』(伊藤天章著)には、文政期に江戸市中の大名屋
敷に忍び込み、天保3年に38歳で処刑された鼠小僧次郎吉は、蒲郡の
生まれだと書かれている。母親のかんは、処刑のあと一握りの遺髪を手
に蒲形村に帰り、墓をつくり冥福を祈った。
この墓が後に委空寺(神明町)に移されたという。 次郎吉の生家は現在
の神明町。生後間もなく、父の定七は江戸に旅立ってしまう。1、2年
後、母のかんは、定七を追って、幼い次郎吉を背負い上京した。お墓の
いわれとともに、このような話も代々語り伝えられている。
真実はともかく鼠小僧は歌舞伎や小説、映画に義賊として描かれている。
地元の人たちには、ちょっぴり自慢だったに違いない。                        
 
 
正座して一身上の話きく  都司 豊


「次郎吉は用心深い」
必要以上の大金を盗まなかったのは、捕まったときの用心で、金がなく
なるまで盗みを働かなかった。不自然な大金が見つかると、証拠になる
からである。当然、深い付き合いもできるだけ避けて、プライバシーを
守った。親しい仲間ができ、棲家が知られ、家に遊びにくるようになる
と棲家を変えた。女房だって四人いて、その家を転々としていたのだ。
それも金で買った飲屋の女である。名前も治三郎、次兵衛などと使い分
けていた。


路地裏をうまく泳いでいるルパン  岡内知香
 


浅草胡蝶の屋根に現れた鼠小僧(18代目・勘三郎)


次郎吉の墓は、本所回向院にあり、戒名は「教覚速善居士」俗名・中村
次良吉とある。戒名の教覚速善とは、頭脳よく、記憶力もよく、素早い、
が次郎吉の持っていた印象で、とは何を表したものか、義賊であった
ことを示したものなのだろうか。
「鼠小僧の辞世」
「天が下古き例(ためし)はしら波の 身にぞ鼠とあらわれにけり」
「ウン? なんとなく聞いたことがある、ってか」
「やっぱり、黙阿弥の作品だから白波五人男に似てしまうんですな」


前略と書いたが闇の中にいる  山本昌乃


「鼠小僧に死刑を宣告した奉行・榊原忠之」
北町奉行としての忠之は、迅速かつそつのない裁決を行い、江戸市民か
ら人気があった。北町奉行在任は17年に及び、これは歴代江戸町奉行
中でも長期にわたる。『想古録』では、「前任者が7,8年、時に10
年以上掛かっていた採決を、2,3日で行ってしまう」ほどのスピード
裁判であったと伝えており、長期にわたる訴訟で、訴訟費用に苦しんで
いた江戸庶民から歓迎された。また在任中に、鼠小僧次郎吉、相馬大作、
木鼠吉五郎など、世間を騒がせた規模の大きい裁判も多数担当した。


闘って大きいコブの二つ三つ  佐々木雀区

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葉を落とすたびに大きくなる欅  米山明日歌
 


仁と義の狭間で生き悲しき刺客

この有名な人斬りは誰?
ヒント=土佐藩郷士。天誅の名人と言われ、最も怖れられた。
慶応元年5月11日打ち首、獄門。享年28歳。
辞世の句があまりにも悲しい。
「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄みわたる空」

 
  「青天を衝け」平岡円四郎の死
 

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円四郎の父・岡本花亭              堤 真一
円四郎には肖像画がない。この父から円四郎の顔を想像したい。

 
平岡円四郎は、文政5年(1822)岡本忠次郎の四男として生まれた。
父は勘定奉行まで勤めた後、鑓奉行に転じ、諸大夫(しょだいぶ-位階)
を仰せ付けられ、また近江守に任ぜられている。なお優れた漢詩を詠む
ことで、岡本花亭という名でも知られた文化人である。その後、17歳
の時、円四郎は、切手番頭を努める旗本・平岡文次郎の養子となり平岡
姓を名乗る。やがて家を継ぐ身となり、学問にも励み、昌平坂学問所の
寄宿中頭に就任する。


肩甲骨きっと大きな羽だった  高橋くるみ


聡明叡智で特異な才能を持つ円四郎を、世間は放ってはおくわけがなく、
水戸藩の藤田東湖や幕臣・川路聖謨らは、「諤諤の臣」を求める一橋家
慶喜に推挙した。そして慶喜は、東湖や聖謨の薦めに従い、円四郎を雇
小性として雇うことにした。
(「諤諤の臣」=正しいと思うことを直言する人のこと)


ぴったりの甲羅磨いているところ  津田照子


当時の一橋家の家老は、慶喜の教育係をも務める中根長十郎であった。
慶喜は、御側用人の中根に対して、不満を感じていた。確かに中根は能吏
ではあったものの、水戸家から入った慶喜に対して、相当、遠慮していた
のかもしれない。が、慶喜は、中根を始めとする側近のイエスマンぶりに、
物足りなさを強く感じていた。そのため、嘉永6年(1853)に至り、
水戸藩からの「直言の士」、すなわち、<物おじせずに慶喜に諫言してく
れる>、頼りがいのある家臣を派遣してくれるよう、懇請する書簡を実父
徳川斉昭に送っていた。そして、白羽の矢が立ったのが、平岡円四郎
あった。(能吏=事務処理に優れた才能を示す役人)


面白い手術になるという外科医  山田恭正
 
 
川路聖謨は、平岡円四郎が非凡で「直言の士」であることを見込んで、
日ごろから水戸藩の藤田東湖戸田忠太夫に対して、平岡の能力や人
となりを吹聴していたらしい。ちょうど慶喜、「直言の士」斉昭
に求めていた時でもあり、東湖は、斉昭に平岡を推薦した。斉昭は、
その提案を受け入れ、平岡を慶喜の小姓とすることに決めた。
平岡もそうそう遊んでいるわけにもいかず、取りあえずその申し出を
受けることにした。


関節を外して入る砂時計  月波与生


円四郎慶喜の近侍になった時、慶喜は16歳。円四郎は32歳だった。
円四郎は、名家の一橋に仕官するというのに、服装はだらしない、礼儀
作法はまるでなっていない。円四郎は、豪放磊落な性格で、堅苦しいこ
とは大の苦手だったから、常に、一橋の家人たちから顰蹙を買っていた。
近侍として「これでは拙い」と考えた慶喜は、箸の持ち方、飯の食い方、
言葉の使い方などまで、細かく教えることにした。慶喜の教育係である
べき円四郎が、慶喜に教育される逆転現象が生じた。それでも、慶喜が
円四郎を側に置き信頼したのは、気さくで、言いたいことをずばずばと
言い、聡明で機転が利き、先が読める人物、と認めたからである。


捩じれてもなお直線の夢を追う  大西將文
 




 
 
  平岡円四郎は、幕末史の基礎的史料『維新史料綱要』に何度か登場する。
初登場は安政5年(1858)3月のこと。慶喜が将軍家の養子となる
ことを固辞していることについて、福井藩士の中根雪江と水戸藩士の
島帯刀らが、円四郎の屋敷に集い、密議したということが載っている。
慶喜は、「お飾りの将軍になどなる気はさらさらない」、が、この密儀
で何らかの妥協をみせたのだろうか…。


臍の緒がそんなに高く売れるのか  井上敏一


ゆくゆくは慶喜に、将軍職を嗣がせる含みを持たせながら一橋家の養子
とした12代将軍の家慶は、後継問題を曖昧にしたまま病没した。13
代将軍の座についたのは、家慶の実子の家定だった。しかし、家定は、
病弱なため次の将軍となる実子をもうけることが期待できない。このた
め、譜代の彦根藩主の井伊直弼、会津藩主・松平容保ら、紀州徳川家の
慶福を将軍に据えようとする南紀派と、外様の薩摩藩主・島津斉彬、宇
和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信ら、一橋家の慶喜を将軍に据
えようとする一橋派とが、次期将軍の座を巡る争いを起こす。


2丁目より暗い3丁目の闇  雨森茂樹


やがて、井伊直弼を幕府の大老に擁立した南紀派は、家茂を将軍とする
継嗣をめぐる争いに勝利し、一橋派に対する弾圧を始めた。いわゆる、
「安政の大獄」である。安政6年(1859)9月には、一橋派に属し
た藩主たちが、隠居・謹慎させられ、平岡円四郎もまた、井伊直弼から
一橋派の危険人物として処分され、甲府勝手小普請にされた。
ところが翌安政7年3月、桜田門外で井伊直弼が殺害されるという変が
起こると、時代はまた違った方向へ動き出す。


大変があるかないかは明日の闇  佐藤近義


文久2年(1862)、勅使として公卿の大原重徳が江戸へ向かうとき、
島津久光が兵を率いて随行した。久光は薩摩藩主の実父で、薩摩藩の実
権を握っているが、本来なら幕閣に意見を言える立場ではない。しかし、
勅使の随行者として幕府も、無視するわけにも行かず、久光が要求する
改革路線に政治の舵をきることになる。そこから旧一橋派の巻き返しが
始る。いまさら、将軍の座についた家茂を、引きずり下ろすことは出来
ないが、安政の大獄で処分を受けた人々を、復権させた上、慶喜「将
軍後見職」に越前福井藩の前藩主・松平春嶽を「政事総裁職」に、それ
ぞれ就任させることにした。


くるぶしのあたりに灯す常夜灯  笠嶋恵美子


その年の12月、慶喜「将軍後見職」に就任すると、円四郎も甲府か
ら呼び戻され、江戸に戻る。そして、文久3年4月、「勘定奉行所留役
当分助」となり、翌月一橋家用人として復帰する。そして、この年、慶
喜の上洛にも随行する。京都で慶喜は、公武合体派諸侯の中心となる。
こうした背景に、ごそごそ裏で動いているのは、平岡と用人の黒川嘉兵
と見なされた。この頃、円四郎は、ますます慶喜からの信任は厚く、
元治元年(1864)2月、「側用人番頭」を兼務、5月に「一橋家家
老並」に任命され。6月2日には、慶喜の請願により「諸大夫となり、
近江守」に叙任される。四男坊の遊人が、42歳で父と同じ位置に昇っ
たのである。攘夷派の志士として、破壊活動を企てていた渋沢栄一を、
一橋家に仕官させたのもこの頃である。


木に登ると花を咲かせてみたくなる  神野節子


この2週間後の6月14日、円四郎は、水戸藩士江幡広光、林忠五郎
らにより京都町奉行所与力長屋外で襲撃され、斬殺される。円四郎の
側にいた川村惠十郎は、傷を負いながらも必死の反撃をし、江幡広光、
林忠五郎を斬り捨てている。慶喜も円四郎も、外国人を今すぐ日本か
ら閉め出すことはしないでも、攘夷は、日本の自主独立を守るという
形でのものでいいのではないかと考えていた。しかし、攘夷に奔る士
たちは、「尊皇攘夷」という考え方の元祖である水戸藩に生まれた
、「なかなか攘夷を実行しようとしないのは、平岡円四郎ら側近
が悪い考え方を吹き込んでいるのに相違ない…」と、考えた。
現に、慶喜の側近・中根長十郎は、円四郎より先に殺され、円四郎の
後で慶喜を支えた原市之進も暗殺されている。盲目的に慶喜の側近た
ちを狙ったのだ。
 
 
刺し口は中央分離帯の中  平尾正人
 
 





『維新史料綱要』
には、安政5年6月に、時勢を慨嘆する水戸藩士ら
が幕府の要人に対して「除奸」を計画しているとの情報を、円四郎が
中根雪江に伝えていることが記されている。
円四郎は前もって、危険な同胞の動きを察知していたにもかかわらず、
その刃に43年の、まだまだやることのある命を散らすのは、やはり、
持って生まれた円四郎の磊落な性格が災いのもとになってしまった。


理不尽をいさめる言葉見つからぬ  合田留美子


「除奸(奸を除く)の計画」とは、平たく言えば、「要人を暗殺する
こと」で、まさに暴挙。水戸藩といえば慶喜の実家なのだが、味方に
はしたくない危険な存在になり果てていた。安政二年の大地震で藤田
東湖という指導者を失ってから、水戸藩は、迷走を始めていたのであ
る…。栄一喜作は、そのとき、江戸におり恩人の死を知るのは、半
月後だが、その訃報に驚き悲しみ、号泣した。

 
雲を見ている隅っこのパイプ椅子  新家完司
  
 
 
 
 
「渋沢栄一ー円四郎を語る」

『是まで申述べたうちにもある如く、私を一橋家に推薦して慶喜公に
御仕へ申すやうにして呉れた人は、平岡円四郎であるが、この人は全
く以て一を聞いて十を知るといふ質」で、客が来ると其顔色を見た
丈けでも早や、何の用事で来たのか、チヤンと察するほどのものであ
つた。然し、かかる性質の人は、余りに前途が見え過ぎて、兎角、他
人のさき回りばかりを為すことになるから、自然、他人に嫌はれ、往
々にして、非業の最期を遂げたりなぞ致すものである。平岡が水戸浪
士の為に暗殺せられてしまうやうになつたのも、一を聞いて十を知る
能力のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では無か
らうかとも思ふ。

平岡円四郎の外に、私の知つてる人々のうちでは、藤田東湖の子の
田小四郎といふのが、「一を聞いて十を知る」とは、斯る人のことで
あらうかと、私をして思はしめたほどに、他人に問はれぬうちから、
前途へ前途へと話を運んでゆく人であつた。
藤田小四郎・辞世
兼て与梨 思ひ初にし 真心を けふ大君に 徒希てうれしき
 
 
しあわせの窓からふいに波しぶき  清水すみれ

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失いたくないもの壊したいもの  下谷憲子



武田耕雲斎・天狗党の乱


「青天を衝け」 栄一、スパイになる。
 
 
文久3年(1863)11月25日、渋沢栄一渋沢喜作は京に着いた。
横浜焼き討ちのほとぼりを冷ますのが目的で、当てなどはない。2人は
出がけに栄一が持たせてくれた百両で漫然と暮らしながら、在京の慶喜
用人平岡円四郎を訪うては、幕府の動静などを尋ねた。
年が明けると、栄一たちの経済状態はかなり厳しくなってきた。そんな
折、江戸から尾高長七郎捕縛の報せが届く。彼の懐には、栄一と喜作が
京から出した「ほどなく幕府が潰れる今こそ、兄貴も京へ」との手紙が
あったという。2人は慌てた。京も危ない。だが、江戸も危なくて帰れ
ない。第一行くにも留まるにも金がない。2人の進退は極まった。


金のない長寿はとても辛すぎる  ふじのひろし


2人は「この後どうするか」と、論じあった。
喜作「倒幕派が一橋に仕官では、とうとう食い詰めたかと言われるぞ。
何より自分に恥じないか」
栄一「その通りだが、気高いだけでは褒められはしても、世の利益にな
らないぞ」
喜作「…」
栄一「世に効なくば意味がない。まごまごしていれば捕まるかもしれな
いし、第一すぐ暮らしに困る。困って泥棒になってもしょうがない、今
は何と言われようとも試しに一橋に奉公してみようじゃないか」
喜作「ウーンやはり、江戸へ戻り長七郎を獄から出すのだ」
栄一「今、我々が行っても出せるもんじゃない、一橋の家来の方が出し
やすいぞ」
喜作「そういえば、そういう道理もある。しからば、節を屈して一橋に
仕えることにしよう」


洗濯機にほおり込む今日のお喋り  山本昌乃
 



 
こうして、元治元年(1864)2月、栄一喜作一橋家の家臣とな
った。ともに25歳のときである。屈辱的な御用金事件で、「武士とな
って世に立ちたい」という思いが、ここで実現したのである。最初にあ
りついた役は、奥口番という、屋敷の奥の出入り口の番人で、いたって
身分の低いものであった。そして彼らが最初に手にした俸禄(給料)は、
四石二人扶持。滞京手当、四両一分だった。(時価14,5万円という
ところか)なお慶喜に仕える際に、武士名に改名している。栄一では、
武士に不似合いということで、平岡のすすめに従って、栄一は篤太夫に、
喜作は成一郎と改名した。


流されようと決めたら消えた肩のコリ  井丸昌紀


最初2人は、奥口番という役目に就いた、が、ほどなく平岡円四郎から
一橋家直属隊の人集めを任される。風雲急を告げる京都で、禁裏御守衛
総督として、御所を守るにしても、慶喜の配下には、諸藩の藩兵が控え
ているだけで、手勢がほとんどいない。もっと手足として戦える集団が
必要だった。
もともと幕府の洋式陸軍は、農家の次男三男に銃を持たせて組織された
おり、それに倣って、篤太夫成一郎は農兵を募ることにした。西国や
関東各地に点在する一橋家の所領を訪ね歩き、志と体力のある若者を40
人ほど集めた。篤太夫・成一郎としては、倒幕のための挙兵要員くらい
の感覚だったかもしれない。


大福の中にイチゴというコラボ  平井美智子
 


藤田小四郎銅像

 
「天狗党の乱」
文久3年(1863)会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州
藩を主体とする尊王攘夷派を京都から追放した「八月十八日の政変」
きっかけに、水戸藩の実権を諸生党があ掌握。これに対し天狗党は、幕
府に攘夷の実行を促すため、翌年の3月27日「筑波山にて挙兵」した。
この時、実質的な指導者として党を率いたのが、藤田東湖の四男・藤田
小四郎で、その勢力は数百人規模に成長していたという。


背伸びしたかかとの悲鳴聞こえない  青砥たかこ


栄一は2歳年下の小四郎とは、文久3年の秋頃に2回ほど会い、ある時
「水戸は代々勤皇を唱え大義名分の明かなる藩風でありながら…中略
…何も為さずに単に議論ばかりして…」と、強く責めた。これに対して
小四郎は「水戸藩士と言っても、天下の大事を左様に軽易に為せるはず
はない」と弁解をしていた。この翌年に小四郎は、攘夷実行のために兵
を挙げた。この挙兵に際して、間接的に栄一にも誘いがあったが、栄一
らは、その1か月前に一橋家に仕えていたことを理由として断っている。


車間距離空けてページを繰らせない  上田 仁


農兵を募る務めの手始めに篤太夫成一郎は、自分たちと同じ志をもつ
農民を、関東一円へスカウトに向かった。が、当てにしていた人々は、
小四郎の挙兵に応じて、筑波山に向かっていた。一方、天狗党入りを断
った2人は、敦賀に迫った武田耕雲斎が率いる天狗党に対する、慶喜
追討軍に従っていた。天狗党には、旧知の藤田小四郎がいるだけでなく、
その8割は、篤太夫と志を同じくする農民たちであった。篤太夫の故郷
血洗島村でも、2人の天狗党兵が命を落としている。篤太夫と成一郎の
心中には、複雑な思いが駆け巡った。


掌中の宝が一人歩きする  三村一子





話は少し横道に逸れたが、奥口番や人事募集の職務は、篤太夫成一郎
にとって表向きの役目であり、実際は、一橋家の外交用務を取り扱う
用談所下役で、上洛する諸藩の役職者や留守居役などの意見を聞いたり、
「諸藩の形勢を探知したり、周旋活動」を行う、非常に重要な政治的ポ
ジションを与えられていた。彼らを一橋家にスカウトした平岡円四郎が、
栄一(篤太夫)の政治力を、高く評価していた表れだろう。
実のところ、元治元年(1864)2月25日から4月7日までの間、
篤太夫は、薩摩藩士の折田要蔵の門下生となり、スパイ活動に従事して
いた。


おしるこの底に沈んでいるだんご  星井五郎


折田要蔵は39歳にして、すでに兵学者として高名を博しており、軍艦
や海防について詳しく、薩摩藩の「摂海防禦御台場築造御用掛」に任命
され、「砲台の建造と大砲製造」を主導していた。一橋慶喜「摂海防
禦指揮」に任命されており、抗幕姿勢を憚らない薩摩藩に属する折田の
動向は、監視すべき対象であった。10年後には、折田は島津久光
「摂津沖湾岸防備」の設計書を提出している。


マスクした地蔵が雨に濡れている  安藤なみ
 

 ーーーーーーー
   三島通庸               川村純義、


その間、篤太夫折田を通じて、薩摩藩のキーパーソンである奈良原繁、
川村純義、三島通庸(みちつね)らと懇意になって、重要な情報を得て
平岡に報告している。また、沖永良部島での流刑を終え、中央に復帰を
果たした西郷隆盛とも、この時期に会っている。
(「禁裏御守衛総督」は、幕末に幕府の了解のもと、朝廷によって禁裏
都御所)を警護するために設置された役職である。その役職に 任命
され
た慶喜は、大坂湾周辺から侵攻してくる外国勢力に備えるため「摂
海防
禦指揮」という役職にも、同時に任命されている)


蝶番のわたしとドアノブのあなた  くんじろう


ーーーーーーー


「西郷と篤太夫(栄一)」
西郷隆盛は上京後、島津久光の家老・小松帯刀の下で、吉井友実との交
渉や廷臣への入説を担当した。篤太夫と同じように、西郷も探索・周旋
活動を行っていたことになる。渋沢の回顧録では、
「当時の青年の間では有名な人たちを訪問して時事を論じ、意見を聞く
ことが流行であって、先生(渋沢)も亦、盛んに此の名士訪問をし、種
々の人々と談論したのである。先生が大西郷と初めて会ったのも、此の
意味からであった」とある。


隠すものはないこれがわたくしです  市井美春


初めて訪問した時は、「或は攘夷を語り、藩政改革を論じ、或は幕政整
理を談じ」て西郷の関心を得たようで、「大西郷は『中々面白い男じゃ、
喰い詰めての放浪でなく、恒産あって、然も志を立てたのは感心じゃ、
時々遊びに来るがよい』などと言われた」と得意げに話している。また、
渋沢はこれ以降も西郷を何度も訪ねたと述べており、「大西郷は酒々落
々で、一介の書生相手に豚鍋などをつついて談論した」と自慢している。


この顔で笑っているのだ許されよ  前中知栄


渋沢は、薩摩藩の動静を探るために藩士たちに接近し、その中に西郷
含まれているというのが真相であり、特に他藩応接の中心人物であった
西郷への接触は、渋沢にとって至上命令であったと考える。
(しかし明治以降になると、そうした政治的背景は、意図的なのかどう
かは別として、まったく消し去られてしまい、維新の巨星・西郷との関
係の濃密さばかりが強調される回顧録となっている)


ポーカーフェイス吊り橋わたり切るまでは  郷田みや
 
 
 
 
 
「渋沢の西郷論」
隆盛公の御平常は至つて寡黙で、滅多に談話をせられることなぞの無か
つた方であるが、外間から観た所では、公が果して賢い達識の人である
か、将た鈍い愚かな人であるか一寸解らなかつたものである。
此点が西郷隆盛公の大久保卿と違つてたところで、隆盛公は他人に馬鹿
にされても、馬鹿にされたと気が付かず、その代り、他人に賞められた
からとて素より嬉しいとも、悦ばしいとも思はず、賞められたのにさへ
気が付かずに居られるやうに見えたものである。何れにしても頗る同情
心の深い親切な御仁にあらせられて、器ならざると同時に、又、将に将
たる君子の趣があつたものである。


表情の豊かさ自他の心地よさ  椿 洋子

拍手[3回]

踏んづけていたのは幸せの尻尾  高野末次
  
 
 
葵小僧-①


「火付盗賊改役」 平蔵 VS 葵小僧


「浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」
この台詞は、秀吉時代の盗人・石川五右衛門の辞世とされるが、五右衛
門は死ぬところまで恰好よく、盗賊としての信条があったようだ。
時代は江戸になってからも、賊たちは、盗賊追討の部隊が編制されると、
真っ向から受けて立ち戦端が開かれたという。生き様、死に様に、見栄
を通した。このとき多くの賊が討ち取られ、捕らえられた賊三百余人の
全てが斬首されている。
(捕り手側のこの武断的な事例が、後の「火附盗賊改」という形になっ
ていく。正式には、天和3年(1683)に火附盗賊改として設立)


首になる時はいっしょだ竹とんぼ  森田律子


当初、「火附盗賊改」は、戦国時代に武勇を馳せた家の子孫が任命され
ていた。が、時代が下るにつれ、家名と現当主との能力の差に乖離が現
れるようになり、低い身分の者で「武勇に優れた人物」が火盗改めの長
官に任命されるようになった。しかし、任命されたものの長官は、長く
続かない。長く続いた人で1年2ヶ月、短い人で1ヶ月余、1年続けば
「よくやった」とされ、平均6ヶ月程でお役御免を願い出るのがほとん
どあった。長官のお努めに支給される給金は、命と隣り合わせで、その
過酷さに比して安いからである。火盗改め200年の歴史で、200人
の長官が入れ替わっている。

(豆情報=火盗改方の与力、同心は、御先手組から派遣される。治安部
隊員だから捜査が荒っぽい。江戸学の祖といわれる三田村鳶魚の「捕物
の話」によると、火盗改方は、制度や法律とは無縁で引継ぎ文書などは
ほとんどなく、「仏に見守られていては、無慈悲に職務追行できない」
と、自宅の仏壇をぶち壊した長官もいた。という)


秒針が秋へ秋へと空回り  中田 尚
 
 

葵小僧ー②


 町を守るべき役人にやる気がなければ、泥棒にとって世はまさに極楽、
町は何でもありの無法が蔓延る。かつては、「殺さず、犯さず、貧しい
人からは奪わず」、という盗人にも、盗人なりの信条があったようだが、
そんなものはどこ吹く風の荒っぽい、泥棒は稼業なのである。さらには
天明の頃からの飢饉つづきで、諸国から江戸へ群れ集まる無宿者たちが
跡を絶たず、江戸の町は彼らの面倒をいちいち見ておられず、凶年うち
つづく間、それらの窮民は乞食となり、あるいは無頼の徒と化し、盗賊
に転落するものも少なくなかった。むしろ転職というのかもしれない。


影の言う通りにしたら気が楽に  木村良三


「人の顔をみたら泥棒(悪党)と思え」ではないが、天明・寛政(17
81-)の頃になると、悪人が増えて町の治安は手もつけられないほど
に乱れた。襲われるのは、商家の大店ばかりではない、武家屋敷ですら
抜刀した押込強盗の被害にあうことも頻発した。そんな悪い流れのまま
の天明7年(1787)、火盗改方長官へ長谷川平蔵宣以の登場となる。
その2年後の寛政元年に平蔵は、関八州を荒らしまわっていた大盗・
稲小僧(しんとうこぞう)こと真刀徳次郎一味を一網打尽にし、その勇
名を天下に響き渡らせると、悪人どもを次々に捕縛していった。平蔵が
長官となって、こうした実績に江戸の治安の評判がガラリと変わった。


黄河へ流すぞとたこ焼きをおどす  森 茂俊  
 


よしの冊子の町


時の老中・松平定信が、側近に命じて旗本らの素行・評判を調査、報告
させた文書「よしの冊子(武士の人事評価)に、
「長谷川平蔵は江戸の人々の間で『今までいなかった素晴らしい長官だ
…』といわれ、すこぶる評判がよい」と記述がある。そして平蔵の仕事
ぶりは、「悪人に対しては、鬼に、善人に対しては、仏の心をもって…
とても慈悲深い方だと、喜ばれている」と、上々の評判を語っている。

※(旗本の役職には、役方(行政担当の文官)と番方(軍事担当の武官)
がある。平蔵は一貫して武官である番方畑。御手洗組の頭は番方の最高
ポストで平蔵は、火盗改方長官を兼任した)


自己採点「百点!」つけて眠りつく  新家完司
 

「武家屋敷ですら抜刀した押込強盗」
平蔵の事件簿の代表的なものに、大松五郎という盗人の怪事件がある。
大松五郎は、江戸時代中期の盗賊。仇名は葵小僧。徳川家の家紋である
葵の御紋(将軍の御落胤を自称)をつけた提灯を掲げて、押込強盗を行
ったことから「葵小僧」と呼ばれた。葵小僧は、浜島庄兵衛と同じく、
押し込んだ先の婦女を必ず強姦したという。ともかくも凶悪な手口で、
江戸中を荒らしまわり、多くの旗本の婦女が被害にあっている。やがて
命運も尽きて大松は、鬼と呼ばれた火付盗賊改の長谷川平蔵に捕縛され、
わずか10日ほどの早さで獄門にかけられた。
本来、これほどの大盗賊ならば、市中引き回しのうえ、獄門となるとこ
ろだが、武家が泥棒に入られることが恥辱であり、また旗本の婦女子が
陵辱されていたために、こっそりと処分された事件である。
(浜島庄兵衛=白波五人男の日本左衛門)


3発も込めてロシアンルーレット  井上一筒



葵小僧ー③


「葵小僧 江戸での暗躍」
葵小僧。本名は桐野谷芳之助という。生まれは尾張。尾張は家康の故郷
であり、ご落胤がそれっぽい。父が役者で、父とともに役者の道を歩ん
でいたが成長すると、子役のころはそれなりに可愛いと持て囃されたが、
次第にその低い鼻が災いして、役どころも人気も落ちてしまい、両親も
亡くなって、女遊びをしても、容貌を馬鹿にされるばかりで女がつかず、
挙句に気に入った茶汲女に金を搾られて捨てられる破目に、そのために
自暴自棄となり、女を殺害して逃亡、その折に盗賊・天野大蔵に拾われ
て盗賊稼業に足を踏み入れることになった。
(天野大藏=尾張・三河一帯を荒し回った浪人くずれの盗人の首領)
 
 
怒られて泣き方さえも怒られる  福尾圭司


その後、芳之助は、天野大蔵に剣の腕を仕込まれ、尚且つ、役者だった
だけに押し込み先の内偵では、武士から商人、乞食にも化けて活躍し、
いつしか、付け鼻を使って人相を変えるようになった。そして芳之助は、
天野から、配下と盗人宿を継ぐ事になったが、次第にかつて女に馬鹿に
されていたのを根に持って、押し込み先で強姦をするようになった。


シュレッダー通したいやつ五六人  岸田万彩


寛政2年(1790)、芳之助は、江戸の池之端仲町の骨董屋に本拠を構え、
表向きは「鶴屋佐兵衛」として活動を始めた。平蔵が、彼の存在を把握
したのは、翌年の8月頃である。平蔵の配下で二足草鞋の密偵が亭主を
勤める船宿「鶴や」に被害にあった文房具屋「竜淵堂」の主人が、実兄
と事件のことで、密談をするために訪れたことがきっかけであった。
事態を憂慮した平蔵は、内密に捜査を進めたが1ヵ月後に主人夫婦は心
中をしてしまい、その直後から芳之助は、1ヶ月程の間隔で4件の押し
込みを行い、婦女を強姦、更に抵抗した3人を殺害した。


何人も殺してしまう無表情  中田 尚


寛政4年(1792)、正月から4月にかけて、芳之助の動きは確認さ
れなかったが、5月から活動を再開、夏までに 4件の犯行を行い、5人
を殺害した。しかもその内2件は、本拠に隣接する小間物屋「日野屋」
を襲い、3度目の押し込みを予告するという大胆極まりないものであり、
また、この頃から芳之助は、「葵紋」付の袴を着用し、「将軍の御落胤・
葵丸」と名乗ったことから「葵小僧」の名で世間を震撼させた。
 
 
簡単に破れますからチンすると  東川和子


しかし押し込みの際に、声色を使って戸を開けさせる役割を担っていた
配下の小四郎の存在が明らかになり、更に2度に渡って押し込みにあっ
「日野屋」の主人が、平蔵と親交のある医師、井上立泉を介して通報
したため、「日野屋」は火盗改の監視下におかれ、その視察にやってき
た平蔵が、芳之助を盗賊と看破し、骨董屋は火盗改の監視下におかれる
ことになった。


油断した訳ではないがつい薄着  雨森茂樹



葵小僧を捕縛する捕り手


そして9月4日の夜、芳之助は、目を付けていた傘問屋を配下17名と
共に襲った。しかし侵入する寸前、出動した平蔵以下火盗改与力・同心
併せて7名の急襲を受け、配下全員を切り捨てられた挙げ句に、自身も
背中に傷を負い、ついに捕縛された。
傷が癒えた後、芳之助は平蔵自らの取調べを受けたが、他の配下や盗人
宿を白状しない代わりに、今まで押し込んだ先での被害者の名を暴露し、
その範囲は平蔵が把握していた以外に、江戸や上方、中国筋に至るまで
30件余りに上った。


捨てても捨てても正直には遠い  山口ろっぱ


この自白は、被害者に更なる苦しみを与えんとする芳之助の卑劣な企み
だったが、平蔵は被害者の感情を考慮し、独断で芳之助を斬首、取調べ
の記録も残さなかった。
なお骨董屋に残っていた天野大蔵は、芳之助が捕縛された翌日には逃亡
し、行方不明となったが、この天野は、平蔵が芳之助の存在を把握する
1ヵ月前に平蔵によって捕縛、火刑に処された「蛇の平十郎」の師匠で
もあり、2人は面識があったものと思われる。
           「鬼平犯科帳『妖盗葵小僧』の中の葵小僧」ゟ


もういいよ そしてだあれも浮いて来ず  嶋沢喜八郎


 
石川島・人足寄場


「平蔵の根っこにあるやさしさ」
長谷川平蔵は、火付け盗賊改方に就任した翌々寛政元年に、老中松平定
「恐れながら申し述べたてまつる」と、「人足寄場設置」の建言を
行っていた。それが、まる一年後の春になって、幕府がこれを採りあげ、
築地の海に浮かぶ佃島北隣りの石川島の中六千余坪の地へ「寄場」を設
けることになった。
寄場には、三棟の建物のほか浴場・病室があり、ここへ収容された無宿
者は約三か年の間、さまざまの職業を習い覚え、「正業につき得る」
なるや、これを釈放して世に出した。


底辺を這って実感するいのち  有田晴子


つまり、この施設は、懲治場(懲らしめの為収監するところ)と授産場
(自立を支援するところ)を兼ねたもので、ここへ罪人を送り込むよう
になったが、新設当時の目的はそうでない。
「人足寄場の取扱いも、長谷川に命ずる」
老中・松平定信の鶴の一声というやつ。平蔵も断るわけにはいかないし、
骨は折れるけれども、盗賊改めと兼務することは何かと都合がよい。


モグラ一匹思考回路を出てこない  山本早苗


老中・松平定信は、苦しい幕府財政のうちから、新設年度に米五百俵・
金五百両の予算を捻出してくれたが、「なれど明年からは、約半分ほど
になろう。その間、浮浪人たちの授産が出費の助けになるようにいたし
くれるよう」松平の自邸へ平蔵を招き、申し渡した。
夏場になると寄場ができあがり、盗賊改めのみか町奉行所扱いの浮浪者
たちが、どしどし入所して来たし、平蔵も取扱として、三日に一度は石
川島へ出向いた。


まっすぐに裏街道を生きてきた  中村幸彦

拍手[4回]

裾上げもできずこの先どうするの  鍋島さと和
 


川村惠十郎と勇親子
 
 
川村惠十郎渋沢栄一が表舞台に登場するきっかけを作った。
当時、農民だった渋沢の才能を見込み、徳川御三卿のひとつ、
一橋家に引き合わせた、という記録が残る。
維新後、新政府に出仕し大蔵省、内務省、宮内省等に勤めた。
 
 
「青天を衝け」 渋沢栄一と平岡円四郎 





文久3年(1863)11月25日、渋沢栄一渋沢喜一は、伊勢参り
と称して、まず江戸に逃れ、そこから京に向かった。横浜焼き討ち未遂
テロのほとぼりを冷ますのが目的で、当てなどはない。2人は出がけに、
栄一の父が持たせてくれた百両で漫然と過ごしながら、幕府の動静を問
うために一橋慶喜用人・平岡円四郎をしばしば訪ねた。平岡とは、以前、
栄一が江戸遊学中の折に知遇を得たものだ。平岡は栄一たちより18歳
ほど年上だが、資性聡明、才気煥発で気さくな人柄で、栄一のことが気
にいっていたようだ。


君のこと好きです 広い意味ですが  前原正美
  
 
平岡円四郎は、幕府系の立場ながらも、反幕にも理解がある。この頃、
慶喜は将軍後見職として、長く京都に滞在していたが、江戸の老中た
ちとの関係がうまくいかず、平岡は不満を抱いていたのだ。
かつて栄一は、平岡に見込まれ「一橋家に仕えないか」と誘われ断っ
たことがあった。その後、平岡が慶喜に従って京にのぼる際にも「そ
の気になったら、いつでも来い」と言ってくれていた。
今は、その厚意にすがるしかない。栄一たちが江戸に着いた折、平岡
の留守宅を訪ねると、意外にもあっさりと、平岡家家臣という通行手
形を出してもらえた。読みの鋭い平岡が、この日の来るのを見越して、
言い置いてくれたのだ。


奇跡ってがらがらポンにつくおまけ  前中知栄



平岡円四郎(堤真一)


一橋家にも平岡家にも仕える気などなかったが、とにかく手形を携えて、
2人は西に向かった。無事に京都に着き、年末には伊勢参りもすませた。
年が改まってからは、薩摩藩の西郷隆盛や勤王の志士たちと交わった。
交友が広がるのはいいが、栄一たちの懐具合が、厳しくなってきた。
そんな折、江戸から尾高長七郎や高崎城乗っ取りの同志が、関東で別件
捕縛されたという報せが届く。栄一たちにも探索の手が伸びるのは必至
だ。2人は慌てた。京は危ない、だが、江戸方面は京より危なくて帰れ
ない。第一行くにも留まるにも金がない。2人の進退は極まった。そん
なところへ、平岡から呼び出された。恐る恐る出向いてみると、2人が
本当に家臣かどうか、幕府から問い合わせがきたという。


深呼吸すれば咲けるのかも知れぬ  木村徑子


「今度こそ、ふたりとも一橋家に仕えぬか、当家の家来になれば、捕縛
の手は及ばぬぞ」
栄一たちは、いまだ討幕を目指しており、一橋家は、徳川将軍家の近親、
御三卿のひとつだ。また突っぱねようとしたが、口を開く前に、
「近々わが殿は将軍後見職を返上して、江戸とは距離を置くことになる」
と、耳打ちされた。


何か切ない冬の小声に振り返る  山本昌乃


「どうするべきか」、2人は悩み、問答をはじめた。
「討幕派が一橋家に仕官では、とうとう食い詰めたか、と言われるぞ、
何より自分に恥じないか、栄一よ」
と喜作が言えば、
「その通りだが、気高いだけでは褒められはしても、世の利益になら
ないぞ」
と答え、
「世に効なくば意味がない。まごまごしていれば捕まるかもしれないし、
第一すぐ暮らしに困る。困って泥棒になってもしゅがない。今は何と言
われようとも試しに一橋家に奉公してみないか」と、栄一は続けた。


自画像の中を流れてゆく時間  三宅保州


まもなく慶喜は、朝廷から禁裏御守衛総督を命じられ、今まで務めてい
た将軍後見職は辞任するという。つまりは、一大名として、幕府方から
朝廷方へ鞍替えするも同然だった。慶喜の実家である水戸徳川家も、御
三家ながらも尊王方であり、それに倣うのだと、平岡円四郎は説明した。
また慶喜の実母は、有栖川宮家から水戸家に嫁いできた姫であり、慶喜
自身、有栖川宮の外孫であることを何より誇りにしているという、心情
的にも朝廷寄りだった。ただ一橋家は、「他の大名家と違って、自前の
家臣を持っていない、幕臣の出向ばかりで信頼できる者がいない」と、
平岡は嘆く。


どれだけのヒントを出せば気がつくの  前中一晃


「特に算盤を弾ける者がおらぬ、そなたなら適役だ」
栄一は、喜作と顔を見合わせてから、戸惑いを打ち明けた。
「でも、それがしでは身分が…」
農家の出で、一橋家になど召し抱えられない、と言葉に含ませる、
平岡は一笑に付した。
「わが殿は、人物本位で重んじてくださる」
栄一の心が動いた。喜作も乗り気で、直ぐ慶喜のもとに連れていかれた。
身の程知らずにも、栄一が、慶喜直々御目通りを望む、平岡は無理を
通してくれた。それほど高く買ってくれていたのだ。


明日へと血を滾らせる大落暉  大西將文  



一橋慶喜(草薙剛)


御目通りを許された、この時、栄一慶喜の御前で大言壮語をはいた。
「幕府の命脈はすでに尽きているから、一橋家は幕府と敵対すべきだ」
と、訴えたのだ。本来なら、無礼討ちにされて当然のところだが、栄一
としては、命がけで、平岡の言葉の真偽を確かめた、のかもしれない。
慶喜は黙って聞いていた。平岡の人を見る目を信用していたのだろう。
栄一は、拒まれなかったことで気がすんだらしく、喜作ともども一橋
家の末端に連なった。


釣り堀の鮒は戻されまた掛る  佐藤近義
 
 
    
    川村恵十郎       波岡一喜


横浜襲撃を断念した栄一喜作は、一橋用人の平岡円四郎に見いだされ
て、一橋家に出仕し元治元年(1864)以降、一橋慶喜のもと京都で
活動したとされている。慶喜は、尾高新五郎が心酔していた水戸藩主・
水戸斉昭の七男である。攘夷論者にとっては期待の星であった。栄一ら
が横浜焼き討ちの計画を練っていたころ、一橋家では、横浜の鎖港交渉
が決裂し、西洋諸国と戦端が開かれた場合を想定して、草莽有志を登用
する計画を立てていた。その中心に平岡円四郎がおり、平岡に意見具申
したのが、川村恵十郎であった。


傷口を見破ったのはクレヨン画  郷田みや


川村惠十郎は、八王子の小仏関所番見習いながら、江戸と人脈を広げて
平岡と接触、その後、平岡の部下として柔軟に動き、鋭い目つきで情報
収集に努めるとともに、 攘夷派から命を狙われる平岡の傍に付き、護衛
を務めていた。そこで惠十郎は、平岡に在野の有志を一橋家で登用する
必要性を説いた。平岡の賛意を得た惠十郎は、伝手を使って有志募集の
周旋を開始した。その過程で栄一と喜作が見いだされたのである。


ショッツルにしばらく漬けてあるあなた 井上一筒  
 



惠十郎は厳しい目で栄一・喜一の適正を見つめていた。
 

惠十郎の日記に、初めて栄一喜作が登場するのは、文久3年9月9日。
惠十郎が栄一・喜作に目を付けたのは、 江戸の酒場で2人の威勢のよさ
を見たのが、きっかけとなった。そして、惠十郎が2人と対面したのは、
同月18日であった。朝から昼近くまで2人と話し込んだ惠十郎は、両
人を「真之蝦夷家」と評価した。このことを平岡に話すと「殊外(こと
のほか)感激之様子」であったという。当時、栄一と喜作は、横浜襲撃
計画の渦中にあったので、この計画も話題に上がったかもしれない。
そうであるならば、関東草莽決起と一橋家の有志登用と結びつく可能性
もないわけでもなかった。


体重計で人の器は計れまい  笹倉良一


栄一喜作一橋家で取り立てることは、「横浜襲撃計画」と同時に進め
られ、血洗島村の領主・安部信発にも掛け合いがなされた。10月20日
前後には、慶喜の上京に合わせて、両人が登京することも決まり、このこ
とは、彼らから新五郎にも伝わっていた。決起前にも拘わらず、新五郎は
彼らを引き留める様子はなかった。栄一らの一橋家登用とその登京は、横
浜襲撃計画にとってマイナス要因ではなかったのであろう。しかし、結局、
関東草莽と一橋家がむすびつくことはなく、栄一・喜作の登京と一橋家出
仕のみが実現したのである。


失敗を刻んで明日の糧とする  中川隆充

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