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川柳的逍遥 人の世の一家言
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4分の1ずつあってほしい四季  上島幸雀



    大江戸年中行事・日本橋魚河岸、正月二日、朝市


元旦の江戸の町は人通りもほとんどなく、庶民の多くは正月を寝て過ご
していた。2日ともなると、日本橋の魚河岸には多種多様の魚が並び、
普段から多くの人々で賑わっていたが、初売りの時は、江戸橋まで店が
軒を連ね、大勢の買い物客であふれかえった


「江戸の行事へ落語と歩く」


正月はおめでたい月ですから、さぞかし賑やかと思いきや、
基本、江戸時代の正月は、「寝正月」です。
何といっても前の晩、「大晦日には、遅くまで飲んで、氏神様にお詣り
して」
と、大忙しだったもんですから、元日に朝早く起きるのは、
どうでも初日を拝みたい」と、思う人たちだけでしょう。
それでも、「年の初めの若水を汲み、みんな揃って雑煮を食べる」と、
何となく、厳かな気分になってきます。


退屈という贅沢にどっぷりと春  大葉美千代


「初詣」には、その年の恵方の神社やお寺へ参ります。
今年は南が恵方だと聞けば、そちらの神様・仏様へ一年の無事を願いに
行くわけです。
武家は、町方のものと違い、元日、2,3日と、三が日の登城をして、
「年賀の儀式」、旗本以下の軽輩でも上司に「年始回り」をしなければ
なりません。暇なのは浪人くらいなものでしょう。


明日またきっといい事ある兆し  藤河葉子



「伊勢個世身見立十二直」 (三代豊国)


町方でものんびりした気分は、「一日だけで二日から」江戸の町は動き
出します。店や問屋は「初荷」で大賑わい。
日本橋の魚河岸なんてのは、黒山の人だかりです。
かの吉原もお休みは、一日のみ、二日から営業するそうで皆働き者です。
さて一日の夜に見る夢は「初夢」といい、みんな「枕の下に宝船の絵」
を入れて眠ります。


すみませんねえというニワトリ風の声  井上一筒


落語にこんな噺があります。「羽団扇」です。
『ある男が宝船を枕の下に入れて寝る。
「どんな夢を見たか」と聞きたい女房が、納戸でも起こしてくるので、
喧嘩になってしまった。
そこへ天狗が現れて、男は鞍馬山へ連れていかれてしまう。
どうやって帰ろうか、考えた男は、夢の内容を話す代わりに
「天狗の羽団扇を貸してくれ」と、頼む。
手に入れた団扇で空を飛び、まんまと逃げたが、途中で墜落。
落ちたところは宝船のなかだった。
そこで目が覚めた男は,女房に夢を話す。
「そりゃあ、いい夢だねえ。さあ煙草でもお吸いよ。
 それで七福神はいたのかい」
「恵比寿、大国、布袋、福禄寿、毘沙門、弁天」
「一福足りないね」
「一ぷくは煙草でもって飲んじまった」
宝船には七福神とともに、
なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの 
おとのよきかな と書いてあります。
(永き世の遠の眠りのみな目ざめ波乗り船の音のよきかな)
上から読んでも下から読んでも同じ、回文です』。


いい人の明度にすこし無理がある  美馬りゅうこ


七日は「人日(じんび)」、七草粥を食べる日です。
これは将軍も武家も庶民も同じで、これを食べれば一年「無病息災」
万病に罹らないと言われています。
「鏡開き」は十一日。
お供えのお餅は、神様が宿っているお餅なので、刃物で「切る」のは
縁起が悪いとされ、「割って」小さくします。
調理法としては、お汁粉、雑煮などでしょうか。
二十五日は、「お初天神」。
天神様にお詣りに参ります。


始まりの矢印君に辿り着く  山田れもん



稲荷神社のお祭りで


このお題と同じ「初天神」という落語があります。
『男が初天神の日、お詣りに行こうとすると、女房が、「息子を連れて
行け」
という。息子は、「なんでも買ってくれ」と、騒ぐので、
「イヤだ」と断るが

「おねだありなんてしないよう」
という殊勝な言葉に、しぶしぶ連れて行く。
ところが、天満宮に着いたとたんに、
「今日はおねだりしない良い子するから、ご褒美に何か買っておくれ」
とねだられ、仕方なく飴玉を買ってやる。
お詣りがすむと、今度は凧をねだる。
それも店の看板になろうともいう大凧だ。
結局、買ってやった男だが、飛ばしてみるとおもしろい。
子供より親が夢中になってしまい、なかなか交代してくれない。
そこで子供がひと言。
「ああぁ、こんなことなら親父なんか連れて来るんじゃなかった」』


耳たぶに指紋をつけるのはやめて  富山やよい
 


稲荷神社のお祭りで


二月にはいり、最初の午の日にあたる日が「初午」。
これは「稲荷神社のお祭り」です。
「伊勢屋稲荷に犬の糞」といわれるように、江戸市中のそこここに、
お稲荷さんが祀ってありました。
お稲荷さんは、もとは「五穀豊穣を願った農業神」。
江戸では商売繁盛の神様となったのだから、一つの町内に三つから五つ、
武家の屋敷では一軒に一つ、お社があったほど。
そして、この日に限り、武家の屋敷では、「町内の子供の出入りが自由」
なります。屋敷の中では、お神楽の舞台があったり、いつもはしかめっ
面の武士が、女装して踊ったりと楽しい余興が続きます。
また、七、八歳の子は、本日から寺子屋入りをいたします。
はじめてお師匠様に会う「入学式の日」です。


春と書いてみる2月1日朝  雨森茂樹


八日には「針供養」が終り、二十五日から「雛人形や白酒の売り出し」
が始まります。
人形は、「十軒店」という所が有名で、今の日本橋あたりにありました。
白酒は、「鎌倉河岸の豊島屋」が第一とされ、売り出し日には、押すな
押すなの人だかり。店の入口と出口を別にして、整理券まで配ったのに、
怪我人が出るほどの繁盛ぶり、豊島屋もそれを見越して医者の用意まで
してあったとか。
そんな思いで買った白酒に、ひし餅をそなえて、三月三日の「雛祭り」
を迎えます。
大名家なら、豪華な飾りもありましょうが、庶民は、今年はお内裏様、
来年は三人官女と、少しづつ買い整えていきました。
「雛祭り旦那どこぞへ行きなさい」
という川柳でも分かるように、この日は女のお祭りでした。
三日は「上巳の節句」(桃の節句)ともいい、大名たちは、江戸城に、
登城するならいになっています。


酒臭いお地蔵様のよだれかけ  ふじのひろし



      花見帰り墨田の渡し (渓斎英泉)


そういえば、三月一日になると、「吉原では桜」が咲きます。
なんのことかといえば、この日、吉原仲の町通りに桜の木が移植され、
あっという間に見事な桜が揃うのです。
これを「千本桜」といいました。
桜は、一日に間に合うように育てられたもの。
特に夜桜は、吉原の名物となっています。
庶民にとっても桜の季節は気もそぞろです。
桜の名所の代表といえば、上野に飛鳥山、墨田堤です。
しかし、上野は寛永寺の管轄で、「酒、歌舞音曲はご法度」、
「おまけに早じまい」ときています。
飛鳥山は、庶民のためと、八代将軍・吉宗公が設けたものですが、
いかんせん遠すぎる。
そこで多くの人が繰り出したのが、墨田堤です。


見るだけにしてねと桜咲いている  肥塚裕夫


花見といえばこの落語、「長屋の花見」です。
『貧乏長屋の大家が、店子らを集めて景気づけに花見をしようと誘った。
といって御馳走を整える金もない。すると大家が用意したという。
酒三本に重箱の弁当、これには一同、大喜びしたが、蓋を開けて驚いた。
酒は番茶を煮て、薄めたもの、卵焼きとかまぼこと思っていたのは、
黄色いたくわんとダイコンのお香々。
それでも出かけてみれば、あたりは満開の桜。
めいめいムシロに坐って
番茶とたくわんで花見を始めた。
すると茶碗の中を覗き込んでいた男が、
「大家さん、近々長屋にいいことがあります」
「そんなことわかるかい?」
「酒柱がたちました」
花見には庶民も武家もございません。
どこぞのお旗本が女形に扮したり、いつもは屋敷の奥に引っ込んでいる
お姫様も出張ったり、みんな桜の花を楽しみました』。


笑い皺日々幸せの副作用  掛川徹明


四月、五月、六月が「夏」いうと驚かれるでしょうが、新暦に直せば、
凡そ、五、六、七月にあたりますから、もう夏の声が聞こえます。
四月八日は「灌仏会」があります。
お釈迦様の誕生日ですね。
花を飾った小さいお堂に、「お釈迦様の像を安置して、甘茶をかける」。
この甘茶、いただいて持ち帰り、
これで墨をすり、お習字の上達を願います。また、
「ちはやふる卯月八日は吉日よかみさけ虫を成敗する」
と、書いて柱に貼っておくと、虫除けになるそうです。
お釈迦様の霊験、あらたかなるかな。


虫かごの中で命の声がする  新川博子


 
  目には青葉山ホトトギス初鰹 (渓斎英泉)


この季節になると、江戸っ子たちの関心は「初鰹」です。
明日になれば、もっと値段が下がるのに、といわれても、
「今日食わなきゃ江戸っ子じゃねえ」
とばかりに無理をして買い求めます。
初物を食べえると、「七十五日寿命が延びる」とか。
「女房を質に入れても初鰹」
まさかに女房とまではいきませんが、「もう着ない冬物を入れちまえ」
とする亭主はいたようです。
おかみさん連中は、「寒いとき、おまえ鰹が着られるか」と、いたって
冷静です。


贅沢というモノサシの中に春  柴田比呂志


五月は、五節句の一つ「端午の節句」で始まります。
前日の四日に、「菖蒲売り」が来ますので、
これを買って蓬(よもぎ)とともに軒先に挿しておきます。
ほかにも男子がいる家では、家紋をつけた幟(のぼり)を立てる。
という風習があるようですが、貧乏長屋ではそうもいきません。
「安幟ふきんにたわしつけたよう」
くらいの飾りになってしまいます。
この端午の節句にも、武家は登城の決まりがありました。


鯉のぼり大人になってゆく五月  市井美春



江戸自慢三十六興 両国大花火 (三代豊国)


二十八日、「両国川開き」です。
いよいよ夏も盛りです。
花火が打ちあがり、橋の上に見物人が詰めかけ、「川には屋形船」が、
ぎっしりと浮いています。
この花火は、川の上流を「玉屋」、下流を「鍵屋」が担当しました。
この頃の花火は、赤か橙色しか出せませんでした。
それでも、夜空に煌めく一瞬の美に、江戸の人たちは楽しさを感じて
いたのです。
花火の掛け声である「玉屋ー、鍵屋ー」は、花火業者の名ですが、
実は「玉屋」は、天保年間に火事を出し、お取り潰しになっています。
それ以降、川開きの花火は、「鍵屋」の独占市場となりましたが、
「掛け声だけは残った」のだとか、


ムカシムカシのお話をする通り雨  藤本鈴菜


その掛け声にまつわる噺が「たがや」です。
『川開きの日。両国橋は人でごったがえしている。
そこへ本所方面から、馬に乗った旗本と供が三人、やってくる。
人をけちらし強引に橋を渡ろうとする。
反対側から来たのは、煙突の煤を払う竹の「たが(箍)」。
これを担いだ「たがや」
人にもまれ、押されたはずみに担いでいた「たが」が外れて、
旗本の笠
に当たって、飛ばしてしまった。
「たわけ者、手討ちにいたす」
と、旗本はカンカン。たがやは平謝りに謝るが、旗本は許さない。
ここでたがやは開き直り
「血も涙もねえ、のっぺらぼうの丸太ん棒野郎!」
「この大小がこわくないか」
「大小がこわくって、柱暦の下ァ、通れるか」
たがやは、供の刀を奪うと、必死に斬りつけてきた。旗本も馬を降り、
槍をしごいたが、たがやの刀が一閃、旗本の首がすっ飛んだ。
それを見ていた見物人、
「上がった上がったィ。たがやァい!」


成り行きはみんな私の撒いた種  津田照子



「江戸自慢十六興 鉄砲洲いなり富士詣」 (三代豊国)


六月一日は、「富士山のお山開き」があります。
富士山に登ってみたいけれど、なかなかそこまでは行けない。
ならばと生まれたのが、「富士塚」です。
神社の境内に小山を作り、富士山と見立ててあります。
ここなら、年寄も女も安心して登れます。
また一日は、富士山の頂上にある「浅間(せんけん)神社のお祭り」で、
それに伴い、江戸の浅間神社でも祭礼があります。
ここのお土産は、「麦わらで作ったヘビ」。疫病に罹らないそうです。


絶景と自由気ままに生きている  西尾芙紗子


十六日には、「嘉祥(かじょう)」という行事があります。
庶民は積極的に行わなかったようですが、江戸城内では、
一つの儀式として成立していました。
これは疫病をを払うため、平安時代の仁明天皇が、菓子を供えた故事に
基づいています。
将軍が、十六種類の菓子を臣下に配るのですが、どんな菓子があったの
でしょう。菓子は茶の湯が盛んだった京都が名産。
しかし江戸にも、桜餅やきんつばなど、京都に負けない江戸らしい味が
生れています。
二十七日は、「相模大山の山開き」。
神奈川にあるこの山は、江戸から近く、博打と商売の神様ともあって、
参詣者も多かったとか。


草餅の老舗知ってる客の列  川崎博史


では、「大山詣り」の一席をどうぞ。
『長屋の大家を先達として、大山詣りに出かける一行。
道中、怒ったら「二分の罰金」。ケンカをしたら「丸坊主になる」
といおう決まりごと。
それというのも、熊五郎がいつも問題を起こす
からです。
案の定、今回も保土ヶ谷宿で熊五郎は、大立ち回りをやらかしてしまう。

一行は、罰として眠っている熊五郎の頭を丸坊主に剃りあげ、さっさ
と帰ってしまう。
翌朝、目を覚ました熊五郎、置いてけ堀に憤慨し、早駕籠を雇って、
一行より先に長屋へ帰る。
長屋のおかみさん連中を集めると、
「仲間はみんな死んでしまった、それで自分だけが生き残ったので、
 申し訳なく坊主になった」
と嘘をつく。
菩提を弔うためには、尼になれ、という熊五郎の言葉を鵜呑みにした
おかみさんたちは、みんなクリクリ坊主の頭にしてしまった。
そこへ帰って来た長屋の連中。
「なんてことしたんだ」と息巻くが、先達は、
「お山は晴天、みな無事で、お毛が(怪我)なくっておめでたい」』

    本日はここまで、おあとがよろしいようで、By 北原進ゟ


普通という幸せ普通という贅沢  小島蘭幸

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元日の朝はまばらに夜が明ける



 
 


             令和四年元旦 
                    了味茶助  
  


江戸の正月

 
    年礼をうけて今のは誰だった 柳多留
 

何はなくともお正月、まずはおめでたい。

男の子は、凧揚げ、駒まわし
女の子は、追い羽根で裏長屋にも一陽来復。

御慶の見習い甚六を供に連れ  柳多留

昨日の鬼ー借金取りが、おめでとうございますと礼に来る。
魚河岸の初売りが二日、職人も、この日を仕事始めにした。
昔の働く人は、正月は一日だけしか休まない。
勤勉なものである。

喰積(くいつみ)を三十日に食って叱られる  柳多留

初荷、初夢、武士の乗馬初めと、初ずくめの二日うちで、
一番威勢がいいのが町火消の出初め、各町の鳶頭が皮羽織、
腹掛け、半纏も新しく、いろは四十八組ずらりと揃う華やかさ、
男を競うしご乗り。
鳥追い、獅子舞い、漫才とお江戸の春の賑やかさ。
ついうかうかと七草が来て、ようやく門松を取り払う。

おぶさった奴が養う猿回し  柳多留

十一日が蔵びらき、小正月が十五日。
十六日は丁稚小僧の藪入りの日。
お正月気分は、ここらあたりでおしまい。
あとはまた、稼ぐに追いつく貧乏なしと、
それぞれが家業に精を出す日常になある。
門松は、冥土の旅の一里塚というが…、
こんな正月をあと何日繰り返すのかと、ひょいと考えて、
貧乏暮らしが嫌になる夜ふけ。

年始帳名までよろけるいい機嫌  柳多留

火の用心さっさりましょうー。


    

子は初雪の雪でだるまを作り、大人は運気が上がりますようと凧揚げる

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元日や今年もあるぞ大晦日  柳多留
 


『東都歳事記』商家煤掃 (しょうかすすはらい)
     
江戸の12月は、煤払いやら畳替えなど、とにかく
新たまの年を迎えるために大忙し。掃除がひと通
りすむと、主人を始め一同の胴上げがあり、蕎麦
や鯨汁がふるまわれたりした、という。



     江戸の年末 錦絵「羽子板見世の賑い」香朝楼豊斉筆
 

江戸の冬の名物は焼芋。諸所に釜を据えて焼芋を売る者がいた。
歳の市は、15日の深川八幡宮からはじまる。
17,8の両日は浅草の観音様。ここでは、羽子板市が催される。
江戸時代中期以後は、非常に盛んで羽子板を売る店が数件も続いた。
20.21日が、神田明神。24日が、芝愛宕権現とつづく。
歳の市が終わる頃は、年一回の大掃除に当たる「煤払い」が町の家々で
行われる。それから餅つき門松、注連飾りのかざりつけ。
正月の室内の飾り物としては「室咲きの鉢植えの梅」が売り出される。


大晦日胆にこたえる頼みましょ  柳多留 


「江戸の12月」江戸の風景ー大晦日

 
師走、借金取りが駈けだせば、取られる方も駈けだす。
ふだんは落ち着いている師匠といわれる人も駈けるから
「師走」とは、落とし噺である。
江戸時代は、武士が米を給金として貰っていたから、
大きな支払いは、米の収穫後に清算される。
それで、12月は大名、旗本からそれに連なる商人・職人の
決算の月だった。年一回の決算だから忙しい。
 
 
 餅はつくこれから嘘をつくばかり  柳多留
 
 

     九里四里旨い十三里 江戸の焼き芋

京都で始まった焼き芋は、時を経て寛政(1789~1800)頃
江戸に伝わった。

一日は、たちまち過ぎて、また新しい日が来ると思うと過ぎ去り、
人はその年月のなかの旅人である。
大晦日百八つの鐘を聞き、新しき明日にはかない希望をつなぐ。


大晦日嘘をつかぬは時の鐘  柳多留   


江戸の小咄(仕形噺) 「大晦日」


この暮れは、大屋(大家)の、米屋の、薪屋のと手詰めの絶対絶命。
思い付きの早桶(棺桶)を買って来て、その内へ入り、
「おれが死んだことにして今夜を送り、元朝に蘇生したと言えばよい」
と女房に呑み込ませ、死んだふりをしている所へ、米屋が来たを女房が
段々のくどき言。
「さてもさても笑止な事ではある。ここに今取って来た銭二貫。
 これでマア、取置かしゃれ」
「イイエ、思ひがけもない。八貫から上の借りを上げぬのみか、
 ドウマア、これがいただかれませふ」
「ハテサテ、取っておかしやれ」
デモ、ハテと、あちらへやり、こちらへやりはてしなければといふ身で、
「ハテ、下さるものなら取っておきやれさ」


大晦日亭主家例の如く留守  柳多留
 


      江戸の年末の風景 其々の年末、怠りなく
 

「上の小咄が「落語」なるとー」


江戸の昔は、普段はツケで買い物をして、支払いは、盆暮れにまとめて
支払うのが習慣でした。大晦日ともなりますと、このツケの支払い、
カケの受け取りで、大変でございますな…。
そりゃ、金がありゃあいいですよ。その日暮らしの貧乏人の中には、
どうしても金の工面がつかないという者が出てまいります。
そうかといって、商人の方だって、夜明けまでに取り損なえば、
また半年待たなくっちゃいけないんでございますからな…。


大晦日よく廻るは口ばかり  柳多留


この暮れは、どうにもこうにもやり繰りがつかないという男。
どこからか都合してきた棺桶の中に入って、女房に申しましたですな…。
「俺を死んだことにして、何とか今夜をやり過ごしてくれ」
「そんなバカなことをして、後をどうしなさる?」
「なぁに、元日に生き返ったと言えばよい」
無責任なヤツがあったもので…。そこへ米屋が掛取りにまいりましたな。
女房は、あまりの情けなさに涙を零しながら、しどろもどろの言い訳を
いたしますてぇと、気のいい米屋、
「この暮れへきて、急に亡くなったとはお気の毒。せめてこれでも…」
と、いくらかの銭を置こうとする。
「とんでもないことで、お借りしたものをお返しも出来ないのに、
 これはいただけませぬ」
「そう言わずに、取ってくだされ」
押し問答をしておりますと、棺桶から手が出て、
「呉れるというものは、もらっておけ!」


ぬれ畳大屋の前へ干して置き  柳多留



    江戸の年末の風景 餅つき


そんな気のいい米屋ばかりではありませんな。
大晦日、みすぼらしい姿の浪人が、米屋にまいりまして、
「お主のところの借財が払えぬ。拙者も侍の端くれ、申し訳のため、
 この店先にて腹を切り申すが、どうじゃ…?」
米屋の亭主はせせら笑って、
「お前様方のお決まりの脅し文句…。その手には乗らぬ」
進退窮まった浪人、肌脱ぎになりますてぇと、脇差を腹へ突き立て、
へその際まで切りましたですな。
「うぅ…どうじゃ、かくの如くだ…!」
「どうせ切るなら、なぜみなお切りなさいませぬ?」
「うむ…、残りの半分は酒屋で切る」


大晦日命別状ないばかり  柳多留 


掛取りに回る手代の方にも、泣き落としの決まり文句が、
ございましたそうで、
「今日は大晦日、たとえ半金でも払ってくだされ。
 手ぶらで帰っては、主人の手前、わたしが首をくくらねばならぬ」
「すまぬが、今夜のところは、そうしておいておくれ」


掛け取りが帰ったあとでふてえ奴  柳多留


こちらは橋の下を住まいとする、乞食夫婦でございます。
「ねえお前さん、町中では、払え、払えぬで大騒ぎしているようだけど、
 こっちは気楽でいいねぇ…」
「これ!大きな声で言うんじゃない」
「あれ、どうしてだい?」
「みんなが乞食になりたがる…」


大根ですだれのできる寒いこと  柳多留



江戸の年末風景  餅つき
江戸の年末は、すべてにおいて女が主役だった。


「江戸城の御用納め」も、江戸の職人、商人などの仕事納めも、
28日でございます。しかし、商人のなかには、年内の仕事納めでは、
一段落とはいかない者もいるのです。  
大晦日の「晦日」は末日のことで、晦(つごもり)は月隠(つきごもり)で、
月が隠れる月末そのものを指すのでございます。
12月31日は、一年が終わる晦日ですので「大晦日」と呼ぶんでご
ざいますな。


大晦日四百五病でうなってる  柳多留



年越しそばを食う風習は、江戸は文化元年ころから
始まったといわれ、蕎麦は、他の麺類よりも切れやすい
ことから「今年一年の災厄を断ち切る」という意味。
 

棒手振りからの買い物や屋台の二八蕎麦は、現金だが、庶民が町内で
買い求める米や酒、醤油や塩、炭や油、などの生活必需品はいわゆる
”つけ”がほとんどで、盆暮れ勘定でございます。
そこで、年末になると多くの商人が、この「掛け売り代金の回収」
走り回るのです。
商人にとって、暮れの勘定は、必ず支払ってもらわねばならない一年
の総決算ですが、その日暮らしの長屋の住人に、懐の余裕などあるは
ずもありません。


大三十日(おおみそか)大きな声もする日なり  柳多留


あの手この手を使って「ない袖は振れぬ!」と、ツケの支払いから逃れ
ようとするのです、
な、もんですから、年の瀬、特に大晦日ともなりますと、
貸した方も借りた方も、まさに、一大決戦の場となるのでございます。
年末の大関所ってとこでございましょうか。
大晦日の深夜まで、取り立て合戦が続くのでございます。
取立て屋と化した商人たちは、ここが踏ん張りどころ紋付の提灯を手に、
大晦日が終わってしまう午前6時頃(明け六つ)まで、徹夜で取立てに
奔走しなければならないのです。
お江戸の大晦日の借金攻防戦は、年末名物でございますな、


むつかしい大屋はたえず札を張り  柳多留


仮病を使ったり、居留守を使ったり、厠に閉じこもってやり過ごしたり、
借金を踏み倒そうと、知恵をしぼる方も必死です。
 大晦日 よくまわるは 口ばかり~
金欠病で首は回らないのだが、言い訳の口上はペラペラとよくまわります、
 鬼じゃ〜、鬼がきよった〜。
 大晦日 首でも取って くる気なり~
金払えねぇんなら、首おいてけ!
借金取りの気合と覚悟がビシビシ伝わります。
 掛取りも 二足三足で春を踏み~
大晦日に何軒かを借金取りに出向いているうちに、夜が明けちまった。


あやまっているうち春に改まり  柳多留
 


       極月大晦日の鬼 歌川国芳
大晦日の掛け取りは、取立てが厳しく鬼や閻魔に見えた。


 「江戸小咄」 掛取り

浪人の所へ掛取りに行き、
「アイ、米屋でござります」
女房、「留守だ」といふ。
米屋障子の穴から覗き、
「それ、そこにござるではないか、ここから見へます」
と、いへば、浪人、蚤取り眼にて穴をふさぎ、
「どうじゃ、これでも見えるか」
「イヤ、見へませぬ」
「そんなら留守だ」


留守かなと見くびって来る大晦日  柳多留


【知恵袋】  まとめ

江戸時代、人々は米代や薪代、酒代などを、その都度支払わず、
いわゆる「つけ、後払い」にし、支払い勘定日にまとめて支払っていた。
また、家賃などは、月ごとに支払うことになっていた。
ところで、これら節季ごとや月ごとの支払いが、滞らなければ問題はない
のだが、滞ると、きつい取り立てを受けることになった。
特に「五節季」のなかでも、年の暮れ、大晦日は、「大節季」といわれ、
厳しい取り立てが行われた。
「掛取り」「掛乞い」といわれる人たちがやって来て、
鬼のような形相で、お金の支払いを迫ってくる、のだ。
 
節季=季節の終り。ここでは各節句前の支払い勘定日。
五節季=三月三日、五月五日、七月十六日、九月九日、十二月晦日。


煤掃きの顔を洗えば知った人  柳多留  

拍手[4回]

浮草も終の住処をさがしてる  津田照子



                  麻疹流行年数  歌川芳宗
江戸時代、感染症の麻疹が約20年ごと流行していたことを記す。


「江戸時代の感染症流行」



                  麻疹養生之伝 (歌川義虎)


昨年からのコロナ禍の拡大により、いまではオミクロン株が凄い勢いで、
広がりを見せており、日本をはじめ世界中の国が、対策に追われている。
が、実は、江戸時代にも、人々の命や生活を脅かす感染症が何度も流行
していた。実際、感染症流行時には、多くの命が奪われ、江戸の町はパ
ニックに陥るが、現代より知識も医療も未熟な時代でありながら、都市
崩壊を免れている。
そこで、百万都市江戸が執った対策を考察してみる。
当時は、医療のレベルが現代とは比較にならないほど低い上に、感染症
の特効薬やワクチンもなかったため、感染を防ぐ一番の方法は、人との
接触を避けることであった。正体の判明しない恐怖感から、町や町民は、
上からの指示を待たずに感染防止のため、日々の行動をみずら制限した。
やはり、「自粛」である。


コロナ禍の街を流れている妖気  新家完司



      麻疹退治  (歌川芳藤)
養生のため禁忌となった湯屋や娼妓らが、感染症を広める悪神に襲い掛
かっている。


一方、人が集まる銭湯、髪結床あるいは、料理屋や芝居小屋、遊郭など
盛り場では閑古鳥が鳴く、その結果、経済活動が停滞して景気が悪化し、
生活困難に陥る者が続出した。(コロナ禍の現在と同じ光景である)
幕府はこうした状況を危険視し、興味深い施策を取る。
感染の有無に拘わらず、生活苦に陥った江戸庶民を対象に、「御救金」
一律に支給したのである。その規模は、江戸の町人人口の半数を超える
約30万人にも及んだ。日々の生活を維持するための「持続化給付金」
に他ならないが、その事務局として、設置されたのが「江戸町会所」だ。
江戸の都市行政を預かる町奉行所の、外局のような組織である。


経済も地球もご機嫌斜めなり  武友六歩


ただし、ここで問題となったのは給付金の財源である。財政難の幕府は
対応に苦慮するが、当時幕府のトップとして寛政改革を進めていた老中・
松平定信は、無駄遣いが多かった「町入用」に目をつける。
町入用とは、江戸の町を運営するための行政費だが、幕府ではなく町人
たちが拠出していた。


結論はいつも諭吉が引き受ける  ふじのひろし
 
 

       麻疹疫病除 (歌川芳艶)
 

要するに、江戸の町は、町人たちの積立金をもって運営された自治組織
だったが、定信は、積立金の一部を財源に充てることで、幕府の懐を傷
めずに、庶民生活を持続させるための財源を確保しようと目論む。
幕府主導の元、共済組合のようなシステムを構築しようとしたのである。
現代に喩えると、自助でも公助でもない「共助」のシステムだった。
町人からの積立金を預かるとともに、感染症流行時には、給付金支給の
窓口となった町会所では、積立金の一部を貸し付けに回すことで利殖を
はかり、その増資にも努めている。さらに、積立金を資本に大量の米を
買い入れて備蓄米とし、飢饉や火災・水災・震災時には、お救米として
町人に給付した。町会所は、江戸の食料危機を未然に防ぐ役割も果たし
ていた。


こうもりの穴で戦火に耐えていた  楠本晃朗



     麻疹見立て金附 (歌川芳盛)


そんな町会所が、感染症流行を理由に、「持続化給付金」支給したのは
享和2年(1802)である。この年の3月、江戸の町では、インフル
エンザが大流行した。前年の暮れに、オランダ船や中国船が唯一入港で
きた長崎から感染が始まり、日本を縦断する格好で、世界最大級の人口
を抱える江戸にも感染が広がった。
やがて、感染の流行に伴って経済が回らなくなり、生活が立ち行かなく
なる町人が続出する。社会不安が広まり、「都市崩壊」の時が刻々と近
づいていた。
よって町奉行所は、感染の有無に関わりなく、町会所をして、持続化給
付金を一律に支給することを決定する。
感染の有無を一々調査していては、給付に時間が掛ってしまうからだ。


悲しみを各種揃えた冬の駅  星出冬馬
 


     麻疹を軽くする伝 (歌川芳宗)

 
町人人口(約50万人)の半数を超える28万8千人を対象に、独身者
は、銭3百文、2人暮らし以上の家庭には、一人当たり銭2百50文の
割合で給付することで、社会不安の拡大を抑え込もうとした。
そして、給付は次のような手順で実施された。
対象は町人のうち、「その日稼ぎの者」限定された。
その日稼ぎの者とは、棒手振り、日雇稼ぎの者、その日の商いや手間賃
だけで家族を養う職人などを指す。この基準、つまり、ガイドラインに
基づき、江戸の各町に置かれた名主が、給付対象者のの選定にあたった。
先に述べた通り、江戸の町は、町人たちにより、運営され、町奉行所は
その自治を監視するスタンスにとどまっていた。
各町の行政事務は、町人から任命された名主に委託されたため、名主は
町役人とも呼ばれた。名主は、小さな自治体の首長のような存在であり、
その家が役場だった。


充電をしないとただの箱になる  藤本鈴菜
 


    麻疹送り出しの図 (歌川芳藤)


江戸には、名主を長とする260程の役場があり、町奉行所による都市
行政を支えたが、名主だけで一連の行政事務を切り盛りしたのではない。
「町代」「書役」と呼ばれた事務職を雇用して膨大な事務を処理した。
そこには「人別改」といった戸籍事務も含まれており、町人たちの生活
実態はよく分かっていた。
町奉行所はこれに目を付け、役場に対象者の選定をあたらせたのである。
名主が、奉行所から該当者の調査を命じられたのは、3月17日のこと
だが、早くも翌18日より、その日稼ぎの者の名前が報告され町会所も
即座に銭を給付している。感染の有無を一々調査していては、こんなに
早く報告できなかったはずだ。もちろん、給付もかなり遅れただろう。


逆らわず笑顔をひとつ置いてくる  前田咲二



  麻疹全快御目見え口上 (月岡芳年)


この時は、3月18日~29日のわずか12日間で給付が完了しており、
1日あたり2万人以上に給付した計算だ。それだけ江戸の自治システム
が、高度なレベルに達していたことが確認できる。
このスピード感ある給付により、江戸の社会不安は鎮静化する。
こうした迅速な対策により、インフルエンザの流行も終息していった。
それから20年後の文政4年(1821)にも、インフルエンザが再び
国内で流行し、江戸では、2月中旬から3月始めにかけて、感染者が激
増する。またしても経済が回らなくなって、社会不安が蔓延したため、
町会所は、持続化給付金の一律支給に踏み切る。一人当たりの給付額は
前回とおなじであった。対象者は前回より8千人以上多かった。
それにも関わらず、2月28日~3月4日までの7日間で、給付が完了
しており、そのスピードの速さが、何といっても際立っている。


市場から猫が咥えてきた明日  くんじろう



      麻疹退散の図 (歌川芳盛)


この後も、感染症は繰り返し江戸で流行した。
インフルエンザのほか、幕末にはコレラや麻疹が流行してパニックに陥
るが、この時も町会所が都市崩壊の事態を未然に防いだ。
例えば、安政5年(1858)のコレラ流行時には、52万3千に白米
2万4千石余りを給付している。その日稼ぎの者という枠に限定せず、
町人全員を対象としたが、この時は、備蓄米が豊富にあったことから、
銭ではなく米が支給された。町会所による給付金(米)という生活支援
策により、江戸は都市崩壊の危機を乗り切ったのだが、原資は町人から
の積立金であり「共助」に他ならない。

当時の医療水準では、感染症の流行に有効な対策が取れず、自然に流行
が終息するのを待つしか手立てがなっかった。
その点は今も同じだ。経済が回らなくなって、生活が立ち行かなくなる
町人(庶民)が多数出ると、現在のような、「給付金制度」による生活
支援で都市崩壊を防いだ点も今と同じだ、が、そのスピード感ある給付
という点では、江戸の方が、勝っていると言わざるを得ない。


かくれんぼしたい鬼ごっこもしたい  雨森茂喜

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マッチ一本こんなに熱く語れます  市井美春



                   明治35年発行された渋沢栄一肖像の10円紙幣


日本銀行ホームページ・「お札に肖像として選ばれた人」によれば、
肖像画の人物選定に特別な制約などはないが、強いて言えば「極力実在
の人物で、業績があり、知名度も高く、親しみ易く、国民から尊敬され
日本を代表するような人物」であること。また、偽造防止の目的から、
「なるべく精密な人物像の写真や絵画を入手できる人物であること」
いうことであるらしい。
そんな規定の中で、令和4年20年ぶりに刷新される新紙幣の顔として
選ばれたのが、「北里柴三郎」千円札)、「津田梅子」五千円札)
「渋沢栄一」一万円札)である。


人間が乗る一枚の磁気カード  猫田千恵子


ところが、渋沢栄一が紙幣の肖像画に描かれたのは、初めてではない。
(上の写真)明治35年、日本が植民地として統治していた大韓帝国で、
数年間だけ、第一銀行が発行した紙幣に、栄一が、肖像になっている。
このため、栄一が新紙幣の肖像画のモデルになると、
「植民地支配の被害国への配慮に欠けている」と、韓国国内から、
批判が出た。無理もない。


シミの付いた紙は白紙とは言えぬ  みぎわはな


「青天を衝け」 お札の顔



  同じ聖徳太子でも発行年によって、表情が微妙に異なる。
どれも聖徳太子だが、なにか顔色・表情が違って見える。
昭和5年(百円札) 昭和25年(千円札) 昭和32年(五千円札) 
昭和33年(一万円札)

「一万円札の顔」
始めて一万円札が登場したのは、昭和33年ことである。
そのお札の「顔」には、聖徳太子が選ばれた。
聖徳太子は、昭和5年に百円札に登場以来、お札の常連である。
さて、昭和5年とは、どんな年だったのだろうか。
 東京まで降灰した浅間山の爆発
 豊作飢饉と呼ばれる米価大暴落
 9月14日 - 独総選挙でナチ党が躍進
 濱口首相が東京駅で佐郷屋留雄による狙撃事件
 世界大恐慌の誘引で日本経済が危機的状態になる…。 など。
そんな年にお札の顔として、聖徳太子が選ばれたのは、
「和を以て貴しとなす」(十七条の憲法)の精神で、国民融和を図ろう
とした一面が窺える。財布からお札を取り出す度に、太子の尊顔を拝し、
和の心を取り戻して欲しい、と期待した、のである。


人形の顔で見ていることがある  赤松ますみ


その期待に応え、聖徳太子の御利益は大きく、この間、日本は高度成長
の波に乗り、オリンピック、万国博などを成功させ、世界の主要国の仲
間入りを果たした。日本の成功は、アジア各国の経済成長のモデルにな
った。しかし、経済的成功を成し遂げた日本は、やや尊大になり、バブ
ル景気へと突っ込んでいく聖徳太子は、「お札」の代名詞となり、国中
に聖徳太子で溢れた。そんなことからも、聖徳太子の一万円札は、昭和
61年まで28年間、使用されることとなった。


欲の皮たっぷりついて迷いなし  小西美也子
 
 
 
        福沢諭吉
 
 
昭和59年には、一万円札の「顔」は、福沢諭吉になる。
福沢諭吉と言えば、「学問のすすめ」や慶應義塾大学創設の顔がある。
高度成長のあとは、「文化立国を目指す」考えがあったようだが、
福沢の万札時代は、残念ながら、日本の低迷期と重なってしまった。
バブル崩壊後の長く続く低成長に加え、阪神淡路大震災、東日本大震災、
福島原発事故、コロナ・パンデミックなど、国民生活を直撃する災害が
多く発生したものである。


口癖は明日はきっとうまくいく  水田トンボ
 


         渋沢栄一


「このままではいけない。文化国家より経済国家だ」
と、考えた政府は、一万円札の「顔」は、福沢諭吉から「日本資本主義
の父」と尊称され、生涯に500社以上の会社を立ち上げた、という、
「渋沢栄一の登場」ということになる。
渋沢栄一、「私利私欲で、誰かが、利益を独占することを嫌い、多く
の経済活動、社会活動に関わり、日本の社会全体の利益を重視し、発展
していくことを目指す」とした人物で、新紙幣の肖像画に描かれること
になった。
「富を成す根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道徳の富でなければ、
その富は、完全に永続することができぬ」と語っている。
何やら難しいが、ともかく、好い運を運んでくれることを期待する。


あーそうかこれが坩堝ということか  高見澤直美


「渋沢栄一に連れて就任する・お札の顔」
 

 
      
津田梅子と北里柴三郎


  津田梅子
梅子は官費女子留学生の一人として、吉松亮子、上田悌子、永井繁子
ともに、岩倉具視らの米欧使節団の加わった。6歳の時である。
アメリカに11年滞在し、幼少からの長い留学生活で、日本語能力は、
むしろ通訳が必要なほどになってしまうが、この間、女子教育をする塾
をつくる夢を抱いた。だが、帰国した日本は、男尊女卑の社会であった。
男子と渡り合える女子を教育する場を、切実に願った梅子は、伊藤博文
への、英語指導や通訳のため雇われて、伊藤家に滞在、下田歌子からは、
日本語を学び、英語教師を勤めたのち、留学中に知り合ったアメリカ人
女性たちの協力を得ながら、女子英語塾を開いた。留学中に教育や人格
形成の見本である、ヘレンケラーやナイチンゲールとも親しく交わった。
下田歌子=伊藤博文らの勧めで良妻賢母主義による上流子女教育を目的
とした桃夭女塾(とうようじょじゅく)を開いた。


毎日が一期一会と水の私語  石神由子
  

北里柴三郎
千円札の肖像画のモデルの入れ替わりは、野口英世から北里柴三郎へと
奇しくも同じ細菌学者となった。
熊本・東京の医学校で医学を学んだのち、内務省衛生局の役人になった
柴三郎はドイツに留学。細菌学者コッホのもとで、破傷風菌の純粋培養、
さらに、血清療法の実験に成功する。
帰国したのち、官立伝染病研究所を設立し、香港でペスト菌を発見。
ドイツ時代の功績によって第一回ノーベル生理学・医学賞候補となるが、
野口英世と同様、受賞にはいたらなかった。

官立伝染病研究所が内務省から文部省に変更になることに断固反対した
柴三郎は、私立の「北里研究所」を設立。「病の原因とその治療法」
見つけるために尽力した。野口英世よりも前に肖像画のモデルとなって
いてもおかしくなかった人物といわれる。


気がつけば私は白い梅だった  居谷真理子





 
 

「歴代のお札の顔」


樋口一葉   (2004年)
文芸誌に数々の作品を発表。中でも「たけくらべ」が高い評価を受ける。
しかし、作家人生は短く、肺結核のため、25歳の若さで死去した。
こうした短い生涯でも、「自分の夢を貫き実現させた強い女性」として、
お札の顔に選ばれた。


本当に命が惜しい花の下  加藤佳子


野口英世 (2004年)
ノーベル賞候補にもなった細菌学者。
アメリカで細菌学を学び「梅毒スピロメーター」が世界的に認められる。
再度の渡米で黄熱病の研究に没頭。しかし当時、光学顕微鏡では、細菌
よりも、はるかに小さな病原体であるウイルスを、観察できるほどの分
解能がなく、光学顕微鏡の限界に、研究業績の一部を否定された。
それでも野口は、アフリカで黄熱病の研究を続け、自ら黄熱病にかかっ
てしまう。そして51歳で亡くなってしまう。不屈の実績に一票を…。


身の丈を計り違えていた誤算  津田照子



   
 

紫式部  (2000年)
言わずと知れた「源氏物語」の作者。
紫式部の名は、ペンネームで、日本最初といわれる。
紙幣でば、二千円札の肖像画として採用され、話題にはなったものの、
国民には浸透せず、日銀には在庫の山となる。
紫式部の人気にあやかって船出をした新札だったが、大失敗…。
これは式部の人気が原因ではなく、2千円札の有用性の問題だった。


プラスαお役に立っているつもり  津田照子


福沢諭吉(1984年)
アメリカに留学中、身分制度のないアメリカ文化に触れ「自由と平等」
の考えに感銘し、『西洋事情』を刊行、これが大ベストセラーとなり、
徳川慶喜将軍も愛読したといわれる。
その後、慶應義塾を作り、「学問のすすめ」を刊行する。
お札では「諭吉」と呼び捨てにされるほど親しみをこめられたが、
先に述べた通り、悪い時期にお札の顔になった為、名にあ含まれる
の印象がない。


もうあかんビリケンの足さすっても  くんじろう


新渡戸稲造(1984年)
日本初の農学博士である。
著書「武士道」のベストセラー作家として、世界中でも名前を知られる。
白人と黄色人種の結婚なんて「とんでもない!」という時代に、アメリ
カ在学中、ドイツ人のメリー・エルキントンと知り合い結婚する。
知名度が高いこと、世界に対して誇れるような人物であること、
と、条件を満たして5千円札の顔になった。


かげろうのままで一粒飲み下す  川嶋 翔


「おまけ」
平成16年に、一万円札・五千円札・千円札がアップデートされた。
 一万円札の肖像は、何故か福沢諭吉が、そのまま居座ったが、五千円札
は、新渡戸稲造から樋口一葉へ、千円札は、夏目漱石から野口英世へ替
わった。中でも樋口は、歴代紙幣登場者中最年少でもある。
日本銀行券初の表・女性登場者として注目された。
女性のお札の顔、第3号。
女性のお札の顔として、平成12年に発行の二千円札の裏面には、
紫式部が遠慮気味に顔を出しているが、樋口は表の顔なのだ。
因みに、女性のお札の顔の第一号は、紙幣に載った最初の肖像人物であ
ると同時に、明治14年登場の神功皇后である。


ウニコール煎じて本当の友達  河村啓子


夏目漱石(1984年)
イギリス留学後、大学英文科の講師になる。
その講師業は、学生に不評で、それに嫌気をさしたか、やがて退職し、
朝日新聞の専属作家になった。41歳で、作家としてデビューを飾り、
「坊ちゃん」「吾輩は猫である」「こころ」などの作品を生む。
これらが小学校の国語の授業でも使われ、人気と名声を得た。
ただ、夏目漱石が、世間の人気だけで、お札の顔に選ばれた理由が、
今一よくわからない。


ネコの時間には毎朝ネコになる  井上一筒


伊藤博文(1963年 )
 伊藤は、初代・総理大臣であり、4度の総理を務めた。
松下村塾で学び、木戸孝允「貨幣制度や鉄道の改革」を進め、近代日
本の基礎を作ったとされる。これだけで、充分、お札の顔に合格。
他に「内閣制度の導入、官僚組織作りで、優秀な人材を確保や大日本帝
国憲法のベースを作った」などの功績がある。


元号がもう変わるのにまだ首相  ふじのひろし


岩倉具視 (1951年)

岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允ら、倒幕派と朝廷を結び
つけ、明治維新の推進に寄与した。
日米修好通商条約の勅許を、公卿らと共に関白・九条尚忠方に押しかけ、
朝廷会議をひっくり返した、などの活躍がある。
他に欧米への「岩倉使節団」の派遣、「征韓論」の抑止、憲法制定の為
の準備など、「新生日本の礎」になった貢献度が目覚ましく、「新しく
れた5百円のお札」になった。


定型があるから活きてくる破調  高浜広川
 
 
  高橋是清(1951年)
第20代内閣総理大臣。
「日本のケインズ」と呼ばれる。
金融恐慌時に日本経済の立て直しを図り、国を破産から救った敏腕は、
わが国最強の財政家として、最近の政治家からも高く評価されている。
日本銀行総裁や総理大臣、大蔵大臣を7度も務めており、まさしく、
お札の顔である。惜しむらく昭和11年2、26事件で凶刃に倒れた。


かも知れぬ喪服の足袋を洗っとく  武内幸子


板垣退助(1948年)  
「板垣死すとも自由は死せず」の名言が有名。
会津攻略の時に、お国の事情で、多くの民衆が逃げ惑う様子を目の当た
りにし、「身分の差なく、心を一つに国民が参加できる政治」について、
考えるようになったと言われる。それを原点に、明治政府の中で「国民
だれもが、平等に政治に参加する自由がある」ということを広めた。
今では、当たり前になっている「国民が選挙で選んだ人が政治を行う」
とは、この人が考えるところから生まれた、のだそうだ。


品格は骨になっても生き続け  通利一辺


二宮尊徳(1946年)     
江戸時代の農民思想家であり、冷害や水害に悩まされていた村人たちを
救い、今の農協や漁協などの助け合い精神である「協同組合」の基礎を
作った。 道徳教育の模範。お札の顔になる条件「道徳」が重要視される。
渋沢栄一の道徳がお札の顔になったように…。


いい人の明るい刺を持てあます  丸山 進


日本武尊(1945年)    
聖徳太子が現れる少し前にいたとされる人物だが、実在不明。
様々な伝説の中の人物である。どうしてこのような人物が、お札の肖像
に選ばれることになったのか…、あなたも考えてみてくれますか。
日本武尊伝説には、こんなものがある。
 女性に化けて勝利したクマソ征伐
 相手の刀を木刀にすり替え勝利したイズモタケル征伐
 オトタチバナヒメの入水(生贄として)


神様もリセットしたい過去がある  前中一晃


聖徳太子(1930年)
聖徳太子は、中国の文化や制度をお手本に、冠位十二階や十七条憲法を
定めたり、「天皇中心の国家の礎を築いた」飛鳥時代の人。
お札の顔については、前述の通り。


愛されて心の欲が溶けてくる  靏田寿子
 
 
  藤原鎌足(1891年)      
飛鳥時代、天皇を凌ぐ権力を持ちつつあった蘇我氏に驚異を覚え、中大
兄皇子(天智天皇)と共に蘇我氏を倒し、天皇中心の国づくりをした。
「大化の改新」だ。
「時代に見合った国造りを行う」のも、お札の顔になる条件である。
晩年、天智天皇(中大兄皇子)よりその功績を讃え藤原姓を贈られたが、
名誉の名前を贈られた翌日に亡くなった。


傘立ての雫が切れる頃別れ  藤本鈴菜



    和気清麿呂(1890年)  
この人も、又、藤原鎌足と同じ「天皇中心の国造り」に尽力した。    
「皇位を皇族以外の者に継がせてはいけない」という考え方から、僧侶
道鏡の皇位簒奪を防いだ。しかし、道教を寵愛していた称徳天皇は怒り、
清麻呂を左遷してしまう。
清麻呂が政治に復帰した後は、桓武天皇に仕え長岡京遷都や平安京遷都
などで力を発揮し、貢献した。もし清麻呂がいなければ、
「純粋な天皇
の血が途絶えてしまっていただろう」、と言われる。


温室の花に負けぬと路地の花  石神由子



    
二百円円札           一円札


  武内宿禰(1889年)     
宿禰、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5人の天皇に仕えた人。
紙幣の肖像にするにあたっては、西郷隆盛の似顔絵でお馴染みの、
大蔵省印刷局主任彫刻官・キヨッソーネが、まず手を付けている。
エピソードがある。
大正5年の「お札の改変」に際し、彫刻者・大山助一は、キヨッソーネ
の宿禰は「目が窪み、鼻筋が高く彫られている為、西洋の老人のように
見える」と言い、目の凹みを少なくし、鼻を低くし、頬の彫刻画線を改
めて、「日本の老人らしく見えるようにした」という。
その顔が、128年間という歴代最長の「お札の顔」になった。


日に晒す指紋だらけの私を  菊池 京



     菅原道真

菅原道真 (1888年)       
教育といえば、「学問の神様」として知られる菅原道真。
天満宮と名のつく神社は千を超え、すべて菅原道真をご祭神としている。
菅原氏は代々学問の家系で、道真も幼い頃から漢学の教育を受けて育つ。
普通22歳頃に合格すれば良し、とする難関の文章生に18歳で合格し、
33歳で、現在でいう漢文学・中国史の大学教授のような地位にあたる
文章博士になる。政治家としては、その秀才ぶりが、妬みの対象とされ、
大宰府に飛ばされるなどの不幸にあう。お札の要件は100点満天。


ありとあらゆるところが痒くなる薬  井上恵津子



        神功皇后

神功皇后(1881年)        
初代のお札の人物とは先に述べた。
第14代・仲哀天皇(ちゅうあい)の皇后。
妊娠中に夫・仲哀天皇が亡くなり、「腹帯を巻き男装をして戦地に赴き
みごと勝利した」「子の応神天皇が産まれてすぐに歩いた」ということ
などが逸話にある。
ではなぜ、神功皇后が最初のお札の顔に選ばれたのだろうか?
理由は、「彼女の名を国民に知らしめるため」であった、らしい。
当時、朝鮮侵略を目指していた政府は、そのことを世間に流布しようと
試みたのだ。
「神功皇后は、朝鮮征伐に成功した」という逸話のおまけもある。
「安産の神様」「子安の神様」と拝まれるなら、「○○の神様」として、
もっと適切な「安」のつく喩えがあってもよさそうなものだが…。


濡れた手で何をつかむと言うのです  前中知栄

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