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川柳的逍遥 人の世の一家言
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右の手はずっと男の貌である  居谷真理子



浅間山大噴火

天明3年(1783))、熱泥流による埋没家屋約1800戸、死者約2000人の被
害を出した浅間山の大噴火。江戸でも火山灰が3cmほど積もったという。


天明3年(1783)7月、浅間山が噴火した。熱泥流による埋没家屋
約1800戸、死者約2000人の被害を出した。江戸でも火山灰が3cmほど
積もったという
これが鬼平こと長谷川平蔵が、世に知られるきっかけとなった。噴火後
数年にわたり、続く天候の不順が凶作をもたらし、これが米などの物価
高騰を招き、そして窮民の暴動を引き起こした。先手組頭の平蔵らが動
員された。御先手組とは、戦時には、弓組と鉄砲組に分かれ将軍の先鋒
を務めた。が、幕府が天下泰平となってより170年、暴動が起こると
か異変があったときには、真っ先に警備をつとめる。暇な職場であった。
お手先組は、30余組の編成であるが、平蔵の場合、その一組を率いて
いた。一組は与力十騎、同心三十人の編成になっている。


めんどうなことは纏めてホッチギス  美馬りゅうこ


「火付盗賊改役」長官・長谷川平蔵ー②


長谷川平蔵は、幼名は銕三郎、宜以(のぶため)で、家督相続後に父と
同じ平蔵を通称にした。父の宜雄も、火付盗賊改役だったことがあり、
京都西町奉行になり、この京都在勤中に病死し、平蔵はその遺骨を抱い
て江戸へ帰った。そして、目白に新しい屋敷を賜って、長谷川家の当主
となり、400石の旗本に列した。
仕事はまず、31歳で将軍世子の警護役から、西の丸仮御進物番として
田沼意次へ届けられたいわゆる賄賂の係となり、39歳で西の丸御書院
番御徒頭、41歳で番方最高位である御先手組弓頭に任ぜられ、火付盗
賊改役になったのは、松平定信「寛政の改革」が始まった天明7年9
月9日、42歳の時であった。


豆腐屋のとても豆腐屋らしい顔  くんじろう


「これがきっかけ」
「このほど市中騒擾(そうじょう)により、今日より市中相巡り、無頼
の徒あらば、召し捕らえ、町奉行の庁へ相渡すべし。手にあまりなば、
切り捨て苦しからざるよし達せられる。これ近年、諸国凶作うち続き、
米穀価貴くして、去年は関東洪水にて、江都別して米穀乏しく、諸人困
窮におよび、末々餓死に至らんとす。然るに市井の米商ども、人の苦し
みもかへりみず、をのをの米を買い込みしにより、無頼の輩集まりて、
去ぬる二十日の夜より、市街の米商をうち毀り、家財等を打ち砕きしに
より、かくは仰せ出でされるなるべし」
          (幕府正史『御実黄』天明7年5月23日ゟ)


前略と書いたが闇の中にいる  山本昌乃


== 
          左、松平定信は右、8代将軍-徳川吉宗の孫


翌天明7年6月、松平定信が老中筆頭となり「寛政の改革」を断行する。
定信は、改革の状況や市中の反響をつかむため、腹心の水野為長に情報
の収集を命じた。こうした流れの中で平蔵は、火付盗賊改役に任ぜられ
たのである。記録集『よしの冊子』に平蔵への称賛や批判の記録がある。
「長谷川平蔵がやうなものを、どうしても加役に仰せつけ候やと疑い候
さた。姦物のよし」姦物は奸物とも書き、悪知恵者と評したのは、鎮圧
への目覚ましい活躍したことへの妬みから発したものだろう。


あっち向きあかんべえでもしときます  小林すみえ


一方では、この悪口への反対の声も記されている。
「加役長谷川平蔵は、姦物也と申候さた。しかし、御時節柄をよく呑み
込み候や、諸事物の入らぬ(経費のかからぬように)様に取り計らい候
由に付き、町方にても、ことの外悦び候由。去年も雪の降る夜に、品川
辺にて、一人召捕り候の処、自身番に預け候らえば、一町内の物入りも
多く掛り候事故、直ちに其晩に自分の屋敷へ連れ参り候様、申付け候由」


お醤油とソースは幼なじみです  西澤知子


火付盗賊改方という「特別警察」を設けたのは、町奉行所にはない機動
性を特別に与えたものだ。江戸市中に犯罪が増え、世の中が物騒になっ
てくると「御先手組」の中から、その一組を選んで「盗賊改方」に任命
したわけである。この役目は、いわば、戦時体制における警察の含みが
こめられていて、悪党どもへは、いささかの容赦もなく、その場その場
で適切な処置を、長官の能力にかけた。故に、なみの旗本では務まらぬ
役目なのである。部下と共に命がけで働き、下情に通じ、悪の世界にも、
しっかりと眼が届くような人物でなくては務まらない。


余生には無用な過去を破り捨て  松浦英夫




平蔵の役宅があったとされる清水門

火盗改めの役宅は、江戸城清水門外にあって、この役宅内の中に同心の
詰め所・長屋があり、詮議などを行う部屋がある。ただし、与力同心の
大半は、四谷坂町にある御手先組の組屋敷の長屋に住み暮らしていた。


今までの堀帯刀と交替した新任の長官は、400石の旗本で、これも御
先手弓頭をつとめる長谷川平蔵であった。天明7年9月19日、長谷川
平蔵は目白台の屋敷から、清水門外の役宅へ引き移って来た。
戦々恐々として、配下の同心や与力たちが口々に漏らした。
「今度のお頭はな、お若いころ、本所三つ目に屋敷があってな、そりゃ
もう、遊蕩三昧で箸にも棒にもかからなんだお人らしい」という者もあ
れば「遊ぶことも遊んだが、本所深川へかけての無頼の者どもが、鬼だ
とか、本所の銕だとか言って、大いに恐れていたほど顔が売れていたそ
うな」などと。(本所の銕=平蔵の若い頃の「銕三郎」からの呼び名)


さびついた針図星をついてくる  和田洋子



ゴルゴ13のさいとうたかおが描く仏の平蔵


「平蔵の評判というと」
町人たちには、極力迷惑をかけまいと、平蔵の温情は、まことに評判が
いい。たとえば誤認逮捕の対処に、
「盗賊召捕り違え御ざ候へば、たとへ三日四日牢内に居り候へば、それ
だけ家職(家のこと何一つ)出来申さず、妻子も養ひ兼ね候事に付き、
三四日牢内に居り候分手当、出牢の時に鳥目(金銭)杯遣し候由」
平蔵は、いわゆる弱気を助け、強きを挫き、罪を憎んで人を憎まぬ人物
だったようで、犯罪人でも、病の老人ならば労り、貧民賤民への恵みも
よくしていたらしい。


時々はやさしい人の真似をする   酒井健二


「老人の上、病気にも有之(これあり)候へば、看病かたがた其方さし
添え遣わし候間、溜(ためー囚人の療養施設)にて、看病仕り候様申し
渡され候に付き、扨々、長谷川は奇特な人じゃと申し候由。長谷川、浅
草観音或は外々神社などへ参り候ても、小銭を持たせ参り、非人乞食に
銭を遣り候由。右故、長谷川は仕置筋(犯罪の処罰)には手強いが、又
慈悲も能くする人じゃと、一統(総体)に評判宜しく御座候よし」


鍵のないドアで行き来をしています  郷田みや



野盗と取り手


平蔵のあまりによい評判を妬む一人に、同じく盗賊改役を務めた旗本の
森山孝盛がいた。随筆『蜑の焼藻の記』(あまのたくものき)に、その
思いを書き留めている。
「若し最寄々々に、出火ある時は、其高提灯をともして、速に火事場に
押立置かせたり。されば、愚なるものの目には、はや長谷川の出馬せら
れたると、驚き思わするためなり、又、所々寺院に墓塔を建立して、死
刑の菩提を弔らひ、道橋に菰かぶり居る乞食なんぞに、折々、鳥目(銭)
を与へて、恵みなんどしけるとぞ」


了見が狭くてにをはよくいじる   仁部四郎


火盗改めを任じた老中の松平定信まで、平蔵への評価は、その手腕を認
めながらも、歯切れがあまりよくない。自伝『宇下人言』うげのひと
こと)に
「この人、功利をむさぼるが故に、山師などという姦(よこしま)なる
事もあるよしにて、人々悪しくぞいふ」とある。
尽くしても尽くしても、何も分ってらっしゃらない定信様なのだ。


適当に本音も入れておく祝辞  都 武志


「火盗改メという、この役目に励めば励むほど、長官は金が要るのであ
る」と、ときに平蔵は、この言葉を漏らす。
「幕府から40人分の役扶持が出るけれども、とてもとても足りるもの
ではない。犯罪を取り締まる役目で、しかも、寸分の隙もなく事を運ぶ
機動性が欠くべからざる火盗改メだけに、なんといっても、こころのき
いた密偵をつかい、金を惜しまず、江戸の暗黒面からの情報を絶えず得
ておかねばならぬ。同じ旗本でも、火盗改方の長官を務めるには、よほ
どに裕福な人でないと勤めきれない、といわれるほどであった。平蔵が
この役目に任ずる前は、家計にも、かなりゆとりがあったのだけれども、
家に伝わる刀剣や書画骨董を売り、捜査の費用にあてることも珍しくな
いのである」
平蔵の信頼するべき定信が、この辺りを誤解したと思われる。


ひけ目でもあるのか雨がそっと降る 嶋澤喜八郎  
 
 

 石川島人足寄場


「人足寄場の設立のこと」
老中定信の自伝『宇下人言』の続きには、
「これまた知れど、左計の人にあらざればこの創業は成し難しと、同列
(同輩)とも議して、まづこころみしなり」とある。
(創業とは=無宿人の更生事業として設けられた石川島の人足寄場)
この創業のことを老中定信に上申したのは、平蔵が火盗改めにの頭取に
就任して3年目のことである。


今回はトイレの水になりました  川畑まゆみ


「盗賊改方」町奉行」とはあまり仲がよくなかったし、幕臣たちは
「町奉行所は檜舞台、盗賊改方は乞食芝居じゃ」などと評判したりした。
刑事に働くといっても、長官は、先手組の自分の組下の与力や同心を使
って活動する。とても町奉行所のように、人数も設備も揃っていないし、
予算も少ない。役料についても、長官自らが費用を持ち出さねばならな
い、命がけの役目にしては、あまり割りがよくないのだ。が、人情家の
平蔵は「人足寄場」の設立を老中定信に建言し、犯罪者の厚生施設とも
いうべき寄場の設置を強く要望した。幕閣はこれを採り上げ、佃島の北
隣の石川島の内、6千坪へ寄場を設けた。そして、初代の寄場の責任者
となり、またまた一つ重たい荷物を抱えた。金もない、時間もない鬼の
平蔵が、見せた仏の平蔵の顔である。


裏面に続く貌です悪しからず  柴田比呂志



「鬼平と桜吹雪のモニュメント」
都営新宿線菊川駅近くにある長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡の記念モニ
ュメントの銘板の右方に次のように記述ある。


『長谷川家は家禄四百石の旗本でしたが、天明六年(一七八六)かつて父
もその職にあった役高千五百石の御先手弓頭(おてさきてゆみがしら)
に昇進し、火付盗賊改役(ひつけとうぞくあらためやく)も兼務しまし
た。火付盗賊改役のことは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、
通例二、三年のところを、没するまでの八年間もその職にありました。
また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川
島の「人足寄場)」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主
義による職場訓練をもって、社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の
制度を創始したといえることです』


ツユクサはそうです青空の欠片  柴田比呂志


『寛政7年(一七九五)病を得てこの地に没し、孫の代で屋敷替となり、
替わって入居したのは遠山左衛門尉景元です。通称は金四郎。時代劇で
おなじみの江戸町奉行です。遠山家も、家禄六千五百三十石の旗本で、
勘定奉行などを歴任し、天保十一年(一八四〇)北町奉行に就任しまし
た。この屋敷は下屋敷として使用されました。
               平成十九年三月 墨田区教育委員会』


山惑へ笑いとばして阿弥陀像  小嶋くまひこ

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瘡蓋の下は炎が立っている  和田洋子



    横浜異人館の図 (文久元年 二代広重 横浜開港資料館)
 

「横浜焼き討ち計画」 栄一と長七郎


栄一「世を正すために武士になる」という決意が、「討幕」の思い
にまで膨れ上がったのは、従兄であり、友であり、義兄でもある2歳上
長七郎の影響だ。栄一は、19歳の時、学問の師である尾高惇忠の妹・
千代を娶り、通称を栄一郎と改めた。長七郎は、その千代の兄であり、
惇忠の弟である。長七郎は剣術家を志し、数年前から江戸に出て修行に
励んでいる。そのかたわら「尊王攘夷の思想」に染まっていった。


山茶花散華長いバトルの人送る  太田のりこ


そのため、里帰りのたびに江戸から友人を招き、このころ流行りの天下
国家の時勢について論じる。数年前にペリーが来航し、不平等な通商条
約を結ばされ、大老・井伊直弼が暗殺されて以降、世直しについて同志
と語り合う気風が高まっていた。「尊攘志士」と呼ばれる男たちが活発
に活動し始めたのも。このころだ。


わたくしの臍に蠢くものひとつ  大内せつ子


栄一は、長七郎らと共に熱い議論を戦わすうちに、自分も江戸へ出て、
「多くの高名な志士と交わりたい」と、感化された。江戸から来る男た
ちの中に、変わり始めた日本の新しい時代の匂いのようなものを、かぎ
取っていた。だが、農家の跡取りが、家業を放り出すことはできない。
そこで栄一は「農閑期だけ」という約束で父・市郎右衛門を説得し江戸
への留学を果した。文久元年、栄一22歳。出府した栄一は、学問は儒
学者の海保漁村に学び、剣術は、北辰一刀流千葉道場に通った。そこに
多くの志士が集っていることを期待したのだ。


一線を越える越えない橋がある  ふじのひろし



千代田城 坂下門と辰巳橋 (右手前が坂下門)

坂下門


翌年、公武合体派の老中・安藤信正千代田城坂下門の外で水戸浪士ら
に襲撃される事件が起こった。長七郎は、この計画を立案して捕縛され
た宇都宮の儒者・大橋訥庵と懇意だったため、事件に一枚かんでいるの
ではないかと嫌疑がかけられ、いつ捕まってもおかしくない状況となる。
実際には、何の関わりもなかった長七郎は、のんびりと里帰り中で自身
に危険が迫っていようとは思いもよらない。いつものように、再び留学
先へ戻るため、栄一らと別れてひとり江戸へ出立した。


哲学があって飛ぶのだろう鳥も  相田みちる


捕縛の沙汰が「長七郎にも及ぶらしい」ことが郷里にもたらされたのは、
同じ日の夜だ。驚いた栄一は、おろおろと泣く千代に、「義兄さんは俺
が助ける」と約束し、取るものも取り敢えず家を飛び出した。すでに真
夜中に近い時刻だ、道中、必ず合流できる保証などなかったが、栄一
ためらわなかった。やっと追いついたのは、4里先の熊谷宿だ。


突然に前に回った背後霊  井本健治
 
 

安藤信正


 河野顕三らが安藤信正の暗殺に失敗して、殺された。納庵先生も捕らえ
られた。「今、江戸に行くと捕まるぞ。義兄さん、君はこのまま江戸で
はなく京へ向かいたまえ。幕吏の目が光る江戸は、もはや死地に等しい。
比して今の京は、諸藩の有志が集まり、時代の中心と言っていい。その
身を隠せ、人脈を得ることができ、見識も広がる」息を切らせて栄一は、
長七郎に説得の言葉を尽くした。が、長七郎は「それでも、やはり俺は
江戸に行く」と意思を譲らない。
「生き残った俺たちは、河野に代わってやらなければならないことが、
まだあるはずだ」。そこで栄一は、じっと睨むように長七郎の心を打つ
言葉を吐いた。「わかった。そうしよう。栄一郎、今日の恩を返すため
俺はお前の危機に駆けつけるぞ」。
長七郎は栄一の助言に従い、京へ逃れることにした。


右耳は蜻蛉 左耳は蝶  くんじろう





それと時を同じようにして、文久2年の7月6日、孝明天皇から一橋慶
は謹慎を解かれ、将軍後見職に任命され、2日後の8日には、松平春
嶽(慶永)は政事総裁職を任命された。慶喜は、薩摩藩の島津久光の後
押しがあっての人事だ。慶喜は「尊攘の旗振り」に期待の星なのだ。
やがて慶喜は久光らから、「一刻も早く攘夷の決行を」と迫られていた。
久光「一橋様、こん先はわれらで力を合わせて、ご公儀を動かし、一刻
も早く攘夷を行いもんそ」それに答えて慶喜は「攘夷などというものは、
詭弁です。すでに、異国との交流が盛んになった今、兵備が足りない日
本では、異国には勝てませぬ」と、薩英戦争の結果を知っていて、慶喜
は、敢えて異論を述べた。久光は自身が幕閣での覇権をとりたいがため
に自分や春嶽を利用しようと考えているだけなのだ、と慶喜は察知して
いた。


シーソーとブランコ夜の内緒事  森 茂俊


文久3年になって京では、攘夷を唱えた浪士たちが和宮降嫁に関わった
者や、開国論者を次々と斬り捨てるという事件が起きた。
攘夷を望む長州の志士が担ぎ上げたのは、三条実美だ。実美は、慶喜
松平春嶽を訪ね、「いつ攘夷をなさるのか、期限を決めていただきたい。
さもなければ、京の浪士は爆発寸前じゃ」と慶喜に迫っていた。そして
実美から攘夷を迫られる一方で、イギリスからも生麦事件の賠償金を迫
られ、慶喜の悩みは尽きなかった。


時々はジャングルジムになるハート  和田洋子


 
 コロナ流行り病・荼毘室混雑の図
 
 
同年、栄一千代に待望の男の子が生まれ「市太郎」と名付けた。
しかし、この年の夏に流行ったコレラにかかり、市太郎はあっけなく死
んでしまう。渋沢家は重い空気に包まれていた。そんな中、尾高惇忠は、
自らの手で攘夷の口火を切ろうと、横浜の異人居留地の焼き討ちを発案。
惇忠の考えに陶酔した栄一は、道場の面々と共に、計画を実行するため
武器などを集め始める。栄一は後に、この時を、次のように記している。
『外国人を片っ端から斬殺するための刀も用意した。刀なども《ここで
買い》《あちらで買い》と、尾高が五、六十腰、自分が四、五十腰用意
した。それぞれに竹やりも用意し、当日の役割分担も決まった。あとは
決行日を待つのみだ』


包帯をほどいて風を確かめる  森田律子


我が子の市太郎の死の悲しみに暮れていた栄一だったが、その思いの丈
をぶつけるように、「横浜焼き討ち計画」に積極的だった。それという
のも、このころ朝廷は、幕府に攘夷を迫り、いったん開港した横浜を閉
鎖するよう要求していたが、幕府が煮え切らなかったからだ。
栄一の目には、征夷大将軍の職務を軽んじているように見えた。このま
ま幕府に任せていても攘夷などならぬ。「ならば俺が」と栄一は考えた。
「幕府が瓦解するほどの大騒動を起こし、政権の腐敗を洗濯して国力を
挽回したうえで、列強に屈した屈辱の通商条約を翻す」もちろん「こと
を起こせば自身は途上で死ぬだろう。が、きっと後に継ぐ者が出るに違
いない。そのためには生麦事件のように、賠償金を払えば大事を回避で
きる程度のものでは駄目だ。もっと取返しのつかぬことでなければ…」


人間を刻むこんなに灰汁が出る   野口一滴


「横浜焼き討ち」の計画は次の通り。
風も強く乾燥した冬の吉日、冬至に、まずは上野国の高崎城を乗っ取り、
そこから兵を繰り出し、鎌倉街道経由で横浜を襲撃するというものだ。
鉄砲などは手に入らないから、武器は刀、火をかけた横浜で外国人を斬
って斬りまく、ろうと考えた。メンバーは計画を立てた尾高惇忠渋沢
喜作
、そして栄一の3人を中心とし、江戸で培った人脈を活かして数を
増やし、最終的には70人を仲間に引き入れた。決行は11月12日とした。


どう足掻いても今日より若い日は来ない 小林すみえ


準備がすべて終わった時点で、栄一は、京の長七郎に手紙を送り、この
計画を打ち明けた。のみならず、「京から賛同者を募ってこちらに戻り、
加勢してほしい」と依頼した。――幕府がいかに怠慢で、外国がいかに
脅威か――。それを栄一に教えてくれたのが、長七郎だった。計画を知
れば、驚いて、喜び勇んで駆けつけるはずだ。栄一は、得意な気持ちで
長七郎を待った。


消臭シート広げて横たわる  山口ろっぱ



横浜焼討ちの是非について論争する栄一


ところが、手紙を受け取った長七郎は仰天し、急ぎ栄一らの許へと駆け
つけた。そして「無駄死」だと反対した。「攘夷こそが日本を救う唯一
の道だ」と訴え、幕府に逮捕されそうにもなった長七郎だ。まさか計画
に反対するとは、「あれだけ攘夷に積極的だったじゃないか」と、誰も
が思った。だが、それは違う。誰よりも積極的に行動をしたからこそ、
長七郎は、その限界に、誰よりも早く気づいたのだ。この無謀で愚かな
計画を実行しようとする栄一に死んで後世に「大馬鹿者」の名を遺す羽
目になる、と説いた。


言葉にはならずにそっと肩を抱く  山田葉子 


何を言おうと栄一も簡単には引き下がらない。「父親と縁を切ってまで
実行を決意したのだ。栄一は無駄死にでもよい」と考えていた。「自分
は農民だが、この国の民なのだ。今の国情をただ傍観するだけなど、我
慢ならない。ゆえに起つのだ」。自分たちの暴挙が、世の人々を鼓舞し、
後に続くものが幕府を倒して世を改めるなら、その端緒として血祭りに
上げられるのを厭わぬつもりだった。「ことが成功するか、失敗するか
などは、天に任せておけばよい。ここでかれこれ論ずる必要などなく、
ただ死を覚悟して決行するだけだ」。栄一は言い出すと引かない性格を
している。


何を今さらと紙コップを潰す  佐藤后子


だが長七郎は冷静で「いや、こんなことをやっても、後には誰も続かず
百姓一揆の一つくらいに思われるか、あまりの稚拙さに笑われて終わる
かの、どちらかだ」と諭し、「もし、どうしてもやるというなら、俺は
お前を斬る」といわれ、「それなら俺もお前を斬る」と応じた。
あくまでも計画実行にこだわる栄一と、絶対に阻止するという長七郎の
議論は、どこまでも平行線をたどった。


諦めぬ方へと弾む楕円球  原 洋志


「犬死でも仲間数十人の命を散らせるな」と、懸命に止める長七郎を前
に、長時間のやりとりで、少し冷静を取り戻した栄一は、考えてみた。
「最新情報を踏まえた長七郎の意見は、やはりほかの誰よりも説得力が
ある。犬死になるかもしれない。なるほど、長七郎の説が道理にかなっ
ている」。そのように考えを巡らせている時に、勘当を申し入れたとき
の父の吐いた言葉が脳裏をよぎった、と後に語っている。
「お前と儂は道を分かった。栄一よ、道理を踏み外さず、一片の誠意を
貫いて生きよ。さすればお前がどこで倒れようとも、儂は満足だ」
そして栄一は、誠意とは何なのか?と考えた。


明太子置き捨てたまま兵を引く  井上一筒


やがて栄一は、計画の中止を決断。皆もそれに従うことになった。この
議論について、栄一は自著に、こう振り返っている。
「現在から見ると、そのときの長七郎の意見のほうが妥当であって、自
分たちの決心はとんでもなく無謀であった。長七郎が自分たち大勢の命
を救ってくれたといってもよい」


シロナガスクジラを目指し未だ雑魚  新家完司

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人生はうんすんカルタどの辺り  河村啓子







「火付盗賊改役」 長官・長谷川平蔵


小説・鬼平犯科帳『寛政重修諸家譜』(かんせいちょしゅうしょかふ)
をタネに生み出さたものである。この本は江戸幕府が編修した系譜集で、
当時の各大名家・旗本・御目見以上の幕臣の事跡が記されている。平蔵
「若い頃の放蕩ぶり」「石川島人足寄場の設立」あらかた「盗賊の
捕縛や処刑」は史実だが、「元盗賊の密偵」を使う発想や「急ぎ働き」
「嘗役(なめやく)」などの用語は作者・池波正太郎の創作である。
原作は136編あり、作品は映画や漫画にもなり、テレビ時代劇では、
これまでに松本幸四郎、丹波哲郎、萬屋錦之助、中村吉右衛門の4人が
長谷川平蔵(鬼平)を演じている。小説を読んでみて池波正太郎が描く
平蔵の優しく厳しく、人間味の溢れたキャラクターは、中村吉右衛門が
一番ピッタリであったように思う。「小説を使い尽したらドラマ制作を
打ち切る」のが、テレビ側と原作者との取り決めで、今は、時代劇チャ
ンネルで楽しむしかほかない。


選ばれたのね天使が膝に乗っている  大内せつ子



 



「平蔵の生い立ち、から~」
長谷川平蔵の父・宜雄(のぶお)は長兄、宜安の末弟であった。
次兄は、永倉家へ養子に入っている。だから宜雄は、そのころの武家の
ならいとして、養子の口を得るか、兄たちのやっかいものとして肩身もせ
まく、一生を送るか…。どちらにしても、はじめは恵まれた環境ではなか
った。なかなかに養子の口はない。宜雄は、長兄のやっかいものとして、
長兄が亡くなり、その子の修理が長谷川家を継いだのちも、悠々として、
甥のやっかいとなっていたらしい。


濡れているのか泣いているのか楠若葉  柴本ばっは
 
 
この間、宜雄が長谷川家の女中・お園に手をつけてしまった。
宜雄は生来、謹直な人物で病弱の甥の修理が、力と頼んでいたほどであ
ったけれども、30に近くなって妻も迎えられぬ身であったから、つい
つい下女に手を出したとしても無理はない。お園は、巣鴨村の大百姓・
三沢仙右衛門の次女だ、百姓といっても、かなりの裕福な家で、行儀見
習いがてらの奉公であったが「こうなっては仕方あるまい。わしはお園
とともに巣鴨へ移る」といい宜雄は、仙右衛門の口添えもあり、お園の
実家でのんびりと暮らすことにした。ここでお園が生み落した子が平蔵
なのである。


「道」という一字書と日々対話  徳山泰子


ところが、それから2年目に長谷川家では、当主の修理が急病にかかり
「とても助かるまい」ということになった。
修理は結婚をしていないから、跡継ぎの子がいない。
跡継ぎがいなければ、長谷川家は断絶ということになる。
家を潰し、俸禄も幕府へ返上しなくてはならない。
修理は、気息奄々たる中に「妹の波津を、自分の養女にし、これへ巣鴨
の三沢家にいる叔父上を…」と、熱望した。
 こういうわけで、宜雄は、我が姪にあたる波津と結婚し、長谷川家を継
ぐことになったのであるが、落胆したのはお園で、これも病身だったた
めもあったのか、宜雄が本所の屋敷へ帰って間もなく、急激に衰弱をし
て世を去った。


吊り橋の真ん真ん中あみだくじ  森田律子


宜雄は長年の厄介をかけた本家が跡継ぎなしのため、武家のならいとし
て家が取り潰されてしまうのを、見過ごしているわけにはいかなかった。
「では、銕三郎(平蔵)も一緒に」と言うと、妻の波津が頑として承知
をしない。実の叔父を夫にした波津は、27歳になるまで縁談の口が一
つもかからなかったという、女性だけに、気性もきつく屈折しており、
後年、宜雄が平蔵「まるで良薬(苦い)を飲むおもいで、本所へ帰っ
たものよ」と苦笑しつつ洩らしたことがある。


一本の針は楽観主義である  西澤知子


波津は、夫の宜雄が女中に生ませた平蔵などを屋敷に入れて、のちのち、
平蔵が長谷川家の跡継ぎになるようなことになっては、と思ったのだ。
彼女は、「どこまでもわが腹から後継ぎ男子を生む」つもりであったが、
辛うじて3年後に、女子ひとりを生んだにすぎない。こうしたわけで、
平蔵は17歳のころまで、亡母の実家である巣鴨の三沢家に父と別れて
暮らした。


次の世も生きてゆくなら鳥か魚  柴田比呂志


平蔵が幼いころ、年に一度ほど、父の宜雄が編み笠に顔を隠し、中間の
九五郎に玩具やらお菓子やらをいっぱい持たせ、満面の笑みを崩しつつ
仙右衛門宅へ訪れたりもした。とにかく温厚な父だけに、妻の怒りが家
を乱すことを怖れて、平蔵を呼ぼうとしなかったのだが、宝暦12年
(1762)となって、親類たちの協力を頼み、40を越えた妻・波津
を説き伏せ、平蔵を巣鴨から呼び戻し、共に暮らすようになった。


書き出してみよう家族の良いところ  川本真理子


それでも波津は、平蔵を後継ぎにすることを承知せず、一時は、親類の
永倉家から養子をもらいうけようとしたことさえある。
とにかく波津は、平蔵を苛め抜くこと、なみなみでなく、何かにつけて
「妾腹の子」だと言いたてる。食事も奉公人同様の扱いで、冷たく、さ
も憎々し気に、自分を睨みすえていた義母の眼差しを、平蔵は終日、感
じながら暮らさねばならなかった。


次の世も生きてゆくなら鳥か魚  柴田比呂志




          深 川 風 景


それには平蔵も若いし、おもしろくない。義母といるのを嫌い、屋敷の
金品をくすねては、巷をうろつくようになった。本所から深川にかけて
の盛り場や悪所に沈潜し、土地の無頼どもや小悪党と交わり、酒と女に
溺れつくしながらも、天性のすばしこい腕力にものをいわせ、「入江町
の銕(てつ)」とか「本所の鬼銕(おにてつ)」などと呼ばれ、無頼漢
どもに恐れられたり、敬われたり、とにかく余程に暴れまわった。


逆らって生き強靭な顎一つ  佐藤正昭


大いに顔を売っていたとき、平蔵が巣にしていたのが、鶴の忠助がやっ
ていた本所四つ目の居酒屋の二階であった。400石の旗本の子息だっ
た平蔵が、忠助や彦十のような泥棒の正体を知っての上での、交際だっ
たのである。平蔵の非行を見て、親類たちも宜雄「勘当してしまえ」
と迫った。しかし、宜雄は応じずじッと耐えた。
この若さにまかせた放蕩時代が、火盗改めの頭を務めるのに貴重な経験
になったことは、いうまでもない。


斜に構え失うもののない私  松浦英夫


平蔵が20歳の正月のことである。夜遊びから門をのり越えて帰宅した
平蔵を嘲り叱りつける義母を「うるせえ!」と言い、酔いにまかせて殴
りつけてしまったことがある。これで義母が、おさまる筈がない。「妾
腹の子なぞより、親類の子を跡継ぎに!」猛然として運動をはじめた。
「勝手にしやがれ」こうなると、平蔵は屋敷に寄り付かず、白粉くさい
深川の岡場所の女たちのところや、無頼仲間のねぐらを泊り歩いて、中
に入った父をさんざん困らせた。


憚りながら裏街道のクラゲです  太田のりこ


金には困らぬ…。無頼どもが悪事をして得たものを平蔵がまき上げてし
まうからだ。その代わりには、腕力にまかせ、彼らを助けての暴力沙汰
も絶え間がなかった。親類筋も騒ぎはじめた。平蔵の非行が公儀へ知れ
たら大変なことになる。「勘当してしまえ」という声も高まりはじめる。
この中で、温和な父・宜雄は、ぬらりくらい言い訳をしながら、一歩も
退かなかった。妻には頭が上がらぬようにいて、父は西の丸・書院番を
振り出しに、諸役を歴任して、役目上の働きぶりはなかなかに立派なも
のであったそうだ。


節度ある静かな雨であるように  新家完司


こうした中で、平蔵は高杉道場の稽古だけは休まなかった。世間への反
抗と鬱憤は、猛烈な稽古によって発散される。彼の剣術がめきめき進歩
を見せたのも、このころであった。門人の数も少ない高杉道場なのだが、
平蔵とはよく気が合い、手練も伯仲していたのが岸井左馬之助である。
2人は同時に、高杉先生から目録を授けられたし、酒食の場所にも肩を
並べて出入りするようになった。娼婦の荒んだ肌の香りなら、いやとい
うほど嗅ぎつくした平蔵と左馬之助なのだが、桜屋敷のおふささんが現
れると、鉄も佐馬も顔へ真っ赤に血をのぼらせて、あの面構えに臆面も
なくはにかんだりして、鬼の義母を脳から遠ざけた場所では、純な一面
をのぞかせた。


あたたかい雨だと思う茄子のヘタ  前中知栄


 
                            鬼 平 情 条


高杉銀平道場
義母の苛めに反発、土地のごろつきと放蕩無頼の日々を送っていた平蔵
ですが、十九歳の折、ここから道を隔てた横川沿いの出村町にあった道
場の門を叩きます。入門後は世間への鬱憤を晴らすかのように休むこと
なく猛烈な稽古に打ち込みました。当然、腕はめきめき上達、肉体だけ
でなく精神も鍛えられ、その後の人格形成に大きな力となりました。
道場で技量が伯仲し、気も合ったのが岸井左馬之助です。高杉先生から
同時に目録を授けられ、竜虎と呼ばれ、酒食の場にも肩を並べて出かけ
る間柄になりました。平蔵一家が京都へ赴任して一時、疎遠になりまし
たが、再開後は、剣友の付き合いを復活、遊軍として火付盗賊改方を支
えていきます。後に道場の食客であった小野田治平の娘、お静と夫婦に
なり、春慶寺から下谷の金杉下町へ移り住みます。


オブラートほどの手助けならできる  斉藤和子
 
 
明和4年(1769)波津が病死した。ようやく宜雄は、わが子平蔵を
跡取りにすることを得たのであった。翌明和5年12月5日。平蔵は父
宜雄の跡継ぎとなり、はじめて江戸城に出仕し、10代将軍・家治に拝
謁をした。平蔵25歳の時である。この間、一言も平蔵を叱りつけるこ
となく、見守り続けてくれた父の恩を、平蔵は深く感じ、以来、まるで
「人がちがった」ような男になった。


どの風に乗ったのだろう逃亡者  合田瑠美子

 
安永3年(1774)31歳で平蔵は、江戸城西の丸御書院番士(将軍世子
の警護役)に任ぜられたのを振り出しに、翌年には、西の丸仮御進物番
として田沼意次へ届けられたーいわゆる賄賂の係となり、天明4年(1
784)39歳で西の丸御書院番御徒頭、天明6年(1786)、41歳で
番方最高位である御先手組弓頭に任ぜられ、順調に出世していった。
そして「火付盗賊改役」に任ぜられたのは、天明7年(1787)9月
9日、42歳の時であった。つづく。


乾電池抜いてください眠ります  清水すみれ

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2丁目より暗い3丁目の闇  雨森茂樹



ペ        リー提督横浜港上陸の図
 
 
「渋沢栄一」百姓をやめて武士になりたい>


渋沢家は、麦や藍お作り、養蚕もした。生産するだけでなく、藍は他所
からも買い入れ、自ら紺屋に売って商いも営んだ。家業は面白く、栄一
はこれに熱中した。努力は、手にする金額となって戻ってきた。また父
市郎右衛門の手腕と栄一の工夫、さらに質屋お営んだため、周辺の村の
中では、二番目に富んだ家といわれるほど繁栄した。そんな充実した日
々を送っていた栄一「百姓をやめて武士になりたい」と願う出来事が
起こったのは、17歳の時であった。


振り向いたとたんに虹が消えかかる  前中知栄




    代官・利根吉春

 
渋沢家は財産家ゆえ、藩の御用達として「姫様の輿入れ」「若君の元
服」など、藩の行事の際はなにかと金を用意せねばならなかった。
この年も金が要るからと代官に呼ばれたが、父に外せぬ用があったため、
代わりに栄一が赴いた。若森と名乗った代官は、実に居丈高に栄一に、
「五百両を差し出せ」と命じた。


白という理由でいじめられてます 月波余生


もちろん栄一に逆らう気はなかったが、自分は父の代わりに御用を伺い
に来ただけ、「自分一存で答えをだせないから、話をいったん持ってか
えって、父の返事をもって再び足を運ぶので…」と代官に伝えた。
それでなんの差し障りもないはずだが、代官は「駄目だ」という。
「今すぐ返事をしろ」と迫った。あろうことか、栄一が、女遊びに五百
両くらい使っていると決めてかかり「たかが遊びに使う金ほどの五百両」
と言い放ち、それを殿様に差し出すのは名誉なことで「有難く思え」
まで言った。さらに栄一を「融通の利かぬ役立たず」と愚弄し、散々侮
蔑の言葉をあびせてきた。


政界に忖度というドーピング  ふじのひろし




       渋沢栄一郎

 
「いったい、あれが人に金を借りる態度なのか。これまで我が家は二千
両ほども都合してきたが、一銭も返す気なぞないではないか。そもそも、
こちらは決められた年貢はすでに、納めているというのに、さらに金を
用意させられるのだぞ。だのに借りてもらえることを有難がれ」なぞ言
われても、無理があろう。「何故、借りる方が、ああも高飛車なのか、
少しも道理が立たず、腐りきっているではないか」


道しるべ判別できず赤とんぼ  山本早苗


そして、これを突き詰めれば、政治が悪いという結論に至った。身分や
役職が世襲されるせいで、実力が伴わず、ああいった若森のような愚者
でも代官になれるのだ。さらに諸侯の政治が悪いのは、徳川の世が悪い
からだと思い至った。栄一に、世の有様に対する問題意識が生まれた瞬
間であった。悪いものは正さねばならない。今の世のまま仕方がないと、
何も行動せずにいれば、分別のない人間に支配され、搾取され、一生が
終わるのだ。


矢印の向きゆるやかに黄泉の道  堀口雅乃



      江戸へ京へと集まってきた武士たち


ー百姓をやめて武士になりたいー
政治を動かしているのは武士なのだから、まずはその立場に己が就かね
ばどんな大層なことを考え、口にしても、空に空しく消えていくのみだ。
まずは今の自分の立ち位置を変えるのだと、栄一は決意した。


逆風に立ち位置変えて待つ一手  小林満寿夫
 


      尾高長七郎


栄一の「世を正すために武士になる」という決意が「討幕」の思いにま
で膨れ上がったのは、従兄であり、友であり、義兄でもある2歳上の
七郎の影響だ。栄一は19歳のとき、学問の師である尾高惇忠の妹・
を娶り、通称を栄一郎と改めた。長七郎は、その千代の兄であり、師
惇忠の弟である。大柄な長七郎は剣術家を志し、数年前から江戸に出て
修行に励んでいる。そのかたわら、「尊王攘夷」の思想に染まっている。


首になる時はいっしょだ竹とんぼ  森田律子


そのため、里帰りのたびに江戸から友人を招き、このころ流行りの「天
下国家の時勢」について論じる。
数年前にペリーが来航し、不平等な通商条約を結ばされ、時の大老が暗
殺されて以降、世直しについて同志と語り合う気風が高まっていたのだ。
「尊攘志士」と呼ばれる男たちが、活発に活動し始めたのも、この頃だ。
長七郎らと共に熱い議論を戦わすうちに、自分も江戸へ出て多くの高名
な志士と交わりたいと、栄一も感化された。


器ではないがいずれはしてみせる  磯部義雄

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半熟がうまいタマゴも人間も   新家完司


 
             南町奉行所           北町奉行奉行所
南町奉行所(数寄屋橋内)と北町奉行所(呉服橋内)の両奉行所は、
見ての通り、門構えが違い、大きさも違った。南が少し大きかった。


「江戸町奉行」は江戸幕府の職制で寺社奉行、勘定奉行とともに三奉行
の一つである。江戸幕府はこれを重視し、老中の支配下に置いた。
「町奉行」は配下の本所奉行、道役、小伝馬町牢屋、寄場奉行、町年寄
を指揮し、その職学は、江戸府内の行政、司法、警察の一切に及んだ。
定員は二名で南北両奉行所に分れ、月番で交替に執務したが、時に応じ
て増減された。原則として旗本がこれに任命され、役料は三千石、芙蓉
間詰で勘定奉行の上座、輩下に与力・同心がいた。
(南町奉行所は有楽町駅の南側で、マリオンの北側一帯がかつての場所
であったといわれ、名奉行・大岡越前守忠相は南を19年勤め、また遠
山左衛門尉金四郎は、南北両方の奉行職を勤めた)


公園の鳩と呼ばれていた巡査  くんじろう


「江戸町奉行」 遠山左衛門尉金四郎


「お奉行様は大忙し」
「町奉行」は、警視庁、裁判所、消防庁、東京都庁を兼ねた役所の長の
ように、絶大な力を持った存在だ、と思われがちだが……。
お奉行様は、奉行所内にある私邸から、朝8時ころに奉行所に出勤する。
前日の筆頭与力からの訴状などの報告( 月番の期間に受け付けた訴状を、
非番の期間に事務処理する体制だったが、それでも、訴状の山は一向に
減らなかったという)に基づき、部下の与力たちに指示を出した後10
時には、江戸城へ登城し、芙蓉の間に詰めて、町触れの草案を練るなど
の仕事をこなすのである。


暗闇のアルファベットの生欠伸  北原照子


そんな中、月に三度開かれる「評定所の会議」がある。奉行の職務で、
最優先しなければならない会議である。ほとんどの会議の内容が、大名
のお家騒動や直参旗本に関する案件で「町奉行、寺社奉行、勘定奉行」
「三奉行」の所轄範囲が複雑に入り組んでいるような事件だった
通常は合議制で処理されたが、時には、老中が出席したり、将軍の決裁
を仰ぐ事もあった。加えて、中奥の老中部屋へ出向いて報告を上げたり、
逆に老中から呼ばれ、指示を受ける事もあった。


も一人のボク沖でぼんやりしています 田口和代


昼食後。午後2時頃に江戸城を出て、奉行所へ戻る。奉行所では、午後
2時過ぎから、民事や刑事の「裁きの時間」である。とはいえテレビで
見るような「お白州」での取り調べではなく、実際は、吟味方与力が取
り調べは済ませてある。奉行は、罪状を読み上げ、形式的な質問を行い、
流刑、追放、敲き、お叱りなどのい刑罰の場合のみ、判決を申し渡す
だけである。死罪に相当するような罪状に関しては、将軍の許可を受け
なければならない。そこから許可が下りた奉行は、牢屋敷まで検使与力
を派遣し死刑を宣告して、即日処刑をした。一日のお裁きは、凡そ午後
4時まで、日暮れと共に大門は閉じられる。だが、奉行の仕事が終わっ
たわけではない。机の上には依然として訴状の山なのだ。奉行は私邸に
戻っても残務は、深夜まで続くのである。


風下でピリオド打てぬ酒を飲む  上田 仁
 




町奉行所は、玄関に向かって右に「当番所」があり、左に「詮議所」、
詮議所の奥に「お白州」がある。「例繰方」の部屋は詮議所と玄関の間
にある。詮議所では、吟味方与力が横に8人並んで詮議する。ほかに吟
味方同心がいて、吟味方与力の詮議を助ける。


悪人の仮面が剥げるイボコロリ  宮井元伸
 


     引退後の遠山金四郎


「遠山金四郎を彫る」


「町奉行」と聞いてまず思い浮かぶのは、テレビでお馴染みの大岡忠相
遠山景元(金四郎)である。こうしたドラマなどの影響もあり、奉行
所は犯罪取り締まりのイメージが強いが、警察、司法に加え行政・消防
も担当したほか、評定所の一員として幕政にも参加していた。
この役職は、元禄から享保の10年間を除いて二名で担当し、南北それ
ぞれの奉行所があったが管轄地は分かれておらず「月番交代制」で江戸
全体を管轄していた。非番の奉行所は表門を閉め、訴訟や請願こそ受け
付けなかったが、それまで抱えていた訴訟などを引き続き処理していた。


黄昏の髪は一本ずつ洗う  合田瑠美子


ここで遠山の金さんに焦点を合わせてみよう。
遠山金四郎景元には、若い時の放蕩と彫物伝説が今もって続いている。
その伝説は、当時からかなり広まっていたようだ。
大坂の医師の見聞録『浮世の有様』に、
『若き時、放蕩不順にして、心行い悪しく、家出をなして、吉原の辺り
にて、博打打ちの群れに入り、常に悪行をなして至りしが、親兄弟死失
して其の家を継げる者なきゆえに、此度、親類の斗らいにて召しかえし、
家督せしめしと云う事なり。かかる人物故、惣身残らず入れ墨をなして、
見苦しき事なりと云う事なり』
(時代劇で見られる彫り物は、右肩から右肘にかけての桜花が定着して
いるが、ここでは総身のこらずという。だが図柄は記していない)


良心の呵責はとうに捨てました   前中知栄 


金四郎と同じ町奉行所に、与力として勤めていた佐久間長敬は、維新後
の回顧談『江戸町奉行事跡問答』に、
『旗本の末男にて、書生中は、いづれの場所にも立ち入り、能く下情を
探索して、後年立身の心掛け厚く、学力世才に長じ、有為に仁物(人物)
なりしが、外見にては「放蕩者にて、身持ち悪しく、身体に彫物と唱う
墨を入れ、武家の鳶人足、大部屋中間にまで交際し、遊歩行きたる者な
どと云う評判(噂)を受けし者」なれど、ある年、志を得て官途に登る
や、忽ち立身して、天保・弘化・嘉永の頃には、北と南の町奉行を勤め、
余初めて勤めに入りしは、同人晩年、南町奉行の頃にて、裁判の様子を
一見せしに「毛太く、丸顔赤き顔の老人にて、音声高く、威儀整い、老
練の役人」と見受けたり。当時の評判には、大岡越前守以来の「裁判上
手の御役人」と申し唱えたり』
(大先輩に寄せる敬意がある。また風貌についての文言は、実際に見て
いる人だけに貴重である。ここでも彫の図柄は不明である)


ソプラノの切り口上に逆らえず  美馬りゅうこ



   歌舞伎が演じる遠山(大山)金四郎
 

因みに「南北両方の町奉行」を勤めたのは、他にもいるが、金四郎が初
である。これも評判を呼び、江戸後期の見聞記『藤岡屋日記』に
『遠山左衛門尉、先年北町奉行を相勤め、又候此度(またぞろこたび)
南町奉行に相成り、当人一代の内に、南北両奉行を相勤める事、是又珍
しき事ともなり』とある。


こげついた頭のような鍋みがく   田中 恵


「彫物の図柄」に、初めて言及したのは、旧幕臣の木村芥舟が、明治
16年(1883)に著した『黄梁一夢』だとされている。
『景元才幹有り、庶子たるの時、遊興を好み行剣(品行方正なところ)
なし、交わる所、皆市井無頼の悪小(悪い少年・若者)。たまたま兄
没し、家を継ぐ。幡然節(はくぜんせつ)を改む(がらりと変わる事)
すなわちー改心)。擢(ぬき)んじて監察となる。其の左腕に家紋を
鯨(彫物)するを以て、人駭(じんがい)異せざる莫し』。
(人駭異せざる莫しとはー誰もが驚き怪しむ事)


小刻みに出す言い訳のあれやこれ  山本昌乃



   両肩に描かれている金四郎の桜花


「左腕に花模様だった」とある。花といえば桜となり、はっきりと桜花
としたのは、同じく旧幕臣の中根香亭である。
『人となり慧敏(けいびんー知恵があり敏捷である事)然れども若き時、
放蕩にして検束(自制心)なく、常に酒を好み、娼家に宿す。既にして
(やがて)自ら怨艾(えんがい)し幡然(はくぜん)其の行いを改める。
…中略…。景元狭斜に放蕩せし頃、無頼子弟に伍して、腕に桜花の分身
(彫物)せり。故に顕官(高官)に登るに及び、常に硬く襯衣(下着)
を着け、盛夏と雖も脱することなしと、然れども、此の故を以て、頗る
下情に通じ、明鑑鏡を懸けるごとく、人之を欺く能わず。近代屈指の良
市尹(しいん)たり』。
(明治に入り人名辞典にまで「桜花」と記された段階で所謂「遠山桜」
が決まりとなってしまったようである)


真顔で見せたがる鎖骨のバーコード  山口ろっぱ


金四郎は、嘉永5年(1852)59歳で隠居し、帰雲と号した。
風得たり 青雲の志
南衛(南町奉行所)久しく御治む
足るを知る元龍を躍き
今敵う白雲の志


晩春の出口はみどり色螺旋  山本早苗


金四郎が初めて就いた役は子納戸職で、時に33歳。まことに襲い就職
ではあったが、15年後には「青雲の志」を果して、勘定奉行から町奉
行に就任した。因みに、初めての就職から町奉行に至るまでの15年は、
19年の大岡忠相に次、長いものである。そして白雲の志とは、隠居し
て悠々自適の心境であろう。元龍とは、『三国志』に登場する陳登の字
と思われる。元龍は、父の陳珪と共に劉備に仕えて功があった。
金四郎の父・景普(かげみち)は、長崎奉行や作事奉行などを勤め、幕
政に貢献している。金四郎は、元龍父子に思いを馳せ、人生の充足感は
元龍より上だと言いたかったのではないか。
天つ空照らす日陰に曇りなく元来し山にかゑるしら雲
                      (多士済々評判記ゟ)


落日の足は人間臭くなる  桑原すゞ代

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