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川柳的逍遥 人の世の一家言
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釣銭はくれぬ三途の渡し賃  上田 仁



「六文銭」

六文銭は、真田家の家紋のひとつである。

真田家の戦いが描かれた場面には六文銭が染め抜かれた旗が翻り、

真田家ゆかりの地には、六文銭の装飾のある具足や鞍が残っている。

真田信繁の兄・信之が藩祖の松代藩が江戸幕府に提出した家紋は、

「六文銭紋」「州浜紋」「結び雁金紋」の三つだった。

「州浜」は河口などにできる砂州の形で縁起のいい紋とされる。

「雁金」は渡り鳥のガンの異称で「雁の鳴き声」から来た名前である。

六文銭の多くは銘のない銅銭を三つ横二列に並べた形で描かれている。

酒臭いお地蔵さまのよだれ掛け  ふじのひろし

  
    割り州浜          結び雁金

いくつかの由来が伝えられる「六文銭紋」。

最も多く語られているのは、人が死後に渡る「三途の川」の渡し賃という

もので仏教で言う、「六道銭」から来ている。

「六道銭」の六道とは、仏教において地獄道・餓鬼道・畜生道・

修羅道・
人間道・天上道の6つの世界(道)のこと。

(六道を合わせて欲界と言い、その上に色界、さらに無色界がある。
  欲界・色界・無色界の3つの世界を合わせて三界と言い、
  人間などの生物は、この3つの世界で生死を繰り返すというのが、
  仏教が示す世界観だそうです)

こめかみの波打ち際におく呪文  板野美子

「三途の川」は仏教に於いて、死者が死後7日目に渡るとされている川。

三途の川を渡る方法は三つあり、生前の生き方によって、

善人は、橋、軽い罪人は浅瀬、重い罪人は流れの速い深みを渡るとされる。

ところで三途とは、どういうところなのだろうか。

火途〔地獄道、傷つけ害し殺し合う世界。地獄の火に焼かれるところ〕

刀途〔餓鬼道、貪欲、貪りの世界。刀杖で迫害されるところ〕

血途〔畜生道、差別の世界互いに相い食むところ〕

死者が悪行のために生まれる三つの場所の総称とある。

もっと詳しく知りたければ、賽の河原の老夫婦にお聞きください。

(六文銭とは、三途の川を渡る前に奪衣婆(だつえば)、懸衣翁(けんえおう)
    に
渡し賃として差し出すものとして伝わった話です)

神様が仕掛けたあの日あの時刻  清水英旺


六文銭の旗は白丸が正解

「六文銭」を最初に旗印にしたのは真田昌幸の父・幸綱で、

生命をかける戦場において、

「死をもいとわない不惜身命の決意で臨んでいることを示すた為」

に使用したと伝えられる。

もう一つの由来は、真田家の源流である滋野一族や、

その支族の海野家の家紋に六文銭があったというもの。

海野家は州浜や雁金も家紋に用いていたという記録があり、

三つの家紋全部が信濃の有力領主だった滋野一族に広く共通していた

ものとも考えられる。

ほかに修験道に縁があった滋野一族には、

丸が七つ描かれる
「月綸七曜」の家紋もあり、

そこから「六文銭」が生まれたとも言われる。


的という悲しい点になっている  河村啓子


   大坂の陣

屏風絵のちょうど真ん中あたりに真田信繁が描かれている。
旗印に六文銭は見えない。

真田信繁は大坂の陣で六文銭を使用しなかった

大坂の陣の時に信繁が六文銭の旗を掲げて家康の本陣へ

突入していったと伝わるが、

実際は、武具を全て赤一色で統一する赤備えで決戦に望み、

目立つところには真田の家紋は一切使わなかったという。

これは、徳川方についた兄・信之に対して気遣ったものであり、

兄弟とはいえ、内通など一切ないという意思表示であった。

また武具は「赤備え」、旗印は「総赤に金線」という

武田氏カラーで戦ったのは、
信繁の心中に敬愛する武田信玄への

厚い思い入れがあったのかもしれない。


後悔を砕いて落ちてゆく夕日  森田律子

「なぜ、三途の川の渡し賃が「六文」なのか?」

昔の人々の間には、
死後の最初の行き先であろう六道に対する意識が非常に強く、

これが「死者に六道の数にあった銭を持たせれば清く成仏できる」
という考え方に発展し「六道銭」ができたようです

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みくびった雑魚に根幹握られる  上田 仁


無防備に城を攻める徳川隊

上田城は、東を向いた大手口から直線的に三の丸、二の丸、本丸と門が
いており、攻撃する際に正面から突入したくなるような縄張りになっ
ている。
本丸に兵力を集中し、狭隘な二の丸へ殺到してくる敵勢を激撃
することで、
相当の犠牲を強いることが出来るだけでなく、敵の後続部
隊がひしめき合
って押し出してくるので、前衛部隊は逃げ場がなくなり、
大混乱に陥るのは
必至という構造に作られている。


「第一次上田合戦」

当時、真田家の領地は上野国の沼田と信濃国の上田周辺にあり、

合わせてもせいぜい7万石程度。

それに対して徳川家は三河、遠江、駿河、甲斐、信濃を領し、

石高は軽く100万石を超えていた。

当然、戦になった場合に動員できる兵数にも大きな開きがある。

ということで、徳川方は真田の戦力を完全に侮っていた。

肋骨に響くハイエナの笑い  森田律子

天正13年(1585)7月、弱小勢力と考えていた昌幸が徳川方から離反し、

上杉方へ走ったことに激怒した家康は、8月になると、

昌幸が籠もる上田城攻略のため約7千の兵を派遣した。


上田城は建設途上だった上に、資金や労働力を徳川方に頼っていたため、

城の情報はすべて徳川方に筒抜けであった。    

楽勝ムードで上田城に迫る徳川の大軍に対し、

真田は2千ほどの兵力しか動員できない。

そこで昌幸は、さらに徳川の将兵が侮るように、

籠城戦でもっとも有効な神川の防衛線をあえて放棄する。

徳川軍は刈田や城下に火を放つといった功城戦の基本を行なうこともなく、

ただ漫然と北国脇往還を進軍。    

建設途中の城下町を抜け上田城本丸を目指した。

鴨川を逆流させる押しボタン  井上一筒


    激 突
赤い六文銭の旗が真田隊VS白い葵紋が徳川隊。

対して昌幸は嫡子・信之を戸石城、矢沢頼綱を矢沢砦に配置し伏兵とした。

わずか2千の兵をあえて分散したのは、

昌幸には、最初から長期籠城戦に持ち込むつもりはなかった。

ただひたすら進軍する徳川軍が上田城の惣構えに入ると、

農民兵による抵抗はあった。

だが徳川軍は物ともせず、すぐに蹴散らしてしまう。

真田隊は断続的に攻撃こそ加えるものの、緩やかに後退。

「さすがの真田も怖気づいたか・・・」

すっかり調子づいた徳川の将兵は勢いにのり、

一気に本丸正面まで押し寄せた。

夕暮れの壁一枚を突破せよ  中野六助

本丸には真田家臣団はもちろん、城下の農民や町人までもが集結し、

銃弾や石礫をあびせ、丸太,大石、沸騰した油を頭上から落とした。

徳川勢はたちまち混乱陥るが狭小な二の丸には、逃げ場がない。

退却しようにも、徳川方の部隊は縦に長く伸びていたため、

この状況を知らない後続部隊が続々と後ろから押してくる。

逃げ場を失った徳川の将兵は極度混乱に陥った。

やっと逃げおおせると、城下には火が放たれ、

いたるところに伏兵が潜んでいた。

みえも誇りもない阿吽の下地  神野節子


 神川の策略
神川に仕掛けた水止めの堰を切る。

戸石城からは信之が手はず通り、大通りで待ちかまえ、

退却してきた徳川勢に猛攻撃を加える。
でうらまさすけ
出浦昌相佐助は神川の上流で待機し、

敗走してきた徳川勢が川を渡り始めると、流れを止めていた堰を切った。

鉄砲水によって多くの兵が流され、残った兵は退路を断たれて、

次々と真田に討ち取られた。

敵を狭隘な場所に引き付け、退路を断って一気に叩く。

この周到かつ巧みな戦術で、真田は見事に徳川勢を撃退した。

結果、徳川勢は1300もの戦死者を出し、

片や真田勢の犠牲者はわずか40名ほどだった。

モーゼの海が割れて正解食べている  板倉美子

後に「第一次上田合戦」と呼ばれるこの戦いに参加した徳川方の武将は
ちかよし
鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉という家康股肱の臣たちであった。

みな戦下手な人物ではなかったにもかかわらず、

昌幸の老獪な策に翻弄されてしまったのである。
                ただたか
この戦いに参陣した大久保忠教は、自軍の将たちの不甲斐なさを、

「悉く腰が抜けはて」「震ゐまわりて物もゆわず」
がいたん
「下戸に酒を強いたる風情なれば力なし」と慨嘆したとある。(三河物語)

そしてこの戦いで、

秀吉ですら苦戦を強いられた徳川軍を撃砕した昌幸の
武名は、

一躍天下に轟き渡り、独立大名としての地位を確立した。


雑魚でいるうちに見ておく裏表  竹内いそこ

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泣きそうなピエロ鼻には落花生  青砥たかこ


   上田城尼ヶ淵

大軍で攻め立て一気に勝利するつもりの徳川勢は真田昌幸

巧妙な作戦に煮え湯を飲まされた「第一次上田合戦」

その戦いで徳川方の将であった3人の老臣たちの経歴を見る。


   鳥居元忠

「鳥居元忠」(とりいもとただ)

家康がまだ松平竹千代と呼ばれ、今川家で人質として暮らしていた頃も、

その側に仕えていた家臣のひとり。

家康が今川家から独立し、三河を統一した後は、旗本部隊の将として、

さまざまな合戦に参加。

元亀3年(1572)に家督を相続する。

天正10年(1582)「天正壬午の乱」の際、

家康の背後を衝こうとした北条氏忠・氏勝率いる1万の兵を

甥の三宅康貞・水野勝成らとともに2千の兵で撃退する。

このように、元忠はかして戦下手ではなかったが、

天正13年の「上田合戦」では、昌幸に手痛い敗北を喫す。

三日月に引っかかってる着信音  合田瑠美子

その後は小田原征伐にも参陣し、北方隊に合流して岩槻城を攻めている。

家康が関東に転封となると下総の矢作城4万石を預けられた。

これは常陸の佐竹氏や東北の大名らを抑える役割を任されたことになる。

慶長5年、家康は会津征伐へ向かう際、元忠の守る伏見城に一泊して、

酒を酌み交わしている。

この時、元忠は石田三成らに攻められ、討死することを覚悟していた。

結局、元忠は、西軍を13日間も伏見城に釘付けにする。

成功は正義その他は燃えるゴミ  美馬りゅうこ
  

   大久保忠世

「大久保忠世」(おおくぼただよ)

家康の祖父である松平清康の時代から松平・徳川に仕えるようになった。

忠世の大久保家は本家ではなかったが、

父の手柄が大きかったため、本家を凌ぐほどの権威を誇っていた。

忠世の名が上がったのは、元亀3年の三方ヶ原の戦いにおいてであった。

この戦いでは徳川軍は散々な敗戦を味わい、

家康も命からがら居城の浜松城に逃げ込んだ。

ばりばりとくだけて放心のかたち  太田扶美代

忠世は手痛い敗戦で意気消沈していた味方を鼓舞するため、

武田軍が夜陣を張っていた犀ヶ崖に夜襲を仕掛けている。

また天正3年(1575)長篠の戦いでは、

その素晴しい戦いぶりを織田信長から賞賛されている。
                  ふたまたじょう
家康からはホラ貝が渡され、二俣城の城主に任じられた。

信長亡き後、家康が甲斐や信濃に勢力を拡大していくと、

信州惣奉行を務めた。

追伸 最後まで渋い柿でした  桑原すゞ代

そうした経緯もあって、

上田城にいた昌幸を攻めた上田合戦で一手の大将となったのだ。

しかし真田勢には大敗北を味わうことになってしまう。

だが政治手腕にも長けていたため、

家康の信頼を損ねることはなかった。


家康が関東に転封となった際、

秀吉の口添えもあって小田原4万5千石の城主となった。

首のあるところにちゃんと首がある  中野六助 


   平岩親吉

「平岩親吉」(ひらいわちかよし)

家康と年が同じであったことから、その小姓として今川義元のもとに同行。

以来、家康の信任が特に厚かった家臣のひとり。

まだ家康が三河の一部を領した小大名だった頃、

その統一や遠江平定時の戦いなどで、多くの戦功を挙げている。

天正3年には家康の命により、

同盟者で家康の母方の伯父でもある水野信元の暗殺も行なっている。

ゆるぎなく自信に満ちた風見鶏  山本昌乃

そして家康の嫡男・信康が元服すると、その傳役となった。

だが信康は信長から武田勝頼と通じていたという疑いをかけられる。

遂には切腹を命じられてしまうが、

その際に親吉は自らの首を差し出す代わりに


信康の助命を願い出たと伝えられる。

だが最近の研究では信康の切腹は、家康との不和が原因であったと言われ、

親吉の助命嘆願の影響はなかったようだ。

本能寺の変後、親吉は甲府城の築城を開始。

甲斐の郡代として武田の遺臣を取り込む工作に当たる。

そんな際に上田合戦に参加。

昌幸の巧妙な作戦に翻弄されてしまう。

そやさかいサボテン抱くなゆうたやろ 田口和代

小田原征伐でも戦功を挙げたため、

戦後は厩橋3万3千石を与えられた。

親吉の実直な性格を表すエピソードとして、

秀吉が親吉に黄金を贈ろうとした時、親吉は、

「私は徳川家臣の身で、衣食に困らぬ禄をもらっているから」と、

受取を固辞したという話が伝わっている。

嫡子がなく、親吉の死後に家は断絶した。

古傷のハートが三つ行き方しれず  山口ろっぱ

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起き上がり小法師のような人生で  前中一晃



「昌幸‐爪牙を研ぐ」

室賀正武による真田昌幸暗殺計画が失敗に終わると、

家康は天正13年4月、自ら甲府へ駒を進め、

沼田領を北条氏に引き渡すようにと使者を出し、昌幸に命じた。

武力行使をちらつかせての威迫である。

昌幸は長男・信之、次男・信繁矢沢頼綱頼康親子木村戸右衛門

羽田竹久大熊常光らの一族・老臣を集めて評議した。

「徳川中納言(家康)は、わしを手強い被官と恐れ、北条との和睦を幸い、

   沼田の領地を削って小身となし、

   いずれは真田家を滅ぼすつもりでいるに違いない。 
              しそう
   なにしろ室賀正武を使嗾してわしを、仕物にかけようとした男だからの。

   ついては汝らの存念を聴かせてもらいたい」

あさってを拾ってアンタ捨てました  森田律子

昌幸の胸中を察すれば迂闊な発言は出来ないとあって、

誰しもが黙しがちだった。

たまりかねて昌幸は、不適な笑みを浮かべ唇を動かす。

「武威を恐れて泣き寝入りしては、真田の弓矢がすたる。

   断乎死守、沼田を相抱えて手切れじゃ。

   引渡しを拒めば、中納言が激怒して上田城へ攻めてくるは必定なれば、

   弓矢・鉄砲をもって会釈するほかはあるまい」

風の前の塵になろうとする勇気  伊東志乃

家康との手切れを決断した昌幸は、別室に待たせておいた使者に
しゅんきょ
峻拒の返事をし、先年に家康からもらった起請文を突きかえした。

「それがしが中納言殿にお味方して粉骨砕身したればこそ、

   南信州は中納言殿の手にお手に入った次第なれば、

   ご褒美のご沙汰あってしかるべきに真田が弓矢をもって

   切り取った沼田を替地もなく引き渡せとはあまりに理不尽なご命令。

   むしろ昌幸のこころのままに支配せよ、

   と仰せあるべきが道理と存ずるゆえ、
断じて引渡しはでき申さぬ」


元の鞘に収まったとは言え寒い  長井紀子

しかし徳川を敵にまわして戦えば、一豪族の真田など一溜りもない。

そこで昌幸は、従属先として上杉弾正景勝を頼ることにした。

「仰せながら、先年に不義理を働き、敵対している弾正殿がはたして、

    首を縦に振ってくれるかどうか…」

老臣のひとりが懸念を口にする。
              はじゃけんしょう
「上杉家は謙信公以来、破邪顕正の義戦を標榜してきたし、

   頼まれれば嫌とは言わぬ家柄じゃ。

   先非をを悔いて弾正殿の懐に飛び込み徳川中納言の理不尽を訴え、

   是非にと助勢を願えば承引してくれよう。

   それに、わしを味方にすれば弾正殿にも利がある」

無論、交渉は難航をするだろうが、

最終的に景勝は承諾すると昌幸は読んでいた。

軟膏の代わりに塗った南禅寺  中野六助

昌幸の存在は景勝にとって得がたいものだった。

もし真田が滅亡すれば上杉は北条と徳川の圧力を直接受けることになる。

反面、両勢力圏の境界地域である小県と上野を領する昌幸を取り込めば

緩衝役あるいは防御壁役として期待できるのだ。
         よしみ
「筑前殿(秀吉)にも誼を求めておいたほうがよかろう。

   中納言との決着はまだついておらぬから、表立って加勢は望めまいが、

   領有並び立たず、いつまた双方が相対するやもしれんから、

   筑前殿は拒むことはあるまい」
     かん
景勝は秀吉と款をつうじている。

景勝が昌幸の要請を受け入れれば、秀吉もまた昌幸に味方するだろう。

火のないところから煙だけ盗む  井上一筒


五大山城の一つ春日山城図

昌幸はその交渉役として矢沢頼綱と海野輝幸を選んだ。

頼綱はまず上杉家臣・須田満親(海津城代)島津忠直(長沼城代)に会って

景勝への執り成しを依頼した。

満親も忠直も頼綱の顔見知りである。

次いで二人は、春日山城を訪れ景勝に閲した。

「我が主が先年、お屋形様(景勝)の御手に従いながら、
そむ
  背きまいらせたのは短慮のいたすところ…」

と詫びを入れ、縷々説明したうえで申し入れた。

「二男・源次郎(信繁)に侍分百騎を差し副えてご前に相遣わし、

    お馬の草ども刈らさせまする、と主は申しております」

心地よく響くあんたの命乞い  鈴木順子

「再び来たってわしに助けを乞うはとは不埒なやりようじゃが、
        あわ
  一癖も二癖もある安房(昌幸)が大事な倅を出そうというは、

  万策尽きてのことであろう。

  懐に入った窮鳥、助けねば武士の道に外れる。

   助勢の件承知した。


  急ぎ立ち帰り、心やすう徳川勢に備えよ、と安房に伝えるがよい」

徳川の動きを睨みながら昌幸の一年に及ぶ粘り強い交渉の結果、

景勝はようやく従属を許した。

昌幸は源次郎(信繁)を人質として春日山城へ送り出して、

まもなく、徳川勢が昌幸を討つべく上田に進攻してくる。

いわゆる天正13年(1585)8月、第一次上田合戦の始まりである。

罪と罰見つからぬ様かき混ぜる  森 廣子  

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春の海は地図食いちぎる未曾有とや  岡本久栄



「戦国大名」

戦国時代は、下の者が上の者を倒してのしあがる「下克上」の時代だった。

「戦国大名」とは、この下克上の風潮のなか、

実力で領国を支配した武将たちのことである。

彼らはどのような経緯で、歴史の表舞台に躍り出てきたのだろうか。

まずそれには「守護大名」という存在が大きく関っている。

守護大名はもともと幕府から地方に派遣された軍事指揮官・行政官だった。

鎌倉時代は「守護」という職名で治安維持を主な任務としていたが、

室町時代に入ると、荘園から税金を徴収する権利や、

土地管理の権限が加わり守護の権限が拡大する。

やがて力をつけた守護は、自らの地盤を領国として守護大名となった。

一生を線路の砂利で終えるのか  嶋沢喜八郎

しかし「応仁の乱」を境に幕府(室町)の権威が失墜すると、

幕府を後ろ盾に勢力を保っていた守護大名の権威も低下。

代わりに力をつけたのが「守護代」「国人領主」である。

守護代とは、守護大名を補佐する在地のぶしのこと。

国人領主は、守護代より格下の在地豪族である。

いずれもその土地の有力者で幕府の領国支配がうまく機能していた頃は、

守護大名が彼らを従わせることで土地を支配していた。

しかし、その主従関係も幕府の権威があってこそ。

肝心の応仁の乱で幕府は不毛な戦いを続けたうえ、

権威も力も落とした。


とはいえ、下克上で頭角を現した大名は、支配の正統性を保証する

「守護」という地位を得るために将軍を利用した。

凋落していたとはいえ、将軍はなお、守護の地位を与え朝廷から

下賜される官位などを仲介してくれる権威だったからである。

将軍も朝廷も、その代償として財政支援を受けた。

なあ背骨そろそろ土へ帰ろうか  清水すみれ

やがて守護代や国人領主たちは、幕府に愛想を尽かし、

まして幕府を後ろ盾にした守護大名は、彼らにとって、

もはや金と人を浪費するただの厄介者にすぎない存在となった。

こうして地方では、守護大名とその家臣である守護代・国人らが戦いを

繰り広げ、ほとんどの戦いで守護大名側が敗れてしまった。

守護大名のなかで生き残ったのは、真田家が対抗した甲斐の武田氏、

武田氏は甲斐一国を支配する存在に成長し、

信濃・上野にも勢力を伸ばして有力な「戦国大名」となった。

越後の上杉氏(長尾家)の出自は守護代だが、

守護代が弱体化し断絶したため守護に取って代わり、

越後の「戦国大名」となった。

そののち関東管領・上杉家と養子縁組を結んで上杉家を継ぎ、

関東一円に影響力をもつほどになった。

一瞥でこいつに勝てると思われる  小林満寿夫

相模の北条氏は、もとは駿河の守護・今川氏の一門だったが、

関東に勢力を伸ばして、関東最大の「戦国大名」となった。

尾張の織田氏は守護代だった同族を滅ぼし、守護も追放して尾張を統一。

最強の「戦国大名」となった。

戦国大名の出自を概観すると、

豊後の大友氏、周防長門の大内氏、薩摩の島津氏、駿河の今川氏

近江の六角氏、常陸の佐竹氏などが、守護大名から戦国大名へ

安芸の毛利氏、三河の松平氏(徳川氏)、肥前の龍造寺氏、相模の北条氏

阿波の三好氏、土佐の長宗我部氏、備前の宇喜多氏、北近江の浅井氏

陸奥の伊達氏などが、国人領主、豪族から戦国大名へ。

言うとくけど私はロボットと違うぇ  赤松螢子



「最初の戦国大名」

血で血を洗う戦国時代は、一人の老人パワーによって幕を開けた。

下克上の時代の侍は、とにかく勝たなければならなかった。

彼らは勝利を得るためには、

ルール違反の戦争をすることも厭わなかった。


そんな「仁義なき戦い」を最初に実行した人物は、

「最初の戦国大名」と呼ばれる北条早雲である。

備中の出とも伊勢の出ともいわれる早雲は、

今川義忠の側室となった妹を頼って、

駿河に下向したのをきっかけに
今川家に仕えのちに独立。

徒手空拳といっていい状態から、戦国大名にのしあがった。

森を煮る春日大社はかつお味  井上一筒

鎌倉の古賀(茨城)の古河公方と伊豆の堀越公方の争い、

また上杉氏の分裂などで、関東の形成は混沌状態に陥る。

そこにつけこんで兵を挙げたのが早雲である。

すでに60歳の老齢だったが、伊豆の混乱に乗じて堀越公方を滅ぼすと、

さらに小田原城主をだまし討ちにして小田原城を奪った。

早雲は戦略家でもあった。

彼ら一門は武士業界では新参者だったため、関東支配に際して、

苗字を「伊勢」から「(後)北条」と改めている。

むろん鎌倉幕府の執権だった北条氏を意識してのことで、

関東人の感情に配慮したわけだ。

伊豆・相模を平定後、上杉勢力を駆逐した早雲は、

嫡男・氏綱に家督を譲って引退したが、その時すでに87歳だった。

ここから氏政・氏直へと繋がって行く。

這うことを恥じずに生きる春の蛇  平井美智子

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