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川柳的逍遥 人の世の一家言
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足音になってあなたに付きまとう  井上一筒


  島津久光

「西郷どん」 西郷と久光

西郷が奄美大島に配流されている頃、幕府は二つの問題を抱えていた。

一つはペリーにどう対応するかということであり、

もう一つは次の将軍を
誰にするかということであった。

当時の老中・阿部正弘はこれを、国民への情報公開と国民の国政参加

によって乗り切ろうとした。

これに対し保守的な井伊直弼はこれを嘲笑い、同時に怒った。

「日本国政は、幕府主導によって民はよらしむべし。

この方針によっ二百
数十年を送ってきた。阿部はこれを覆した。

しかしいきなり国民に情報を与
えても猫に小判だ。 

国民の方が却って混乱する。

こういうことは時間をかけなければ駄目なのだ。


幕府や藩が、国民や藩民が信頼できる政治を行っていれば、国民は食うの

に忙しいのだから余計な情報を欲しがるはずがない。阿部はバカだ」

と言っていた。安政4年(1857)6月、その阿部が死んだ。

あの煙り過去のエラーを焼いている  森井克子

そして、井伊が大老として幕府の中枢を担うことになる。

大老とは井伊が
老中の上位の役職として、独断で決めたものである。

同時に井伊は阿部
の政策を全部ひっくり返した。

中でも特に彼は次の将軍に一橋慶喜
擁立しようとしたグループを憎んだ。

また、市井にあって妄説を唱え国民
を惑わす学者や思想家を憎んだ。

これらの層に厳罰を与えた。
安政の大獄である。

だがこうした強権の先には、必ず反動がある。


阿部の死から3年後の冬、井伊は桜田門外において、白昼にもかかわらず

脱藩した水戸の藩士によって、暗殺される。


この事態により幕府の威信は失墜し、これを契機に各地で尊皇攘夷の

活動が火をふくことになった。

梅干しの皮を爪楊枝で破る  くんじろう

井伊がいなくなった幕府に対し、薩摩を含む外様大名は、

かねてからの
悲願であった幕政進出を狙いはじめる。

同時にこうした時代のうねりに合わせ、西郷待望論が膨れ上がる。

薩摩藩では斉彬の弟・久光が国父として、藩内部での影響力を強め、

「兄斉彬が死んで出来なかった大望を自分が実現したい」と考えた。

斉彬の大望というのは、幕閣に入って国政に参加することだ。

久光は大久保一蔵をブレーンにして、その方策を考えた。

現在は無位無官の立場の久光に、大久保が与えた知恵は、

「朝廷を
活用する」ということだった。幕府に対し勅使を派遣し、

その護衛として
久光が薩摩軍を率いていけば、徳川幕府も勅使に対しては、

いい加減な
扱いはできないというのが、大久保の考えだった。

背開きの方があの世で顔が利く  板垣孝志

久光はこれを採用した。しかし忠実な部下がいない。

結局は今西郷を待望している若い藩士たちを味方にしなければならない。

久光は不本意ではあったが、西郷を大島から呼び戻すことにした。

召還を受けた西郷は妻・愛加那の生活が立つようにして、鹿児島へ戻った。

生きていることが幕府に発覚しないよう大島三右衛門
と改名し、

久光との面会を果たす。久光は、西郷に自分の考えを話した。


ほころびの跡が勲章めいてくる  斉藤和子

久光の野望に西郷はこう応じた。

「先代の斉彬様は諸侯にも名を知られた存在でしたが、御前は違います。

斉彬様なら今のお話が成功したでしょう。しかし御前には斉彬様ほど

の才能も器量ももっておられない。その上、無位無官で薩摩から出たこ

ともないジゴロ(田舎者)の御前では、相手にされるはずありません。

到底無理でしょう」 

と、ズバリ言い切った。周りがはらはらした。


しかし久光はこの屈辱に耐えた。

野望達成のためには、どうしても西郷が必要だったからである。

プチプチをつぶして無我になる時間  合田瑠美子

そこで久光は、「おまえを供にするが、先に馬関(下関)まで行け。

そして上方の情報を集めよ。間違っても、それから先へ行ってはならない。

必ずわしを待つのだ」と厳命した。

西郷はこの命令に従って馬関に行った。


しかし馬関で得た情報は、生易しいものではなかった。

それは久光が
上洛するというので、京都や大坂に集まった志士たちを勘違い

させることになった。


「久光公が討幕の軍を起こして上洛され、やがて江戸へ向う」

というものだった。西郷は驚いた。そして

「こんな誤解はどうしても解かなければならん」

「それには馬関に居るわけにはいかない」と言い、急遽大坂に向った。

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遅れて馬関についた久光は、カンカンになって怒った。

「おのれ西郷め、あくまでわしに楯突く気か!」

と怒鳴りまくったという。そして西郷捕縛命令を出した。

大久保は久光に願い出て西郷の後を追った。

そして西郷の様子を探って兵庫に達していた久光に報告しようとしたが

怒りがおさまらぬ久光は、大久保との面会まで拒否してしまう。

途方に暮れていた大久保のところに、ひょっこり西郷が訪ねてきた。

思いつめていた大久保は、そこで

「これまでの苦労と努力が無になってしまい、今となってはおはんと

刺し違えてお詫びするしかない」と告白した。

西郷は、

「おはんがおらんと我が藩は成り立たぬ、おいは心静かに縛につくから

早まってはならぬ。思いとどまれ」

と逆に大久保を激励した。

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【付録】 西郷と久光の関係をより複雑にした男

久光の側近に、「久光四天王」といわれる中の1人に中山中左衛門がいる。

西郷と久光の関係が急激に悪化した陰には、その中山という人物の

存在がある。中山は小松帯刀や大久保一蔵や堀次郎らとともに久光の

信任を受けていたが、忠義一途の
この人物が西郷を必要以上に悪く久光

に告げたことで、久光の悪意が
より強くなったといわれている。

西郷が沖永良部島という辺境に流された
裏にも中山の影響があったと

いわれている。また大久保利通暗殺にも加わった一味ともいわれる。


道ばたの小石きき耳たてている  三村一子

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