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川柳的逍遥 人の世の一家言
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暗視スコープ自画像を描き終える  井上一筒



 西郷上陸の記念碑

安政6年1月12日に西郷を乗せた船は竜郷湾阿丹崎に到着した。

「西郷どんー⑤」 流罪人・西郷  

西郷月照はお互い固く抱き合い、冷たい真冬の錦江湾に飛び込んだ。

平野らが急いで引き上げたが、すでに月照は絶命し、西郷は虫の息だった。

懸命な看病によって3日目にようやく西郷は意識を取り戻す。

心身の疲労から1ヶ月ほど静養させた後、藩庁は西郷の処分を決めた。

幕府に死亡届を出し、

菊池源吾と変名させて奄美大島に蟄居させることに
したのである。

横たわる町のかたちのまま沈む  木村健一

入水は藩命に逆らう行為であった。

しかし前藩主から絶大な信任を受け、藩内外の有能な人物と交流を持って

いた西郷を厳罰に処すわけにはいかないということで穏やかな処分で済ん

だのである。

大島行きも流罪ではなく、年6石の扶持米が支給されることになった。

それでも西郷は、いたたまれない気持ちでいっぱいだった。

斉彬公のあとを追って殉死しようとしていた自分を、思い留まらせて

くれた
命の恩人に惨めな死に方をさせ、自分一人生き残ってしまった。

しかも武士である自分が切腹でなく、女のように入水自殺をはかり、

死に切れなかったからである。

やせたねと言われ老けたなと思う  阪本こみち


 西郷の舟を繋いだ松

安政5年(1858)12月14日、西郷は大島に向けて鹿児島を出発した。

しかし風向きが悪かったため山川港付近に滞在して年を越し、

1月上旬にようやく出帆できた。
たつごうわんあだんざき
竜郷湾阿丹崎に到着したのは、年が明け1月12日であった。
     りゅうさたみ
ひとまず龍左民の屋敷の離れに身をよせたが、左民は大島で最初に郷士格に

取り立てられた人物で、家内奴隷が70人以上いる屈指の豪族
だった。

西郷は丁重に扱われ、家内奴隷の少女1人が召使としたつけられた。


しかし西郷はここでの生活が肌に合わず、数日で美玉新行という百姓の

空き家を借りて自炊生活を始めることにした。

脳味噌の酷使 お腹が空いてきた  安土理恵

鹿児島からやってきた巨漢の西郷は、島民にとってヤマトンチュ(大和人)

であり、気味悪がられた。

しかも流罪人のように思われ無言で覗き見される
のが苦痛でしかなかった。

つい半年前まで藩主の腹心となって恩遇を受け、
諸般の英傑と交わり、

幕府を改革するために力を尽くし、近衛忠煕の知遇
を受けていた自分が、

今はこのような離島で埋もれていることに不満と苛立
ちを感じていた。

一幕の劇の終わりに見る夜景  中野六助


  西郷の大島の借家

西郷は島から大久保正助に手紙を書いている。

「毎日毎日雨ばかりのひどい状態で気が滅入ってしまう。

垢で化粧をして、手に入れ墨をしている島の娘たちは美しく、京や大坂の

女たちも適わない。あらよっと一丁あがり。諦め、ふざけて言っている様子)

島民が野蛮人で困っている。島民が物陰から覗くのが不愉快である。

しかし藩の行う大島支配は悲惨なもので、心苦しい。

北海道松前藩による
アイヌ民族に対する政策よりもひどい。

これほど酷いと思ってなかったので
驚いている」

西郷は、島民の野蛮さを軽蔑する反面、藩の虐政に苦しむ島民の貧しい

生活にも目を向けている様子が伺える。

そして同情し憤った。藩の苛政が許せなかった。

大島での生活に苛立ち、鬱屈したいた西郷であったが、

同情心から徐々に
島民と意志の疎通をはかるようになる。

くるりんと一筆 平熱になった  和田洋子
                                  しげのやすつぐ
大島での生活にすっかり気が滅入っていた頃、友人の重野安繹が突然

訪ねてきた。
       しょうへいこう
重野は江戸の昌平黌で7年間学び、そこの舎長にまでなった
人物で、

薩摩藩きっての秀才といわれていた。


斉彬にも重用されて側近として活躍したが、金銭トラブルから反斉彬派

役人に陥れられ、死罪になりそうだったところを、

当時庭方役だった西郷
茶道方の大山正円に助けられたことがあった。

西郷らは斉彬に事情を説明
し死罪という不当な処罰を免れ、大島に

流罪となっていたのである。


重野は三晩泊まっていき、2人は思う存分語り合った。

思い出話に更け、流人生活の先輩である重野に西郷は励まされた。

気のもんと言われてふわっと軽くなる  大海幸生


          愛 加 那

西郷は島民に嫌悪感を抱いていたが、それを払拭させたのは島の子供たち

であった。島の豪族、龍左民から頼まれて西郷は、10歳くらいの子供た

ち3人ほどに手習いを教えることになる。

はじめは「こんな子供に勉強を教えて何になるのか」と気乗りしなかった

が次第に愛情が湧いてきて可愛く思えるようになってきた。

教え子が病気になった時には、島の百姓では殆んど食べることができない

白飯のおにぎりを持って、お見舞いに行ったこともあったという。

こうして徐々に西郷は島の生活にも慣れ、島民との信頼関係も築いていく。

リバーシブルの野原を春へ裏返す  西田雅子

島民からの誤解も解け、西郷はどんどん島民と親しくなっていった。
                                 おとまがね
そうするうちに龍家の親戚、龍佐恵志の娘である於戸間金を、

西郷の嫁にしようという話が持ち上がった。
                          あんご
そして安政6年11月8日、於戸間金を島妻としたが、このときに彼女は

愛加那と名を変えた。西郷33歳、愛加那23歳であった。

西郷は愛加那を愛し、客の前でも平気で彼女の身体を触るため、

周りのものが目のやり場に困るほど、二人は大変仲がよかった。

朗報は春の小川になりました  美馬りゅうこ

「智恵袋」  島妻

薩摩藩では、役人でも流罪人でも島で妻を娶ってもよいが、島を離れる時

は別れなければならないと厳しく決められていた。島妻を本土に連れて帰

ることは絶対に許されなかった。ただし子供は連れて帰ることができた。

よって島妻はいつか夫は本土に帰り、産み育てた子は連れて行かれると覚

悟しなければならなかった。しかしそれでも島妻のなり手はたくさんいた。

ヤマトンチュの妻となれば、たとえ別れることがあっても、名誉ある地位

が残ることになる。さらに夫が男子を島に残して行ってくれた場合には、

その子は鹿児島で武士の子としての教育を受けることができ、島に帰って

来れば郷士格となって大出世を遂げることが出来たからである。

よこ糸たて糸こだわりの玉虫色  田口和代

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