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川柳的逍遥 人の世の一家言
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白鯨になるまで白を着続ける  くんじろう


   愛 加 那

「西郷どん」-⑦ 別れの歌

奄美大島に蟄居を命じられた西郷の暮らしは、空家を借り、自炊し、

静穏な生活を
していたかと思えば、ひっきりなしに慰問者が訪れていた。

大久保正道、吉井友実、有村俊斎、堀仲左衛門らからの書簡や慰問品が何度も

送られ、斉彬の遺志を忘れない西郷も、返書を出して情報収集に努めていた。
                          あんご
そしてここで2番目の妻である愛加那を島妻とした。

島妻は、現地妻のことで藩の定めた法律で鹿児島には連れて帰れない。

正道の父である利世も2階にわたる沖永良部島での在任中、島妻との間に

2女をもうけ、藩法により3人を残して鹿児島に戻ったと言われている。


便座から国防省を取りしきる  井上一筒

西郷は斉彬の死の心痛もあり、島に来てしばらくは孤独に苦しんだ。

薩摩の家のことも心配だった。

やがて西郷は、島の子供3人の教育を任され、徐々に島とも馴染んでいく。

そんな中で愛加那を娶り、万延元年(1860)菊次郎という男児が生まれた。

しかし時代は、西郷をこの島にとどめておかなかった。

菊次郎が生まれた翌年、薩摩藩からの召喚命令によって、

大島を離れることに
なるのである。

この時、愛加那は2人目の子を身ごもっていた。

トンネルの中で生まれる数え歌  小林満寿夫

少し薩摩の話に触れる。

西郷が大島に配流されている間、江戸で大事件が起きる。

安政7年(1860)3月3日、江戸城桜田門外で大老・井伊直弼が殺害され。

その首級を上げたのは、西郷の同志である有村次左衛門だった。

当時大久保ら若手藩士が結成した精忠組は、藩内で勢力を拡大させていた。

直弼が暗殺され流動的なこの時を、
好機とみた精忠組リーダーの大久保は、

藩主・島津茂久の父で国父として藩の
実験を握る久光に西郷帰参を願い出る。

月はいま指鉄砲の射程距離  河村啓子

一方、久光の方もまた斉彬の遺志を継いで幕政進出を志しており、

上京して政治工作を
展開しようと考えていた。

ならば、江戸や京都で政治工作を進める際には、斉彬の信任を受けて

政治
活動を展開し、他藩からも一目おかれる存在だった西郷の存在は

不可欠と
久光は思っていた。

大久保の説得に久光は同意した。

そして文久2年(1862)2月12日、西郷は
鹿児島に戻ることになる。

雨上がる電池交換しなければ  山本昌乃


   大島の孤猫

「加那」とは島の言葉で「恋人」という意味だが、こうして愛加那は、

「行きゅんにゃ加那節」
という鼻歌のような情景に直面することになる。

そして西郷が島を離れるとき、どこからともなく、悲しい別れの歌である

『行きゅんにゃ加那節』が大島全体に流れた。

歌詞は、いろいろあり、例えばこのようなものが流れたのだろう。

忍の字をなぞり泡立つものを消す  笠嶋恵美子
              わ
行きゅんにゃ加那 吾きゃこと忘れて 行きゅんにゃ加那
う  た
打っ発ちゃ 打っ発ちゃが 行き苦しや  ソラ 行き苦しや
あんま じゅう
阿母と慈父 長生きしんしょれ 阿母と慈父 
ほ                   はたら み
育でぃりば 働し 召しょらしゅんど  ソラ 召しょらしゅんど

            むねめ かんげ
阿母と慈父 物憂や考えんしょんな 阿母と慈父
くむとぅ   まむ
米取てぃ 豆取てぃ 召しょらしゅんど  ソラ 召しょらしゅんど
                        ゆるゆ
目ぬ覚めて  夜や夜ながと 目ぬ覚めて
な             う                ねい
汝きゃ事 思めばや 眠ぶららぬ  ソラ 眠ぶららぬ

な      とぅいくわ     たちがみうき
鳴きゅん鳥小  立神沖なんて 鳴きゅん鳥小
わ                                      まぶり
吾きゃ加那 やくめが 生き魂   ソラ 生き魂

「訳」
行ってしまうのですか 愛しい人
私の事を忘れていってしまうのですか 愛しい人
発とう発とうとして 行きづらいのです

お母さん、お父さん 長生きしてください
大人になったら働いて面倒見ますから
お母さん、お父さん  物思いして考えないでください
豆を取って、米を取って 食べさせてあげますから

目が醒めて 夜中中目が醒めて  あなたの事を思って眠れません
鳴いている鳥は 立神の沖の方で鳴いている鳥は
私の愛しい人の生霊にちがいない

ページ繰る度に涙の句読点  瀬川瑞紀

「愛加那の子供たちのその後」

大島で西郷と愛加那との間に生まれた、2人の子はその後どうなったのか。

西郷の大島での名前「菊池源吾」から菊の字をとり、菊次郎と菊草と命名。

菊次郎は鹿児島の西郷本家に引き取られ、明治5年、13歳のとき、北海道

開拓使が派遣する留学生の1人としてアメリカに留学。帰国後、西南戦争に

参加して政府軍と戦ったが、延岡・和田越の戦いで右足に銃弾を受けて膝下

を切断、政府軍に投降した。西南戦争後は外務省に入り、のちに京都市長を

務め、琵琶湖疎水事業に尽力している。菊草(菊子)も西郷家に引き取られ、

西郷の従弟である大山巌の弟・大山誠之助に嫁いでいる。

荒波という必然に抗わぬ  徳山泰子

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