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川柳的逍遥 人の世の一家言
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不器用が一生かけて紡ぐ詩  合田留美子






                         小谷城攻めの合間ー秀長-伊勢長島へ出陣する




「大河ドラマ豊臣兄弟が面白いわけー」
秀吉秀長兄弟が、信頼できる史料に登場した時の名字は木下だが、もともと
名字を持っていたのか、何かの由来をもとに、木下を名乗りはじめたのかは
分からない。寧々(秀吉の妻 浜辺美波)の命名説もある。
中村出身なので、中村藤吉郎と称したというが、これまた信頼できる史料で
は確認できない。ともかく秀吉・秀長兄弟の出自は、不明であり、武士身分
だったか、百姓をしていたのか、また非農業民だったのかすら分からない。
若い頃に、尾張国を出た秀吉が舞い戻ってきて出世し、百姓をしていた弟・
秀長を自分の家来としたという通説もやはり根拠に乏しい。
秀長は名乗る前の名は「長秀」であり、「長」の字は、秀吉の主君でもある
織田信長からの偏諱(へんき)と思われ、信長の書状や「信長記」から三十
四歳の頃、信長の直臣になったものと推測される。





花占いに最後を託すことにする  竹内ゆみこ






    信長の草履を懐に温める足軽時代の藤吉郎




『太閤記』(小瀬甫庵)ゟ
秀吉は永禄元年(1558)、二十二歳の時に信長に奉公人として仕えたという。
父・妙雲院殿(弥右衛門、出家して築阿弥)は、元は清須織田家に仕えた
在村被官であったとみられるが、秀吉が七歳の時に死去していた。
そのため秀吉は、十歳から二十歳の時に諸国に放浪したという。
信長に仕えたあと、二十九歳で足軽という下級兵士になり、次いで所領を
与えられて、直臣になり、さらに侍大将という有力家臣へと矢継ぎ早に出
世したとされる。そして永禄八年(1565)には、美濃の領主の調略を担う有
力家臣までになっている。
秀長は、四歳年長の兄秀吉が、生地の尾張愛知郡中中村を出て行ったあと、
妙雲院殿の百姓家を継いだ。そうしたなか、信長(小栗旬)の有力家臣に
なっていた秀吉から誘われて、村を出て信長の家臣になったと推測される。
ともに百姓であった両者は、信長に仕えその家臣になったことで、その後
に政治的に台頭していく出発点を確保したのである。




満たすより零さぬことを覚えた日  稲葉良岩




豊臣兄弟ー秀長の妻女





小一郎と直は喧嘩もあり仲もよかった

小一郎(秀長)の幼なじみであり、恋人という尾張国中村の土豪の娘・
(白石聖)の乙女チックな存在は、「直ちゃんロス」の現象も引き起こし
たほどドラマ上の設定で創作のサービスシナリオであろうか。



の死後、美濃斎藤氏の家臣であった西美濃三人衆の一人・安藤守就(田
中哲司)の娘・慶(吉岡里帆)との縁談が調う。父・守就は、もともと美
濃国の斎藤氏の家臣、西美濃三人衆と呼ばれる有力者の一人だったが、永
禄十年(1567)もともと不仲な龍興を娘婿でもある竹中半兵衛(菅田将暉)
と謀反を計り、織田家に身を寄せ、その家臣として、美濃国北方城を本拠と
した人物である。




おさまってしまうあなたのぬくもりに  高橋レニ





                          慶(慈雲院)




「秀長の正室」
正室の名前は不明だが、秀長生前中は「大納言殿御上」「大納言殿
御内」などと尊称されている。秀長没後には「慈雲院」と呼ばれた。
秀長は天正十三年(1585)に和泉の国、紀伊国に加え、大和国も拝領
して大和入りする。秀長が大和国を領国としたことで、大和に残る
寺社の史料に慈雲院のことが記載されている。
翌天正十四年五月、大和に来た秀長の母・大政所と共に、慈雲院は
春日大社へと参詣した。この年の九月、慈雲院は総勢「百四、五十
人」の行列で春日大社に参詣している(『多聞院日記』)。この後、
天正十八年に至るまで、慈雲院は大政所と共に度々春日大社に詣で
ており、姑の大政所とは仲がよかったと思われ、大政所が郡山を訪
問した時には、一緒に能を鑑賞したりしている。




置かれた場所で器量よしになる翼  瀬戸れい子






    慶と父・安藤守就(田中哲司)




秀長の正妻・慈雲院は秀長没後も郡山に残り、養子秀保(関白豊臣
秀次の次弟)の後見を務めたようである。薬師寺、新薬師寺、春日
社などに参詣したり、また横浜一庵を奉行として戒壇院の再興にも
力を尽くした。
秀保没後は郡山を離れ、京都に暮らした。『大和国著聞記』による
と大和国で約二千石を領知しており、生活に困ることはなかった。
慶長十三年(1608)には、高台院とともに、尾張国の津島神社の堀田
馬大夫の檀那として音信し、同十五年にも祈祷を依頼している。




どなたとも喋らず十日目が過ぎる  清水すみれ






                    大和大納言秀長





「秀長の側室」
秀長に何人の側室がいたかは不明だが、少なくとも大和大納言時代
には少なくとも一人の側室が確認できる。
大和の国衆秋篠氏の息女とされ、「摂取院」「光秀尼」「興秀尼」
「興俊比丘尼」などといわれる女性である。「お藤さん」とも呼ば
れている。法華寺の比丘尼だったが、秀長の側室になったという。
秀長没後に比丘尼となったという史料もあり、こちらが自然である。
秀長との間に生まれた息女は、小早川秀秋の妻室となり、のち毛利
輝元の養子秀元に妻稼したと思われる。
通説では、秀秋の妻室は、毛利輝元の養女とされているが、その前
に秀長の息女と婚姻していた。(『豊臣秀長』ゟ)
文禄三年(1594)三月三日の祝言には、実母として摂取院も臨席して
いる。摂取院は元和八年(1622)十二月八日七十一歳で没。
逆算すると天文二十一年(1552)生まれとなり、秀長が大和入りした
時には三十四歳だったことになる。





指切りは隣の指に内緒です  黒田るみ子





撮影真っ最中、慶の初登場シーンから」
今回、小一郎の正妻として生涯をともに歩み、やがて藤吉郎の妻・寧々
(浜辺美波)とともに豊臣兄弟を支える存在となる慶が初登場。
しかし、セリフもなく、どこか含みのある表情を浮かべて独特な雰囲気
を放っていたことから、S N S 上では「正妻きたー!」「笑顔がなくて
も美しい」「ミステリアス」「想像と全然違った」「意味深すぎる」
「異様な存在感がある」「一体何者?」「お堂で何してたんだろう」
「謎だらけ」などの声が上がった。
また4月5日に放送の第13話のサブタイトルが「疑惑の花嫁」だった
ことにも注目が集まり「疑惑?怖いなぁ…」「気になりすぎる」
「1週間待てない」「面白くなってきたー!!」といった声も上がり、
今後の展開に期待が高まっている。




身の丈の暮らしに咲いた花の数  津田照子

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脳内にサイレン響く不信感  上坊幹子





 此下宗吉郎 筵にて五色の旗を造り奇計を行う





「大河ドラマの豊臣兄弟」
秀吉は前へ前へといく「イケイケドンドン・タイプ」であり、一方の弟秀長
はじっくり考える「沈思黙考タイプ」である。
秀長が秀吉の言動にチェックを入れてサポートしていたからこそ、豊臣政権
が成り立っていたといえるだろう。
組織における「補佐役の重要性」をこの兄弟ほどもの語る例はみない。
戦国時代において、兄弟は最大のライバルであり、兄が弟を殺したり弟が兄
を追放したりと、兄弟間のトラブルは珍しいことではない。
「君臣の関係」では、家臣が主君にはっきりと言いにくいことも、「兄さん
それは違うよ」と諫言できたところが、この兄弟には普通のことだった。
秀吉が、信長の奉公人として仕えるようになってから、七年しか経っていな
いのにかかわらず、とんとん拍子に信長の有力武将へと出世階段をのぼり得
たのも、兄弟による硬軟のタッグが功を奏したことにほかならない。





両軍の空を行き交う鳩と弾  土居玲子





          信長に仕えた若き日の秀吉





豊臣兄弟ー小谷城攻め





「小谷城攻め」
元亀元年(1570)四月、将軍足利義昭を擁する織田信長は、幕府に参加しない
朝倉義景を討伐するため、越前に攻め込んだ。
しかし嫁のの婿である浅井長政が、朝倉方に味方したことで一敗地にまみ
れる。信長はすぐに反撃に転じて、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を打ち破
り、長政らを小谷城に追い込んだ。そして、横山城に秀吉・秀長兄弟を配置
し、浅井攻めを担当させた。これは「元亀争乱」と呼ばれる。
好氏、松永氏、本願寺・朝倉氏、浅井氏・六角氏・延暦寺・武田氏による
義昭・信長包囲網との戦いに信長は苦しめられるが、秀吉宮部継潤を調落
し、徐々に浅井氏を追い詰めていく。





右で笑って左で泣く名演技  青木公輔





元亀三年(1572)七月、信長は虎御前(とらごぜ)に砦を築くと、九月には秀吉
に守らせた。秀吉はここで浅井・朝倉連合軍の攻撃を退けたため、浅井長政が
頼みとする朝倉勢の士気は下がり、冬の到来もあって、十二月には越前に撤退
してしまう。
元亀四年(1573)初頭、将軍義明は、武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川家康を破
ったとの報を聞くと、信長を見限って、三好・松永・本願寺・朝倉・浅井・六
方に味方した。しかし四月に信玄が死去すると、信長は将軍義昭を攻め立て、
七月には山城より追放している。





周波数あわなくなった崖の百合  笠島恵美子





      岩倉を焼討する





信長が、八月に近江北部に攻め入ると、朝倉義景も小谷城の救援のため近江へ
出陣した。ところが浅井方の阿閉貞征(あつじさだゆき)が造反するなどした
ため、義景が撤退しようとしたところに、信長は急襲をしかけ大勝利を得た。
この八月の「刀根坂の戦い」で、朝倉氏の有力被官やかつての美濃国主の一色
義紀(斎藤竜興)が揃って討ち死にした。
信長は一乗谷を焼き払い、二十日には義景を自害に追い込んだ。





哲学へ眉間の皺が戻らない  木口雅裕





         難攻不落ー小谷城





一方信長は、この頃の浅井長政との戦いはすでに勝敗が決しており、秀吉は、
戦争に巻き込まれることを恐れ、避難していた古橋郷の名主百姓中へ、八月
十一日に「羽柴藤吉郎」として帰村を命じている。
弟の秀長も十六日には「木下小一郎長秀」として、黒田郷の惣百姓中へ帰村
を命じ、軍勢の乱暴狼藉を取り締まり、違反者は注進があり次第処罰するな
ど安全を保障した。秀吉・秀長兄弟は浅井氏滅亡後の復興に向けて、すでに
動き出していたのである。





友だちを助けるためにある両手  柴田比呂志





         長 秀 像





秀吉は七月二十四日以前から「羽柴名字」を名乗っていたが、秀長はまだ木下
名字のままであった。また「長秀」という実名は、信長の一字、「長」を受け
たと考えられ、秀長は秀吉と同じく信長の重臣であった可能性が高い。
百姓の帰村にあたっても、秀長は秀吉の命令を受けた訳ではない。





立春のスパゲッティは内巻きに  赤石ゆう





朝倉氏を滅ぼした信長は、近江に引き返し、二十六日に虎御前山に陣取った。
翌日には秀吉が、小谷城に攻めかかり、浅井長政の本丸とその父の久政の籠る
小丸の連絡を絶つことに成功し、久政を自害させている。
浅井長政は、妻のや三人の娘を織田方に引き渡した後、九月一日に自害した。
浅井氏の滅亡により、三年の長きにわたって、信長を苦しめ続けた「元亀争乱」
は終結した。





ライバルがしっかりこけてくれました  中田 尚





     秀吉による長浜城築城時のジオラマ





そして、浅井氏の旧領である湖北三郡は秀吉に与えられる。
これは秀吉・秀長兄弟が浅井氏との戦いで、最も功績があったことを意味する。
天正元年(1573)、「小谷城攻め」の功績により浅井氏の旧領を与えられた。
そして秀吉は、天正二年から約二年かけて琵琶湖畔の「今浜」に築城し「長浜」
と改名した地で、初の城持ち大名となる。「長浜城」である。 





桃太郎の生まれ変わりの金魚です  井上恵津子

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履歴書の写真の鼻に加筆する  清水すみれ





            「大相撲部屋之図」 歌川国貞



相撲部屋を持つということは、日本相撲協会の年寄(親方)が独立し、
土俵と施設を所有して弟子を指導する「疑似家族」の長となることで
す。師匠として弟子を育成し、場所入りや管理を行う重い責任を担う
と同時に、部屋の経営者として運営・資金調達の責任も負う。
経営者としての責任。部屋の運営(施設管理、食費、人件費など)を
自身の責任で行うため、スカウト活動や支援者(後援会)との関係構
築も重要となる。
大相撲の力士や関係者は、必ずいずれかの部屋に所属する必要があり、
部屋を持つことは角界で独立して活動する第一歩となる。




スイッチバックさあこれからが大変だ  阪本高士







        音羽山親方
モンゴル出身鶴竜・音羽山部屋に所属している力士
音羽山部屋関脇・霧島を筆頭に、鋼、鶴峰、白竜、讃岐竜、光星竜、
象竜、鶴翔、鶴英山、竜鳳(2026年3月時点)といった所属力士が、
在籍しています。この部屋は2023年に設立され、霧島を中心に大関
復帰やさらなる上位を目指し多くの若手力士が稽古に励んでいます。



大相撲ー部屋を持つということ




「独立して部屋を持つための厳しい条件」
収入や名誉を求めて独立しようとしても、部屋を新設するハードルは、
年々上がっています。
「引退後1年経過」「所属力士数の規定」「資金力」など厳しい条件
をクリアしなければなりません。
特に土地や建物の確保には、数億円規模の資金が必要となり、借金を
してでも部屋を持つ覚悟が問われます。
「部屋付き親方」の中には、将来の独立を目指して資金を貯めている
人もいれば、リスクを避けて、一生部屋付きでいることを選ぶ人もい
ます。部屋を持てば経営責任という重圧がのしかかりますが、部屋付
きなら指導と自身の業務に専念できる。
この「気楽さ」をお金に換算して納得している親方も多いのです。




舌二枚これさえあれば大丈夫  楠本晃朗





「木曽街道六十九次 善光寺開帳記念」 歌川国芳




「部屋付き親方の業務内容」
年収1千万円以上をもらう部屋付き親方ですが、その仕事内容は給料
に見合っているのでしょうか。
「稽古場で座っているだけ」と揶揄されることもありますが、実際に
は多岐にわたる業務をこなしています。
相撲協会の業務は、本場所中とそれ以外で大きく異なります。
部屋付き親方は、自分の部屋での指導だけでなく、協会全体の運営を
支える重要な歯車として機能しています。




大仏に絆創膏を貼る仕事  通利一遍





         「勧進大相撲八景 支度部屋の図」 歌川国貞




朝の稽古では、まわしを締めて土俵に下り、若い力士に胸を出すこと
もあれば、土俵下からアドバイスを送ることもあります。
師匠が不在の時には代行として、稽古を取り仕切ることもあり、部屋の
ナンバー2としての役割が求められます。
特に技術的な指導においては、現役時の経験を活かせる最大の場面です。
しかし、最終的な決定権は師匠にあるため、自分の指導方針と師匠の方
針が食い違うとストレスを感じることもあります。
師匠を立てつつ、力士を育てるバランス感覚が求められます
この中間管理職的な悩みは、部屋付き親方特有のものかもしれません。




どこまでも師匠は師匠なんですよ  中村幸彦





「木曽街道六十九次 関ケ原の図」 歌川国芳




本場所中は、勝負審判として、土俵下に座る姿がテレビでもよく見ます。
審判委員は、極度の緊張感を強いられる仕事であり、物言いなどの判定
には全責任を負います。また会場警備やチケットの管理、広報業務など
協会運営の裏方仕事も親方衆が分担して行っています。
これらの業務は、朝から夕方まで続き、場所中は休みがありません。
地方場所では宿舎での生活となり、プライベートな時間も制限されます。
本場所がない期間に行われる地方巡業にも、多くの親方が帯同します。
移動と宿泊の連続で体力的にハードな仕事ですが、ここでも手当が支給
されますが、巡業先でのファンサービスや、現地の主催者との調整など、
営業マンとしての側面も求められます。
これらが部屋付き親方の役務上の見えないところでの苦労や、意外とハ
ードなスケジュールの実態です。




老眼でややこしい物見えません  藤本鈴菜





「木曽街道六十九次 日本橋」  歌川国芳




「年寄名跡の取得費用と回収シミュレーション」
親方になるには「年寄名跡(年寄株)」が必要です。
一時期は数億円で取引されていたとも噂されるこの株ですが、高額な費
用を払ってまで取得する価値はあるのでしょうか。
給料だけで元が取れるのか、シビアな視点で計算してみましょう。




現在、名跡の売買は表向き禁止されていますが、継承に伴う金銭の授受
は実質的に存在すると言われています。
その相場は数千万円から1億円以上とも。
この巨額の投資を、定年までの給料で回収できるかどうかが、親方を目
指す力士にとって最大の懸念事項です。
年寄名跡は、全部で105しかなく、空きが出ない限り取得できません。
人気のある名跡や、由緒ある名跡は競争率が高く、取得には実力だけで
なく政治力や資金力が必要です。
もし仮に1億円で取得したとしても、親方になれば年収1千万円以上が
30年近く保証されます。
単純計算で生涯賃金は3億円から4億円になります。
そう考えれば、初期投資が大きくても十分にペイできるビジネスモデル
と言えるかもしれません。




淋しげなポーズ狡いずるいずるい  岡田陽一






      「勧進大相撲酒盛之図」 相撲の合間の力士たち




「65歳定年までに稼げる総収入」
30代後半で引退して親方になり、65歳まで勤め上げた場合。
平均年収を1200万円と仮定して30年間働けば、総額3億6000
万円です。ここから税金や生活費を引いても、名跡取得費用の借金を返
済することは十分可能です。
さらに70歳までの再雇用期間を含めれば、生涯収入はさらに増えます。
何より「元力士」という肩書きだけで、これだけの安定収入が得られる
職は、一般社会にはそうありません。
リスクを冒してでも株を取得しようとする力士が多いのも頷けます。




終章をそっと支えてくれる過去  徳山泰子





      相撲稽古を見る親方




「借金をしてでも親方になるメリット」
多くの力士は、現役時代の貯金だけでは、名跡費用を賄えず、後援会か
らの借金などで工面します。それでも親方になるのは金銭面だけでなく、
相撲界に残れるという精神的な安定が大きいからです。
一般社会でゼロからキャリアを築く厳しさを考えれば、借金を背負って
でも「親方」というレールに乗る方が安全だと判断するのです。
また、協会に残れば、厚生年金などの社会保障も手厚く、老後の不安も
軽減されます。
部屋付き親方は、経営リスクを負わずにこの「協会の傘」に入ることが
できる、ある意味で最も賢いポジションかもしれません。




美しい傘に出会ったにわか雨  中前棋人





           「東都両国橋夏景色」  歌川貞秀



江戸の勧進相撲で賑わった両国界隈の活況を伝える作品で、本作はJR
両国駅構内にも大型パネル化されている。
びっしりと人で埋め尽くされた中央の橋は、江戸時代初期の1660年頃
に初めて建設され、現在に至るまで何度も架けなおされている両国橋。
花火の上がる夜の隅田川の光景が、西側上空から描かれており、極端
に歪曲した川の表現と、誇張された橋の上や川面の混雑振りが印象的
で、圧倒的なパワーを感じさせる作品である。




「まとめ」
部屋付き親方の給料は、決して「安い」ものではありませんでした。
むしろ、経営リスクを負わずに年収1千万円以上が保証され、各種手当
も充実している「高待遇」なポジションと言えます。
部屋持ち親方のような派手なキャッシュフローはありませんが、安定性
においては抜群です。
彼らは、師匠の補佐や協会の運営業務という地道な仕事をこなしながら、
相撲界の伝統を支えています。
高額な年寄名跡を取得するハードルはありますが、長い目で見れば十分
に元が取れる投資です。
相撲中継を見る際は、土俵下の審判や花道の警備をしている部屋付き親
方たちの「働きぶり」にも注目してみるのもいいでしょう。





朝刊にヤッター夕刊がアッホー  宮井元伸

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どっさりと塩をまいたが効いてない  保雄






            相 撲 部 屋
親方や谷町、先輩力士の稽古をみる部屋のけいこ場





「相撲部屋」
相撲部屋とは、日本相撲協会が力士の養成を委託するところである。
相撲部屋は、力士の番付によって、個室と大部屋に分けられている。
下位力士が暮らす「大部屋」は、いわば雑魚寝に近い。
さらに、兄弟子の世話を焼いたり、付け人の仕事をこなしたり、マッ
サージも頼まれようし着替えも手伝う。チャンコの給仕もある。




言い訳はしない男の意地がある  楠本晃朗






  親方制度がなかった時代の歴々の横綱衆





大相撲ー部屋持ち親方と部屋付き親方





「親方」
親方には二種類ある。
「部屋持ち親方」「部屋付き親方」である。
部屋持ち親方は師匠と呼ばれる。
「部屋持ち親方」とは、相撲部屋を所有・経営する、いわば相撲界の
社長さんである。
「部屋持ち親方」は、師匠として部屋の運営を行い、
「部屋付き親方」は、その部屋に所属して力士の指導にあたる。
「親方」になるには、日本国籍を保有し、最高位が小結以上幕内通算
20場所以上、関取通算30場所以上のいずれかの条件を原則満たさ
なければならない。











深海魚になろう浮き上げれる日まで  日下部敦也




「部屋持ち親方」の条件は、幕内通算12場所以上、または関取通算
20場所以上。部屋付きの親方にはなれないが、部屋持ちの親方にな
れるケースがある。
給与は部屋持ち、部屋付き共に相撲協会の役職で決まるため差はない。
ただ部屋には、協会から部屋維持費や東京場所での稽古場補助費があ
るほか、幕下以下の力士への養成費、関取以上の地位による養成奨励
金なども支払われる。
一方「部屋付き親方」とは、その社長の会社に所属して力士の指導や
育成、協会業務の手伝いを行う親方のことである。
稽古場でマンツーマンの指導を行うほか、師匠の代理を務めることも
ある。




 わたくしの屋台骨としての昭和  加藤ゆみ子





「部屋付き親方の役割と仕事」
稽古場での胸出しや生活面での指導。師匠が不在の際、部屋の監督を
代行。
相撲協会業務として、勝負審判、巡業帯同、その他事務など、日本相
撲協会の職務分掌に従事。
なぜ「部屋付き」
年寄名跡は取得したが、直ちに独立・部屋興しの条件(最高位や実績)
を満たさない場合。
将来の部屋継承(部屋の師匠になる)の下準備として、現師匠のもと
で修行・部屋経営を学ぶため。
「所属と待遇」----すべての親方は、どこかの部屋に所属する必要が
あり、所属していないと本場所に出場できない。
給与は、部屋持ちか部屋付きかで大きな差はなく、役職(委員、理事
など)に基づいて支給される。




休みたいなんて言わない回遊魚  柳本恵子






    友綱部屋から大島部屋へ




「部屋持ち親方との違い」
部屋持ち親方=部屋の最高責任者(師匠)。経営責任がある。
部屋付き親方=師匠ではないが、その部屋に所属する親方。
「ニュース」 令和8年3月
 元関脇旭天鵬の大島親方が、5月の夏場所後に友綱部屋を継承する
ことが3日、分かった。現在は、友綱部屋の部屋付きだが、友綱親方
(元関脇魁輝)の65歳の定年に伴い名跡を交換して、江戸時代から
続く年寄「友綱」を継承する。モンゴル出身力士で初の師匠(部屋持
ち親方)になる。




悪しからず純度100パー昭和です  橋倉久美子






             相 撲 部 屋 の 稽 古 場




「部屋付き親方の給料と年収」
親方の給料は、現役時代の四股名や最高位に関係なく、協会内での、
「階級」によって決まります。
「部屋持ちか、部屋付きか」、による基本給の差はなく、あくまで
役職に応じた給与テーブルが適用されるのが特徴です。
日本相撲協会の階級別給与テーブル----
相撲協会の親方衆は、理事長を頂点に、厳格な階級制度の中にいます。
新米の親方であっても「年寄」という階級からスタートし、その月収
は、約70万円から80万円程度と言われています。
(年収に換算すると1千万円を超え、一般的なサラリーマンの平均年
収を大きく上回ります)
   



夢にまで出てくるか泣きぼくろ  井本健治






              相 撲 部 屋 の 雑 魚 寝 大 部 屋




さらに昇進して「主任」「委員」となれば、月収は100万円前後に
達し、役員待遇や理事になれば、さらに跳ね上がります。
この階級は年功序列の側面も強いですが、協会の運営にどれだけ貢献
したか、や、一門内の力学によっても昇進スピードが変わります。
つまり、部屋付きであっても長く勤め上げれば、かなりの高給取りに
なることが約束されているのです。
さらに、基本給に加えて、親方には様々な手当が支給されます。
夏と冬には賞与(ボーナス)があり、それぞれ基本給の約2ヶ月分が
支給されるのが通例です。
これだけで年間数百万円のプラスになります。





電飾の街が浮足立っている  井上恵津子





  その他にも、本場所ごとに支給される「場所手当」や勤続年数に応
じて加算される「勤続手当」、衣装代としての補助なども存在します。
特にユニークなのが「名跡金」で、年寄名跡の取得対価として毎月数
万円が支給されます。これらの手当を積み上げると、手取り額は相当
な金額になることが予想されます。
このように親方の給料は安くありませんし待遇もめぐまれています。




海の青空の青よし曼殊沙華  松井紀代司





    関取がまわしを外すとき





「定年後の再雇用制度「参与」の給料」
親方の定年は満65歳ですが、希望すれば70歳まで「参与」として
再雇用される制度があります。
これは一般企業の再雇用と同様に、現役時代よりも給料は下がります。
現役親方時代の約7割程度になると言われていますが、それでも年収
ベースでは数百万円後半から維持されることが多いようです。
ただし、参与になると部屋を持つことはできず、協会の役員選挙への
立候補権も失います。
あくまで後進の指導や協会のサポート業務に従事する立場となります。
それでも70歳まで安定した収入が得られることは、引退後の人生設
計において非常に大きなメリットと言えるでしょう。




しかるべくしかるべくして見る夕陽  土井 直






     関取の二個目の人生塩ちゃんこ




「現役時代の番付と親方給料の関係」
誤解されがちなのが、現役時代に、横綱や大関だったからといって、
親方になってからの初任給が高いわけではありません。
元横綱でも元平幕でも、引退して親方になれば、同じ「年寄」または
「委員待遇」などからのスタートとなります。
ただし、元横綱などは功績を考慮されて昇進が早かったり、最初から
高い階級で採用されたりする特例はあります。
しかし、基本的には親方としてのキャリアは、横一線に近い形で始ま
ります。現役時代に稼いだ懸賞金や優勝賞金のような、爆発的な臨時
収入はなくなりますが、その分、怪我で休場して給料が下がるといっ
たリスクからは解放されます。安定感という意味では、現役時代より
も親方時代の方が優れているとも言えます。




原点の樹が枯れそうになっている   みつ木もも花




「給与から引かれるものと手取り額」
高額な給料をもらっていても、そこから引かれるものも少なくありま
せん。税金や社会保険料はもちろんですが、親方衆には「一門」
「親睦会」などの付き合いにかかる費用も発生します。
また後輩力士への祝儀や、冠婚葬祭などの交際費もばかになりません。
それでも、一般的な生活水準を維持するには、十分すぎる額が手元に
残ります。
部屋付き親方の場合、部屋の運営経費を負担する必要がないため給料
の多くを自分の生活や貯蓄に回すことができます。この「可処分所得
の多さ」こそが、部屋付き親方の隠れた魅力かもしれません。




ボクだけがおしりに浴びる扇風機  深尾圭司






    1917年(大正6)の出羽海部屋の稽古場光景




「部屋持ち親方との「収入格差」の正体」
基本給は同じでも、部屋持ち親方(師匠)と部屋付き親方では、実際
に動かせるお金の桁が違います。
それは、協会から部屋に対して支払われる「運営資金」の有無にあり
ます。ここでは、部屋持ち親方だけが得られる特権と、部屋付き親方
との経済的な違いについて深掘りします。
部屋を持つということは、「経営者になる」ということです。
経営者には、売上(協会からの支給金)が入りますが、そこから経費
を支払わなければなりません。





五雨十雨 壺はいつでも無口です 福光二郎





「部屋維持費や弟子育成費の仕組み」
部屋持ち親方には、力士1人につき月額数万円の「力士養成費」や、
部屋の維持管理に使われ「相撲部屋維持費」「稽古場維持費」など
が支給されます。これらは、給料とは別の名目で振り込まれ、弟子の
食費や光熱費、家賃などに充てられます。
弟子の数が多い部屋ほど、この支給額は莫大なものになります。
もちろんこれらは、経費として使うためのお金ですが、やり繰り次第
では手元に残るお金を増やすことも可能です。
また、部屋の後援会からの寄付やお祝い金なども、基本的には師匠が
管理します。このように、部屋持ち親方は、給料以外のキャッシュフ
ローが非常に大きく、それが「親方は金持ち」というイメージに繋が
っています。




鬼灯を鳴らして肩で風切って  森田律子






        親方の上には日本相撲協会がいる




「部屋付き親方には支給されないお金」
一方、部屋付き親方はあくまで「従業員」に近い立場であり、経営リ
スクを負わない分、入ってくるお金の種類も限定されます。
まず運営資金は一切支給されません。
自分の弟子がいないため、育成費も維持費も発生しないからです。
部屋付き親方が受け取るのは、あくまで自身の給料と手当のみです。
また、部屋の谷町(タニマチ)や後援会からの支援も、基本的には部
屋のトップである師匠に向けられます。
部屋付き親方にも、個人的な支援者がいる場合はありますが、部屋全
体を支えるような大規模な援助を受けることは稀です。
そのため、派手な生活や豪遊といった面では、部屋持ち親方には及ば
ないのが現実です。



吹きだまり枯れ葉くるくるすねている  靍田寿子

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星が降っているので浴びに来ませんか  みつ木もも花





           石 山 女 角 力


【明治十六年~二十四年四月】 〔女角力、興行さる!〕
今の年、女角力が盛んに行われている。
これは信州の士族の興行師が始めたもので、番付もあるというからかなりの
本気。みな大女ばかりで、大関などは、身長こそ百五十七センチだが、体重
は八十キロとでっぷり。四股名も富士山遠江灘と男勝りだ。
両国回向院で興行を行ったこともあるが、余技として、土俵を前歯でくわえ
たり、四斗俵を持って土俵上を歩いたりと珍芸が多く、差し止めになること
しばしばとか。



わたくしがてふてふだったころのこと  大葉美千代






                 歴 代 横 綱 勢 ぞ ろ い



大相撲ー明治~昭和の相撲のニュース





           行司稼業も命がけ
観客のほとんどは相撲より飛んだ行司を見ている。



【明治三十八年一月】 〔ああ行司悲歌土俵に死す〕
まさかと思われていた、本当におこってしまった。
一月場所、立行司の木村頼平が亡くなった。死因は心臓マヒ。
土俵下で力士に押しつぶされたことが原因だった。
一月場所五日目の太刀山ー駒ヶ嶽戦だった。
駒ヶ嶽の攻めにこらえ切れず土俵下へすってんころり。
このとき、太刀山の投げ足が、下で控えていた瀬平を直撃した。
行司の瀬平は、後ろにひっくり返り苦しんだが、運命のいたずらか、際どい勝
負のため土俵下から物言いがつき、一時間もの協議の末、一勝負預かりに。
この間に瀬平は元気を取り戻し、次の一番を無事に務め、六日目と八日目に再
び土俵にあがった。ところが翌日の早朝、自宅の布団のなかで急死。
医師の診断により死因は、心臓マヒと判明した。
瀬平は酒好きで、心臓を悪くしていた…が、瀬平に運命のとどめを打ったのは、
太刀山。結果、土俵下で圧死してはてることとなった瀬平。
行司は命がけの仕事なのである。
(立行司・木村瀬平は、日本相撲協会の年寄名跡のひとつで、木瀬(きせ)の
通称で呼ばれている)


あの世にはタタミイワシを手土産に  銭谷まさひろ





         梅 ヶ 谷 ー 常 陸 山 戦  



【明治四十一年】 〔大相撲人気が絶頂を極めている〕
立役者は二代目梅ヶ谷常陸山
梅ヶ谷は、温和な顔立ちで、取り口も守りを固める堅実派。
一方の常陸山は猛々しい風貌で、攻撃型力士。対照的な二人の勝負に、ファン
は沸騰中だ。
「圧巻、勝率九割を超える常陸山」
今から百十五年前、谷風・小野川の両横綱が、ライバルとして数々の名勝負
を演じ江戸市中を熱狂させたが、今の二代目梅ヶ谷・常陸山の人気は、過熱
ぶりを彷彿させるようなフィーバーぶりだ。


止まれない訳を踵も知っている  森井克子



梅ヶ谷は一六八センチ、一五八キロ。背が小さく、加えて、いつも笑みを浮か
べているほがらかな顔。豊な印象はまるでえびす様だ。
相撲もどっしりと構えて四つに組み、最新の注意を払っての寄りが身上。
常陸山は梅ヶ谷とはまったく対照的。
一七四センチ、一四七キロのバランスの取れた体。眼光は鋭く、飢えた肉食動
物のようなどう猛さを感じさせる風貌。
取り口も、細かい技にこだわらず、立ち合いから気合十分に猪突猛進する。
豪快な攻撃力が持ち味だ。





狼の視力を持った草刈機  くんじろう



二人の対戦が最初に注目されたのは、三十六年五月。互いに全勝で千秋楽を
迎え、息もつかせぬ大接戦の末、常陸山が勝ち優勝を決めた。
この一戦で梅ヶ谷も高く評価され、場所後に横綱に同時昇進。
そして今、この両力士が東西に分かれて、優勝争いを繰り広げているから、
ファンにはたまらない。二人の対戦のほとんどが全勝、もしくは一敗。
現在の大相撲での最高対決だ。
ライバルの二人だが、今のところ人気、実力とも常陸山が上。
常陸山の勝率は九割を越え、抜群の強さを誇る。
梅ヶ谷は、対戦相手のなかで、唯一、負け越しているのが常陸山である。



やんわりと言いなはるけどきつおます  原 洋志




                      初 代 両 国 国 技 館



【明治四十二年六月二日】 〔相撲の殿堂!国技館完成〕
晴雨にかかわらず十日間の相撲興業可能に、ブームにますます拍車。
この日、国技館の開館式が盛大に行われた。委員長の板垣退助が厳粛に開館
の挨拶。さらに全国の新聞記者を代表して、万朝報社主の黒岩周六が祝辞を
朗読した。参列者は、東京市長、商工会議所会頭、両院議長、各貴族、外国
大使とそうそうたる面々だった。
新館建築に向けスタートしたのは三十九年。場所を両国の回向院境内に決定。
五月には起工式を行い、建築家は東京駅、日本銀行本店の設計で名高い辰野
金吾が選ばれた。そして、三年の月日を経て、日本初、ドーム式の円形建築
の常設館が完成した。
建設を機に、屋根付きの土俵は、これまでひさし風のものから、入母屋造り
に変更。土俵も四角形に盛り上げた土俵場のなかに、丸土俵を置くことにな
った。
(ちなみに「国技館」の命名者は文学者の江見水陰。収容人数は露店興行の
三千人程度から一万六千人へと増大。そして何より、晴雨に関係なく興行を
行える。相撲ブームにますます拍車がかかるのは間違いない)



野暮やなあその先聞きたがるなんて  松浦英夫



【明治四十四年五月】 〔雲竜型と不知火型、実は逆だった〕





                                       雲 竜 型 土 俵 入 り





【明治四十四年五月】 〔雲竜型と不知火型、実は逆だった〕
大相撲オープニングのクライマックスは、何といっても「横綱土俵入り」だ。
第10代横綱・雲竜久吉と第11代横綱・不知火光右衛門をそれぞれ創始者
とする「雲竜型」「不知火型」が知られている。
一般的には、「不知火型の横綱」として、太刀山・羽黒山・吉葉山・玉の海
知られ、「雲竜型の横綱」は、常陸山、二代目梅ケ谷・栃木山・双葉山・栃錦
若乃花・柏戸・大鵬など、圧倒的に多い。
ところが、この土俵入りの型が、現在ではまったく逆であるという。
仰天する異論が飛び出し、関係者を驚かせている。
それは、第22代横綱・太刀山が、明治44年5月6日の靖国神社大祭の余興
相撲で披露した初土俵にさかのぼる。
このときの模様を太刀山自身がある報道関係者にこう伝えているのだ。
「わしの土俵入りは常陸山関・梅ケ谷関(二代目)とは違っている。
二人は四股を踏んだ後で、左手を胸にあて、右手だけを横に広げるが、わしのは、
両手を同時に広げて、両足をせり上がっていく。行司の木村庄之助(十六代)が
薦めてくれたもので、これが横綱雲竜の型らしいよ」



嘘だとは言えないままの嘘ひとつ  山田恭正





                                         不 知 火 型 土 俵 入 り



 当時の新聞『報知』『国民』『朝日』は、太刀山の土俵入りを「雲竜型」
署名入り記事で報じたが、『日日』『時事』『万朝報』など、「不知火型」
雑報扱いで報じたものもあった。
信憑性を考えれば、署名記事の報に分があり、明らかに現在の土俵入りの一般
論とは逆となる。
「これはいかなることか」と、大相撲歴史新聞では、特派員を派遣し調査した
ところ、ある有力報道関係者が、後に太刀山の土俵入りの型を継承した第36
代横綱・羽黒山の土俵入りを見て、前述の雑報扱いの記事を参考に「不知火型」
と決めつけてしまったとのこと。



                    綱の後ろの結び目で分ける雲竜型と不知火型
いずれの名にせよ「優美な横綱土俵入り」を競った、雲竜・不知火の両横綱の
名は、大相撲の歴史とともに輝いている。
なお現在「雲竜型・不知火型」の違いとして、四股を踏んだ後の下段のせり上
がり形以外に、綱のうしろの結び目が一輪のものが、「雲竜型」両輪のものが
「不知火型」となる。
(右手を伸ばし左手を脇に添えるのが雲竜型(攻守兼備)、両手を大きく広げ
るのが不知火型(攻め)とされ、雲竜型は豊昇龍や大の里、不知火型は白鵬や
照ノ富士が代表的である)



なるようになるが私の哲学だ  徳山みつこ






                        あゝついに双葉山敗れる


【昭和二十年十一月】 双葉山七十連勝ならず
双葉山の69連勝の裏にかくれていた事実。
昭和11年1月から14年1月まで、60連勝という不滅の金字塔を築いた
双葉山は、実は、右眼がほとんど見えないというハンディを背負っていたと
いう衝撃的な事実が明らかになった。 関係者によると、
昭和16年5月場所の時、双葉山は桜錦と対戦し負けた一戦があった。
その時の取り組みの内容に不審な点がみつかったのである。
平幕の桜錦は、横綱・双葉山の右足に蹴手繰りをしかけ、左に避けた。
双葉山は、思わず土俵上に手をついてしまったが、自分の右側に瞬間的に移
動した桜錦を完全に見失ったような感があり、力士たちの間では、双葉山の
右眼はおかしいのではと危惧された。
双葉山と親しい高木友之助中央大学総長は「彼の右眼のハンディを知ってい
たのは、おそらく彼の両親と私ぐらいだろう」と語る。
同部屋の力士さえ知らない事実だった。
彼はこんなハンディを持ったまま、不滅の連勝記録を樹立したことになる。



誰もしらない沢山のしくじり  永井 尚



昭和20年11月の引退後、はじめて彼自身の口から明らかにされた衝撃的な
事実であった。ますます彼の記録が、いかに前人未到の大記録であったかが、
再評価されるだろう。
また誉めるべきは、彼と対戦した当時の力士たちともいえる。
双葉山は、全力士から徹底的に研究され、彼の右眼のことは噂ではなんとなく
知られていた。が、誰一人として彼のそのハンディを確かめるような取り組み
を仕掛けた者はいなかったという。双葉山の70連勝にストップをかけた安芸
ノ海「右四つに組まれた後、安芸ノ海は、外掛けを仕掛け、双葉山はバラン
スを崩して左膝から落ちた。右眼のことを狙った戦い方ではない」
と関係者は口を揃える。
右眼のことを隠し通し、かつ大記録をつくった双葉山。そしてそのハンディを
薄々気づきながらも決して戦術として使わず、真正面から戦い続けたフェアプ
レーに徹した力士たち。大相撲ならではの清々しい逸話である。
(因みに、双葉山の生涯成績は276勝68敗1分けで、33休。優勝12回。
幕内の勝率はなんと8割2厘。横綱になった後は、8割8分2厘という驚異的
な勝率を誇った)



泣き場所ににょきにょき生える笑い茸  笠島恵美子





     力士時代の力道山



【昭和24年5月7日】 〔力道山がついにのし上がった〕
この日、相撲協会は、15日から行われる大相撲夏場祖の新番付を発表した。
そのなかで、ここ数場所、確実に力をつけ白星を重ねていた力道山が、関脇
昇進を果たした。
その場所、力道山はいつになく好調だった。連日勝ち続け、千秋楽まで九勝
一敗、前田山、東富士、羽黒山の上位陣と星を並べ、その場所から採用され
た同点決勝戦で、四力士による優勝決定戦が行われることになった。
横綱・羽黒山と対戦した力道山は、立ち合いから攻め、相手を土俵際に追い
詰める。羽黒山は懸命に左、左へとまわり、力道山が右外掛けで倒そうとし
たとき、羽黒山がうっちゃりで破った。
結局羽黒山が優勝し三連覇を遂げたが、強豪相手に健闘したことが、この日
の昇進につながったことは間違いない。



にんげんも塩で締めるとしゃんとする  井上恵津子






          横 審 総 見



【昭和25年5月25日】 〔横綱審議委員会設置ー横綱格下論に応える〕
このところ議論が沸騰していた「横綱格下論」にようやく決着がついた。
相撲協会はこの日、横綱審議委員会(横審)を設置した。
委員長は酒井忠正氏に決定し、尾崎士郎氏、石井光次郎ら計八人のメンバー
で構成されることになった。横審設立のきっかけは、今年の春場所で羽黒山
東富士、照国の三横綱が、ケガや故障で相次いで途中休場し、六日目にはつ
いに横綱不在に、この事態に世論は激憤。横綱格下げを求める声が殺到した。
協会は役員会を開き、対応を協議。一時は、横綱も二場所連続で負け越せば、
地位を格下げする方向で固まったが、照国のように「八年間も横綱として角
界に貢献しながら、二場所の成績不振だけで格下げするのはどうか」という
意見もあり、対応は混迷を極めていた。
横審は、横綱を推薦する時点で、積極的に発言し、横綱昇進が妥当かどうか
を審議する。協会の慰問機関として設けられた。



文句なく文句言われず恙無い  藤井孝作



【昭和32年3月17日】 〔横綱の一代年寄が復活〕
横綱の一代年寄が復活することになった。
「横綱一代年寄制度」は、横綱が引退した場合、本人一代に限り、現役時代
の四股名で年寄として認められるもので、第三十六代横綱・羽黒山まで認め
られていたが、その後、安芸ノ海以降の横綱は廃止となっていた。



横綱に期待されたがすぐカド番  太田省三





                 土俵下にはザックザク



【昭和35年9月17日】 〔給金の増額〕
日本相撲協会は、幕内および十両の報奨金と幕下以下の奨励金の支給額につ
いて理事会を開いた。従来の規定を全面的に改正する思い切った大幅な増額
にふみきった。
報奨金は、従来勝ち越し星2つまで1つにつき25銭、3つ以上は、1つ増す
ごとに50銭の増加を認めていたのを、勝ち星1つにつき50銭に決めた。
また準本場所での勝ち越し星に支給されていた25戦は削除された。
奨励金に関しても改正された。
従来幕下以下は勝ち星1つにつき、幕下170円、3段目100円、序二段
80円に、勝ち星についても値上げされる。なお改正した支給額は今の場所
から実施される。



昭和の幹に令和の歌を接ぎ木する  小川佳恵





                         旭 富 士
横綱の誰かに似ていますね。果たして誰に似ている?…答えは下に  (´∀`)



【令和8年3月場所】 〔出世は早いぞ! スピード違反だぞ〕
「ピョ~ンといったんですけど、じっくり見てこられて恐怖でした。
強いです。ベネズエラ打線みたいでした」対戦した朝前進が語る。
大相撲春場所・11日目から、「史上最強の新弟子」と注目を集める西序二段
八枚目の旭富士 (23) が、序ノ口デビューから無傷の本割13連勝とした。
この日、元十両の東三段目七十五枚目の朝前進(高砂)と対戦した。
立ち合いで変化されたが慌てずつかまえて、難なく寄り切り、元関取を問題に
しなかった。
先代師匠の宮城野親方(旭富士)から「横綱の四股名を受け継いだ」期待通り、
連勝を伸ばしてみせた。今場所もこれで6連勝。
将来、どんな大物になるのか楽しみである。目が離せない。注目株一番です。
本名 バトツェツ・オチルサイハン  モンゴル・ウランバ-トル出身
身長 187,0㎝  体重 148,1㎏
(第55代横綱・北の湖は、昭和50年代の土俵に君臨した大横綱で、
その強さは、双葉山、大鵬をしのぐとも言われ、憎たらしいほど強い
「不沈艦」の異名を取った。似ていませんか!)



地方から旅立つ虹よ消えないで  森 茂俊

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