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川柳的逍遥 人の世の一家言
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           「堺 町 葺 屋 町 戯 場」
図の右に中村座、左に市村座。筋向いに「あやつり座」として結城座と薩摩
座があった。下方が「親爺橋」で、吉原を開いた庄司甚右ヱ門にちなんだ名。
これが「二丁町」の繁華街。




江戸川柳と江戸を散歩するー②





    黄表紙「曲亭一風京伝帳」 鋳掛屋 




5,鍋いかけすてつぺんからたばこにし




〔鑑賞〕
「鋳掛屋でござい、鍋釜いかけぇ」と街を呼んで歩き、注文があると家の前
に荷を置いて、先ずふいごで火をおこす。次に小さなるツボで鉄を溶かす。
この準備作業が長いので、たばこを一服して鉄の溶けるのを待つ。
一般の職人は一仕事してから中休みに一服というのが普通だが、鋳掛屋だけ
は最初からで、いかにものんびりしているように見える。






            「春 色 梅 美 婦 禰」
天保3-4年、西村屋与八刊
遊女たちは教養として俳句や川柳をたしなむことはあり、多くの句が残されて
います。また、九郎助稲荷は、吉原の文化や文学作品(『春色梅美婦禰』など)
の題材として登場することもありました。
                                    



6,九郎介へ代句だらけの絵馬を上げ




〔九郎介〕=吉原遊郭の東南の隅にあった九郎介稲荷のこと。
〔代句〕=自作の発句ではなく、人に代作してもたらった句。
〔鑑賞〕
吉原遊郭にある九郎介稲荷には、遊女たちが発句を書いた額が奉納してある。
よく見れば、これは宣伝のため、競ってその道の人に代作してもらった句ば
かりだ。とその実情を素っ破抜いたのである。
当時の俳諧の流行から、こうした風潮も生まれた。






                                          「間  の  宿」
「東海道五十三次之内 御油 旅人留女」 安藤広重





7,なげ入れの干からびて居る間の宿



〔間の宿(あいのやど)〕=大きな宿駅と宿駅との間の駅で、旅人(特に大名
行列など)の休息や、人足・馬の供給、飛脚の連絡拠点
〔鑑賞〕
間の宿は、旅人が一休みする程度のところだから、宿泊客も少なく、座敷に
はほんの申しわけほどの投げ入れに生けた花が干からびている。
というような侘し気な宿場風景である。





                 「絵 本 大 和 童」 蹴鞠




8,鞠場からりっぱな形(なり)でひだるがり




〔鞠場(まりば)〕=蹴鞠を行う広場、四方を檻のように囲った鞠垣がしつらえて
あれば上の部である。
〔鑑賞〕
当時江戸では、京都の公卿のの嗜みとされた蹴鞠が流行し、良家の息子たちは
鞠衣装に身をかためて鞠場へでかけた。蹴鞠を終えた四人の男たちは、鞠衣装
の立派な身なりに似合わず、腹が空いたの腹ペコなどと言って騒いでいる。
まさに高尚と下品とが混然とまじりあったおかしみ。




       「江戸両座芝居町顔見世之図」(神奈川県立歴史博物館蔵)
市村座(左)のある葺屋町と、隣接した中村座のある堺町は、日本橋近くの芝
居町として知られた。両町の顔見世狂言の賑わいを描いている。




9,まんぢうに成るは作者も知らぬ知恵




〔鑑賞〕
大奥の絵島生島事件を詠んだ句。歌舞伎役者の生島新五郎が、大奥へ納める饅
頭の蒸籠の中にかくれて絵島の部屋へ忍び入ったという俗説があった。
役者はいろいろの人物に扮するが、饅頭に扮するとはさすがの狂言作者も思い
つかない知恵である。この事件は、七代将軍家継の時代、正徳四年 (1714 )
正月十二日、文昭院(家宣)並びに常憲院(綱吉)の法会のため、月光院の御
名代として絵島芝増上寺へ御代参、その帰路木挽町の山村座に観劇したことが
露見し、大年寄という地位にあったにもかかわらず捕えられ、同年三月六日、
絵島は内藤駿河守本国信州高遠へ長のお預け(重追放)、彼女の贔屓にした新
五郎は三宅島に遠流となった。この事件で連座した者千五百人以上、山村座は
お取り潰しとなる。句は、江戸城大奥の事件なので憚って、「作者」の一語で
芝居関係の句であることを暗示している。





   『あづまの花江戸絵部類』 (国立国会図書館蔵)
歌舞伎を発展させた初代・市川團十郎は豪快な芸をみせる荒事を創始して江戸っ
子の絶大な人気を集めた。





10,日に三箱鼻の上下臍の下




〔箱〕=千両箱
〔鑑賞〕
江戸には、一日に千両のお金が動く場所が三か所あり、鼻の上は、目で歌舞伎・
芝居の世界。鼻の下は、口で高級料亭での宴。臍の下、は吉原での花魁遊び。
芸能・食・風俗で大金が動くのは、今も昔も同じ様で。




江戸三座の歌舞伎は、男女貴賤を問わず人気を集めたが、これを楽しむには
それなりの経済力が必要で、単純に芝居を見物するだけで上桟敷が銀35匁
(54000円)、一般席の升席で銀15匁(20000円)したし、飲食代もかかる。
だから庶民は「大向こう」と呼ばれる二階正面の一番奥の最下等の場所から
立ち見で、それも「幕見」(一幕だけの見物)するのがやっとだった。これ
で銀3、6匁(6000円).
それとは対照的に、金持ちは芝居がハネたあとも芝居茶屋に贔屓にしている
役者を呼んで派手な宴会に興じたという。
だが、大向こうに熱心に通い、見物の場数をこなすコアなファンなればこそ、
芝居の出来にも敏感。大向こうから「成駒屋!」などと生きのよい声が飛ぶ
のが「大向こうを唸らせる」演技というわけで、歌舞伎を芸術として発展さ
せたのは、庶民の男たちの支持だったといえるものだろう。
なお、大向こうに入る余裕すらない者たちは「宮地芝居」を楽しむ。これは
神社の境内などで興行される安価な芝居で、百文(1200円~2000円)に満たな
いというリーズナブルさだった。






       「吉原遊郭娼家の図」 (歌川国貞画)(国立国会図書館)
花魁が初めて客と会うための座敷や上級遊女のl居住スペースがある妓楼二階
の様子を描いてある。大勢の客で賑わっている。





11,芝居をかづけて昔は女郎買い  




〔鑑賞〕
旧吉原が同じ日本橋で芝居町と隣り合っていたために、「芝居を見に行く」
といって遊郭で遊ぶ男が多かった、という意。






                                  「絵 本 世 都 乃 時」 井戸替え




12,井戸かへに大屋と見えて高足駄


〔大家〕=長屋の差配(管理人)で持ち主ではない。
〔鑑賞〕
長屋の連中が全員出て水桶に結び付けた長い綱を引いて、井戸水を汲み出す。
あたり一面水浸しで、皆は裸足になっての作業だが、中にひとり高足駄を履
いた男がいる。これがこの長屋の大屋で、作業の指揮をとっているのだ。
江戸の「井戸替え」は、井戸浚いともいい、たいてい陰暦6月の真夏の行事で
暑い盛りなのである。

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参宮街道、坂内川にかかる橋。伊勢神宮方面に向かう人はこの橋を渡って松坂の町に入った。渡る手前が西町。森壺仙の住んだ町。渡ったところが本町。





さっぱりと掃除をさせて首をとり  柳6

あくる日は夜討ちも知らず煤をとり  柳6





『世間胸算用』(井原西鶴)にも「毎年煤払いは極月十三日に定めて」とある
ように12月13日は、江戸城内をはじめとして、あらゆる民家にいたるまで
煤払いをした。そこで、翌14日に吉良邸へ討ち入った赤穂浪士を詠んだのが
右の二句だった。現在では、回向院の南、4,5分の距離にあたる東京墨田区
両国3丁目に、旧吉良邸の一部が本所松坂町公園として保存されている。
吉良上野介存命時代には、邸地は旧本所松坂町1,2丁目のうち二千五百余坪
にわたり建坪は八百四十六坪とぃう豪華さであったという。





本所へ隠居をせぬと難しい  柳18





という句もあるように吉良上野介が我が子綱憲(つなのり)の養家先である米
沢十五万石の上杉家に引き取られることなく、鍜治橋御門内から移住してきた
ところでもあった。公園は白のなまこ壁、長屋門造りで、中へ入ると周囲の壁
には当時の吉良邸の図、四十七士が新大橋を渡って上野屋敷へ行く図など、討
ち入りから引き揚げるまでまでを描いた絵巻がある。
左の隅には、もと屋敷の中庭にあったという「吉良首洗い井戸」が復元され、
これももと邸内なあったという松阪稲荷も見られる。





目印は殿が額へ付けて置き  (安元・宮)





浅野内匠頭が、松の廊下で刃傷した際につけた額の古傷が、動かぬ証拠となり、
ついに赤穂浪士の討つところとなった。
「四十七士」
四十七人の者ども、敵師直(上野介)尋ぬれ(捜す)ども知れぬ故、みなみな
ここで切腹せんと思い定める。
大高源五すすみ出、
「すこしの心あてがござる。しばし(切腹は)とどまり給え」と言い、やがて
炭部屋へ行き、鑓おっとりのべ、
「もろのう、もろのう」と言えば、隅の方で「どうれ」
他家を訪問した際の「物申う」と「もろのう」をかけた地口で、高師直、すな
わち上野介を表した落ちだが、緊迫した場面だけに馬鹿馬鹿しくおかしい。



江戸川柳(柳多留)と江戸の旅をする





「日本橋」
江戸の盛り場・日本橋エリアは今の中央通り。橋の先には高札場、船着場、
薪を積み上げた荷揚場がある。びっしりと人で埋まった日本橋は全長28間
(約51m)幅4間2尺(約8m)
「日本橋魚市}
「一日千両の金が動く魚市。左端に算盤を手にした男と客、平目や鯛、鮪
らしい巨魚を運ぶ二人、蛸を掲げた人、競り人、あちこちの棒手振などで
大騒ぎ。





1,五番目は同じ作でも江戸産まれ


柳多留のトップを飾る句。前句(題)は「にぎやかなことにぎやかなこと」
で、まさに謎解きが必要な句。選者(点者)の柄井川柳も最初は句意がが
分からなかったとされている。





「常楽院」
挿絵には「六阿弥陀五番目なり 春秋二度の彼岸中賑わし」とあります。
石畳の参道の右手に「六地蔵」や「地蔵」が見えます。
阿弥陀堂内右手には閻魔大王が見えます。


江戸の民間では春秋の彼岸に、六阿弥陀詣でが盛んに行われるようになった。
行儀菩薩が刻んだ同木の六体の阿弥陀仏のうち、五体はすべて江戸の郊外に
あるが、五番目の阿弥陀仏だけは盛り場の上野広小路にあった常楽院に奉祀
されていたから、これだけは生粋の江戸産まれでいってよいだろう、という
意。六阿弥陀の一番は、北区豊島の西福寺、二番足立区江北の恵明寺、三番
北区西ヶ原の無量寺、四番北区田畑の与楽寺、五番が常楽院、六番江東区常
光寺で、一巡り七里半(約30㌔)というから老人や女性にはかなりの強行軍
であった。


2,かみなりをまねて腹がけやっとさせ


3,故郷へ廻る六部は気のよわり


鼠色の木綿の衣服に、同色の手甲・脚絆をつけ、鉦をたたきながら門付けを
する。仏像を入れた厨子を背負うのが一般的である。
訳=何らかの事情で一念発起し、諸国の霊場を巡る六十六部が、急にふる里
へ足が向くというのは、体調の悪さもあろうが、それよりも信心の気力が衰
えたことが一番の原因であろう。



4,伴頭は内の羽白をしめたがり


伴頭=番頭。羽白=羽に白斑がある鴨の一種、主人の娘の比喩。
訳=番頭は色と欲を両方かけて、ここの娘を何とかものにしたいものだと思
っている。しめるは鴨の縁語で、せしめる、の意となる。

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    十返舎一九「東海道中膝栗毛』

「江戸から大阪への旅」
江戸時代の人は大変な健脚で、一日におよそ30㎞から40㎞を歩いた、と
いわれています。江戸・日本橋ー大阪高麗橋間の距離は546㎞ですから、
川止めがなければ14日から18日前後で辿りつけtらことになります。
十返舎一九「東海道中膝栗毛」では、弥次さん喜多さんが江戸から四日市
に出るまで12日かけています。寄り道せずに大阪まで行ったとすれば、や
はり16日ほどになるでしょうか。
現代では海外で正月を過ごす人が多いのですが、江戸時代は正月のお伊勢参
が庶民の最大のイベントでした。街道整備と「おかげ参り」ブームにより
老若男女が「抜け参り」で無計画に旅立ち、全国から人々が伊勢に殺到しま
した。とはいえ、食費、宿泊費、交通費、遊興費、お土産代など、お伊勢参
りには、なにかとお金がかかりました。仮に1 日1 万円としても2カ月で6
0万円が必要。この額は当時の庶民にとって相当な負担。そこで村ごとに伊
勢講という団体をつくり、みんなで積み立てたお金で、年ごとに籤で選ばれ
た人が代表者が参拝にいくという方法がとられました。そして指名を受けた
代表者は、村のみんなの分もお祓いを受け、お土産を、土産話とともに村へ
と戻ったのです。
                           了 味 茶 助






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          参宮街道、坂内川にかかる橋
伊勢神宮方面に向かう人はこの橋を渡って松坂の町に入った。渡る手前が西町。
森壺仙の住んだ町。吉良邸を目指す四十七士が渡った橋である。




さっぱりと掃除をさせて首をとり  柳6
あくる日は夜討ちも知らず煤をとり  柳6





『世間胸算用』(井原西鶴)にも「毎年煤払いは極月十三日に定めて」とある
ように12月13日は、江戸城内をはじめとして、あらゆる民家にいたるまで
煤払いをした。そこで、翌14日に吉良邸へ討ち入った赤穂浪士を詠んだのが
右の二句だった。現在では、回向院の南、4,5分の距離にあたる東京墨田区
両国3丁目に、旧吉良邸の一部が本所松坂町公園として保存されている。
吉良上野介存命時代には、邸地は旧本所松坂町1,2丁目のうち二千五百余坪
にわたり建坪は八百四十六坪とぃう豪華さであったという。





本所へ隠居をせぬと難しい  柳18





という句もあるように吉良上野介が我が子綱憲(つなのり)の養家先である米
沢十五万石の上杉家に引き取られることなく、鍜治橋御門内から移住してきた
ところでもあった。公園は白のなまこ壁、長屋門造りで、中へ入ると周囲の壁
には当時の吉良邸の図、四十七士が新大橋を渡って上野屋敷へ行く図など、討
ち入りから引き揚げるまでまでを描いた絵巻がある。
左の隅には、もと屋敷の中庭にあったという「吉良首洗い井戸」が復元され、
これももと邸内なあったという松阪稲荷も見られる。





目印は殿が額へ付けて置き  (安元・宮)





浅野内匠頭が、松の廊下で刃傷した際につけた額の古傷が、動かぬ証拠となり、
ついに赤穂浪士の討つところとなった。
「四十七士」
四十七人の者ども、敵師直(上野介)尋ぬれ(捜す)ども知れぬ故、みなみな
ここで切腹せんと思い定める。
大高源五すすみ出、
「すこしの心あてがござる。しばし(切腹は)とどまり給え」と言い、やがて
炭部屋へ行き、鑓おっとりのべ、
「もろのう、もろのう」と言えば、隅の方で「どうれ」
他家を訪問した際の「物申う」「もろのう」をかけた地口で、高師直、すな
わち上野介を表した落ちだが、緊迫した場面だけに馬鹿馬鹿しくおかしい。




柳多留と江戸の旅をするー1






          「日本橋」
江戸の盛り場・日本橋エリアは今の中央通り。橋の先には高札場、船着場、
薪を積み上げた荷揚場がある。びっしりと人で埋まった日本橋は全長28間
(約51m)幅4間2尺(約8m)
       「日本橋魚市」
「一日千両の金が動く魚市。」左端に算盤を手にした男と客、平目や鯛、鮪
らしい巨魚を運ぶ二人、蛸を掲げた人、競り人、あちこちの棒手振などで
大騒ぎ。





1,五番目は同じ作でも江戸産まれ





柳多留のトップを飾る句。前句(題)は「にぎやかなことにぎやかなこと」
で、まさに謎解きが必要な句。選者(点者)の柄井川柳も最初は句意がが
分からなかったとされている。




       「常楽院」

この挿絵には「六阿弥陀五番目なり 春秋二度の彼岸中賑わし」とあります。
石畳の参道の右手に「六地蔵」や「地蔵」が見えます。
阿弥陀堂内右手には閻魔大王が見えます。





江戸の民間では春秋の彼岸に、六阿弥陀詣でが盛んに行われるようになった。
行儀菩薩が刻んだ同木の六体の阿弥陀仏のうち、五体はすべて江戸の郊外に
あるが、五番目の阿弥陀仏だけは盛り場の上野広小路にあった常楽院に奉祀
されていたから、これだけは生粋の江戸産まれでいってよいだろう、という
意。六阿弥陀の一番は、北区豊島の西福寺、二番足立区江北の恵明寺、三番
北区西ヶ原の無量寺、四番北区田畑の与楽寺、五番が常楽院、六番江東区
光寺で、一巡り七里半(約30㌔)というから老人や女性にはかなりの強行軍
であった。





2,かみなりをまねて腹がけやっとさせ





3,故郷へ廻る六部は気のよわり






       「絵本御伽品鏡」 六部巡礼図

鼠色の木綿の衣服に、同色の手甲・脚絆をつけ、鉦をたたきながら門付けを
する。仏像を入れた厨子を背負うのが一般的である。





訳=何らかの事情で一念発起し、諸国の霊場を巡る六十六部が、急にふる里
へ足が向くというのは、体調の悪さもあろうが、それよりも信心の気力が衰
えたことが一番の原因であろう。





4,伴頭は内の羽白をしめたがり





伴頭=番頭。羽白=羽に白斑がある鴨の一種、主人の娘の比喩。
訳=番頭は色と欲を両方かけて、ここの娘を何とかものにしたいものだと思
っている。しめるは鴨の縁語で、せしめる、の意となる。

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下っ腹からカゲロウが這い上がる  井上一筒





                  「フジ百景暁の不二」 通信総合博物館蔵




「継飛脚」
継飛脚の人足は、各宿駅に詰めており夜間の関所の通過など特権も与えられて
いた。
元禄十四年(1701)三月十四日、赤穂藩主の浅野内匠長矩が高家筆頭の吉良上野
に対して、刃傷に及ぶことから始まるお馴染みの赤穂事件だが、この史実に
まつわる興味深いエピソードがある。
事件を伝える江戸屋敷からの最初の書状が十九日の早朝、赤穂藩の筆頭家老で
ある大石内蔵助に届く前に、城下ではすでにこの事件の噂が広まっていたとと
いうのだ。




空だって飛べる黄色いスニーカー  居谷真理子




江戸時代の情報伝達制度として、もっとも発達したものは「飛脚」である。
その始まりは、徳川幕府が各地へ公用文書を伝達するために制度化した継飛脚
といわれる。江戸を中心として整備した五街道の宿に、それぞれ脚夫を置き、
リレーさせることで時間の短縮を図った。諸大名もこれに倣って、国元と江戸
大阪を結ぶ大名飛脚を整備した。特に尾張藩や紀州藩の大藩は、七里(28㌔)
ごとに飛脚小屋を作り、専従のものを置き、国元との連絡を密にとっていた。




悲しみも笑いもはかる時計です  木戸利枝





  
          情報ネットワーク 「旗振り通信」
旗振り通信ー望遠鏡で遠方の旗振りの通信を読んだ




この制度は、民間にも広く普及していく。
江戸の定飛脚や大阪の三度飛脚などの町飛脚は特に有名だが、全国に飛脚問屋
が張り巡らされ、通信網が整備されていった。
現存している定飛脚の史料によると、江戸~大阪間で掛かった日数は通常、四
~十二日だったが、金に糸目を付けなければ、最短二日半でついたという。




手荷物は預けた兎跳びで行く  森井克子






          赤穂へ赤穂へと飛び飛脚




赤穂事件では、藩の存亡にかかわる重要な書状だったため、飛脚には運ばせず
江戸詰めの藩士が駕籠を乗り継ぐことで書状を届けた。円滑乗り換えるために、
駕籠より前に先触れと呼ばれる手配を飛脚で出す。その飛脚により、駕籠より
先行して噂が広まっていったという訳だ。
人の噂の早さはいつの時代も変わらないといったところだろうか。




衰えていく足腰が愛おしい        新家完司

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