ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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外交坊主
赤い耳で静かに病んでいく風を聴く 山口ろっぱ
氏康
(右中央)
氏政
(右下)
氏規
(中央)
「外交坊主ー板部岡江雪斎」
外交坊主という異名を持つ
江雪斎
は天正17年
(1599)
7月に
秀吉
と会見し、
「真田家の上州沼田城を北条氏にくださるならば北条氏政を上洛させる」
という約束をもって、勇躍小田原に戻ってきた。
ところが同年11月、沼田城を受け取った北条家臣・
猪俣邦憲
が、
真田領とされた
「名胡桃城」
まで奪取してしまう。
これに激怒した秀吉は、一ヶ月も待たず、朱印状を発布し北条討伐を決行。
江雪斎を捕らえ約束違反を尋問したところ、
「北条が約束を違えたのではなく家臣の猪俣が勝手な振る舞いをしたもの。
たとえ約束違反だとしても、主家がそれを敢えてしたものならば、
家臣はそれに従うのが筋である。
今さら何を申開きしても詮無きことであり、すみやかに首を刎ねられよ」
と、動じるところがなかった.
秀吉はこの江雪斎の才気煥発を気に入り、
罪を赦し自ら茶を点てて与えたという。
もう無理は効かない骨の叫びです 笠嶋恵美子
江雪斎は
田中泰行
の子に生まれ、
板部岡康雄
の後を継いで、
聞かん気の強い主君・
北条氏政
の右筆・評定衆として仕えた。
また寺社奉行として寺社の管理にも関わっており、
元亀2年
(1571)
に主君・北条氏康が病に倒れたとき、
鶴岡八幡宮にて病平癒の祈願を行なった。
後に、北条氏が武田氏と同盟決裂すると、
勢いに乗る
織田信長
と北条氏は同盟を結ぶが、この使者として赴いた。
信長の死後、信濃国をめぐって
家康
と
北条氏直
が対立したときは、
家康の娘・
督姫
を氏直の正室に迎えることで和睦を取りまとめている。
これらで外交上手な坊主として、江雪斎の名が知られるようになった。
小賢しいメロンだセレブ語をしゃべる 美馬りゅうこ
江雪左文字
(刀工左文字作)〔国宝〕
北条氏家臣・板部岡江雪斎から豊臣秀吉に献上され、その後徳川家康を経て
紀州・徳川家に伝わった。名前の「江雪」は
板部岡江雪斎
から。
天正17年、北条氏と豊臣秀吉との間で対立が深まると、
北条氏規
とともにその関係修復に尽力したことは先述の通り。
小田原征伐による北条氏の没落後は、秀吉の御伽衆となる。
この時、小田原北条氏に身を寄せていた茶人の
山上宗二
と親交を持ち、
後に自著の秘伝
『山上宗二記』
を贈られている。
秀吉没後は
徳川家康
に仕え、
上杉景勝
討伐戦に参加の直後の
石田三成
挙兵に対して、
本多忠勝
や
井伊直政
と共に関ヶ原へと先行して、
小早川秀秋
の説得を担当した。
上の二枚しか使ったことがない器 島田握夢
しかし、彼の外交がすべて万々歳であったわけではない。
ちょんぼもやらかしている。
武田信玄
が死去した際に、
その死を知らず、病と思っていた氏政の病気見舞いの
使者として
武田家に赴くも、
「影武者を務めた武田信廉を見抜けなかった」
と言う失態を犯してしまったことがある。
江雪斎は、慶長14年
(1609)
6月3日に伏見で死去。
享年72歳。
彼に残された人となりは、
「宏才弁舌人に優れ、その上仁義の道ありて、文武に達せし人」
であった。
(北条五代記)
後悔はしきりあの日の生返事 山本昌乃
名胡桃城三の丸跡
「猪俣邦憲」
猪俣邦憲
は、
豊臣秀吉
の小田原城攻撃のきっかけを作り、
戦国時代を終焉させた
人物として、
歴史上最も有名な武将である。
邦憲は
北条氏邦
の奉公人であった。
天正11年
(1583)
頃 、猪俣氏に養嗣子として入って、
猪俣邦憲
を名乗る。
天正15年、箕輪城在番城主・・箕輪城の第11代城代になる。
天正17年、秀吉の命により北条氏は沼田の3分の1の
真田昌幸
領
利根川西への侵入をしないことを約束。
しかし、猪俣邦憲は真田領の
「名胡桃城」
を奪取したのである。
この名胡桃城攻略は、彼の独断だったのか、
北条氏政
の命令があったのか、
真実はどこにあるのだろう。
空腹の猫は荒野を一歩ずつ 山田ゆみ葉
「名胡桃城事件」
について、
『北条記』『吾妻記』『関八州古戦録』
など、
江戸時代に著された軍記物語は、
猪俣邦憲
が単独犯だと断定している。
『北条記』
には、
「ここに北条氏邦のうち猪俣小平六範綱が末葉・猪俣邦憲という者、
知恵分別もなき田舎武者あり」
と紹介し、さらに、この事件が起こったあと、北条家は秀吉に、
「上州なくるみ(名胡桃城)の事はまったく北条下知にあらず。
辺どの郎従ども不案内の慮外なり」、
(名胡桃のことは田舎者の家来
(猪俣)
が事情を知らずにやったことです)
と陳謝した、と記している。
人形は首から人形に還る 田中博造
ところが
「猪俣文書」
では、
実際の北条家は、名胡桃城のことを秀吉に責められた後も、
変わらずに
猪俣邦憲
を重用し、
上野における重要拠点、沼田城をそのまま預けている。
いよいよ秀吉軍との合戦も近づいた天正18年1月16日には、
ほしこ このわた
隠居の
北条氏政
がこの邦憲に、干海鼠、海鼠腸を贈って、
「上野のことは沼田一城に極まる」
と激励し
翌日には、北条氏照
(氏政の弟)
が、
「その地の取り仕切りについては、
そのほうが在城しているので安心している」
と邦憲に寄せる信頼を明かしている。
九本の指で暮らしている男 筒井祥文
名胡桃城の強奪については、歴史学者の間でも、
「猪俣邦憲が独断でやった」
とする論と、
「裏で氏政が指示を出していた」
とする意見に別れている。
どちらにしろ
「猪俣邦憲が名胡桃城奪取に関った」
ことに変わりはないが、独断だったのか命令だったのか、
推理する楽しみは、あなたに委ねることにする。
笑いたい用と泣きたい用のドラマ くんじろう
[3回]
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y2016/06/04 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
小松殿の遺品と
墓石を叩く応えてくれるまで くんじろう
(画像は拡大してご覧ください)
「関が原合戦」に描かれている沼田城の様子
左側の室内にいるのが、信之の妻の小松殿。
真田丸の脚本を担当する
三谷幸喜
は、どんなドラマや映画にも、
その脚本の中に、それとなく「遊び」をいれ、
観客を楽しませ、
本人もまた、観客の反応を楽しむという、遊び心を忘れない人である。
たとえば、
「真田丸」
の第22話・
「裁定」
の中では、
沼田領割譲を
秀吉
から強制された後、
北条が約束を破って乗っ取った名胡桃城の奪回も禁じられた
昌幸
は、
出浦昌相
と現実的ではないと分かりつつ、ヤケ酒を飲みながら、
秀吉の住む 聚楽第の攻め落とし方を語り合うシーンがある。
まさしくここが三谷の遊び心のフルハウスである。
キャスティングにしても、そうだ。
真田信之
が
大泉羊
、その妻・小松姫を演じるのが
吉田羊
である。
この
「羊」
つながりは、単に偶然なんだろうか、
どことなく、三谷の企みとほくそ笑みが見えてくる。
毛穴から出ていったのが夢である 河村啓子
「小松殿ー遺品」
小松殿ゆかりの九条袈裟
(高雲寺所蔵)
元は家康が保呂(鎧の背にかける布)として使用していたもの。
それを輿入れの際、
小松殿
が譲り受けたとされる。
赤色の絹地で、打出の小槌、宝珠など宝尽くしの模様が織りにより
表現されている。
九条袈裟とは、伝法衣で二長一短で作られ仏教において仏法を説くため、
また供養を行うための僧侶・信徒の大きな集まりなどの折に用いたもの。
片意地も気力のひとつ九条葱 新川弘子
小松殿の枕屏風「鴻門の会図」
〔伝狩野永徳〕(大英寺所蔵〕
中国、秦から漢への戦乱期に覇権を争った
項羽
と
劉邦
が、
鴻門で会見した
『史記』
に基づく屏風絵で、
小松殿
は
寝室においていたという。
戦の絵を枕元に置くというのも、いかにも男勝りの小松殿らしい。
盧遮那仏 0番線で待たせてる 森田律子
伝小松殿所用「蛇呪
(へびまじない)
の短刀」
(真田宝物館所蔵)
寝ている時に夢に蛇がでてきて悩んでいた小松殿。
この刀を置くと出てこなくなったという謂れがある。
尾骶骨から裏返す眠れぬ夜 山本早苗
吉光御腰物箪笥
(真田宝物館所蔵)
黒漆塗りで、縦54センチ、横32センチ、高さ17センチ。
大・中・小三つの引き出しが収まっている。
大引き出しには、
文琳御茶入
と多くの
書状
など、中引き出しには、
二代藩主・
真田信政
が
家康
から拝領した
短刀
など収められていた。
中でも大引き出しにあった書状は、もし人目に触れれば問題になるかも
知れないものもあり。これが代々の松代藩主に受け継がれ、
真田家の歴史を伝える貴重な史料が収められていた箪笥である。
それぞれを丸く納める卵とじ 古田祐子
摩尼宝珠
(大英寺所蔵)
小松殿がお守りにしていた。
サンクリット語では、
魔尼宝珠
を
「シンタ・マニ」
と呼び「マニ」は珠、
「シンタ」は思考する、熟考するという意味を指す。
仏教の経典では、
「宝珠」
は心の中で思い描いたものをすべて与え、
あらゆる願いを叶えるとされている。
如意宝、如意珠、または単に宝珠とも呼ばれ、
「如意」
という言葉には、
「意」の「如く」すなわち、
「意のまま」
という意味がある。
(観音様の如意輪観音の手にも摩尼宝珠がある)
スケールの大きい人もくしゃみする 松本あや子
「石田三成から信之に宛てた書状」
秀吉晩年のころ、
真田信之
が
石田三成
に鷹を贈った際の礼状。
「先ニハ御やくそくのたかすへ被下
(くだされ)
候」
と書かれている。
「石田三成から昌幸・信之・信繁宛に書かれた書状」
慶長5年8月5日の日付がある
三成
からの書状は貴重だ。
昌幸らに伏見での戦果を伝えつつ、
「小室
(小諸)
ふかせ川中嶋、すわへの仕置
(領民支配)
」を依頼している。
関が原の戦いが始まる40日前の書状だが、
その段階でも三成は信之が
西軍につくと考えていたととれる。
そう思っても無理はないほど三成と信之との間には友好関係があった。
迷いを捨てたかたちにペンが置いてある 瀬川瑞紀
芳泉寺本堂裏の小松姫の墓
石塔の高さ3m余、塔身と下壇の石に
小松殿
の経歴が刻まれ、
末尾の文字は「元和七年三月廿四日施主信之」とある。
元和6年
(1626)
2月、小松殿は病気療養のため、草津温泉へ向かう途中、
鴻巣
(こうのす)
の宿で逝去。
真田家は曹洞宗であるため、松代藩初代藩主・
真田信之
が徳川家と同じ
浄土宗の
「大英寺」
を小松殿の菩提を弔うために建立、御霊屋を造った。
小松殿の戒名は
大連院殿英誉皓月大禅定尼
で大英寺の名前もこれによる。
養父の
家康
は、江戸幕府の開設以来、浄土宗を保護する政策を行ったが、
武蔵国鴻巣にある勝願寺の二世住職・円誉不残に帰依した。
小松姫も家康の勧めもあり円誉に帰依したが、
同時に薬師如来像を拝領し、
生涯にわたって信仰を続けたという。
遺品を見ても、小松殿は信仰心の厚い人であったようだ。
遺言書へ女するりと入り込む 上田 仁
[3回]
y2016/06/01 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
頑固な北条氏直
グミは赤 胸を叩きに来たようだ 山口ろっぱ
後陽成天皇行幸図
天正16年
(1588)
4月、秀吉は京都の聚楽第に後陽成天皇を迎えた。
「頑なな北条氏」
真田昌幸、徳川家康
、そして
上杉景勝
が
豊臣秀吉
に臣従したことにより、
信濃から甲斐、上野での争いの種は、ほぼなくなったが、
この地方にはもう一家、秀吉に従わない大大名が残っていた。
関東の大部分を支配していた
後北条氏
である。
このころの北条氏は、徳川との同盟が成立していたことで、
その全軍を関東方面へ集中できた。
もともと関東制圧が北条氏の悲願であったため、
下野
(栃木)
、常陸
(茨城)
、さらに上野
(群馬)
へしきりに進出。
奥州の
伊達政宗
とも同盟を結び、
下野の宇都宮国綱や
佐野房綱
、
常陸の
佐竹義重
らを、圧迫していた。
ぶらんこ漕いでる 地球蹴っている 徳山泰子
沼田城石垣と土塁
それに加え、家康から分割を約束されていた沼田領を奪取すべく、
北条軍は、
真田方が籠る沼田城に度々攻撃を仕掛けていた。
この時、秀吉は
北条氏政、氏直
親子に対し、
どちらかが上洛のうえ臣従を誓えば、
それまでの行為は
「一切不問にする」、
そしてその交換条件として、
「真田が領していた沼田領のうちの利根川以東を
割譲する」
、
という仲裁案を提示した。
この上洛を促す条件は以前、
家康
や
島津義久・義弘
らにも行なっている。
上洛以後は過去の敵対行為に関しては、一切不問にされているのだ。
走り梅雨ちょっと本気を試される 美馬りゅうこ
しかし、初代・
早雲
から当代の氏直まで、5代100年続く北条氏は、
秀吉のことを
「成り上がり者」
と蔑んでいた。
特に隠居していた先代の氏政などは、最初から秀吉などは鼻にもかけず、
正確な状況判断ができなくなっていた。
一方、領地を割譲される側の真田に関しては、
秀吉の使者として、
富田知信
と
津田信勝
が上田城を訪ね、
昌幸から了承を取り付けている。
徳川家との争いが終結した後、
真田昌幸
は沼田領の経営を嫡男の
信之
に委ねていた。
だが、信之は秀吉の決定に従い城を退いている。
主語述語あなたのことがわからない 下谷憲子
北条氏政
駿河と相模の国境にある寺で家康は、同盟仲間である氏政と密かに会った。
氏政に上洛を勧めるためだ。
天下統一に王手をかけた秀吉は、氏政の予想よりはるかに力を蓄えている。
長年、敵味方の関係を繰り返してきた戦仲間として、
家康は本心から、
北条を心配し、北条のために勧告した。
しかし氏政は
「いずれ北条は秀吉を倒す」
と慢心ともとれる態度で応じた。
いたべおかこうせつさい
小田原城に戻った氏政は、氏直と重臣・
板部岡江雪斎
を呼び、
「秀吉と駆け引きをする」
と告げ、
秀吉宛に沼田領における条件を一筆認めさせた。
上洛をほのめかして、秀吉の出方を探るというのである。
気休めに賞味期限を舐めてみる 山本昌乃
豊臣秀吉
秀吉からの返事は、
「昌幸と話せ」
というものであった。
「わしが京へ上るのは、あくまで沼田を取り戻してから、順序が逆よ」
氏政はあくまでも、沼田固辞の姿勢を崩さない。
このままでは戦になると危惧する江雪斎は、
氏政嫡男の氏直に上洛の話を持ちかけるも、
氏直も、また、父・氏政との対立を避け尻込みをする。
ビーナスの鼻はめがねを掛けにくい 井上一筒
困り果てた江雪斎は、
「ならば私が名代として京へ上りましょう。
真田と渡り合い、沼田を取り戻してご覧にいれます」
駿府城では氏政の頑固さに、家康はほとほと嫌気がさしていた。
江雪斎は天正17年7月に上京し、
「真田家の上州沼田城を北条氏にくださるならば、
翌年北条氏政を上洛させる」
という約束を取り付け、秀吉はこれを了承した。
寒いなあ 放物線の端だなあ 河村啓子
[4回]
y2016/05/28 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
聚楽第
ひび割れてひび割れてイエローと叫ぶ 河村啓子
聚楽第とその周辺
「聚楽第」
秀吉
が京都御所近くに聚楽第を完成させたのは、天正15年9月だった。
本丸のほか、西の丸、南二の丸を設け、広い塀を巡らせた広大な平城で、
「聚楽城」
とも呼ばれる。
金箔瓦を使った豪華な建物で、その後、北の丸も増築されている。
周辺には
豊臣秀長、豊臣秀次、前田利家、細川忠興、黒田孝高
(官兵衛)
邸と
隣り合って
千利休
邸などの広壮な邸宅が並び、
一帯は天下人の居城にふさわしい街並みとなっていたといわれる。
虹までの高さに足場組んでいる 清水すみれ
御陽成天皇行幸図
「聚楽第」
は天正13年に秀吉が関白となったのを機に、
政庁兼邸宅として造営された。
ポルトガルの宣教師・
ルイス・フロイス
がその著書・
「日本史」
の中に、
「聚楽」
の名は、
「彼らの言葉で悦楽と歓喜の集合を意味する」
と記している。
聚楽第には、天正16年と20年の2度、
御陽成天皇
が行幸しているが、
同じ場所に続けて、2度も行幸が行なわれたことは、
秀吉にとって最高の名誉と栄光だった。
暖簾の向こうは後陽成トカゲなり 井上一筒
天正19年に、秀吉は後継者であった息子・
鶴松
を病で亡くした。
そのため、甥の
秀次
を後継者として関白につけ、聚楽第をその邸宅とした。
自身はその近くに伏見城を築いて移り住んだ。
新たに聚楽第に住んだ秀次は、何度か碁会・将棋会を開いている。
秀次は相当強かったようで多くの大名を将棋の相手に呼んでいる。
将棋に関して、
如水
も呼ばれ、次のような話を残している。
如水も将棋は強かったが、秀次には負けることも多かった。
如水が負けると秀次は、
「お前わざと負けただろう。もうひと勝負しろ」
と言うのである。
一方、秀吉は将棋は下手だったが、
対局者は天下人が相手なので、
わざと負けることがあった。
秀吉は、もちろんそれをお見通しの上で、大袈裟に
「勝った勝った」
と喜ぶ。
この将棋に如水は、2人の器量の違いをみて、
「秀次は後継者の器ではない」
と悟ったという。
たらればはあんぽんたんの足跡ね 森田律子
豊臣秀次
秀吉の姉・日秀の子で秀吉の養子となった。
この如水の判断が正しかったのか。
文禄2年
(1593)
に秀吉の次男の秀頼が誕生すると、
2年後の7月、秀次は、叔父・秀吉に謀反の疑いをかけられ、
高野山に追放のうえ、切腹させられたのである。
文禄4年2月7日の、いわゆる
「秀次事件」
である。
それに伴い、同年、聚楽第も破却された。
だが、建物の一部は被害を免れ、例えば大徳寺の唐門として移築され、
西本願寺の飛雲閣も聚楽第の遺構と伝えられている。
赤マムシに匙投げられてずっと冬 上田 仁
京都府聚楽第跡出土金箔瓦
(国宝・重要文化財)
聚楽第を破却した秀吉は、洛内での拠点として、京都新城を築いた。
慶長3年
(1598)
8月に秀吉が死去すると、翌4年9月から
北の政所
が、
大坂城から新城に移り、関ヶ原の戦いまで暮らした。
また、聚楽第の跡地では,勧進能が行われ,芸能興行の場となる。
やがて人家が立ち並び,
「聚楽組」
と呼ばれる上京の町組に編成される。
秀吉の後に続け言うのです 畑 照代
【豆辞典】
ー(囲碁・将棋)
囲碁は古代中国、将棋は古代インドで発明され、
6~7世紀には、日本に伝わっていたと考えられている。
さまざまな国を経由する中で、各国に独自のルールや道具が発達した。
当初、日本では囲碁や将棋は主に公家や僧侶の趣味として広まった。
時代が下るにつれ、武士や庶民にも普及していった。
ドラマでも、
昌幸
や
信繁
などが囲碁や将棋をするシーンが登場する。
なかでも戦国武将にとっての囲碁は、
戦いの疑似体験の場であると同時に
静かな空間で精神を研ぎ澄ます修行の場ともなった。
戦略の重要性、大局的なものの見方、的確な判断力、精神の集中など、
厳しい時代を生きる力を養うものと考えられたのである。
とりわけ秀吉は、「太閤碁」と呼ばれる打ち方を考えたり、
家臣に囲碁の戦略性を学ばせるため、
当代一の棋士・
本因坊算砂
に講義させたりしたという。
サプリメント三度の飯に欠かせない 菱木 誠
[3回]
y2016/05/25 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
小松姫
幸せはやや小刻みにやってくる 山本昌乃
小 松 姫
「小松姫」
真田信之
が結婚したのは、天正17年
(1589)
ころとされる。
相手は
本多忠勝
の長女・
小松姫
である。
小松姫は、天正元年
(1573)
家康の重臣・本多忠勝の娘として生まれ、
家康の養女となって、
真田昌幸
の長男・信之に嫁ぐ。
小松姫17歳、信之24歳のときであった。
この結婚に昌幸は
「家康の家臣などお娘を」
と反対したという。
『本多家武功聞書』
によれば、家康が昌幸を従わせるため、
嫡男の信之に家康の重臣・忠勝の娘を嫁がせようとしたが、
昌幸は承諾しなかったため、家康は忠勝の娘を自分の養女とした上で、
「嫁がせるのではどうか」
と提案したところ、
昌幸はようやく承諾したということである。
途中から転調をして鉦を撞く 河村啓子
小松姫は、気概があり、細部にも気がつく賢夫人であったことで知られる。
江戸幕府・創設将軍の家康や2代・将軍の
徳川秀忠
に対しても、
物怖じせず、直に、はっきりと自分の意見を述べたり、
弟の本多忠政や本多忠朝が戦地から帰還した際には、
高らかに忠節を讃えるなど、
「勇気のある女性」・「才色兼備の女性」
だったと伝えられている。
サソリ座 女 サボテンでぎざいます 吉岡とみえ
それを証明するこんなエピソードが残る。
慶長5年
(1600)
、秀吉の没後に五奉行の
石田三成
が挙兵すると、
夫の信之は家康の率いる東軍に付き、父・昌幸と弟・
信繁
は、
三成の率いる西軍に付いた。
袂を分かった昌幸・信繁親子が、居城の上田城に戻る途中、
旅の疲れを癒すため、小松姫が留守を守る沼田城に立ち寄った。
その際、昌幸は息子の嫁である小松に、
「今生の暇乞のため対面し、孫共を一見せばやと存候」
と申し出た。
ところが、小松は戦支度をして、城門に立ちはだかり、
「舅・義弟と雖も敵になったお方を城主の留守に一歩も城内には通せない」
と拒んだという。
だまされぬ舟に紋白蝶が乗る 都倉求芽
だが小松は、これを断ると侍女を遣わして、
昌幸らを城下の旅宿(寺)に案内し、
丁重にもてなし、
孫たちに合わせたという。
また一方で、城中の家臣には、弓や鉄砲を狭間に配置させ、
相手方の襲撃に備えるように命じて、
家臣内の動揺を抑えるとともに城内の結束を図った。
これを見た昌幸は家臣に向かって、
「あれを見候へ。日本一の本多忠勝が女程あるぞ。
弓取の妻は誰もかくこそ有べけれ。
我は空しく戦死する共あの新婦あるからは、真田が家は盤石なり」
と、その手並みを褒め称えたという。
『改正三河後風土記』
ハシー海峡へきたイカの姫君 井上一筒
真田信之
真田親子が東と西に分かれた理由。
対徳川との第一次上田合戦の勝利は、
「強い真田」
の世評に繋がった。
しかし、
秀吉
とそのライバルである家康とが和議を結ぶと、
よりき
昌幸は家康の寄騎になるように秀吉から命じられた。
昌幸にとっては、大嫌いな家康との協力関係など迷惑であったが、
結果として、24歳の信之を家康に出仕させる。
天正17年2月13日のことである。
グレーゾーンに僕の生死がひっかかる 和田洋子
小田原・北条氏滅亡後に江戸に入った家康は、
関東の徳川最前線ともいえる上州・沼田城に信之を城主として入れた。
早くも家康に信頼されていた証拠でもあろう。
それには信之と小松姫との結婚も大きな理由になっている。
秀吉没後に、世は戦乱に向かう。
実質的には
石田三成
と家康との抗争に発展し、遂には、
これが関が原の戦となるが、最初は昌幸・信繁も信之とともに
東軍として、会津征伐に向かった。
だがその途次、三成が挙兵し昌幸にも、西軍への勧誘が来た。
なんでなんでとレモン二つを転がせて 太田のりこ
いぬぶし
下野国犬伏で、真田一族は去就を決断するための協議をもった。
昌幸・信繁は
「豊臣への義」
と
「三成への友情」
を主張、
信之は
「徳川の恩」
を主張した。
信之と信繁とが、東西に分かれる一因に
「妻の実家」
という事情もあった。
信繁は、秀吉の口利きで、三成の盟友でもある
大谷吉継
の娘を娶っている。
三者三様の思いのなかで、協議は平行線を辿る。
そして3人が下した決断が、昌幸・信繁は西軍に、信之は東軍に、
それぞれついて戦うというものであった。
火焔式設定にて転ぶ自己主張 山口ろっぱ
「信之・小松ー夫婦の逸話」
関が原の戦い後に昌幸と信繁が高野山・九度山に配流されると、
小松は物品などを贈っては、
義父たちを慰める優しさと気遣いを見せた。
信之には、二女・三男の子供がいたが、
長男・
信吉
、長女・
まん
(光岳院殿)
、次女・
まさ
(見樹院殿)
、
しょしょう
次男・
信政
、3男・
信重
は、小松姫の所生
(産みの親)
といわれている。
なお、長男・信吉については、清音院殿の実子とする説と、
小松姫の実子とする説がある。
ともかく、周りが冷やかすほど、仲睦まじい夫婦であったという。
手に摘みて一期一会を深くする 前中知栄
小松姫が嫁いだ当時、信之はすでに
真田信綱
の娘
(清音院殿)
を
正室に迎えていたが、その後の記録において清音院殿は、
「家女」
と記され、
側室待遇となっている。
このことから信之と小松姫の婚姻以降に、
城主とその家族の生活の場である
「奥」
を取り仕切る権利全般が、
小松姫に移されたと見られている。
婚姻届に切り取り線が付いている 杉山ひさゆき
摩尼宝珠
小松姫がお守りとして所持していたという遺品。
小松姫は、才色兼備をもってきこえ、家康が若い大名を列座させて、
婿を選ばせたところ、家康を前にして萎縮する家臣が多かった中に、
最も落ちついて堂々とした動作の信之を見て、小松自身が心を動かされ、
進んで信之を選んだというのが、最初の二人の出会いであった。
それ以後、真田家が乱世を生きるむずかしい時に、信之が進退を誤らず、
廃藩に至るまでの250年間の、強固な真田家の基を築いたのは、
小松の30年に及ぶ
「内助の功」
があってのものと評される。
しかし元和6年
(1620)
春、小松姫は病気を患い草津温泉での湯治のため、
江戸から草津へ向かう途中、武蔵国鴻巣で亡くなる。享年48歳。
小松姫の死に際し信之は、
「わが家の燈火が消えたり」
と嘆いたという。
因みに、信之は92歳まで生きている。
壇蜜の蜜が飛び出す画面から 雨森茂樹
[3回]
y2016/05/21 09:30 z
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