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川柳的逍遥 人の世の一家言
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グミは赤 胸を叩きに来たようだ  山口ろっぱ


       後陽成天皇行幸図

天正16年(1588)4月、秀吉は京都の聚楽第に後陽成天皇を迎えた。

「頑なな北条氏」

真田昌幸、徳川家康、そして上杉景勝豊臣秀吉に臣従したことにより、

信濃から甲斐、上野での争いの種は、ほぼなくなったが、

この地方にはもう一家、秀吉に従わない大大名が残っていた。

関東の大部分を支配していた後北条氏である。

このころの北条氏は、徳川との同盟が成立していたことで、

その全軍を関東方面へ集中できた。

もともと関東制圧が北条氏の悲願であったため、

下野(栃木)、常陸(茨城)、さらに上野(群馬)へしきりに進出。

奥州の伊達政宗とも同盟を結び、

下野の宇都宮国綱や佐野房綱
常陸の佐竹義重らを、圧迫していた。

ぶらんこ漕いでる 地球蹴っている  徳山泰子


 沼田城石垣と土塁

それに加え、家康から分割を約束されていた沼田領を奪取すべく、

北条軍は、
真田方が籠る沼田城に度々攻撃を仕掛けていた。

この時、秀吉は北条氏政、氏直親子に対し、

どちらかが上洛のうえ臣従を誓えば、

それまでの行為は「一切不問にする」、
そしてその交換条件として、

「真田が領していた沼田領のうちの利根川以東を
割譲する」

という仲裁案を提示した。


この上洛を促す条件は以前、家康島津義久・義弘らにも行なっている。

上洛以後は過去の敵対行為に関しては、一切不問にされているのだ。

走り梅雨ちょっと本気を試される  美馬りゅうこ

しかし、初代・早雲から当代の氏直まで、5代100年続く北条氏は、

秀吉のことを「成り上がり者」と蔑んでいた。

特に隠居していた先代の氏政などは、最初から秀吉などは鼻にもかけず、

正確な状況判断ができなくなっていた。

一方、領地を割譲される側の真田に関しては、

秀吉の使者として、富田知信
津田信勝が上田城を訪ね、

昌幸から了承を取り付けている。


徳川家との争いが終結した後、

真田昌幸は沼田領の経営を嫡男の信之に委ねていた。

だが、信之は秀吉の決定に従い城を退いている。

主語述語あなたのことがわからない  下谷憲子


   北条氏政

駿河と相模の国境にある寺で家康は、同盟仲間である氏政と密かに会った。

氏政に上洛を勧めるためだ。

天下統一に王手をかけた秀吉は、氏政の予想よりはるかに力を蓄えている。

長年、敵味方の関係を繰り返してきた戦仲間として、

家康は本心から、
北条を心配し、北条のために勧告した。

しかし氏政は「いずれ北条は秀吉を倒す」と慢心ともとれる態度で応じた。
いたべおかこうせつさい
小田原城に戻った氏政は、氏直と重臣・板部岡江雪斎を呼び、

「秀吉と駆け引きをする」と告げ、

秀吉宛に沼田領における条件を一筆認めさせた。

上洛をほのめかして、秀吉の出方を探るというのである。

気休めに賞味期限を舐めてみる  山本昌乃


  豊臣秀吉

秀吉からの返事は、「昌幸と話せ」というものであった。

「わしが京へ上るのは、あくまで沼田を取り戻してから、順序が逆よ」

氏政はあくまでも、沼田固辞の姿勢を崩さない。

このままでは戦になると危惧する江雪斎は、

氏政嫡男の氏直に上洛の話を持ちかけるも、


氏直も、また、父・氏政との対立を避け尻込みをする。

ビーナスの鼻はめがねを掛けにくい  井上一筒

困り果てた江雪斎は、

「ならば私が名代として京へ上りましょう。


     真田と渡り合い、沼田を取り戻してご覧にいれます」

駿府城では氏政の頑固さに、家康はほとほと嫌気がさしていた。

江雪斎は天正17年7月に上京し、

「真田家の上州沼田城を北条氏にくださるならば、

    翌年北条氏政を上洛させる」


という約束を取り付け、秀吉はこれを了承した。

寒いなあ 放物線の端だなあ  河村啓子

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