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川柳的逍遥 人の世の一家言
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墓石を叩く応えてくれるまで  くんじろう

  (画像は拡大してご覧ください)
「関が原合戦」に描かれている沼田城の様子

左側の室内にいるのが、信之の妻の小松殿。

真田丸の脚本を担当する三谷幸喜は、どんなドラマや映画にも、

その脚本の中に、それとなく「遊び」をいれ、
観客を楽しませ、

本人もまた、観客の反応を楽しむという、遊び心を忘れない人である。


たとえば、「真田丸」の第22話・「裁定」の中では、

沼田領割譲を秀吉から強制された後、

北条が約束を破って乗っ取った名胡桃城の奪回も禁じられた昌幸は、

出浦昌相と現実的ではないと分かりつつ、ヤケ酒を飲みながら、

秀吉の住む 聚楽第の攻め落とし方を語り合うシーンがある。

まさしくここが三谷の遊び心のフルハウスである。

キャスティングにしても、そうだ。

真田信之大泉羊、その妻・小松姫を演じるのが吉田羊である。

この「羊」つながりは、単に偶然なんだろうか、

どことなく、三谷の企みとほくそ笑みが見えてくる。


毛穴から出ていったのが夢である  河村啓子

「小松殿ー遺品」


小松殿ゆかりの九条袈裟 (高雲寺所蔵)

元は家康が保呂(鎧の背にかける布)として使用していたもの。
それを輿入れの際、小松殿が譲り受けたとされる。
赤色の絹地で、打出の小槌、宝珠など宝尽くしの模様が織りにより
表現されている。 
九条袈裟とは、伝法衣で二長一短で作られ仏教において仏法を説くため、
また供養を行うための僧侶・信徒の大きな集まりなどの折に用いたもの。

片意地も気力のひとつ九条葱  新川弘子


小松殿の枕屏風「鴻門の会図」〔伝狩野永徳〕(大英寺所蔵〕

中国、秦から漢への戦乱期に覇権を争った項羽劉邦が、
鴻門で会見した
『史記』に基づく屏風絵で、小松殿
寝室においていたという。

戦の絵を枕元に置くというのも、いかにも男勝りの小松殿らしい。

盧遮那仏 0番線で待たせてる  森田律子


伝小松殿所用「蛇呪(へびまじない)の短刀」 (真田宝物館所蔵)

寝ている時に夢に蛇がでてきて悩んでいた小松殿。
この刀を置くと出てこなくなったという謂れがある。

尾骶骨から裏返す眠れぬ夜  山本早苗


吉光御腰物箪笥 (真田宝物館所蔵)

黒漆塗りで、縦54センチ、横32センチ、高さ17センチ。
大・中・小三つの引き出しが収まっている。
大引き出しには、文琳御茶入と多くの書状など、中引き出しには、
二代藩主・真田信政家康から拝領した短刀など収められていた。
中でも大引き出しにあった書状は、もし人目に触れれば問題になるかも
知れないものもあり。これが代々の松代藩主に受け継がれ、
真田家の歴史を伝える貴重な史料が収められていた箪笥である。

それぞれを丸く納める卵とじ  古田祐子


 摩尼宝珠 (大英寺所蔵)

小松殿がお守りにしていた。
 サンクリット語では、魔尼宝珠「シンタ・マニ」と呼び「マニ」は珠、
「シンタ」は思考する、熟考するという意味を指す。
仏教の経典では、「宝珠」は心の中で思い描いたものをすべて与え、
あらゆる願いを叶えるとされている。
如意宝、如意珠、または単に宝珠とも呼ばれ、「如意」という言葉には、
「意」の「如く」すなわち、「意のまま」という意味がある。
(観音様の如意輪観音の手にも摩尼宝珠がある)

スケールの大きい人もくしゃみする 松本あや子


「石田三成から信之に宛てた書状」

秀吉晩年のころ、真田信之石田三成に鷹を贈った際の礼状。
「先ニハ御やくそくのたかすへ被下(くだされ)候」と書かれている。


「石田三成から昌幸・信之・信繁宛に書かれた書状」

慶長5年8月5日の日付がある三成からの書状は貴重だ。
昌幸らに伏見での戦果を伝えつつ、
「小室(小諸)ふかせ川中嶋、すわへの仕置(領民支配)」を依頼している。
関が原の戦いが始まる40日前の書状だが、
その段階でも三成は信之が
西軍につくと考えていたととれる。
そう思っても無理はないほど三成と信之との間には友好関係があった。

迷いを捨てたかたちにペンが置いてある 瀬川瑞紀


芳泉寺本堂裏の小松姫の墓

石塔の高さ3m余、塔身と下壇の石に小松殿の経歴が刻まれ、
末尾の文字は「元和七年三月廿四日施主信之」とある。

元和6年(1626)2月、小松殿は病気療養のため、草津温泉へ向かう途中、
鴻巣(こうのす)の宿で逝去。
真田家は曹洞宗であるため、松代藩初代藩主・真田信之が徳川家と同じ
浄土宗の「大英寺」を小松殿の菩提を弔うために建立、御霊屋を造った。
小松殿の戒名は大連院殿英誉皓月大禅定尼で大英寺の名前もこれによる。

養父の家康は、江戸幕府の開設以来、浄土宗を保護する政策を行ったが、
武蔵国鴻巣にある勝願寺の二世住職・円誉不残に帰依した。
小松姫も家康の勧めもあり円誉に帰依したが、
同時に薬師如来像を拝領し、
生涯にわたって信仰を続けたという。

遺品を見ても、小松殿は信仰心の厚い人であったようだ。

遺言書へ女するりと入り込む  上田 仁

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