- 2025/04/27
- Category : ポエム&川柳
蔦屋重三郎ー青本を読み解く
呆れはてたら笑い話になってくる 前中知栄
「雷 光 邪 魔 入」 (松浦史料博物館蔵本)
天明5年(1785)正月刊。唐来参和(とうらいさんな)作、北尾政美画の黄表紙。
十ページ一冊で出された袋入本で、図版はその袋。
(当時、人気のあった凧絵、草摺を加えた猪熊入道の絵を図案化した奇抜で楽
しいブックデザインである)
草 双 紙・洒 落 本 (五島美術館)
草双紙とは、江戸時代中期頃から刊行されはじめた、かな主体の絵入り読物。
表紙の色から「赤本」「黒本」「青本」「黄表紙」などと呼ばれる小型の
袋綴本。
「黄表紙(青本)」
黄表紙は、草双紙の一類である。もともと幼童向けの絵本であった草双紙を、
戯作的な発想をもってパロディ化したものといってよい。安永4年(1775)の
恋川春町作『金々先生栄華夢』が刊行されたところから、その歴史が始まる。
戯作的な発想をもってパロディ化したものといってよい。安永4年(1775)の
恋川春町作『金々先生栄華夢』が刊行されたところから、その歴史が始まる。
パロディは、もとになったものの形式・特性をことさろ強調し、意識的にな
ぞろうとする。草双紙は、毎年新版が新春に発行されるのが原則でそもそも
ぞろうとする。草双紙は、毎年新版が新春に発行されるのが原則でそもそも
新春の縁起物という性格が濃厚である。
黄表紙は、そのめでたい気分を、ことさら強調、笑いを尊ぶ正月気分の中で
思い切り羽目を外すのである。
また、草双紙は、絵を主体とした「絵解きの文芸」である。
思い切り羽目を外すのである。
また、草双紙は、絵を主体とした「絵解きの文芸」である。
黄表紙は読み解かせる絵を工夫し、一種のパズルめいた仕掛けを施している。
そして黄表紙は「赤本」という丹色の表紙のものを早期のものとして、黒い
表紙の「黒本」が現われ、萌黄色の表紙の「青本」が登場する。
表紙の「黒本」が現われ、萌黄色の表紙の「青本」が登場する。
実は、「黄表紙」と称しているものは、「青本」と外形的になんら変わらず
当時においても「青本」の呼称で通っていた。
春というざわめきを待つ胸の内 靏田寿子
蔦屋重三郎ー「青本を読み解く」
山 東 京 伝
山東京伝は、深川木場の質屋の息子で、本名を岩瀬醒(さむる)という。
北尾重政に学び、北尾政演の画名で絵師として活動した。
一方、戯作者として、自ら黄表紙の執筆も手がけ、大手版元の鶴屋から次々と
作品を刊行。天明2年(1782) に出した『手前勝手御存知商売物』が、江戸随一
の文人である太田南畝に絶賛されたことで、人気作家となった。
作品を刊行。天明2年(1782) に出した『手前勝手御存知商売物』が、江戸随一
の文人である太田南畝に絶賛されたことで、人気作家となった。
かさ蓋が取れてコーヒーの美味いこと 山本昌乃
「北尾政演(山東京伝)の口上」
「黄表紙」に限らず、「草双紙」の観賞法は「絵解き」である。
草双紙のみならず、「浮世絵」など、絵は、そもそも読み解かれるものであった。
藁色の表紙をめくって現れる、または丁を繰ることに現れる絵を、何より先に読
まなくてはならない。
230年前の江戸人が、喜んで読んだ草双紙を我々も読んでみましょう。
草双紙のみならず、「浮世絵」など、絵は、そもそも読み解かれるものであった。
藁色の表紙をめくって現れる、または丁を繰ることに現れる絵を、何より先に読
まなくてはならない。
230年前の江戸人が、喜んで読んだ草双紙を我々も読んでみましょう。
さて、表紙をめくって目に飛び込んでくるのは、珍妙な風体の男である。
「まかり出たる者は、春ごとのたわれぞうしの画を工するなにがしにて候。
いまだ御子さまがたのお馴染み薄く候程に、なにがな御意に敵ひ候ことを、
御覧に入れむと存付き候ところに、今年の初夢に、怪しげなることを見候
ほどに、これは彼の板元何がし方へ参り、物語ばやと思ひ候。急ぎ候程に、
是は早板元が門に着て候。たのみましやう、/\。」
御覧に入れむと存付き候ところに、今年の初夢に、怪しげなることを見候
ほどに、これは彼の板元何がし方へ参り、物語ばやと思ひ候。急ぎ候程に、
是は早板元が門に着て候。たのみましやう、/\。」
「たう/\、はじめ候へや、/\。」
出囃子にもう引きつけている笑顔 武智三成
この口上を解説すれば、こういうことになります。
たわれぞうし=戯れ草紙。草双紙・黄表紙を古めかしく表現した。
春ごとの=草双紙は毎年正月に発売されるのを例としている。
画を工(たくみ)する=黄表紙の画工を務めているということ。
御子さまがたのお馴染み薄く…=草双紙が、大人の楽しむものになったからと
いって子供の読者を無視したわけではありません。
いって子供の読者を無視したわけではありません。
なにがな御意に敵ひ候ことを、御覧に入れむと存付き候ところに、今年の初夢に
怪しげなることを見候ほどに、これは彼の板元何がし方へ参り、物語ばやと思ひ
候=
怪しげなることを見候ほどに、これは彼の板元何がし方へ参り、物語ばやと思ひ
候=
なにか、お気に入りそうなことをお見せしようと、思いついたところ、今年
の初夢に不思議なことをみましたので、これは、あの版元ナントカさんにお話し
したいと思います。と、版元に企画を持ち込んだことを述べる。
の初夢に不思議なことをみましたので、これは、あの版元ナントカさんにお話し
したいと思います。と、版元に企画を持ち込んだことを述べる。
急ぎ候程に、是は、早板元が門に着て候=という台詞を言い終わる前に、彼は例の
独特な摺足で能舞台を一周しようとするところへ、「たのみましやう、/\」と
板元が早々にやって来る。
板元が早々にやって来る。
「たう/\ はじめ候へや、/\」との掛け声がかかって、この狂言は終了し、
「夢幻」の世界を迎えることになる。
自画像も夕焼け空になってきた 新家完司
「青本を読み解くー①」
「夢のはじまり」
「夢のはじまり」
机につっ伏して「こふ/\」と居眠りしている男がいる。
「政」「演」の文字が肩に見える。北尾政演が自身を描いているのである。
彼から、吹き出しで二つの場面が描かれている。これは草双紙において、夢を
描くときのお約束。夢が二つに分かれていて、左側が大きく画面の左いっぱい
に広がっているので、まず右から絵解きをし、続いて左、この次からの場面は、
すべて夢の中の話として、読めばいいのである。
描くときのお約束。夢が二つに分かれていて、左側が大きく画面の左いっぱい
に広がっているので、まず右から絵解きをし、続いて左、この次からの場面は、
すべて夢の中の話として、読めばいいのである。
「今年の初夢に怪しげなることを見候ほどに」と、あったことを思い出してい
ただきたい。この「初夢」の内容がこれから語られるわけである。
ただきたい。この「初夢」の内容がこれから語られるわけである。
自画像も夕焼け空になってきた 新家完司
『金々先生栄花夢』再度、掲載することになるが、やはり夢の中の話である。
「江戸で一旗揚げようと、田舎から出てきた金村屋金兵衛が、目黒の粟餅屋で、
粟餅ができあがるのを待つ間に、とろとろと眠り込んでしまう。
粟餅ができあがるのを待つ間に、とろとろと眠り込んでしまう。
その夢の中に現れた有徳の老人が、彼を豪邸に連れ帰って養子にする。
以後、良からぬ取巻きに唆されて、吉原をはじめ江戸の遊所で金を使い散らす。
あまりの放蕩ぶりに、愛想を尽かした養父から勘当され、しおしおと屋敷を後
にしたところで夢から覚め、「お客さん、粟餅できましたよ」。
にしたところで夢から覚め、「お客さん、粟餅できましたよ」。
金々先生は、その「栄花」のむなしさを噛みしめ、田舎へ帰って行く」
以後、黄表紙の趣向に「夢」は、付きもののごとく頻出する。
黄表紙の無責任に野放図な滑稽に対する「言い訳」として、「夢」という趣向
は便利であった。
は便利であった。
いちびりの成れのはてです蒟蒻は 新川弘子
上の図の場面より------男が二人対座している。奥に招じ入れられて、こちらに
顔を向けた男の膝には、丸く白抜きした中に「八」の字が見えている。
顔を向けた男の膝には、丸く白抜きした中に「八」の字が見えている。
<その人物の何者であるかを、絵解きしている者に示すために>、その人物の
略称、また名前の一文字をここに示したもので「名壺」と称される。
略称、また名前の一文字をここに示したもので「名壺」と称される。
この男は「八文字屋の読本」、つまり「八文字屋本」である。
京都の八文字屋八左衛門から出版された浮世草子を、第一義とし、それ以外の
本屋から出版された同様の読み物も含めて「八文字屋本」の称で親しまれた。
本屋から出版された同様の読み物も含めて「八文字屋本」の称で親しまれた。
ああ しなやかに蔦のからまる薬指 山口ろっぱ
「青本宅、月並みの会」
絵の場面は「青本」の居宅、行灯が出ているので夜である。
さてここに集まった4人の男たちは何をしているのかというと「月並の会」を
催し、「洒落本・袋ざし・一枚絵、そのほかの当世本を集め、趣向の相談する」
というわけであった。
催し、「洒落本・袋ざし・一枚絵、そのほかの当世本を集め、趣向の相談する」
というわけであった。
戯作の一類となった黄表紙は、「通」という美的理念を奉ずることになった。
当然、通人として「青本」は、描かれることになる。
絵の上部「書入れ」は、青本がどのような人物であるかを語っている。
これは登場人物の人物設定を説くとともに、黄表紙は、どんなものであるか、
いやあるべきか、という山東京伝の「黄表紙論」となっている。
『堪忍袋緒〆善玉』袋 (東洋文庫蔵)
署名書名脇に見えるように、大好評裡に迎えられた善玉・悪玉シリーズの
三作目。3匹目のどじょうを狙う版元の要請によって作られたらしい。
「青本を読み解くー②」
署名書名脇に見えるように、大好評裡に迎えられた善玉・悪玉シリーズの
三作目。3匹目のどじょうを狙う版元の要請によって作られたらしい。
「青本を読み解くー②」
絵の中の上部から。 「書き入れ」
「青本は、貴賤の分ちなく人の目を喜ばせ、世辞に賢く、意気を専らとして、
当世の穴を探し、俳気も少しあって、毛筋ほども抜け目はなく、雨中の徒然
には豆煎りと肩を並べ、女中さまがたの御贔屓強く、新版の工夫に心気を凝
らし、しかれどもその身奢る心なく、やっぱり漉き返しの紙にて、月並の会
を催し、洒落本・袋ざし、壱枚摺そのほかの当世本を集め、趣向の相談する」
当世の穴を探し、俳気も少しあって、毛筋ほども抜け目はなく、雨中の徒然
には豆煎りと肩を並べ、女中さまがたの御贔屓強く、新版の工夫に心気を凝
らし、しかれどもその身奢る心なく、やっぱり漉き返しの紙にて、月並の会
を催し、洒落本・袋ざし、壱枚摺そのほかの当世本を集め、趣向の相談する」
空っぽにならぬ心と小半日 津田照子
「書き出し・解説」 絵の上部より。
「青本は、貴賤の分ちなく人の目を喜ばせ」=「青本」の人当たりの良さ、又
皆がほれぼれする容姿のことを言っているのだが、同時に、黄表紙が階層や
年齢を問わず、誰でも楽しめる優れた娯楽性を持っていることを言っている
のである。
年齢を問わず、誰でも楽しめる優れた娯楽性を持っていることを言っている
のである。
「世辞に賢く」=世辞は現在では「おせじ」として、あまり語感の良くない言
葉となっているが、本来は社会生活を営む上で、必須の如才ない言葉遣いを
言う。円滑な関係を維持していく上で、言葉は、重要な役割をもつ。そこに
自覚的で、場に応じた的確な言葉遣いを、自らに課していったのが、江戸時
代人であった。
葉となっているが、本来は社会生活を営む上で、必須の如才ない言葉遣いを
言う。円滑な関係を維持していく上で、言葉は、重要な役割をもつ。そこに
自覚的で、場に応じた的確な言葉遣いを、自らに課していったのが、江戸時
代人であった。
「意気をもっぱらとして」=意気は、服装など外見的に洗練されていることを
表すことが多いが、ここでは「通」ととらえてよいか。「青本」が、通をも
っぱら心がけている男であるという意味になる。
表すことが多いが、ここでは「通」ととらえてよいか。「青本」が、通をも
っぱら心がけている男であるという意味になる。
(黄表紙は、すでに戯作の一つとなっており、この時期の戯作の目的は、自身の
「通」を表明することであった)
「当世の穴を探し=「当世」とは、現代・最新のという意味。
「穴」とは、誰もがまだ気づかずにいる情報。これを指摘してみせることを<穴
を穿つ>といい「通」に敵う戯作の骨法となる。
(「通」は最新の情報に通じていなくて恰好がつかない)
二時限目から消しゴムを追っている きゅういち
「俳気も少しあって」=俳気とは、俳諧趣味のこと。俳諧は、大人の渋めの趣
味であり、洗練された社交に寄与するものである。
「青本」は落ち着いた趣味、表現力も持ち合わせているというのである。
味であり、洗練された社交に寄与するものである。
「青本」は落ち着いた趣味、表現力も持ち合わせているというのである。
「毛筋ほども抜け目はなく」=隙のない言葉・態度を言う。
以前の草双紙の粗雑な画組み、構成に対して、黄表紙の完成度の高さを言っ
ている。
以前の草双紙の粗雑な画組み、構成に対して、黄表紙の完成度の高さを言っ
ている。
「雨中の徒然には豆煎りと肩を並べ」=江戸の雨天は外出にたえない。
道はあっという間にぬかるみと化すし、足もとは下駄が便りである。
道はあっという間にぬかるみと化すし、足もとは下駄が便りである。
職人も雨天は休業、家で大人しくしているしかない。
そこで退屈しのぎに作られるのが「豆煎り」である。ほうろくで大豆を煎っ
て作られる「おやつ」である。作るところから、退屈がしのげる定番おやつ、
<豆煎りの手は止む事を得ざる也>で、止められない、止まらないおやつ、
それに匹敵するもて方だ、という表現だが、草双紙の分相応の喩えであり、
かつ具体的で笑える。
そこで退屈しのぎに作られるのが「豆煎り」である。ほうろくで大豆を煎っ
て作られる「おやつ」である。作るところから、退屈がしのげる定番おやつ、
<豆煎りの手は止む事を得ざる也>で、止められない、止まらないおやつ、
それに匹敵するもて方だ、という表現だが、草双紙の分相応の喩えであり、
かつ具体的で笑える。
「女中さまがたお子さまがたの 御贔屓強く』=婦女幼童向けのものであると
いう建前が確認され、
「新版の工夫に心気をを凝らし、しかれども、しかしながらその身奢る心なく、
いう建前が確認され、
「新版の工夫に心気をを凝らし、しかれども、しかしながらその身奢る心なく、
やっぱり漉き返しの紙にて」=再生紙を料紙としていることを、分に応じた
謙虚な生き方のように言いなしている。
謙虚な生き方のように言いなしている。
あんなにも欲しかったヒマもてあます 荒井加寿
「月並会出席者の風体・人間設定」
青本は、本多頭(月代を広く剃り、細く仕立てた髻(もとどり)をいったん宙
に浮かせて、はけ先を前にもってくる髪形で、この時期の通人に流行した)で
黒い羽織を着し、間然するところのない通人風俗である。
に浮かせて、はけ先を前にもってくる髪形で、この時期の通人に流行した)で
黒い羽織を着し、間然するところのない通人風俗である。
雁首を上向きに煙管を咥えているが、この吸い方を「やに下がり」という。
煙草の脂(やに)が口元に流れてくるからである。
「やにさがる」という言葉は、今に生きていて、下手に格好つけた嫌味な態度
についていう。この咥え方は気取った仕草で、様になる人間であれば、かっこ
よいのであるが、ちょっと間違えると、とことん嫌味な仕草となる。
についていう。この咥え方は気取った仕草で、様になる人間であれば、かっこ
よいのであるが、ちょっと間違えると、とことん嫌味な仕草となる。
居宅も、通に叶ったものでなくてはならないし、付き合っている人間も通人で
なくてはならない。
青本とともにいる三人の男、いずれも通人風俗、勢いよく煙を吹き出している
小太りの男は、肩に「しゃ」の字、洒落本と見なしておいてよいだろう。
なくてはならない。
青本とともにいる三人の男、いずれも通人風俗、勢いよく煙を吹き出している
小太りの男は、肩に「しゃ」の字、洒落本と見なしておいてよいだろう。
背中を見せてまったく顔をみせていない男は、背中に「一まひゑ」とある。
「一枚絵」、つまり浮世絵である。
その隣の男は、背中に「袋」の文字が見える。袋ざしである。
左ページの、一枚絵は、右手を畳みに置いて斜に構えている。
その入り口前に立つ女性は、柱隠しで青本の妹である。
ヤニ臭い吐息を嫌う吊り忍 宮井元伸
草 双 紙 製 本 中
草 双 紙 出 版 前
「月並みの会」 趣向の相談は以下の通り。
「袋入り本」は「去年の『大違宝船』はだいぶ落ちがきました(大好評でした)
と大違宝船のことを話題に」している。 それを受けて、
と大違宝船のことを話題に」している。 それを受けて、
「洒落本」が「全交文もよくつくられます、と全交の手並みを褒め、続けて喜三
二が『一炊の夢』も出来ました」と、天明元年に蔦重から出版された朋誠堂喜三
二の『見徳一炊夢』のことを評価している。
二が『一炊の夢』も出来ました」と、天明元年に蔦重から出版された朋誠堂喜三
二の『見徳一炊夢』のことを評価している。
「一枚絵」は、「恋川氏の『無益委記』もおかしくてよかった」と、恋川春町の
『無益委記』のことを褒めている。これは袋入り本である。
『無益委記』のことを褒めている。これは袋入り本である。
さらに一枚絵は「紫蘭先生の『油通汚』(あぶらつうへ)も面白かった。
通笑丈・可笑士の作にも、すごひのがあるて」と、言っている。
通笑丈・可笑士の作にも、すごひのがあるて」と、言っている。
「柱隠し」は、「わしがひいぢゝいの時分、桃太郎が島へ渡り、浦島太郎が若ひ
時分にて、漆絵と畏怖が流行って、人がうるしがつたげな」という。
時分にて、漆絵と畏怖が流行って、人がうるしがつたげな」という。
柱隠し=青本が妹なれども、金平なむすめではなし。
金平な娘=おてんば娘のこと。
わしがひいぢゝいの時分…=私のひい爺さんが生きていた時代ということで、
三代程前、享保ころからの絵草子の様子を語っている。
草双紙は「桃太郎」や「浦島太郎」等の昔話に材をとった赤本の時代であった。
三代程前、享保ころからの絵草子の様子を語っている。
草双紙は「桃太郎」や「浦島太郎」等の昔話に材をとった赤本の時代であった。
漆絵=墨刷りの版画。
うるしがった=嬉しかった。
クロークにそら豆預け同窓会 新川弘子
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