川柳的逍遥 人の世の一家言
見返り美人とすれ違った戻り橋 新井曉子
この美しい女性が安倍清明のお母さん(安倍王子神社蔵)
「安倍清明」
安倍晴明とは、史実では「天文博士」と、記されている。
天体を移り行く星や雲の動きを観察し、天変地異を事前予知する専門家、
いわゆる今の気象予報士のようなものである。 一方で、呪術を学び、占術や呪術を使う「陰陽師」といわれる。 安倍清明が陰陽師として、歴史の表舞台に登場するのは、
978年(天元元)で、このとき、清明は57歳くらい。
この天才陰陽師が、それ以前に何をしてきたのか、正史には一切記録に
残されていない。 そして正史に登場するや、天皇や藤原道長に重用された記録がつづくの
である。 あまねく正史に登場したのが57歳としたが、実際には、年齢も本物か、
両親は誰なのか、いつどこで生まれたのか、などなにも分かっていない… 「謎から生まれた謎の人物」なのである。 とりあえず「どんな謎がある」か伝わる説をみてみよう。
良い運だけ教えてくれる占い師 山本さくら
式部ー安倍清明 幻の実像
平安時代、絵巻物にみる華やかな王朝貴族のその裏には、目をそむけた
くなるような忌わしい闇があった。 「人が人を呪い、死にいたらしめ、人が人を怨んで祟り、
それは、人にあらざる鬼を呼び、物の怪をこの世に生みだす」
藤原実資(さねすけ)日記『小右記』ゟ
こうした時代に闇と闘い活躍したのが、陰陽師・安倍晴明である。
だが、この安倍晴明には謎がいっぱい。
外れかけの顎 桜貝のボタン 井上一筒 謎-① 両親は誰なのか、?
1,父親は人間で、母親は狐、とする説。
2,清明そのものが人間ではない、とする説がある。
父さんは毛蟹だったと聞かされる 榊 陽子
謎ー② 幼少時代の悪食伝説。
1,クモやゲジゲジを好んで食べた。
2,竜宮城を訪れたことがある。
3,カラスの話を理解した。
4,人に見えない鬼を見る力があった。
宇宙服つけず大気圏突入 宮井いずみ
謎ー③ 陰陽師として発揮した力の数々
1,花山天皇の前世を見抜いた。 『古事記』
2,式神という鬼を自在に操った。 『今昔物語集』
3,死者を甦らせることができた。 『今昔物語集』
4,花山天皇の譲位を予知できた。 『大鏡』
5,人の感情を操ることができた。 『北条九代記』
6,どんな呪いをも打ち返した。 『宇治拾遺物語』
7,在原業平の家を災害から封じた。 『無名抄』
8,藤原道長の命を眼力で救った。 『古今著聞集』
これらは公卿の日記に残されおり、清明の秘術に関する証言でもある。
焼け跡をベールのように覆う雪 花篤洋二
謎ー④ 悪鬼怨霊と戦った清明。
平安時代は、怨霊が続々と現れた時代であると述べた。
清明は知っていたのだろうか? なぜ怨霊が現れるのか?…を。
怨霊は、朝廷や天皇を、大臣や公卿を祟り、次々と、病死や狂い死に追
い込んだ、と記録はつたえている。 なぜ鬼が現れるのか?…を。
勇猛で知られる渡辺綱ですら、倒せなかった”大江山の酒呑童子””九尾の
狐””一条戻橋の鬼女”など、悪鬼妖怪は、安倍清明をおそれたという。 富士山を見たことがない天保山 森 茂俊
謎ー⑤ 清明の母親は白狐ー葛の葉伝説 伝える内容はこうである。
ある日のこと、稲荷の境内で安倍保名は、数人の狩人に追われた一匹の
白狐を助けた、が、手傷を負ってその場に倒れてしまった。 命を助けられた白狐は、葛の葉という美しい女性に化け、保名を介抱し て家まで送りとどけ、その後も、保名を何度も見舞った。 やがて互いの心が通じ合い、夫婦になり安倍童子という子供をもうけた。
しかし、その子が五歳のとき、ふとしたことから、葛の葉の正体が狐で あることが露見して、狐は泣く泣くその子を置いて、信太の森へ帰った。 別れ際、葛の葉が夫と子に、口に筆を咥えて障子に書き残した一首がある。 「恋しくば尋ねきてみよ和泉なる、信太の森のうらみ葛の葉」
その時、残された子(童子丸)が、後の陰陽師、安倍晴明だと伝わる。 (安倍保名=清明の父のひとり) 馴れ初めをそれからそれと聞き上手 前中一晃
謎ー⑥ 安倍晴明、出生の謎
信太森葛葉稲荷神社。 葛の葉伝説にまつわる白狐が祀られている。
白狐は葛の葉という人間に化身し、安倍保名と結ばれ、男の子を授かり、
仲良く暮らしていたが、ふとした気のゆるみから、葛の葉は、子に狐の 姿を見られてしまった。これを恥じた白狐は、泣く泣く夫や子供を残し、 信太の森に帰った。 零れた濁点は天使になりました 市井美春
稲荷大明神の井戸。
境内にある「姿見の井戸」は、白狐が葛の葉に化身した時、鏡に代えて
自分の姿を映していたという。 狐の姿を見られ夫と子供のもとを去った葛の葉が、無事にこの森に帰り
ついたことから、この井戸に自分の姿を映しておけば、再び無事に帰っ て姿を映すことができると言い伝えられており、交通安全や旅行安全の ご利益スポットとして信仰を集めている。 さよならが下手です深くお辞儀する 山本昌乃
謎ー⑦ 安倍晴明の生誕地?
清明の出生地については諸説あるが、大阪説が最も有力か。
清明が「白狐の子」という話が有名になったのは、江戸時代の古浄瑠璃
『信太妻釣狐付安倍晴明出生』(しのだつまつりぎつね)からで、これ が大人気となると、仮名草子や歌舞伎でも『信太妻』ものが次々と作ら れるようになった。 江戸時代の作品のほとんどが、清明の出生地を阿倍野としているのは、
いずれも<しのだつまつりぎつね>に倣ったものとされている。が、 『あべの今昔物語』には、清明の父とする安倍保名が物語だけではなく、 実在の人物であったという伝説が記されている。 大阪府豊能郡能勢町には「信太の森」と呼ばれる場所があって、近くの 稲荷神社には室町時代初めのころの石塔と、二つの供養碑が建っていて、 いずれも安倍保名であると、同書で指摘している。 さらにこの地には「塩谷湯」という冷泉があり、そこに保名が葛の葉の
傷を治すためにやって来たという言い伝えも残っている。 これらから保名と葛の葉が一緒に暮らしていたと考えるなら、能勢町で
清明が生れたと考えられることができる。 脳内グラフを埋めつくすめとぬの字 きゅういち
『泣不動縁起』 「不動利益縁起」や「泣不動縁起」に、それらしい「式神」の姿を見る
ことができる。疫病神を鎮めようと、呪文を唱える清明のうしろにいる のが赤い鬼神と緑の鬼神である。 赤い鬼神 と 緑の鬼神
「清明に正体を見破られた酒呑童子」
「酒呑童子」は大江山に住む鬼で、数多くの人を殺して食ったり、貴族
の姫君をさらったりして、都を荒らしまわっていた鬼である。 当初は何者の仕業か、まったく分かっていなかった。 その正体を言い当てたのが、安倍晴明であった。
清明が一条天皇に呼び出されると、
「これは大江山に住む鬼の仕業です。このまま捨ておけば、都はおろか、
諸国にまで仇なすこと、間違いありません」と、 陰陽道の力で酒呑童子の存在を明らかにした。 そこで天皇は、源頼光に酒呑童子の退治を命じた。
源頼光は、渡辺綱ら四天王を連れて大江山に向かった。
いっぽう清明のほうは、「式神や御法童子」を京の都のあちこちに放ち、
酒呑童子が都に入ってこおれないように守りを固めた。 そして歯噛みして悔しがる酒呑童子の前に、鬼のふりをした頼光たちが
現われ、酒呑童子は、騙されて毒酒を飲まされ、退治されてしまった。 (式神=陰陽師が呪文で呼び出し、自分の手足として使う鬼神) はたき掛け始まる終演五分前 宮井元信
斬られた腕を咥えた戻り橋の鬼女 (豊原国周画) 「一条戻り橋の鬼女」
「一条戻り橋の鬼女」は、夜更けに美しい女の姿で橋のたもとにたち、
「家まで送ってほしい」と、言っては食い殺す恐ろしい鬼である。
源頼光の四天王といわれた武者・渡辺綱が、子の鬼の右腕を切り落とし、
その報告を受けた源頼光が安倍清明に相談すると、それに清明が
「鬼の祟りを避けるために、綱には七日の間、物忌みさせるように」
と、答えた話が伝わる。 画鋲とび散るイタチごっこのイタチ 湊 圭伍 PR ノックして下さったのでしょうか春 前中知栄
「源氏物語図 真木柱」 (土佐光吉筆 京都国立博物館蔵) お仕えする姫の魅力を、それとなく触れまわるなど女房たちには、気働 きが大切。ひとたび、素敵な貴族の男と結婚したとしたら、今度は姫が 不幸にならないようにも、心を砕いたという。 「恋はいつでも噂で始まる」
顔の見えない平安の恋愛は、男性が女性の噂を聞くことから始まる。
「音に聞く」と、いって、どこそこの娘は、器量よしであるとか、教養
があるとか、噂で情報収集してイメージを膨らませる。 噂を流すのは、お付きの女房で、彼女たちは、自分の仕える姫にすばら
しい男性が来るよう、しばしば誇大広告することもあったとか。 世の男性にアピールするため、年ごろの娘のいる家では、才気ある女房
をひとりでも多く抱えようとしたという。 タケヤブヤケタカと言えますか姫 酒井かがり
清涼殿上御局の復元模型 (京都文化博物館蔵)
式部ー後宮の恋愛 「王朝の恋は恋文から」
顔を知らぬ者どうし、愛の手紙を交わすことから始まるのが、平安時代
の恋愛。そのため、印象的で女性が好感をもつような手紙を送ることが、 男性の嗜みだった。 書かれる和歌や文字の優美さはもちろんのこと、便箋(料紙)の選び方 にも、心を配っていた。 恋文には、厚いしっかりした紙よりも、薄く柔らかな紙が好まれたよう
で…『源氏物語』にも雁皮紙(がんぴし)を薄くすいた薄様、柔らかく 繊細な高麗の紙、もろさのある唐の紙などが、料紙として用いられた。 楷書よりすこし崩した字がやさし 荒井加寿
「矢田地蔵縁起」
仏教が厚く信仰された平安時代後期から鎌倉時代には、仏や社寺の由来
を題材にした縁起絵が、数多く残されている。 これは満米上人が閻魔に招かれ、地獄見物に案内された説話。
満米上人は地獄で猛火の中の亡者を救っている地蔵を見る。
「王朝貴族は運命の恋に身を焦がす」
源氏物語には、宿世(すくせ)という言葉がしばしば登場する。
これは、現世での出来事は、前世からの因縁で決まっている…という
仏教の考えをもとにした運命感である。 「さるべき(そうなるはずの)契り」「さるべき宿世」といった言葉を
王朝人は好んだ。恋愛には欠かせない「運命の出会い」。 王朝人は、宿世という仏教の教えを、ロマンチックな情愛に結び付け、
わが恋の炎を燃え上がらせていたのである。
飴色の竹の耳かきこする音 野口 裕
貴人の御帳台
昼のひと休み用の間 夜はベッドルームに。
昼間は帳を巻き上げ、その代わり三方に几帳を立てた。
「帝の恋に、純愛はご法度」
帝は、つねに桐壺を手元に置き、寵愛の限りを尽くされる。
桐壺が「更衣」という女御よりも、低い身分の女性と承知の上だから、
まさに純愛のラブストーリーである。
しかし、たった一人の女性を愛することは、天皇にはあるまじき行為。
天皇は、後宮すべての女性に、満足を与える存在でなければならない。
仕える女たち全員に情けをかけることも、天皇の義務の一つなのである。
他の女御や更衣たちが、桐壺に憎悪を抱くのも、無理のないことだった。 風が煽ってくるわたくしの熾火 岸井ふさゑ
「帝のお召しのない夜は…」
毎夜のように帝に呼ばれ、清涼殿へと向かう桐壺。
そんな彼女に嫉妬心を燃やす後宮の女たち…。 しかし、そうかといって後宮を去り、違う男を探すわけにもいかない、 一族繁栄の期待を背負って入内した女たち…。 ライバルの動向に目を光らせ、不安と孤独に悩まされながら、帝に誘わ
れる夜を待つほかないのである。 夜の誘いが途絶えることを「夜離れ(よがれ)」といい、貴族の結婚の
場合は、そのまま離婚にいたることもあった。 淋しさを要約すれば小夜しぐれ 宮井いずみ
朧月夜の姿を垣間見て見初める源氏
このあと二人は慌ただしく逢瀬のひとときを過ごし、その証に扇を取り かえて「後朝の別れ」をする。
「後朝(きぬぎぬ)の別れ」
王朝貴族の女性は、初対面の男性に直に顔や姿をみせてはならなかった。
付き合ったり結婚する間柄になって、初めて顔を見せることが許された。 逢瀬は闇の中。 朝、明るくなってから男が出ていくのは、実に無作法とされ、夜が明け る前に帰るのが習慣だった。 当時、脱いだ二人の衣を重ねて、布団代わりに体に掛けていた。
明け方重ねていた自分の衣を、身につけ帰って行く……なんとも切ない
情景である。 まだ少し未練が残りふり返る 山本昌乃
「源氏物語絵巻 宿木二」
翌朝の匂宮と六の君
「三日夜餅が愛のあかし」
平安貴族の結婚式は、三日間かけて行われる。
初日は新郎が新婦の家を訪れ、初夜を過ごし、翌朝、新郎は家に帰って
愛の和歌を詠み、ラブレターを送る。 二日目も同じことをおこない、三日目の夜には、新婦の親が、「露顕」
(ところあらわし)と呼ばれる結婚披露宴が行われる。 このとき新郎新婦に「三日夜餅」が供され、夫婦として認められる。
結婚が成立すると、夫は妻の元へ通ったり、妻の家で暮らし始める…。
この先は何かありそな曲り角 靏田寿子
「夫が妻の家に通う結婚生活」
平安貴族のカップルの妻は、結婚しても、自分の実家から離れず、夫が
妻の実家に通った。この結婚形態を「妻問婚」といった。 やがて妻の実家に夫が同居することもあるが、夫の実家に妻が同居する
ことはない。妻にとっては楽なようだが、当時は、一夫多妻が一般的。 男性は複数の女性と結婚できるので、夫が来ないと思っていたら、別の
妻の家に通っていた、ということもあったようだ。 グルメ猫たまに草の葉食べに出る 松 風子 無常から朧の宵へ皮膚呼吸 森田律子
平安京の図
「源氏物語」の舞台となるのは、およそ千年前の「平安京」である。
桓武天皇により延暦13年(794)に開かれた平安京は、唐都・長安
を手本に、縦横にはしる道路で碁盤のように区切られていた。 北側中央には帝の住まい(内裏)や政治の中心がおかれた大内裏があり、
南北にはしる朱雀大路をメインストリートに、東側の左京、西側の右京 に分れている。 なかでも左京の北側は、多くの貴人たちの邸がある高級住宅街だった。 開けたら襖開けても襖また襖 田村ひろ子
式部ードラマの舞台
帝のお妃の位には、中宮→女御→更衣と順位があった。 のちに中宮より上に「皇后」が位置することになる。
女房は、妃ではなく、独立の局を与えられた後宮女官のこと。
「後宮シンデレラ物語」
当時の帝は、第一のお后である中宮のほかに何人もの女性を妃に迎え、
内裏の中の後宮という所に住まわせていた。 <女御とか更衣というのは、お妃の身分を表す言葉>で、父親の身分に
よって決められていた。 当時の特権階級である公卿のなかでも、上位の摂関や大臣の娘が女御に、
次の位の更衣大納言以下の娘がなった。 女御でなければ、正室の中宮になることはない。
主人公・光源氏の母・桐壺更衣は、大納言の娘で更衣であるために、
どれほど帝に愛されても、中宮になれない。 いわば悲劇のシンデレラだった 飛び抜けてべっぴん揃いのミカンです 賀部 博
帝が普段日々を送る平安京内裏の図
女性たちは、帝のお召しがあると廊下伝いに夜の御殿へわたる。
桐壺更衣は、遠く淑景舎(しげいしゃ)から、他の妃の殿舎の廊下を通
っていかなければならなかった。 「霧の花咲く庭に」
帝が日常生活する建物が清涼殿。
寝室にあたる夜の御殿は、その北部分にあり、背後には七殿五舎が並ぶ。 後宮の殿舎は、それぞれ壺(中庭)に植えられた庭木にちなんで「桐壺」 「藤壺」などと呼ばれ、そこに住むお妃は、「桐壺更衣」「藤壺女御」 呼びならわせている。殿舎の位置は、おもにお妃の身分によって決まり、 桐壺更衣に与えられたのは清涼殿から一番遠い淑景舎だった。 雲つき抜けてお久振りなんてね 酒井かがり
平安時代の官職制度の中核である太政官の組織図
寝殿中央に帝、右に東宮そして簀子には公卿たちの姿が描かれる
「恋愛特権階級」
「源氏物語」に登場する貴族たちは、当時、その地位を律令という法律
で厳密に定められていた。具体的には、一位から初位(そい)まで30 もあった役人の位階のうち、五位までがいわゆる貴族であり、その人数 は多くても150程だった。 そのうちの三位以上と四位の参議が「公卿」と呼ばれ、帝の住む清涼殿
に上がることができた。 それ以外で、特別に許されて清涼殿に上がることのできる者は「殿上人」 と呼ばれた。 滑り込んだのは四つ葉のクローバー 市井美春
女性ゆえに母ゆえに弘徽殿女御の憎しみは… 「嫉妬と嫌がらせの渦の中で」
桐壺更衣が帝に召されて清涼殿へ。
その夕に上がるとき、早朝3時ごろに下がるとき、やっかみ・いじめが 強烈で、他の後宮の女房たちから通り道の内橋や渡殿などのあちこちに、 不浄のものを撒き散らす意地悪な仕打ちを受ける。 桐壺更衣のお供の女房たちの裾は、汚れて、汚いやら臭いやら…。
そのままでは、清涼殿には上がれないようにしたのである。
触ってはダメ嗅ぐのはもっとダメ きゅういち
普賢菩薩像
「平安女性に人気だった法華経」
「法華経」が女性に愛されたのは、経典に女人成仏が示されていたから
である。それまでの仏教では。女性の成仏は難しいとされていた。 源氏物語でも、女性の登場人物と法華経は色濃く結びついている。
当時の法華経絵画には、普賢菩薩、羅刹女(るさな)、鬼子母など女性
に馴染み深い尊像が多く描かれた。 女性信者の人気を狙ったのだろうか、仏画というより、絵巻物のように
麗しく表され、女性好みだったという。 平等に春は誰にもやってくる 奥山節子
継嗣への流れ
「帝の子なら男の子 貴族の子なら女の子」
天皇に入内させた娘の母親には、娘の男子出産が最大の関心事。
いずれ皇子が即位すれば、娘の一族も前途洋々というわけである。
逆に貴族の娘たちには、女の子を産むことが望まれた。
もし娘なら入内させる可能性があるからだ。
また、娘の実家が迎え入れる「婿取婚」が当時の結婚の形態。娘が権力 のある男性を婿に取れば、親族の昇進も期待できたから。 太陽をポンと割ったら卵焼き 石川憲政
百人一首像讃抄 賢子 (菱川師宣画)
紫式部の娘・賢子は大弐三位(だいにのさんみ)と呼ばれることも。
「有馬山猪名の笠原かぜ吹けばいでそよ人を忘れやはする」
の歌で小倉百人一首にも登場している。
「帝の乳母は女性の憧れ」
育てた子が天皇に即位すると、乳母には、典侍(ないしのすけ)という
女官の役職が与えられ、多くは三位の位を授与される。 三位は天皇の后であっても、なかなか授与されない位なのだ。 育ての親なので天皇との結びつきは強く、親類縁者の昇進を天皇に口添 えしてもらったり、遺産をもらうこともあった。 天皇の乳母として成功したのが、紫式部の娘・賢子(かたいこ)で、 育てた子が即位して後冷泉天皇となり、三位を授与され典侍の地位に 就いている。 天皇の後ろ盾で夫は、受領(地方長官)として富を蓄え、賢子は豊かな
人生を送った。 いい知らせ春のソナタにのってくる 山本昌乃
百人一首画帖 和泉式部
恋の噂が絶えなかった和泉式部も宮仕えの女房。
橘の道貞とけっこんしたものの為尊(ためたか)親王との恋が芽生えて 離婚。その後宮仕えに出て、藤原道長の家司・藤原保昌と再婚するなど 華やかな恋愛遍歴を持つ。 あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢うこともがな
「宮仕えは花形職業」
平安女性にとって、宮仕えは憧れの職業。紫式部や清少納言のように、
専門知識を生かして見聞を広めたい、という気持ちから、宮仕えした女 性もいたが、多くの女性は華やかな社交界に憧れ、結婚相手を見つける ために宮廷に入ったという者のほうが多い。 しかし、雇用条件は不安定で、仕えていた相手が没落すれば、失職して
しまう。そのため女房たちの間では情報交換が盛んで、よりよい職場を 求めて、日々転職活動にも勤しんでいたという。 太陽を総身に浴びて深呼吸 曾根田夢
源氏物語行幸
「行幸の巻」を描いた貝合わせ
京都御所にある年中行事障子
宮廷の年中行事は、正月の四方拝にはじまり、鎮花祭、新嘗祭、大祓など
が知られる。 「一年中、行事で帝は超多忙」
帝の仕事は、おもに年中行事を行うこと。
清涼殿の殿上の間には、予定を記した年中行事障子があり、それに従っ て行事を行うのが宮廷の当時の政だった。 一年中、毎日のようにさまざまな行事があって、帝には、帝には内裏の 外に出る時間などほとんどない。 年に数回、外に出て、平安京の周辺の寺社へ参るなど「行幸」の機会も あるにはあったが、多くはなく行動も限られた。 白い息続いてぐっと飲む酸素 野口 裕
宇宙観を体系的に表した曼荼羅
加持は密教の渡来とともに生まれた。
密教は大日如来を本仏とし、仏や菩薩をその化身と考えている。
「平安遷都は怨霊封じ」
怨霊から逃れる方法には加持祈祷などがあるが、最もスケールの大きい
方法が、遷都。怨霊の巣くう古い都を脱出し、新しい土地に都を作って 祟りから逃れるのである。 桓武天皇は、70年以上続いた平城京を捨て京の南、長岡京に遷都する
ものの、途中で造営使長官が暗殺され、工事は停滞。 あげくに平安京へと移るが、それでもなお天皇の不安は収まらない。 そこで天皇は、怨霊を封じ込めるため、鬼門である東北の地に延暦寺や
鞍馬寺を造営した。 抄録に載せぬ火葬場行きの過去 藤井智史
三郎岩
背後に見えるのが、後鳥羽上皇の配流地、隠岐島、上皇の敗北は、
乳母・郷の局に甘やかされ、先を見誤ったゆえの悲劇だった。
「産みの親より、育ての親?」
一般に貴族の子供は、乳母に育てられる。
乳母は実母よりも長く子供と接するので、互いに愛着が強く、生涯にわた る親密な関係は親子以上に。 例えば、鎌倉時代、後鳥羽上皇の乳母、卿の局(藤原兼子)は、上皇好み
の愛人や美少年を世話して、権力をほしいままにした。 ついには、朝廷の人事さえ左右するようになり、上皇が鎌倉幕府相手の戦・
承久の乱に敗れて、隠岐島に流された後も、鎌倉方と直談判して後継将軍に 上皇の子を推薦。東の尼将軍・北条政子とその女傑ぶりを競ったのは有名。 ありがたいけれど強力母性愛 下谷憲子 浅漬けのナスとキューリと白い飯 津田照子
「女房36歌仙」 赤染衛門 鳥文斎栄之 「枕草子」の作者、清少納言は「女房」である。 女房の「房」は部屋と言う意味。
つまり女房とは、部屋を与えられて貴人に仕える女性をいう。
ところで宮中に何人ぐらいの女房がいたのだろうか。
藤原道長の娘・彰子が一条天皇に入内したときには、40人もの女房が
いたという。この時すでに宮中には、中宮定子の女房、他の女御・更衣 たちの女房、さらに天皇づきの女房もいたのだから、その数は、相当な ものであったと推測される。 その中に、清少納言や紫式部、和泉式部、赤染衛門、百人一首でお馴染
みの伊勢大輔、大弐三位らがいた。 お節介ながらここに「女房の一日」を再現し、王朝時代に思いを馳せな
がら、その生活を覗いてみよう。 アンテナを広げて揺れる象の耳 大島美智代
式部ーとある女房の一日 辰の刻 (8:00 a. m)
朝起きた女房は、身支度を始める。
髪を洗うことはめったになく、
簡単な手入れですませていたようである。
白粉を塗り、額の上に眉を書いて、歯にはお歯黒、口には紅。
これで女房メイクの完成。
香をたきしめた女房装束に身を包む。
私の顔やさしくしてる低い鼻 岸本孝子
巳の刻 (10:00 a. m)
女房装束にはいつも、香がたきしめられていた。
午の刻 (12:00 p . m)
女房たちが与えられている部屋の前で、殿上人と呼ばれる高級官人たち が通ることもあった。「枕草子」にも、細殿と呼ばれる女房の部屋の前
を通る男性たちと、女房たちの恋の駆け引きの様子が描かれている。 女房たちの生活は、実に開放的だった。
発芽してみようあなたに会うために 栃尾奏子
羊の刻 (2:00 p . m)
女房たちの中には教養溢れる者も多く、主人に和歌や漢詩を講義したり、 歌を詠み合ったりしていた。「枕草子」にも、和歌や漢詩が登場する場
面が多く、宮廷の女房たちの間に、和歌や漢詩が浸透していた様子がう かがえる。 野々宮蒔絵硯箱 (サントリー美術館) 蓋の裏側には黒木の鳥居・小柴垣が描かれ光源氏が六条御息女を 野々宮に訪ねた場面が表現されている。 申の刻 (4:00 p . m)
硯は女房の必需品であった。
女房・和泉式部が昼間あった殿上人からの手紙の返信を認めている。
酉の刻 (6:00 p . m)
女房たちの恋愛は手紙から。 この女房には昼間あった殿上人から手紙が届いた。
手紙には歌などが書かれており、送り主のセンスが問われる。
ダサい歌などが書かれていたりすれば、たちまち女房たちの噂話の格好
のネタとなってしまう。 ペラペラの嘘を束ねた置手紙 高野末次
戌の刻 (8:00 p . m)
歌と並んで楽器の演奏も、女房の必須アイテムだった。 管絃に優れているのは教養ある女性の証明。
楽器は暗くなってから演奏されることが多かった。
当時の楽器は、琴、筝、琵琶、横笛など。
モーツァルトを流し血糖値を下げる 門脇かずお
亥の刻 (10:00 p . m)
枕草子 『無名といふ琵琶の御琴を…』を清少納言の文章で…。 子の刻 (12:00 p . m)
女房のところへ昼間あった殿上人がやって来た。 当時の結婚は通い婚。
男性が三夜続けて通ってきたら、結婚の成立となり、披露が行われる。
一夫多妻制で、夫は複数の女性の元へ通ったが、結婚前は女性も複数の 男性を通わせていたようである。 丑の刻 (2:00a. m)
やってきた男性と女房は二人仲よく床に入った。
当時の枕は、木製や石製、陶製など、さまざまな材質でつくられており、
形状もまたさまざま。 意中の男性を迎えるために、枕に優雅な蒔絵を施したり、香をくゆらせ る女房もいた。 弁財天色香ほんのり座をまとめ 花篤洋二
寅の刻 (4:00a. m)
「枕草子」 『暁に、女のもとから帰る男』を清少納言の文章で…。 卯の刻 (6:00 a. m)
女房のところへやって来た男性は、まだあたりが暗いうちに帰る。 男性が自宅に戻ってから、女性に送る手紙を「後朝(きぬぎぬ)の文」
といい、女性のところから帰った後、これを送るのが早ければ早いほど、
情熱や誠意がある証とされていた。 ほとんど同じ日々を繰り返し、このように、女房の一日はおわります。
良い妻であっただろうか柿を剥く 工藤千代子
「扇面古写経」小堀鞆音・寺崎広業 (東京国立博物館蔵)
烏帽子姿のまま臥す男は添寝する女の髪を愛撫している。 「枕草子」 『暁に、女のもとから帰る男』
------ゆうべ枕もとに置いた扇やふところ紙を探すとて、暗いものだから、
手さぐりで、そのへん一帯を叩いたり、「おかしいな、へんだぞ」など とひとり言を言って、ばたばたとしている。 やっと探し出して、ざわざわとふところに入れ、扇をひろげて、ばたば
たと使いながら、「じゃ帰るよ」などというのなど…、まあどうだろう、 にくらしい、なんてなみ一通りのものじゃない。 可愛げがないのにも、ほどがあるというものだ。 フェークスピアとはよくいう恋の指南役 通利一遍
そうかと思うと、烏帽子の紐を固くむすんで、ちゃんと身づくろいして
出る男。どうせ夜もあけぬうち、女のもとから出てゆくのに、着くずれ ていたって、どうして人が咎めようか。 暁の男女のわかれの有様こそ、やはり風流なものであってほしいものだ。
裏庭に投げ捨てられた耳ひとつ 合田瑠美子
しぶしぶと起き上りがてにする男、女はいそがせ、「夜があけすぎたわ、
みっともないじゃないの」と言い、男はためいきついているさま。 こういのこそ、飽かれぬわかれ、という趣きがあるのだろうと思う。 指貫なども坐ったまま、はきもあえず、まず女のもとに寄って、ゆうべ 一晩話したことの名残りを女の耳にささやく。 なんとなく物うげに、帯などをむすんだりしている。
格子を押し上げ、妻戸のある所は、そこまで女とともにいって、「べつ
べつになる昼の間は、不安なものだね」、などと言いながらそっと出て いく男のうしろ姿を女はながめ、互いに情趣ふかく、名残り多きわかれ だろう。 疲れはてているボタンの穴くらい 酒井かがり
こんなのに比べると、きっぱりとはね起きて、ばたばたと身支度し、指
貫の腰をぐっと強く結び、直衣、狩衣、などの袖をまくりあげ、いろん なものをふところに収め、帯をぎゅっと締めたりしている。 まあそのみれんげもない態度の、なんと憎らしいこと。 ワタクシのここが急所と書いてある きゅういち
琵琶を中にして語り合う、中宮定子と一条天皇 枕草子 『無名といふ琵琶の御琴を』 「これが名よ、いかにとか」と聞こえさするに、「ただいとはかなく、
名もなし」と、のたまはせたるは、なほいとめでたしとこそおぼえしか。 無名という名前がついた琵琶の御琴を、帝が持って、中宮のお部屋に
いらっしゃった時、女房たちが、それを見てかき鳴らしたりもする、と いいたいところだが、琴を弾くわけではなく、弦などを手でまさぐって 遊んで、「この琴の名前は、何といったでしょうか」と聞くと、中宮は 「ただもうつまらない物だから、名前もないのよ」と、お答えになられ たのは、やはりとても素晴らしいと思われた。 淋しい耳は淋しい声を聞き分ける 平井美智子
淑景舎(しげいしゃ)の方などがいらっしゃって、中宮と雑談をされた
ついでに、「私のところにとても素敵な笙の笛があるのです。亡くなっ た父上が下さったものなのです」と、おっしゃるので、僧都の君が「そ れを隆円に下さいませんか。私のところに素晴らしい琴がございます。 それと交換してください」と、申し上げたが、淑景舎の方は、全くお聞 きにならないで、違うことを話しているので、隆円は、何とか答えさせ ようと何回もお聞きになるのだが、それでも返事をしないので、中宮様 が「いなかへじ(交換はしたくありません)と、お思いになっておられ るので」と、代わりにおっしゃってあげた時のご様子は、とても才気に 溢れていてこの上なく素晴らしいものであった。 (僧都の君・隆円は、藤原道隆の4男、定子の実弟。また、景舎の君・
原子の兄にあたる) 一すじの髪が水際に浮かぶ 笠嶋恵美子
この「御笛」の名前を、僧都(隆円)もお知りにならなかったので、
ただ恨めしくお思いになっていたようだ。 これは、職の御曹司がいらっしゃった時に起こった事である。
帝の手元には、「いなかへじ」という名前の御笛があったのである。
帝がお持ちになっているものには、御琴にも御笛にも、みんな珍しい 名前が付いている。 玄上(げんじょう)牧馬(ぼくば)井手、渭橋(いきょう)無名、など の名前である。 また、「和琴」(わごん)なども、朽目(くちめ)塩釜、二貫(にかん)
などの名前が付いている。水龍(すいりゅう)、小水龍、宇多の法師、 釘打(くぎうち)、葉二(はふたつ)など、他にも色々な名前を聞いた けれど、忘れてしまった。 冗談のように記憶が飛んでゆく 亀井 明 巻貝のつぶやきカモメのひとり言 森 茂俊
清少納言と女房たち (枕草子絵巻 逸翁美術館蔵)
中宮定子の周辺の華やかなりし頃、天皇のお住まい清涼殿に定子が参上
していたときのこと。自分に仕える女房たちの、機転のほどを知りたか った定子は、色紙に古歌を書かせた。 清少納言は、気後れしながらも古歌を巧みに改変した一首を書きくわえ、 中宮からお褒めの言葉をもらった。 <年経れば齢は老いぬしかはあれど 花をし見れば物思ひもなし>
という歌の下の句を清少納言は、<君をし見れば 物思ひもなし>と、
中宮を讃える歌で返した。中宮は、「そうそう、こういう機転が欲しかっ たのよ」と、少納言を褒め称えた。 にんげんを仕上げる老いという風味 若林柳一
式部ー枕草子ー華やかな日々
「荒海の障子に描かれた・手長足長の図」 清涼殿の東北の隅、北のへだてにある「荒海の障子」に描かれている古
代中国の想像上の怪物が手長・足長。現代でも家を建てるときなど東北 の方角には、台所や風呂をつくらない人がいるが、昔の人は東北の方角 の方に鬼が住み、災いが集まると信じられていたらしい。そこで東北の 隅に荒海の恐ろしい絵が描かれた障子を置いて魔除けとした。 幽霊が出る前風を湿らせる 中村秀夫
主上の常のご殿である清涼殿の、東北の隅、北の隔てにある 障子には、荒海の絵や、「手長足長」の恐ろしげな絵が書いてある。
弘徽殿の上の、御局の戸を押しあけると、いつもそれが目に入るので 「いやあねえ」などとみんなで笑ったりするのだけれど…。 縁の高欄のところに、青磁の花瓶の大きいのを据えて、桜のみごとに咲
いた枝の五尺ぐらいのを、たいへんたくさん挿してある、それが高欄の 外まで咲きこぼれている。 濡れているのか泣いているのか楠若葉 柴本ばっは
昼ごろいらした大納言どの(藤原伊周)は、瓶の桜に負けぬほどお美し
かった。桜の直衣の着なれて、すこし柔らかになっているのに、濃い紫 の指貫(袴)何枚か重ねた白い下着、上には濃い紅の綾織物のとても鮮やか なのを出衣(いだしぎぬ)にしていられる。 色美しい幾枚かの下着の裾を、上着と指貫のあいだにわざと出すのを、
出衣というのだが、その彩りの美しいこと。 主上がこちらにお渡りになっているので、戸口の前の細い敷板にお坐り
になって、お話しを申しあげていらっしゃる。 (弘徽殿女御=女御とは、後宮 に入り天皇の寝所に侍した高位の女官。
后・中宮に次ぎ、更衣の上に位した) 男の美学またの名を見栄という 北原おさ虫
上のお局の御簾の内には、女房たちが、桜の唐衣をゆったりまとい、
藤、山吹襲などの衣の襲(かさね)色目もさまざま趣味よく、小半蔀
(こはじとみ)の御簾の下からとりどりの色の袖口がこぼれたりして いる、そういう折に、主上の昼の御座所の方では、主上のお膳をお運 びする足音ゆきかう。警蹕(けいひつ)の声など聞こえる。 うらうらとのどかな春の昼つかたの有様、言おうようなくすばらしい。
(警蹕=天皇や貴人の通行などのときに、声を立てて、人々をかしこ
まらせ、先払いをすること、その声) 最後の食膳を運んでいる蔵人が、こちらへ参上して「お食事の用意が
ととのいました」と、奏上すると主上は、中の戸から昼の御座所へ向 かわれる。主上のお供をして大納言どのは、お送りしていらして、 またさっきの高欄の花のもとに帰ってこられた。 渋柿を甘い甘いと言わはって 大内せつ子
几帳
台に2本の柱を立て、柱の上に一本の長い横木をわたして帳をかけたもの。
室内に立てて隔てや間仕切りにする。 中宮さまが御几帳を押しやって、敷居のところにいらっしゃるご様子。
ただもうすばらしく、宮廷の華やかさに酔う心地がする。 お仕えする私どもも、うっとりするほどである。
「月も日も かはりゆけども 久に経る みむろの山の……」と、
大納言どのが、ゆるやかに吟唱なさるのも趣きふかい。
ほんとに、千年もどうぞこのままで、と、願わしい中宮さまのめでたさ
であった。 きれいだね花壇と会話する亭主 助川和美
陪膳にお仕えする人が、蔵人などを召す間もなく、はや主上はこちらへ
お渡りになった。 「御硯の墨をおすりなさい」と、中宮さまは、私に仰せられるのだが、
目はただもう上の空で、主上の方ばかり見上げてしまっているので、 どうかすると、墨挟みの継ぎ目も取り外してしまいそうだ。 中宮さまは白い紙をたたんで、
「これにたった今すぐ思い浮かぶ古歌を書いてごらんなさい」
と、仰せられる。
御簾の 外の大納言どのに、「あらまあ、どういたしましょう、これは」
と、頂いた色紙をお渡しすると、 「ともかく早くお書きなさい。男は、口出しすることではありませんか
らね」と、またお返しになった。 明日を語る資格などありません 雨森茂樹
橘 千鳥蒔絵硯箱 (東京国立博物館蔵)
定子は硯をさげおろして「早く思い浮かぶ古歌を書いてみなさい」
とせかしたが、それは女房たちの機転のほどを試すためだった。
中宮さまは、御硯をさげおろされて、
「早く早く、そんなに考えないで、手習いのいろはでも何でも、ふっと
思いついたことを」 と、お責めになるのに、こういう場合はどうしてか気後れして、みんな
顔を赤くして思い乱れるものである。 春の歌、花の心など、そうは言いつつも、上級の女房たちが二つ三つ書
いて「どうぞ」と、私の方へ回ってきたので、 「年経ればよはひ(齢)は老いぬしかはあれど 花をし見れば物思ひも
なし」という古歌の「花」とある所を「君をし見れば」と、わざと書き かえて出した。中宮さまはご覧になって、 「あなたたちの、こういう気働きや、機転のほどが知りたかったの」
と、仰せられ、興に入られた。
まだ夢に見る赤点の追試験 藤原紘一
紀貫之
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほいける 「昔、円融院の御時、草子に歌を一つ書きなさい、と、殿上人に仰せら
昔、円融院の御時、草子に歌を一つ書きなさい、と殿上人に仰せられた
ので、、みんな咄嗟に書きにくくて、譲りあっていられたのを、もう 筆蹟の上手下手や、歌の時季外れ問わぬからただ早く早く」
と、お急かせになられ、仕方なくみな書いた中に、ただいまの関白どの
が三位中将でいらしたころ、 「しほの満ついつもの浦の いつもいつも 君をば深く思ふやはわが」 という古歌を『たのむやはわが』と、お書きになったの。 それを主上は、たいへんお気に入られてお褒め遊ばしたということです。
少納言の頓智も、その話に似ていますね」 と、仰せられ、私はいっぺんに嬉しくなり、汗が吹き出る思いがした。
年の若い人だったら、なるほど書けない類のことだったかしら…。 いつもなら、上手にうまく書く人も、咄嗟のことで、あいにく遠慮し、 書き損じてしまうのだった。 明日を語る資格などありません 雨森茂樹
『古今集』の綴じ本を中宮さまは御前に置かれて、いろんな歌の上の句
を仰せられ、「この下の句はなに」と、お尋ねになるのに、 ふだんはよ く知っている歌が、さっぱり出てこない。 中宮さまは、村上天皇の御代の、宣耀殿(せんようでん)の女御のお話しを
なさった。 女御がまだ、姫君でいらした時分、お父上の小一条の左大臣のご教育は、
まず第一に習字をなさい。次に琴を上手に弾くこと、第三に古今集の歌 二十巻を全部記憶すること、というのだった。 健やかな耳朶にシャランと巫女の鈴 宮井いずみ
一条天皇と中宮定子 (枕草子絵巻 逸翁美術館蔵)
美しい容姿と高い教養に恵まれた定子は、女房たちの憧れの的だった。
この定子の兄が大納言伊周、伊周の人生は当時第一の権力者であった父・ 藤原道隆の死によって急変していった。 伊周は弟・隆家とともに、花山院に矢を射かける事件を起こし、流罪と
なってしまう。そして定子の身にも不幸が襲いかかっていく。 かねてお聞きになってらした帝は『古今集』を持って、女御の部屋にお
越しになり、試験をあそばしたの、几帳を引いて女御との間を隔てられ たので、女御は<いつもと違って変ね>と、思われたが、帝は古今集の 綴じ本を開かれて、「なんの月の、なんの時に、誰かが詠んだ歌は、 なんという歌か」と、お尋ねになるので、女御は、 <几帳で隔てられたのは、こういうことだったのか>
と理解なさって、<おもしろい>と、思われるものの、
<間違って覚えていたり、忘れているところがあったら、大変なこと>
と、むやみに心配されたに違いない。 砂時計のくびれにそっと触れている 高野末次
帝は、歌の方面に疎くない女房を二、三人ほど呼ばれて、間違った歌は
碁石を置いて数えることにして、女御に無理にお返事をおさせになった 時など、どんなに素晴らしく面白かったことだろう。 御前にお仕えしていた人までも、羨ましい。
帝が強いてお尋ねになるので、利口ぶって、そのまま終わりの句までは おっしゃらないけれど、女御はちっともお間違いにならなかった。 帝はしまいにお悔しく思われ、ちょっとでもお間違いを見つけたら、
それでやめようと思し召されたのに、とうとう一つも、お間違い遊ばさ ないの。負けました、と、途中でやめて仲よくお休みになったけれど、 いや、やはり事の決着はつけなくてはと、またお起きになって大殿油 (おおとのあぶら)をお近くに灯させて、夜ふけるまでお尋ねになり ました。でもとうとう、女御は、最後までお間違いにならず、よみあ げられたのです。 えり足の深いところに累ケ淵 くんじろう
村上天皇陵
村上天皇は一条天皇から数えて4代前の天皇で祖父にあたる。
醍醐天皇・村上天皇は天皇親政を行い、後世、理想の治世と
され、「延喜、天暦の治」と呼ばれた。
帝が女御のお部屋にお越しになって、こういうことが、と、女御の父の
左大臣殿に人を遣わして知らされると、父君はたいへん心配してお大騒 ぎなさって、「どうぞ娘が間違わず詠みあげて、帝のお褒めに預かりま すように」と、神仏に懸命にお祈りになったということよ。 その親心にもしみじみしますけれど、「昔は風柳だったのねえ」と、仰 せられた。主上も興がられて、 「村上の帝はよくまあ、おしまいまで調べられたことだね。私なら三巻 か四巻までしか詠まれないだろう」と、言われた。 女房たちも参り集うて、そんな話に聞き入ったり、褒めそやしたりする
ありさま……これほどのたのしい、満ち足りた豪奢な時間が、またとあ ろうか。 カラスならカアで終りにする悩み 山下炊煙 |
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