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川柳的逍遥 人の世の一家言
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葛飾北斎画 うさぎ




                     
                  
                      
                      令和五年元旦




『江戸小咄』 


≪ 笑い締め     弁天さま ≫
年の暮れになって金に詰まった男が、上野の弁天さまへ7日7晩おこも
りをし「どうぞお金を恵んでください」と、一心に拝んだ。
そして、7晩目の明け方、弁天さまが内陣の御簾をあけ、
白い紙を一枚もって出てこられた。
男はいよいよ大願成就と、胸をおどらせ
「もし弁天さま、わたしはここにおります」
と裾を引けば、弁天さまは眉をひそめて、
「まあ、いやらしい、あたし、はばかりへ行くのよ!」



≪  笑い初め  書初め ≫
不器用な息子が書初めに≪松竹≫と書き、
それを大いに自慢して、方々に見せてまわったが、誰も褒めない。
そこで餅屋は餅屋だと思って、年始に来た出入りの植木屋に見せると、
<松>の字をひどくほめた。 それを聞いた父親は、
「だが、竹のほうがよくできていると思うのだが」 
と言えば、植木屋は、
「いや、そうじゃない。松もこのくらいひねっこびて、ゆがんでくると、
 百両がものはありますからね」


 
      
       




【北斎画】一重、二重、三重と三つの『和(輪)が重なるように描いた、
縁起のよいうさぎ。
皆様にとって令和五年も良い年でありますように。

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有刺鉄線越えるかキミと抱き合うか  酒井かがり




                     歌川国貞「仮名手本忠臣蔵十一段目」

赤穂浪士討入事件は、直後から浄瑠璃・歌舞伎の格好の題材となり、
「仮名手本忠臣蔵」というタイトルで大ヒットした。
胸のすく勧善懲悪劇ー自己犠牲の美学が庶民の心を打ち、その人気は現
在も継続。赤穂浪士のドラマは時代劇の中の時代劇として愛されている。



おやあなた尻尾に蝶がとまっている  くんじろう


「江戸の出来事」 「赤穂浪士討入事件」



『時は元禄15年、極月(12月)14日、所は江戸・本所松坂町』

これは吉良邸討入りの講談の枕コトバである。
しかし、旧暦の12月14日はー新暦では(1703年)1月30日ーで、
ーー現在の暦とは37日ズレる。
明治6年1月1日に和暦から西洋暦への改暦の正式な発表は、天保暦の
明治5年11月9日にあった。
「天保暦の12月3日を太陽暦の明治6年の1月1日とする」
というものである。
「何てことをするんだ!」
準備期間も短く、12月は、わずか2日しかなくなってしまった。
12月3日から大晦日までの誕生日が消えてしまったばかりか、
浅野内匠頭の刃傷があった元禄14年3月14日も4月21日となる。
12月といえば「四十七士討入り」で親しまれてきた物語りもある。
大石以下46士は、主君の命日14日に仇討ちを決行するから、
気概も奮起するのであって、筋書きも少し萎んでしまう…ではないか。



この国を嫌いにさせるなと叫ぶ  山田こいし




                                  殿中刃傷の様子
殿中松の廊下にて、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつける場面。
内匠頭の後ろから慌てた様子で駆け寄るのは、梶川与惣兵衛。



元禄15年(1702)12月に起った「赤穂浪士の仇討」は、江戸の
庶民のみならず、将軍幕閣をも驚愕させる重大事件だった。
事件は、前年の元禄14年に赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(ながのり)が
高家旗本の吉良上野介義央(よしたか)に遺恨を持ち、江戸城松の廊下
で吉良を斬りつけ、切腹・改易に処された、ことを発端とする。
赤穂藩国家老・大石内蔵助ら47人の赤穂浪士は1年9カ月の雌伏の末
本所の吉良邸に侵入し、上野介を討って主君の無念を見事はらした。





   吉良上野介は屋敷裏の炭小屋に隠れていた
真っ白な夜に真っ黒な所へ逃げ  江戸川柳



浅野でも忠義は深き国家老  江戸川柳



「お家断絶から討入りまで家臣団は一丸ではなかった」
とりわけ弟・大学による浅野家再興を第一に考える大石内蔵助らと江戸
在住で仇討決行を急ぐ堀部安兵衛らは、戦術をめぐって対立する。
ここで重要な役割を果たしたのが吉田忠左衛門だ。
吉田は堀部らに自重を求めるため大石の意を受け、一足先の元禄15年
3月には江戸に入り、芝松本町の前川忠太夫店に身を寄せた。
ここには前年11月に大石が最初に江戸入りした時も投宿している。
吉田は7月に新麹町6丁目に転居し、ここが次々と江戸入りする
同志の取り敢えずの落ち着き先となる。


人と人つなぐ絆が調味料  都 武志





    大石の目くらまし (一力茶屋)
大石の中に軽石一つあり  江戸川柳


「彼らの江戸での主な潜伏先を見てみよう」
吉良邸に一番近い本所相生町には、前原伊助(変名/小豆屋五兵衛)と
神崎与五郎、本所林町には、堀部安兵衛(長江長左衛門)の道場、
本所徳右衛門町には杉野十平次ら、両国橋を渡った西側の米沢町
堀部弥兵衛、新麹町6丁目には吉田忠左衛門(篠崎太郎兵衛ー田口一
ら新麹町5丁目には富森助右衛門(山本長左衛門)一家、
新麹町4丁目には中村勘助(山彦嘉兵衛)ら、南八丁堀湊町には片岡
源五右衛門ら。
そして日本橋石町に大石内蔵助(垣見五郎兵衛)らが変名を使って
隠れ住んでいた。
こうして商人に化けたり、公事(訴訟)での長期滞在を装いながらの
潜伏は、本当にうまくいったのか。
8月に同志を離れた酒寄作右衛門の大名宛の手紙によると、
吉田忠左衛門のいた柴松本町には、上杉家の忍びもいたという。


ぶりかれん知らぬ家中気がつかず  江戸川柳
(ぶりかれん=行商人 家中=吉良の家人)


「仇討決行前へ話を転じる」
大石が求めたのは、このころ上杉邸にいることが多かった吉良義央
在宅情報である。
やがてお茶会が催される日には、本所の屋敷に戻ってくることがわかる。
お茶会の宗匠は山田宗徧で吉良義央とは茶の師匠を共にする間柄である。
宗徧は老中・小笠原長重に仕えていて、この小笠原家と吉良家も礼法を
司る家同士で交流があった。
宗徧には中島五郎作という町人の弟子がいたが、中嶋の借家には羽倉斎
荷田春満)という国学者が住んでおり、羽倉は和歌の添削で吉良家に
出入りしていた。
こうした吉良人脈に大石三平大高源五という浅野人脈が繋がってくる。
大石三平は大石一族の一人で、中嶋五郎作の友人であり、羽倉とも交流
があった。また大高源五は、宗徧の弟子になっていた。


人と人つなぐ絆が調味料  都 武志




     大高源五と宝井其角
「年の瀬や水の流れと人の身は」 其角
      明日またるる宝船」 源吾




最初のお茶会の情報は12月5日だったが、これは将軍の柳沢邸御成り
に重なって直前に中止される。
しかし次の情報はすぐ来た。
14日の昼、大石三平が羽倉の手紙に
「彼の方の儀は十四日の様にちらと承り候」
とあったことを伝える。
また大高源五も吉良がお茶会開催の準備に帰宅するとの情報をもたらす。
大石内蔵助は2つの情報から判断して、14日夜の討入りを決断した。
と思われる。

あくる日は夜討ちと知らず煤を取り  江戸川柳
(江戸時代の煤払いは12月14日におこなった)




       討入り絵馬
事件の13年後の正徳5年(1715) 、但馬の織物屋たちが天橋立にある
知恩寺に奉納した絵馬。討入りの様子が生々しく描かれている。

「討入りは成功した」
吉良邸を出た46人(寺坂吉右衛門は除く)無縁寺(回向院)に入る
ことも船に乗ることも断られ、武装したまま、しばらく両国橋東詰に
屯する。
このとき最も警戒したのは上杉家による反撃だった。
ところが上杉軍は来なかった。
後にお預けになった細川家から出した大石の書状(細井広沢宛)がある。
そこで大石は、半弓など大勢の相手をする武器を用意したのに、無益に
なったのはおかしい、と書いた後、
「覚悟したほどには濡れぬ時雨かな」という句を詠んでいる。
切腹の2日前であった。
生死を賭けた大仕事を時雨に喩える…大石の器の大きさである。



目印は殿が額につけておき  江戸川柳
余は上野介でない。人違いでござる、と言い張ったけれど…)




          「泉岳寺引き揚げ」



その途中、吉田忠左衛門富森助右衛門の2名が別行動をとって、
大目付仙石伯耆守久尚に自訴し、幕府の処分を待つこととなった。
幕府は評議の結果、大石内蔵助以下17名を、熊本藩・細川綱利へ、
大石主税以下10名を伊予松山藩松平定直へ、
岡島八十右衛門以下10名を長府藩毛利綱元へ、
間十次郎以下9名を岡崎藩水野忠之へ、当分の間預けることとした。
なお、細川家には、大石内蔵助が含まれており、藩主・綱利自ら引き
取りに行くつもりでいたが、家老の三宅藤兵衛が家来とともに、
大石以下17名を迎えにいった。
一行が柴白金の細川藩邸に帰ると、綱利は早速、一同に対面した。
(毛利藩では駕籠に網をかぶせで護送した後、窓を閉めて長屋に押し込
 むなど、まるで罪人扱いだった。が毛利藩は細川藩での待遇を聞いて
 処遇を改めたという)


首筋が四捨五入の四の位置  ふじのひろし


「浪士の処遇について」

幕府の評定所から、「お預けのままで置き、後年に裁決すべき」
との意見でまとまりかけていたが、翌年、幕府から公儀を恐れざる行為
として、切腹の沙汰が下された。荻生徂徠
「ちやほやされると、間違いを起こす者が現れる」
と切腹を支持している。
吉良邸討入りから約1ヶ月半後の元禄16年2月4日、赤穂浪士に切腹の
裁定が下された。
斬首などではなく切腹に処したのは、武士としての名誉を保つ措置であっ
た。この日、浪士たちはそれぞれお預けの大名家で切腹して果てた。

化けてでる予定のリスク抱いている  平井美智子





     泉岳寺にて本懐の報告をする浪士



「幕府はなぜ、赤穂浪士を切腹させた?」

将軍のお膝元である江戸市中を騒がせ、松の廊下事件についての幕府の
裁定に異を唱えた、などと理解されている。
しかし、このとき幕府が問題視したのは、47名もの浪人が武器を携え
て集まり、大石内蔵助の指揮で組織的に行動した点にある。
江戸の治安機構で、大名や高家の監督役は大目付であった。
討入り後、赤穂浪士は、内匠頭の墓がある高輪・泉岳寺へ向かう途中
2名が隊を離れて大目付の仙石伯耆守久尚の元へ報告に向かっている。
仕組みと手続きを十分承知していた大石の差配である。
仇討ちは儒教道徳にかない賛美できる一挙だったが、
先に「浅野切腹、吉良お咎めなし」という処分を下した手前、
死刑か助命か幕府は頭を悩ませた。
結局仇討は認めなかったが、浪士に配慮した切腹に落ち着いたのである。

化けてでる予定のリスク抱いている  平井美智子

「討入当日、南北の松前嘉広・保田宗郷の両奉行は何をしていたのか?」

実は傍観するだけだった。
事件は一見、徒党を組んだ浪人たちの押込み殺人であり、浪人は取り締ま
り対象のはずだ。
だが大石らが標榜したのは「仇討ち」であり、天一坊事件の丸橋忠弥のよ
うな謀反ではないうえ、忠弥と赤穂藩元家老では、格が違っていた。
さらに事件が起ったのは、町奉行の治外法権区域である旗本吉良家の屋敷、
しかも朝廷との諸礼を司るVIPの高家であり、町奉行がおいそれと手を
出せる事件ではなかった。

もう一度引っくり返す砂時計  井本健治





大石の遺書


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さりげなく話しておこうあれやこれ  津田照子



 

         江戸で生まれたかわら版屋




100万都市江戸で交通事故も深刻は、社会問題だった。
当時のクルマは大八車や牛車で、車引きの不注意や牛の暴走による惨事
もあった。8代将軍・吉宗の治世下享保13年(1728)新宿で少年
が大八車に轢き殺されるという事件が起った。
 幕府は何度か、車間距離の設定・積載量の制限・狭い路地での駐車禁止
などの現代そのものの交通ルールを定めた。しかし、大八車の交通事故は
減ることは無く、ついに第8代将軍吉宗は新に「公事方御定書」を定めた。
当時、大八車は2人で乱暴に引かれており、採決は、事故を起こした側の
1人は死罪、もう一人は遠島という厳しい断を下した。
 江戸の町が混雑していたとはいえ現代の車のように猛スピードで走って
いるわけではないのに、なぜ轢かれてしまう人がいたのか?
実は、大八車による事故は坂道で起こることが多かった。
江戸という町は、非常に坂が多かったため、加速のついた大八車を歩いて
いる人がよけ切れず、轢かれて死ぬというケースが多発した、ことらしい。
こういう事故また事件を庶民の知る権利としてかわら版が報道した。


むかしなら煽り過疎への島流し  通利一遍




「江戸のあれこれ」 かわら版





       かわら版・第一号

この「大坂安部之合戦之図」は、上段に大坂城内、中断に東西両軍
の合戦、下段に将軍(秀忠)、宰相(徳川義直)、御所(家康)、常陸(徳川
頼宣)らの東軍の陣容を刻した。

かわら版の第1号は、慶長20年(1615)大坂落城時の「大坂安部
之合戦之図」「大坂卯年図」とされているが、実際にかわら版が江戸の
町で明確に刷られ盛んに出回りだしたのは、天和(1681)の頃から
らしい。
「赤穂事件」『八百屋お七放火事件』が話題になった頃。
新聞もテレビもない時代、かわら版は読んで売るから「読売・かわら版」
と呼ばれた。羽織を着、編み笠で顔を隠し、指揮棒のようなもので紙面を
叩きながら、講釈の上手い兄ちゃんが、買い気をそそるように囃すものだ
から、江戸の野次馬に大人気を博したものである。



深呼吸しながらそっと風を聞く  上坊幹子




       かわら版売りを囲む庶民




ところが、庶民がかわら版で世の動きを知ることをよしとしない幕府の
官僚は、幕府批判を助長するものとして、貞享元年(1684)事件を
速報する「印刷物の発行を禁止する」お触れを出したのである。
そのため当時のかわら版屋は、映画などで見るものとは違い、編み笠を
口だけ見える程度に深くかぶり、必ず2人以上で売り歩いた。
1人は講釈の上手い売り手、1人は警備役として…。

継続は力手のまめ足のまめ  山口文生




         かわら版が報じた大地震




徳川家康が拵えた江戸の260年。
その間には仇討事件から謀反や放火事件や天災までさまざまな大事件が
勃発している。 

「どんなものがあったのだろうか?」
① 由比正雪の乱 1651年
②  明暦の大火  1657年
   江戸の大半が焼失した大火災。世界三大大火・江戸三大大火の一つ。
   死者10万人を超える大災害であった。
③ 明暦の大火における石出帯刀の美談 1657年
④ 振袖お七放火事件 1683年
⑤ 元禄赤穂浪士討入 1702年
⑥ 天一坊事件 1728年
  8代将軍・吉宗のご落胤と称する若者が将軍に謁見しようとした。
  しかし、大岡越前が嘘を見破り天一坊を捕らえた。

生き様を皺の深さに漂わす  小原敏照



⑦ 明和の大火 1772年
  江戸三大大火の一つ。「目黒行人坂大火」とも呼ばれる。
⑧ シーボルト事件  1828年
  シーボルトが帰国する時に持ち出し禁止であった日本地図を持ち出そ
  うとして、シーボルト以下多くの関係者が処罰された出来事。
⑨ 天保の大飢饉  1833~1839年
⑩ 大塩平八郎の乱  1837年
⑪ 国貞忠治捕縛・処刑 1850年
⑫ 品川沖黒船来 1853年
  アメリカ東インド艦隊のペリー提督(黒船)が開港を迫り浦賀に来航、
⑬ 桜田門・井伊直弼事件 1860年



明日という浮き輪を投げる夜の海  ふじのひろし





松の廊下で吉良刃傷に及んだ内匠頭を羽交い絞めする梶川与惣兵衛


「松の廊下 刃傷事件」  詳報
元禄14年(1701)3月14日は、5代将軍綱吉が勅使、院使に対
し勅答する日であった。午前10時頃から午前11時過ぎに、勅使接伴
役の赤穂浅野藩5万石城主・浅野内匠頭長矩が高家筆頭の吉良上野介義
を殿中松の廊下でいきなり小サ刀で背後から切りつけ重傷を負わせる
事件が発生した。
この日は幕府にとって大切な日であったこと、江戸城内での刃傷であっ
たことから五代将軍・綱吉が激怒した。



御気は短いに袴は長い也  江戸川柳



「斬りつけの様子ー梶川与惣兵衛筆記によれば」
「誰やらん吉良殿の後より、『此間の遺恨覚えたるか』と声を掛け切付
 け
申候。その太刀音は強く聞こえ候えども、後にて承わり候えば、
 存じ
のほか切れ申さず浅手にてこれあり候。われらも驚き見候へば、
 ごち
そう人の浅野内匠頭殿なり。
 上野介殿、これはとて後の方へ振り向き申され候ところを、また切付
 られ候ゆえ、われらの方へ向きて、逃げんとせられしところをまた二
 太刀ほど切られ申候」



浅からぬ恨み額に傷をつけ  江戸川柳


「 傷の程度は?」
「此間の遺恨覚えたるか」と、叫んでいきなり背中から切りつけた。
驚いた上野介が振り向いたところを更に額に一太刀きりつける。
烏帽子の金具で止まった額の傷は3寸5分から6分(約11センチ)背中
の傷は三針縫う程度。
討ち入りの時には、額の傷痕は残っておらず、背中の傷が本人確認の決
め手となる。 栗崎道有のカルテ(外科医で幕府典医)によれば、
『ヒタイ スジカイ マミヤイノ上ノ 骨切レル 疵ノ長サ三寸五分 
 六針縫フ。背疵浅シ 然トモ 三針縫フ』とある。

目印は殿が額につけておき  江戸川柳



「五万石の大名の扱いではなかった!」
式服の大紋を脱いだ浅野内匠頭は、ノシ目小袖のままの姿で出された一
汁五菜の食事は、茶漬け二杯を食べただけ。酒、煙草も許されず、遺言
を書くことも許されなかった。
「浅野内匠頭の言葉」
内匠頭『自分は元来不肖の生まれなる上、持病のせん気があり、
心を鎮めることもならずして場所柄もわきまえず不調法仕った』
と述懐したとある。



今さらを五言絶句でものをいい  江戸川柳





風さそふ花よりもなお我はまた春の名残をいかにとやせむ





「将軍綱吉の判断」
午後1時頃に側用人の柳沢出羽守保明が綱吉に事件を伝えると、激怒し
た将軍は、始祖・徳川家康以来の喧嘩両成敗の不文律を破って浅野内匠
には、田村右京太夫にお預けの上「即日の切腹」吉良上野介には
「お構いなし」を即断した。
不公平な裁きが、武士の面目をかけた「赤穂浪士討ち入り事件」を惹起
する発端となった。
機敏、迅速であり過ぎたこと、喧嘩両成敗でなかったこと、即日の切腹
と、お家断絶は幕府裁定の三つの異常とされる。
額に斬りつけた処を、大奥留守居番の梶川与惣兵衛頼照が羽交い締めに
して取り押さえる。
当時55歳で7百石取り。功により5百石の加増を受ける。
「抱きとめた片手が二百五十石」
と、世間は武士の情けを知らぬ仕打ちと非難した。



5万石捨てては5百石拾い  江戸川柳








NHKの大河ドラマは「鎌倉殿の13人」が終わって令和5年1月8日
から徳川家康主人公の「どうする家康」へと、バトンチェンジされます。
「鎌倉殿の13人」の脚本担当の三谷幸喜さんは、僕が描きたかったこ
との随筆で「このドラマは結局は家族の話なんだと」と述べています。
その見方で行くと大変な家族であったように思いますが…。
さて次の家康の物語は、「どうなります」ことやら…。
さてこのブログも、その辺に興味を持ちながら鎌倉から江戸へ、家康が
拵えた江戸の260年のあれこれを追いかけていこうと考えております。
よろしくお願いいたします。

アフターコロナへ骨の手入れする  井上恵津子

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 懐かしいノイズが混じる蓄音機  くんじろう



「鎌倉殿の13人」 鎌倉のよもやま



西園寺公経(さいおんじきんつね)
小倉百人一首では入道前太政大臣
花さそふ嵐の庭のゆきならでふりゆくものは我が身なりけ

京に西園寺公経という貴族がいた。彼は頼朝の姪を妻に持つ縁故から
鎌倉幕府との親密な関係を結んでいた。
公経は承久の乱前夜、朝廷による倒幕の情報をいち早く京都守護へ告げ、
そのために幽閉を余儀なくされたが、乱後は幕府方の功労者として一挙
に太政大臣となる。
その後は、幕府と朝廷のパイプ役として権勢をふるった人物であった。
そんな公経は、洛西衣笠山に豪壮な北山別荘を営んでいる。
そして後年、この別荘が、足利将軍義満の北山殿に改築され
やがて「金閣寺」へと発展していく。
時流を察知し政治家として一時代を築いた彼も、後年自分の建てた別荘
が日本で最も建築物になろうとは思いもよらなかったであろう。



我武者羅でありたい空が美しい  上坊幹子




         「曲者/法印尊重」




承久の乱が終了し、次々と朝廷側の首謀者が幕府に捕まっていった中で、
尊重という法印は、巧みにその網をくぐりぬけていた。
(尊重とは僧侶・山伏・祈祷師などのこと)
後鳥羽上皇の側近であった彼は、武士に反感を持つ寺社勢力の代表でも
あり、倒幕を強硬に推進してきたので、当然幕府の追補リストに載って
いるはずであった。
この尊重なる人物は、猛牛に車を引かせる牛車のレースに熱中し事故を
起こして大ケガをしたり、承久の乱の最中に親幕府派の公家西園寺公経
を憂さ晴らしに殺そうとしたりと、まさに荒れ狂う坊主であった。
しかし、幕府軍が京を占領すると、彼はさっさと逃げ出してしまう。



用意万端避難袋は枕元  前中一晃




逃げ延びた尊重は吉野の奥に隠れ、還俗して地元の娘の婿になりすまし、
熊野から九州と動き回って反乱の機会を狙っていた。
そして突如京に姿を現すと、幕府に討たれた和田義盛の子息と通じて、
事を起こそうとするが、いに捕まる。
処刑の前、尊重は六波羅探題方丈・時氏に向かって
「死んでやるから、義時が飲んだ毒薬をくれ」と叫ぶ。
時氏の祖父・義時は3年前に急死しており、毒殺の噂が流れていたのだ。
尊重の嫌がらせの一言が噂を裏付ける形になってしまった。
彼は最後っ屁のように効果的な一発をかまして死んだのである。



言い勝ってむなしい心尻っぽ出す  石田すがこ




                                        「一遍上人絵伝」
京都四条付近の様子。活気あふれる庶民のしたたかさが見える。

「勝手に公道をたがやすべからず」

京の朱雀大路は、側溝などを含めて92mの幅があった。
面白いことに「延喜式」では、側溝でネギやセリや蓮などを栽培する
ことを認めている。
ところが都が荒廃するにしたがい、ドサクサに紛れて朱雀大路に畑を作
ったり、勝手に占拠して家を建てたり、する輩が増えてきた。
まるで戦後の闇市のような光景であったのかもしれない。
このようにもと公道だった畑や宅地の場所を「巷所」というが、
貞応元年(1222)には巷所の帰属をめぐって、山城国司と京都守護
が争っている。闇市の縄張りをめぐる抗争のようだが、
建久2年(1191)の新制では、巷所そのものが禁止されている。



あるがまま我が人生の如き庭  山谷町子





「ぼろぼろ」
男ー縞模様の紙衣を着たぼろぼろが女性を襲っている様子。

鎌倉時代の後期には、何らかの理由で所領を失った武士たちが、信仰を
求めて諸国を放浪する様がよく見られたという。
彼らは独特の模様の紙衣をまとい、托鉢のようなことをしながら家々を
回っていたようだ。 
人々は彼らのことを「ぼろぼろ」と呼んでいた。  『徒然草』
「ぼろぼろというもの昔はなかりけるにや。近き世にぼろんじ・梵字・
 漢字などいいける者」とある。
吉田兼好は彼らについて、世を捨てた割には我執に強く、仏道を願う割
には、争いばかりしていると、やや批判的である。
しかし「沙石集」では
「知恵も賢く器量つよく、発心もたかく、修行もはげし」
と、賞賛もされている。
「ぼろぼろ」は、仏法における解説の境地達するために、運を天にまか
せて漂泊の旅をひたすら続けたのであろうか。
絵は武士の屋敷の門前で今にも殴られそうになっている旅の男。



生き延びる運命線のババつかみ  中村牛延




「法然上人絵伝」
延暦寺の人々に墓を暴かれる前に法然の遺骸を移そうとする念仏宗徒

当時は洛中にも殺人・放火・強盗などが続出した時代。
延暦寺は、それらの犯人の多くは念仏宗徒であると非難し、彼らに暴力
を振るったりした。それはやがて、法然の墓を暴くという計画を立てる
までにエスカレートする。
念仏宗徒は事前に情報をつかんで事なきを得たが、その後も執拗な延暦
寺の弾圧により、洛中の念仏宗は一時衰えをみせた。
一方的とも見える延暦寺の弾圧だが、その原因は念仏宗徒側にもあった。
彼らは「憎悪無碍」(ぞうおむげ)を主張し、その真意を誤解した者が
わざと悪事を働くことがあったのだ。
これでは、犯人に疑われても仕方がないというものだろう。



つながっていますぶら下がっています  新井曉子




「景正作と伝わる陶製の狛犬」
陶器のことを俗に「瀬戸物」というがそれは尾張の瀬戸焼から出ている。

「瀬戸焼」の開祖は、加藤景正と伝承されながらも、その経歴は不明な
点が多い。
一説には安貞元年(1227)道元の入宋に従い、福建省で陶器の製造
法を学んだという。そして帰国後、良質の陶土を求めて諸国を遍歴し、
尾張の瀬戸に到ったと伝えられている。
鎌倉末期には、彼が伝えた製造法が一般化し、全国的にも「陶器」とい
えば「瀬戸物」という具合になった。
景正は通称を藤四郎といい、12代の子孫まで代々陶業に携わり藤四郎
を名乗った。



ゆったりとあなたの福にからまって  柴本ばっは




                                                餓鬼草紙 




「生き地獄となった大飢饉。廃した京の街の様子」



ひとたび飢饉に見舞われれば、都といえども地獄と化した。
このときの被害は全国に及んだ。
寛喜2年(1230)は異常な冷夏であった。
6月には、武蔵と美濃に雪が降った。
旧暦の6月だから今なら7月下旬頃である。
綿入れの衣が必要だったという。
当然農作物の不作はひどく、被害は甚大であった。
翌年2月には、疫病が流行し3月以降は、餓死者が道に溢れるようにな
った。
供物が供えられると人々が奪い合う。
今まで禁忌のために食されなかった牛馬の肉まで食用にされた。
麦もすべて枯れ、種麦まで食べるから種麦が米価の4倍まで高騰した。
鴨の河原には死体が散乱し、死臭が街中に漂い、盗賊が横行し、人々は
家を捨て難民となってさまよい、子を売り、妻を売った。
そんな地獄絵図が、寛喜3年の8月をピークに繰り広げられたのである。
執権北条泰時は、租税や課役を免除する徳政を命じたり、自分の分国で
ある伊豆・駿河で富民に米を放出させ、窮民の救済にあてたりして飢饉
に対応した。 また御家人の贅沢を禁じ、倹約を奨励した。
しかし天災にはなすすべもなく、正常な天候の回復を待つしかなかった
のである。



そのうちに死ねない時代生き地獄  笹百合子




     「平泰時小傳」  



「北条泰時の大岡裁き」


北条泰時には次のようなエピソードが『沙石集』にある。
九州のある地頭が、困窮のあまり所領を売ってしまったのだが、長男が
買い戻して父の知行地とした。
ところが父は、その所領を次男に譲ってしまったため、兄弟で争いにな
ってしまった。
兄は嫡子で幕府に奉公がある。弟は父の譲状を持っている。
どちらに「道理」があるのか?
法律の専門家は、「親子関係による譲渡に幕府は介入できないから弟に
分がある」という。
理屈としてはそうかも知れないのだが、泰時は御家人の兄を不憫に思い、
領主がいなくて生じた土地を与えたのである。
『御成敗式目』を定めた泰時としては「道理」が第一である。
しかし「情」を無視しては、御家人から信頼を得ることができないと
考えたのであろうか、北畠親房『神皇正統記』荒井白石『読史世論』
頼山陽『日本外史』などの歴史書は、北条家に批判的だが、この泰時に
対してだけは、公正で情け深い政治家ということで賞賛している。



手のひらで転がされたり転げたり  岡田良子



「悲しき父 執権・北条泰時」


仁治3年(1242)6月、北条泰時が亡くなった。
過労に赤痢を患ったことが原因であった。
当時の人々は隠岐に流された後鳥羽上皇の怨霊のせいだと噂したという。
泰時は頼朝の政治を踏襲しながら、合議制という政治システムを導入し
て北条政権を盤石なものにした功労者。
政治家としては、意欲に充ちていたであろうが、父親としては悲嘆に暮
れる日々であった。
安貞元年(1227)6月に泰時の次男、時実がわずか16歳の若さで
家人に殺害されている。
そして寛喜2年(1230)6月には、長男・時氏が28歳で病死。
「承久の乱」のときには、宇治川の激戦でともに戦い、いずれ執権職を
継がせようと思っていた愛息であった。
さらに8月、三浦泰村に嫁いでいた娘が出産で母子とも亡くなっている。
まさに悲しき父であった。



逢い別れ諸行無常の風の中  宮原せつ

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オムレツの卵ひとつが萎えている  前中知栄





                   政子の観音像


北条政子…と言えば、足利義政の正室・日野冨子、豊臣秀吉の側室・
淀殿と共に、「日本三大悪女」の一人として有名。
夫・頼朝の死後、政子に静かな後半生は用意されていなかった。
2人の娘はすでに亡く、嫡男・頼家を失い、最後に残った次男実朝まで
もが暗殺されてしまう。
しかも加害者は、日頃から目をかけていた孫の公暁である。
その悲しみは気も狂わんばかりであっただろう。
そこには「承久の乱」に際し、尼将軍として御家人たちを結束させた
政子の印象とはほど遠い。
最愛の子どもたちに、幸福な人生を与えることが出来なかったのが政子
の不幸であった。
 だがそれは、将軍の妻・母であった彼女の宿命だったのかもしれない。
そのような自責の念からか、晩年の政子は観音像を描くことを日課とし、
その絵は今も寿福寺に残されている。
こんな政子を悪女と呼ぶのは、心もとないのではないか。



削っても削っても大黒柱  森 廣子





                                                      鎌倉御所


「鎌倉殿の13人」 政子は悪女だったのか。




「尼将軍ー最後の大仕事」

その昔、謀反を企てた北条時政の後妻・牧の方にならったわけではない
だろうが、義時急死後、その後妻である伊賀の方が北条家に災難をもた
らした。
伊賀の方は、参議右中将・一条実雅を将軍にし実子・正村を執権にする
ことで兄・伊賀光宗が実権を握ろうと謀ったのである。
そのため彼女は、有力御家人である三浦義村を抱き込もうとした。
義村は正村の烏帽子親であり、娘が泰時に嫁いで離縁されたという関係
である。
この陰謀を知った政子は、深夜女房1人だけを連れて義村を訪ねた。
政子は東国の棟梁は、泰時意外にないと説き、
「陰謀に加わるか、泰時を助けて平穏をとるか、さぁどっちなんだ」
と詰め寄った。
この政子の恫喝に義村は恐れをなし、泰時に忠誠を誓ったのである。
政子は、伊賀の方を伊豆に幽閉すると、光宗を信濃、実雅を越前に配流
させた。伊賀氏による陰謀を未然に封じ、鎌倉幕府の急場を救ったこの
一件は、70歳に近い「老尼将軍の最後の大仕事」となったのである。


ばあさまになりはったけど髪薫る  井上一筒

「なんでかこれが悪女伝説」





                 伊賀の方と正村


「政子が伊賀の方の謀反をでっち上げた?」
牧の方の乱をまねたかのような伊賀の方の乱は、実は政子伊賀の方を
陥れるために仕組んだものという説がある。
伊賀の方の実家である伊賀氏の台頭を恐れたからだという。
但し、伊賀の方に押しのけられようとしていたはずの義時の長男・泰時
自身が、意外にも「伊賀の方の謀反を否定している」ということを、
どう判断するべきか、…何とも奇妙である。



乱闘がはじまりそうな酸味かな  吉松澄子

「亀の前事件」
政子が2人目の子を懐妊中に、女好きの頼朝は、亀の前という女性を愛
し、深い仲になってしまった。
これを知った嫉妬深い政子は大激怒し、亀の前の屋敷を破壊、さらに
亀の前を追放してしまった。
当時としては、子孫を残すことは、一家の繁栄維持に欠かせないこと、
すなわち、男が妾を持つことは普通のことだった……のだが。

誤作動の指が頭に喝を入れ  宇都宮かずこ





         頼朝・富士の裾野の巻狩り



「猪や鹿を射るより源範頼」

建久4年(1193)頼朝が富士裾野での巻狩りの折、曽我祐成時致
の兄弟(伊東祐親の孫)が裾野に建つ宿舎に忍び込み、工藤祐経を殺害
をした。「曾我兄弟の仇討ち事件」である。
その後、兄の祐成は仁田忠常に討ち取られたが、弟・時致は頼朝の宿舎
をめがけて憎しみの刃を向けてくる。
頼朝も臨戦の太刀を抜くが、大友能直が間に入ってことなきを得た。
だが、これを「頼朝も討たれた」と『保暦間記』が誤報したことから、
問題が起った。
このとき、政子の傍に控えていた頼朝の弟・範頼が、政子に
「兄が亡くなっても、私がいますからご安心ください」
と言葉を掛けた。鎌倉に戻って頼朝は、政子からこの言葉を聞き、
「範頼は自分の地位を狙っている」と、疑念を持った頼朝は範頼を追放
してしまった。
告げ口から政子が悪女だと決めつけるのは早計だが、範頼を嫌った政子
が彼を追い落とすために虚言を弄したという流言が真しやかに囁かれた。

洗濯ばさみ劣化サボテンだけ元気  藤本鈴菜

「比企氏討伐と頼家殺害」

頼朝死後、長男の頼家が2代将軍となった。
が、頼家の政治は独断専行で近臣の諫言も無視、また蹴鞠や遊興に没頭
し政務も疎かだった。
ために「鎌倉殿の13人」による合議制により実権を取り上げられた。
また頼家は、母・政子よりも、父・時政よりも、妻の実家の比企氏と親
密な交わりをした。
そして頼家が病床の折、頼家・比企能員と妻の3人が「鎌倉を我が物に」
とする謀議を、政子は、廊下の通りすがりの障子の隙間から耳にする。
政子はこの大変な裏切りの密談を父・時政に通報した。
鎌倉安寧を願う時政は、比企能員を自邸に招き謀殺してしまうのである。
頼家は政子の告げ口により出家させられ、伊豆の修善寺に幽閉された。
やがて頼家は、誰がしむけたか闇の手によって殺害される。
彼女の悪女説は、比企氏の陰謀の通報から頼家殺害まで、政子が関わっ
ていた中心人物だというのである。



いつの間に担ぎ出されたど真ん中  津田照子



「北条政子を振り返る」 政子善人説





政子の遺品
政子の櫛


承久の乱から4年後、政子は嘉禄元年(1225)7月に病没。
69歳だった。弟の義時は、この前年の6月に62歳で没している。
仲の良い姉弟だったことを伺うように、政子は一年後に義時を追い逝っ
たのである。
数年前、政子の遺品として鎌倉の永福寺から、政子が身につけていた思
われるものが発掘された。
掘り出された「経筒」は一緒に女ものの櫛や数珠が発掘されたことから、
政子が埋めた可能性があると考えられている。(鎌倉国宝館保管)


昨日迄二人だったが今一人  下林正夫










「母なる政子」

政子は、弱い立場にいる女性や子どもに優しさを向け、一族の繋がりを
大切にする家族観を持っていたという。
ある時、娘の大姫の許嫁である志水の冠者・義高が殺されるといいう事
件が起った。
頼朝と朝廷よりの義仲の関係が悪化し、義仲は頼朝の鎌倉軍に滅ぼされ
てしまう。
義高は木曽義仲の息子だったため、反乱の芽を摘み取る意味で、頼朝は、
義高を殺そうと配下を差し向けるのたが、義高の危機を察知した政子は
義高を館から逃がしてやった。
結局、義高は殺されてしまうが、政子にとって義高は政敵の息子ではなく、
まず娘の許嫁で家族の一員だったのだ。

ゆっくりとほどこう母の糸車   山口ろっぱ

「こころ優しき政子」
また、義経に対する純粋な愛を舞にした静御前頼朝が叱責したとき、
公然と異を唱え、守ろうとしたことや、息子頼家が死んだ後、その子ど
もたちを頼家の弟・実朝の養子扱いしたことからも政子の優しさや家族
観はうかがえる。
もともと家族が強い絆を持って生活する東国で、政子にとっては幕府と
主従関係にある御家人たちもまた、家族の一員だったのだ。
鎌倉幕府の危機を救ったあの演説は、母として政子が息子・御家人たち
に向けた言葉だったにちがいない。

マイナンバーをわたくしの戒名に  靏田寿子  




[政子の直筆の手紙 (政子から文覚の弟子・上覚への返書)
男まさりの政子の性格がうかがえる堂々たる筆跡である。

神護寺には頼朝ゆかりの寺として知られ、頼朝の肖像画などのほかに、
政子の唯一の直筆といわれる手紙が所蔵されている。
「親が子に先立たれるというのは無情の世のならいですが、
 それでも母としては、慰められようもないほど嘆きは深いのです」
と記されている。

独り言もう言わないと独り言  掛川徹明



「政子の心根」
平家との戦を進める木曽義仲は、息子の志水冠者義高を人質として鎌倉
に送ってきた。頼朝は義高を大姫の婚約者に定めた。
寿永二年(1183)だから義仲の子・義高追討の前年のことである。
 義高11歳、大姫6歳のころであった。
ところが、頼朝と義仲は対立し、義仲が討ち死にすると、ほどなく頼朝
は義高を斬首した。
大姫は、子供心に大きな傷を負った。
大姫は義高の死以来、日ごとに憔悴し、その傷は20歳で世を去るまで
癒えることがなかった。
娘を失った政子の下に上覚上人からお悔やみ状が送られ、
それに対してゆれ動く母親の嘆きを吐露した手紙が上記の本状である。

あの世でもこの世でもない沖にいる  徳永政二





鎌倉・扇ガ谷の寿福寺にある政子の地蔵
鎌倉五山の一つとして知られる寿福寺は、正治2年(1200)に政子
僧の栄西を招き、この前年に死去した頼朝の冥福を祈って創建した臨済宗
寺院である。
願成就院の地蔵菩薩坐像は「北条政子地蔵」と呼ばれ、政子の七回忌の折、
三代執権・北条泰時が奉納したものと伝えられる。


ぬかるみに咲いて奇麗な蓮の花  通利一遍

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