- 2025/09/28
- Category : ポエム&川柳
蔦屋重三郎ー山東京伝の粋
捨てられた男の会の幹事長 井上一筒
山 東 京 伝 の た ば こ 店
店の右奥で煙管を吹いている京伝は、吉原の名高い遊女花扇と話している。
左側には当代の人気役者、三代目・瀬川菊之丞、三代目・沢村宗十郎、三代目
市川八百蔵が客として訪れてている。
「生まれは深川 妻は吉原遊女」
山東京伝の生まれは深川木場である。現在の江東区の木場には面影は何ひとつ
ないが、当時はその名の通り木材置き場であった。ここで働く川並鳶は、水難
事故で命を落しても身元がわかるようにと、背中に「深川彫り」を入れていた。
ないが、当時はその名の通り木材置き場であった。ここで働く川並鳶は、水難
事故で命を落しても身元がわかるようにと、背中に「深川彫り」を入れていた。
神田の火消しに、川並の鳶。粋で鯔背な職人の代表だ。
周辺には、材木問屋が軒を並べ、豪商達は深川の料亭や花街で金に糸目をつけ
ずに派手に遊び倒す。そこにいるのは深川の芸者通称辰巳芸者だ。
ずに派手に遊び倒す。そこにいるのは深川の芸者通称辰巳芸者だ。
男物の羽織で源氏名も男の名を使う。そして何より気風がいい。
粋で鯔背な深川の職人たちと、豪商たちの通名遊びを見て育っている京伝は、
息を吐くように「粋」を戯作に書き連ねた。
息を吐くように「粋」を戯作に書き連ねた。
優しさが売り物になる男たち 菱木誠
「定信の統制時代の京伝」
京伝はいくつかの教養的な黄表紙を既に手がけていた。
しかし、洒落と穿ちが売りの黄表紙に、倫理的道徳を説く物語りを書くなどと
いう野暮は、江戸っ子の京伝にとって屈辱であった。
いう野暮は、江戸っ子の京伝にとって屈辱であった。
ならば、戯作以外で粋を追求しようと開店したのが「たばこ店」だ。
江戸の一等地である京橋は、現在の銀座一丁目、父親に店を任せつつ作家活動
を続けた。京伝は、「自分は店を持っていて、稿料のほかに収入があるので、
版元からの依頼を断ることができる」と述べている。
を続けた。京伝は、「自分は店を持っていて、稿料のほかに収入があるので、
版元からの依頼を断ることができる」と述べている。
野暮な本を書くくらいなら、自分が監修デザインの喫煙道具店をやっているほ
うが良い、京伝なりの、統制に迎合しようとするメディアへの張りであった。
うが良い、京伝なりの、統制に迎合しようとするメディアへの張りであった。
男ってしょせんメッキとかぐや姫 北出北朗
蔦屋重三郎ー山東京伝のドライ
『心 学 早 染 草』 (山東京伝作)(東京都立図書館)
板元たちが「もう書かない」という京伝に、無理に執筆を依頼しているのは、
作家不足のほかにも理由があった。京伝が書いた『心学早染草』の存在だ。
寛政2 (1790) 年に、大和田安兵衛を版元として出版された『心学早染草』は、
心学講釈の流行に当て込んだ教訓色の強い黄表紙である。
人間の心にある苦い心と悪い心を、善玉悪玉というキャラクターで表現した。
鉛筆が走るひらめき追いかけて 荻野浩子
松平定信の文武奨励は、実のところ庶民たちにも影響を与えていた。
教育が大衆にも開かれたことで、大人向けの学門所ができ、中でも、京都の石
田梅岩が唱えた実践道徳の心学がなぜか流行り始めたのだ。
田梅岩が唱えた実践道徳の心学がなぜか流行り始めたのだ。
江戸の人々はメディアが統制されていく中、押し付けられた政策でさえもエン
タメに変えていたのだ。
タメに変えていたのだ。
(善玉悪玉は評判を呼んだ。本は飛ぶように売れ、同じ「心学もの」
の本があちこちで書かれた。が、当時の日本には著作権はない)
正論を叫ぶ鉛筆振り立てて 宮井元伸
「堪 忍 袋 緒 〆 善 玉」 (東京都立中央図書館蔵)
寛政5年刊。冒頭に蔦重の訪問を受けた京伝宅の様子を描く。蔦重にお茶を
出しているのは、吉原扇屋の遊女だった菊園で、身請けされて今では京伝の
新妻お菊である。大好評の悪玉・善玉ものとはいえ、3作目で気乗りしない
作者に対して、蔦重は「いま一番先生のお株の悪玉の願わねばならぬ」と
引き下がりそうもない。
当然、蔦重もこの流行を逃すはずがなく、市場通笑に進学を題材とした『即席
耳学問』の版木を買い取った。
蔦重は京伝に『心学早染草』の続編『人間一生胸算用』を書かせ、これが好評
につき『堪忍袋緒〆の善玉』も依頼した。
耳学問』の版木を買い取った。
蔦重は京伝に『心学早染草』の続編『人間一生胸算用』を書かせ、これが好評
につき『堪忍袋緒〆の善玉』も依頼した。
「先の二冊はえらい評判。この調子で三段目行きましょう」
「いやもう、二番煎じならぬ三番煎じじゃ世間も飽きたからもう書け
ない」
「そんなこと言って先生、世間の評判がまだ高いのを知らないんですかぃ。
大丈夫、まだまだいける、先生ならいける」
といったようなやり取りがあったらしく『堪忍袋緒〆善玉』の冒頭で京伝が
ぼやいている。
月の裏くらいは描ける3H くんじろう
京伝がぼやくのも当然で、これまで廓を舞台にした男女のあれこれを洒落本に
書いておいて「廓遊びなどしてはなりません」と、どの口が言うのか、という
思いが、京伝にもあっただろう。 市場通笑は、
書いておいて「廓遊びなどしてはなりません」と、どの口が言うのか、という
思いが、京伝にもあっただろう。 市場通笑は、
『即席耳学問』の序文で「礼の教訓異見のうっとうしいも随分承知之助と版元
のほうからしゃれかけるを、どっこいそこを、虎の皮千里を走る大ぼやむきの
趣向」と述べている。
のほうからしゃれかけるを、どっこいそこを、虎の皮千里を走る大ぼやむきの
趣向」と述べている。
蔦重は、心学黄表紙を「うっとうしい」、つまり野暮を承知の上で出した。
吉原出自の耕書堂が心学を説くこと自体が、洒落だというのだ。
ペンケースの中でワタシを取り戻す 山本早苗
「 娼妓絹篩」(しょうぎきぬぶるい) (作画山東京伝)
洒落本「将棋定石の書『将棋絹籭』を捩り吉原を将棋の局面となぞらえている。
京伝はその洒落に乗り切れず、野暮になりきることも出来ずに「教訓黄表紙」
の執筆を続けるも、独自の穿ちは、ついぞ見ることはなかった。
の執筆を続けるも、独自の穿ちは、ついぞ見ることはなかった。
(京伝美学の戯作への投影は、寛政11 (1790) 年の読本『忠臣水滸伝』まで
待たねばならない。蔦屋版心学シリーズの4作目『四遍摺心学草子』は馬琴が
書いた。馬琴にとって教訓本は何の苦もなかったようで、
書いた。馬琴にとって教訓本は何の苦もなかったようで、
後に「この頃耕書堂の主人、余にその四遍を求む」と誇らしげに記している)
「べらぼう37話 あらすじちょいかみ」
幕府の改革は着々と進行しています。
定信は、倹約の徹底を大奥にまで及ぼし、さらに債務を帳消しにする棄捐令
を強行。そして、中洲の遊郭取り壊しにも着手し、江戸の華やぎを揺るがし
ていきます。贅沢を許さない冷徹な方針は、町人の暮らしにも及び、吉原は
存亡の危機に追い込まれていきました。
を強行。そして、中洲の遊郭取り壊しにも着手し、江戸の華やぎを揺るがし
ていきます。贅沢を許さない冷徹な方針は、町人の暮らしにも及び、吉原は
存亡の危機に追い込まれていきました。
吉原のため、そして、文化の火を絶やさぬため、蔦重はふたたび立ちあがり
ます。政演、歌麿に新しい企画を依頼し、江戸の町を明るくする一冊を世に
出そうと決意するのです。
ます。政演、歌麿に新しい企画を依頼し、江戸の町を明るくする一冊を世に
出そうと決意するのです。
(しかしその場にいたていが、女性の視点から反論をぶつけます)
華やかな花弁の奥は地獄かも 島田酪舟
一方、松平定信は大奥にも倹約すべしとの方向性を示します。
定信は、経費を三分の一に減らすことを決行します。
この頃大奥の経費は、幕府の蓄財の4分の1から5分の1である年間20万両。
将軍家斉の乳母・大崎、家斉の側室お万の叔母・高橋を含む大臈御年寄8人中
5人を解任しました。
5人を解任しました。
また、借金を抱える旗本や御家人を救済するため、札差しに、債務放棄などを
させる棄損令を発動し、中洲の取り壊しを実行します。
させる棄損令を発動し、中洲の取り壊しを実行します。
つまんで引っ張って引っ張ってつまむ 雨森茂喜
「日 本 橋 中 洲」
「日本橋中洲」
葦の繁る中洲は明和8年(1771) 8月、大伝馬町名主の馬込勘解由により、
伝馬助成地として浜町と地続きに9千坪が埋め立てられた。
地固めをするために認可した水茶屋から発展して、湯屋3軒、茶屋93軒、
料理屋などが建ち並び一大歓楽街となり賑わっていた。
料理屋などが建ち並び一大歓楽街となり賑わっていた。
しかし、質素倹約を唱える松平定信の寛政の改革で、取り壊され元の葦原の
浅瀬に戻された。掘り返した土砂は墨田川土手堤の盛土に利用した。
浅瀬に戻された。掘り返した土砂は墨田川土手堤の盛土に利用した。
江戸三俣付近に二十年弱存在していたウォーターフロントの歓楽街。
東京都中央区・日本橋地域の南東に位置し、清洲橋の西詰めに当たります。
埋め立てによってできた人工の島でしたが、寛政元 (1789 ) 年に、取り壊
されました。「月見の名所」として有名で、舟遊びなどで賑わいます。
されました。「月見の名所」として有名で、舟遊びなどで賑わいます。
万治2 (1695) 年、吉原の遊女・高尾太夫が、中洲近くの船上で吊り斬りに
され、遺体が北新堀河岸に漂着し、高尾稲荷に祀られたという逸話が残って
います。
過去なんて問わぬ土竜の一頻り 岸井ふさゑ
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