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川柳的逍遥 人の世の一家言
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人脈の端に片足乗っけてる  谷垣郁郎

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平徳子(国立国会図書館)

(画像をクリックすれば大きく見れます)

「徳子の入内」

承安元年(1171)12月、

清盛時子の間に生まれた娘・徳子を、

高倉天皇のもとに入内させた。

徳子の母・時子と高倉の母・建春門院(平滋子)は、

姉妹だから、いとこ同士の婚姻である。

徳子の入内に大きな役割を果たしたのが、

高倉天皇の母・建春門院である。

ひらがなで話すと流れだす小川  和田洋子

この背景には、後白河院と清盛の対立が、

深刻になっていたことが関係している。

後白河院は院政を継続するため、

まもなく成人を迎える高倉天皇を退位させ、

「幼い皇子を即位させよう」としていた可能性がある。

それに対して、

清盛は平氏を中心とした政治体制を目指しており、

そのためには、

中核となる「高倉天皇の王権を強化」する必要があった。

あの屋根を越えたいのですしゃぼん玉  三村一子

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そこで高倉天皇の母である建春門院の協力を得て、

実施させたのが「徳子の入内」である。

徳子の入内は、

高村天皇の周辺を強化したい清盛と、

建春門院の連携により行われた。

さらに徳子の入内は、

平氏にとって、天皇家との結びつきを強化し

大臣家としての家格を安定させる目的があった。

陽の方へせめて向かむと花の首  前岡由美子

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京都東山にある新熊野神社

熊野参詣が好きな後白河院は、

この地に熊野の神を勧請して、神社を創建した。


「高倉の母・建春門院滋子」

建春門院こと滋子は、平時信の娘、

清盛の妻・時子や時忠とは、異母兄弟である。

もとは、後白河院の姉・上西門院統子に仕える女房で、

小弁(しょうべん)と呼ばれていた。

その関係から後白河院の寵愛をうけ、

応保元年(1161)に、憲仁親王(高倉天皇)を産んでいる。

袖口の緩んだこれからの時間  河村啓子

仁安3年(1168)高倉天皇の即位により、

皇太后に冊立、

嘉応元年(1169)に、院号宣下を受け女院となっていた。

清盛と同じ平氏とはいっても、

時子や滋子が属した平氏は武士ではなく、

代々摂関家の家司を務める公卿で、

故実に通じた貴族であった。

きぬぎぬの別れは死語となりました  高原まさし

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後白河院は、生涯で34回も熊野参詣に行っているが、

建春門院もそれに何度か同道している。

また福原における「千僧供養」にも、

後白河院は建春門院を伴っており、

後白河院が建春門院を、

非常に寵愛していたことがわかる。

逮捕状なしであんたを逮捕する  井上一筒

建春門院については『たまきはる』(藤原定家の姉健寿御前)に、

何事にも几帳面で、周囲への細やかな

気配りを欠かさないなど、その聡明な人柄が記されている。

また、建春門院のもとに初めて出仕し、

対面を果たした健寿御前は、

「この世の中には、こんなに美しい人がいるのかと思った」

と記している。

また、建春門院は後白河院が熊野詣でなどで不在の時に、

政務運営の代行機能を果たしていたといわれ、

通常時にも政務運営に参加していたと推測される。

≪『たまきはる』にも、建春門院が

  「政治において思いのままにならないことは、何もなかった」

   と記されている≫


お日さまの笑顔一億万ボルト  新家完司  

建春門院が、このような人物であったからこそ、

政治的に対立を深めつつあった清盛と、

後白河院の間に立って、

両者を仲介する役割を果たすことができたのであろう。

清盛にとって建春門院は、

後白河院との関係維持のため、

欠かすことのできない貴重な存在であった。

七色のフェイント入れた薬箱  桂 昌月

高倉の即位のため提携し、即位後は協調して、

政治を進めてきた後白河と清盛であったが、

諸権限をめぐって次第に対立を深めていた。

しかし、建春門院が両者の間に立って、

政治的に仲介する役割を果たしていたため、

なんとか協調関係は維持されていた。

そんな中、安元2年(1176)6月初旬頃から、

建春門院の体調不安が伝えられる。

人脈の真ん中へんに落ちがある  立蔵信子

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断崖の横で青空落語会  森 茂俊

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平家物語絵巻「殿下乗合事件」

「平重盛」

重盛は冷静沈着で用心深く、

人望も厚いうえ武勇にもすぐれており、

平治の乱における
悪源太義平との一騎打ちは、

後々までの語り草になった。


ドンキホーテになる才能は持っている  内藤洋子

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    平重盛

一般に『平家物語』重盛は評判が悪い。

つねに、聖人君子のように振る舞い、

清盛の横暴をいさめる役どころが鼻につくらしい。

特に有名なのが「鹿ケ谷事件」への対応だ。

法皇を幽閉しようとする清盛に対して、

その不忠をいさめ、

「君(法皇)に忠義をつくせば父への恩を忘れ、

  父への不孝から逃れようと思えば、

  君に背く逆臣となってしまいます。


  進退は極まりました。

  もはや私の首をお取りいただくしかありません」


と言って清盛を追い詰める。

うつぶせの空の左胸の勇気  酒井かがり

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頼みとする嫡男の懇願に、

さしも横暴な清盛も、

自分の非を認めて、ほこを収めるという筋立てだ。

それでもいっこうに改まらない清盛の「悪逆」を,

見かねた重盛は、

熊野に参詣し、自らの命を縮めてくれるよう祈願する。

はたして、帰京後いくほどもなく重盛は、

病の床についたが、あえて治療はしなかった。

切り口は緯度か経度か今日の玉葱  井上しのぶ

事情をしらない清盛は、宋の名医を派遣しようとしたが、

重盛は

「異国の医師を都へ入れるのは国の恥。

  もし医術によって回復すれば、

  わが国には医道がないのも同然になってしまう」


と言って診察を拒んだ。

最終兵器かかえて仏間から出ない  高橋 蘭

清盛は、

「これほど国の恥を思う大臣は昔も聞いた事がない」

と言って感心したという。

≪これは、重盛の聖人君子ぶりを強調することで、

清盛の無定見や、横暴を際立たせようとする『平家物語』の

常とう手段である≫


靴下を巻毛の中へ隠す音  井上一筒

しかし、このような重盛像は、

まったくの虚像かというとそうではない。

同時代の高僧慈円が著した『愚管抄』では、

「小松内府ハ イミジク心ウルハシクテ」

と述べられており、

誠実で立派な人柄であったことは広く知られていた。

≪鎌倉後期成立の歴史書『百錬抄』にも、

「武勇は人にすぐれているが、心ばえはとても穏やかである」

とあり、温厚・誠実な人であったことを裏付けている≫


仰ぎ見よ一旦カニの手を止めよ  きゅういち

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少年少女のための道徳的説話集である『十訓抄』にも、

重盛の用心深さを語る逸話がある。

あるとき、重盛は「賀茂祭」を見るために、

車を四、五両したてて一条大路にくりだした。

ところが、すでに見物の牛車は、

沿道にすきまなく立て並べられている。

人々は、

「いったいどの車がどかされるのだどうか」

とハラハラしながら見ていた。

ボーリング球の自由は拭きとられ  湊 圭史

すると重盛は、見物によさそうな場所に立っていた車を、

引きのけ始めた。

よく見ると、その車には誰も乗っていない。

人に迷惑をかけないよう、

あらかじめ無人の車をおいておいたのだった。

≪『源氏物語』で六条御息所が、

光源氏の正妻である葵上と車争いをして、

はずかしめを受け生霊となった昔話を教訓にしたのである≫


モニターをにっこり天使横切った  山田ゆみ葉

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雲占い「今日は出るな」というお告げ  新家完司

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奈良絵本「平家物語絵巻」・殿上乗合事件

(画面をクリックすれば拡大されます)


「殿下乗合事件」

嘉応2年(1170)7月3日、

重盛の次男で13歳の資盛は、雪がまばらに降る中を、

若い侍30騎ばかりを連れて、鷹狩りに出かけた。

蓮台野や紫野で一日中狩りを楽しみ、

夕方になって、六波羅に帰ってきた資盛一行は、

大炊御門猪熊で参内途中の摂政・藤原基房

行列とであった。

いい顔をした時ふっと眼があった  松田俊彦

本来、貴族社会では身分の高い人に会ったとき、

下位の者が馬から降りて、礼をしなくてはいけない。

基房の従者たちは、

下馬の礼をとらない資盛一行の無礼を

とがめたが、平家の権勢をバックにおごり高ぶっていた

資盛の供の侍は、下馬するどころか、

行列をかけ破って、通りぬけようとした。

にんげんが小さい視野が狭過ぎる  内藤光枝

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怒った基房の従者たちは、あたりが暗かったこともあり、

まさか清盛の孫とも思わずに、

資盛をはじめ、供の侍たちを馬から引きずりおろし、

さんざんに辱しめた。

ほうほうの体で六波羅に逃げ帰った資盛は、

このことを祖父清盛に訴えた。

清盛は大いに怒り、

「いかに摂政といえども清盛の身内にこのような

  恥辱をお与えるとは許せぬ、他人にも見くびられるぞ」


と基房への報復を口にする。

プライドの高い鯨で臆病で  中村幸彦

しかし重盛は、

「そもそも下馬の礼をとらない資盛に非がある

  のだから、かえってこちらが謝りたいくらいだ」


と諌めた。

だが、重盛の諌言にも、清盛の怒りはおさまらない。

清盛は重盛に内緒で、難波経遠、瀬尾兼康をはじめ、

60余人の侍を集めて、基房への報復を命じる。

五百羅漢を伊勢えびのヒゲに吊る  井上一筒

そして事件から5日後、

完全武装した300余騎の六波羅兵は、

参内途中の基房一行を猪熊堀河辺で、

襲撃したのだった。

武者たちは逃げまどう従者たちを、

馬から引きずり落して乱暴したうえに

「お前の髻(もとどり)と思うな、主の髻だと思え」

といいながら、ことごとく髻を切り落した。

※ 髻=髪の毛を頭の上で結ったもの

真っ白になったとこまで覚えてる  喜多川やとみ

そして基房の牛車にまで弓を突きいれ、

簾を落すなどの狼藉を加えると、

兵たちは喜びの鬨をあげて、

六波羅に引きあげていった。

基房は参内することもできず泣く泣く邸へ帰ったという。

臣下として初めて摂政となった藤原良房以来このかた、

摂政関白がこのような目にあったのは、

初めてのことであり、

これこそ「平家の悪行のはじめ」であった。

人を憎めば河原の石もなま臭い  森中惠美子

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このことを知った重盛は大いに驚き、

関係した侍たちを罰した。

加えて、資盛に対して、

「このような無礼な振る舞いをして、

入道の悪名を立たせるとは、不孝のいたりである」


といって、資盛を伊勢国に下して謹慎させたので、

人々は大いに感心したという。

未来地図なぞって消して行く微罪  上田 仁

「実際は報復を命じたのは重盛だった」

・・・・物語がいうように、

資盛一行と基地房の行列が路上で鉢合わせして

乱闘におよんだのは事実だが、その後の経過はかなり違う。

実際に基房への報復を命じたのは清盛ではなく、

重盛自身だったのである。


当時の記録によると、

事件の経過は次のようなものだった。

すごすごと帰る胸部診断車  酒井かがり

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      藤原基房

その日(7月3日)は法勝寺の法華八講の初日で、

基房は法勝寺に参る途中だった。

そこで基房の行列は、女車に乗った資盛と出会った。

基房の従者は資盛の無礼をとがめ、

車をうち破るなどの恥辱を与えた。

それが重盛の子であることを知って、慌てた基房は、

乱暴を働いた従者を重盛に引き渡し、

勘当することで事件をおさめようとした。

恐縮しわびを入れたのはむしろ、

摂政基房の方だったのだ。

しゃべったのはペン僕は眠ってた  和田洋子

しかし、重盛はその従者たちを追い返した。

「その程度の謝罪では許さないぞ」

という重盛の無言の恫喝である。

震えあがった基房は、さらに多くの従者を勘当したり、

検非違使に引き渡したりして処罰した。

それでも重盛の怒りはおさまらない。

脱け殻もやっぱり怒り肩でした  山本早苗

7月16日には、二条京極に武者が集まって、

車を待ち受けているとの情報が入ったため、

基房は予定していた法成寺への参詣を中止している。

基房は外出もままならず、

おろおろと数ヶ月を過すばかりであったが、

3ヶ月後の10月21日、ついに事件は起こる。

預かっていたのは傷ついた夕陽  太田芙美代

基房が高倉天皇の元服の打ち合わせのために、

参内しようとしたところを重盛配下の武士達が襲撃し、

前駈5人が馬から引きずり落とされ、

4人が髻を切られたのである。

当時の社会において、

髻を切られるというのは、このうえない恥辱であったから、

基房を徹底的に辱しめようとする、

重盛のねらいは明らかだった。

小数点以下をしばらく泳ぎます  中 博司

この襲撃事件によって、基房の参内は中止され、

天皇の元服の打ち合わせは延期された。

24日には重盛、基房がともに参内したが、

この時は、重盛の方が報復を恐れて、

多数の武士を引き連れていたという。

基房は重盛によって、

泣き寝入りさせられたかたちとなってしまった。

取り巻きを連れてあんたの寂しがり  美馬りゅうこ

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駄菓子屋で買う 小銃と血の匂い  井上一筒

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   義朝の刃

「裏目に出た配慮」

清盛が太政大臣となり、平氏一門が繁栄を極める最中、

明暗を分けるように没落した一族がいた。

源氏である。

平治の乱後、河内源氏の棟梁・義朝は、

東国への撤退中に裏切りにあい横死。

次男・朝長もその道中に死んだ。

悪源太の異名を持つ期待の長男・義平は、

清盛暗殺に失敗して処刑されてしまう。

直線の右と左に生と死と  徳山泰子

源氏は壊滅に等しい打撃を受けたが、

しかし、血筋がすべて絶えたわけではなかった。

平治の乱に出陣した義朝の三男・頼朝は、

撤退中に捕らえられて清盛の前に引き立てられた。

その時、清盛の継母・池禅尼が、

「亡くなった家盛と容貌が似ている」

と命乞いをした。

逞しく育つ若木を見届ける  杉谷佳子

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周囲は頼朝の処刑を、当然と見なしていたが、

驚くべきことに、清盛は池禅尼の乞いを容れ、

頼朝の処分を伊豆配流にとどめたのである。

助けられたのは、頼朝だけではなかった。

義朝が愛妾・常盤御前との間に授かった、

今若、乙若、牛若(後の義経)の三人も、

仏門に入ることを条件に、清盛から助命されたのである。

≪なお、清盛は常盤御前が自身の愛妾になることを条件に、

   三人を助命したと巷間言われるが、忠実かどうかは分らない≫


オリオン座今日はあなたに預けとく  森田律子

「悪人」のレッテルを貼られてきた清盛であるが、

決して冷血な人物ではなく、

むしろ寛大であり、

敵対勢力を徹底的に叩き潰すようなことはしなかった。

それを示すかのように、

その後も源氏に配慮を怠らず、

平治の乱でともに戦った摂津源氏・源頼政を、

三位に推挙している。

ドクダミのじっと耐えている白さ  赤松ますみ

その際、

「源平はわが国の固め。

 平氏は朝恩が一族にいきわたっているが、

 源氏の勇士は逆賊(藤原信頼)に与して罰をうけており、

 その中で頼政のみが、勇名を轟かせている。

 紫綬の恩を授けてほしい」


と奏上しており、「源氏の勇士」という言葉からは、

源氏への敬意すら感じられる。

≪そこには源平の無用な戦を避けようとする意図が汲み取れる≫

脱皮した蝉の抜け殻にも拍手  新家完司

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ところが、清盛の配慮は裏目に出る。

治承3年(1179)、清盛が後白河院の院政を停止すると、

頼政は清盛に徐々に反発を抱く。

さらに翌4年(1180)

清盛の後押しで安徳天皇が即位すると、

頼政はそれによって、

皇位が絶望となった以仁王(後白河院の第三子)とともに

打倒平氏の計画を立て始めた。

反省をすぐに忘れる猫の鼻  中村登美子

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かくして同年4月、以仁王は頼政の進言を受け、

全国に雌伏する源氏に「打倒平氏」の令旨を発する。

清盛はこの動きを察知して、

二人の挙兵を短時間で鎮圧するが、

発せられた令旨によって、

反乱は、燎原の火の如く全国に広がることとなる。

そして、平家追討の中心となったのが、頼朝と義経であった。

皮肉な事に、打倒平氏の狼煙を挙げ、

それを成したのは、いずれも、

清盛が救いの手を差し伸べた人物だったのである。

一年に一度石を拾って恐くなる  蟹口和枝

拍手[3回]

赤黒いもの躙りよる華氏3度  井上一筒

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     大輪田泊

「出家して福原に居住する清盛」


清盛は、仁安3年(1168)に出家した後、

基本的には摂津国福原に移り住み、

京にはほとんど滞在しなかった。

福原が選ばれたのは、

近くに瀬戸内海交通の要所、

大輪田泊があったことによる。

流れ星きっと引退する星だ  星井ごろう

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清盛が福原に住むようになった理由は、

貿易に専念するためとも、

後白河院との対立が深まる中で、

距離をとろうとしたともいわれる。

最近、清盛と福原の関係を権門都市という位置づけで、

かんがえられている。


≪権門都市」とは、摂関家にとっての宇治、王家にとっての、

  鳥羽や白河のように公的地位を退いた権門の家長が、

   自由な活動を行う拠点のことである≫


三叉路の今日は左に折れてみる  合田瑠美子

「西八条邸は、現在の京都市下京区、梅小路公園あたりである」

ちなみに、清盛の妻・時子は京の西八条邸に住まい、

清盛が福原から上洛した際は、ここに滞在している。

ちなみに当時この邸宅は、

清盛でなく時子の邸宅と認識されていた。

こうして清盛が福原に居住するようになったことで

福原周辺の開発が一気に進み、

「福原遷都」に繋がる素地ができあがっていった。

縁から縁へ結び目は堅い  瀬川瑞紀

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また、福原では春と秋の2回千僧供養が行われ、

後白河院は、高倉天皇の母・滋子を連れて、

たびたび福原を訪れている。

清盛が千僧供養を行ったのは、

海上交通の安全を祈願するだけではなく、

主要な寺院の高僧を自在に動員できる上に、

仏教界の支配者であるということを、

アピールすることにあった。

そこに、後白河院が列席するというのは、

清盛と後白河院の緊密な連携を象徴する儀式であった。

晩年が涙あつめて会いにくる  河村啓子

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「後白河院と清盛の協調関係にほころび」

後白河院清盛は、高倉天皇の即位を目的に、

提携関係を結び、即位を実現させた。

しかし、清盛は、

「平氏一門の発展、大臣家としての家格の安定」 を、

後白河院は「院政の強化」を目指していた。

両者の間には提携関係が結ばれた当初から、

政治構想において、大きな隔たりが生じていた。

さらに、清盛は、院近臣との間にも対立を深めていた。

後白河院政の発展による院近臣たちの地位上昇は、

現在の平氏の地位を脅かしかねないからだ。

万匹の狸一匹連れ帰る  黒田忠昭

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院の専制強化を阻止しようとする清盛は、

院の重要な権限の一つである人事へ介入している。

具体的には、「除目」への介入である。

白河院による院政の開始以来、摂関の任免など、

人を左右して政治を主導してきたため、

人事権は院の持つ権限の中でも

特に重要なものであった。

頭平信範は、除目叙位などを伝える使者として

清盛邸に「両度往反」したとあり、

清盛が人事に対して、納得するまで

調整させていたことがうかがえる。

≪なお、これが行われたのは高倉天皇即位以前のことで、

  提携関係が結ばれた直後から、

  清盛と後白河院の間にあった緊張関係を物語っている≫


黄河へ流すぞとたこ焼きをおどす  森 茂俊  

「強訴をめぐる後白河院と清盛の駆け引き」


嘉応元年(1169)12月、尾張守の目代・藤原政友

平野神人との間に起きた争いが発端となり、

延暦寺の衆徒らが、神輿を担いで入洛し、

尾張国の知行国主成親の解官・配流を要求してきた。

衆徒らの上洛が迫ると、

朝廷側もこれを防御するための武士を派遣し、

今回も平氏に動員が要請された。

青い星赤い戦火が止まらない  早泉早人

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しかし、平氏軍制の中心にあった重盛は動かず、

その結果、後白河院は衆徒らの要求に屈して、

成親は配流となってしまった。

けれど、後白河院はすぐに成親を配流先から呼び戻し、

かわりに、この件で後白河院へ取次ぎを行ったにすぎない

平時忠平信範を解官・流罪とした。

これに対して、衆徒等が再度強訴の構えをみせると、

清盛の命により、重盛・頼盛は福原に下向している。

≪両人の福原下向は、平氏が強訴の防御に協力しないことを

無言でアピールしていた≫


煮て焼いて振り掛けにする言い掛かり  岩根彰子

さらに、福原に居を移して以来、

めったなことでは上洛しなかった清盛がとうとう上洛した。

すると後白河院は態度を変えて再び成親を配流とし、

平時忠と平信範は呼び戻された。

以上が、嘉応元年に起きた「延暦寺の強訴」をめぐる清盛と

後白河院の駆け引きである。

なぜ重盛は、義兄にあたる成親を救うために、

動かなかったのだろうか。

鉛筆を曲げてかじって壊す癖  伊庭日出樹

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重盛が後白河院の動員要請に応じなかった背景には、

平氏一門内の複雑な事情があった。

重盛は平氏一門の中でも、後白河院に近い立場にあった。

しかし、父・清盛はというと、

後白河と政治的に協調関係にあるものの

院政の専制強化を警戒し、院近臣にも反感を抱いていたため、

その救済には非協力的だったのだ。

正確に言うと、重盛は動かなかったのではなく、

成親救済に動けなかったのである。

綿菓子の円運動は搾取の図  一階八斗醁

後白河の要請よりも、

清盛の指示が優先されたことからも明らかなように、

両者が協調関係にありながら、

諸権限において対立していたことがわかる。

自分にはごめんと言える燗冷まし  杉野恭子

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