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川柳的逍遥 人の世の一家言
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赤黒いもの躙りよる華氏3度  井上一筒

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     大輪田泊

「出家して福原に居住する清盛」


清盛は、仁安3年(1168)に出家した後、

基本的には摂津国福原に移り住み、

京にはほとんど滞在しなかった。

福原が選ばれたのは、

近くに瀬戸内海交通の要所、

大輪田泊があったことによる。

流れ星きっと引退する星だ  星井ごろう

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清盛が福原に住むようになった理由は、

貿易に専念するためとも、

後白河院との対立が深まる中で、

距離をとろうとしたともいわれる。

最近、清盛と福原の関係を権門都市という位置づけで、

かんがえられている。


≪権門都市」とは、摂関家にとっての宇治、王家にとっての、

  鳥羽や白河のように公的地位を退いた権門の家長が、

   自由な活動を行う拠点のことである≫


三叉路の今日は左に折れてみる  合田瑠美子

「西八条邸は、現在の京都市下京区、梅小路公園あたりである」

ちなみに、清盛の妻・時子は京の西八条邸に住まい、

清盛が福原から上洛した際は、ここに滞在している。

ちなみに当時この邸宅は、

清盛でなく時子の邸宅と認識されていた。

こうして清盛が福原に居住するようになったことで

福原周辺の開発が一気に進み、

「福原遷都」に繋がる素地ができあがっていった。

縁から縁へ結び目は堅い  瀬川瑞紀

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また、福原では春と秋の2回千僧供養が行われ、

後白河院は、高倉天皇の母・滋子を連れて、

たびたび福原を訪れている。

清盛が千僧供養を行ったのは、

海上交通の安全を祈願するだけではなく、

主要な寺院の高僧を自在に動員できる上に、

仏教界の支配者であるということを、

アピールすることにあった。

そこに、後白河院が列席するというのは、

清盛と後白河院の緊密な連携を象徴する儀式であった。

晩年が涙あつめて会いにくる  河村啓子

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「後白河院と清盛の協調関係にほころび」

後白河院清盛は、高倉天皇の即位を目的に、

提携関係を結び、即位を実現させた。

しかし、清盛は、

「平氏一門の発展、大臣家としての家格の安定」 を、

後白河院は「院政の強化」を目指していた。

両者の間には提携関係が結ばれた当初から、

政治構想において、大きな隔たりが生じていた。

さらに、清盛は、院近臣との間にも対立を深めていた。

後白河院政の発展による院近臣たちの地位上昇は、

現在の平氏の地位を脅かしかねないからだ。

万匹の狸一匹連れ帰る  黒田忠昭

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院の専制強化を阻止しようとする清盛は、

院の重要な権限の一つである人事へ介入している。

具体的には、「除目」への介入である。

白河院による院政の開始以来、摂関の任免など、

人を左右して政治を主導してきたため、

人事権は院の持つ権限の中でも

特に重要なものであった。

頭平信範は、除目叙位などを伝える使者として

清盛邸に「両度往反」したとあり、

清盛が人事に対して、納得するまで

調整させていたことがうかがえる。

≪なお、これが行われたのは高倉天皇即位以前のことで、

  提携関係が結ばれた直後から、

  清盛と後白河院の間にあった緊張関係を物語っている≫


黄河へ流すぞとたこ焼きをおどす  森 茂俊  

「強訴をめぐる後白河院と清盛の駆け引き」


嘉応元年(1169)12月、尾張守の目代・藤原政友

平野神人との間に起きた争いが発端となり、

延暦寺の衆徒らが、神輿を担いで入洛し、

尾張国の知行国主成親の解官・配流を要求してきた。

衆徒らの上洛が迫ると、

朝廷側もこれを防御するための武士を派遣し、

今回も平氏に動員が要請された。

青い星赤い戦火が止まらない  早泉早人

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しかし、平氏軍制の中心にあった重盛は動かず、

その結果、後白河院は衆徒らの要求に屈して、

成親は配流となってしまった。

けれど、後白河院はすぐに成親を配流先から呼び戻し、

かわりに、この件で後白河院へ取次ぎを行ったにすぎない

平時忠平信範を解官・流罪とした。

これに対して、衆徒等が再度強訴の構えをみせると、

清盛の命により、重盛・頼盛は福原に下向している。

≪両人の福原下向は、平氏が強訴の防御に協力しないことを

無言でアピールしていた≫


煮て焼いて振り掛けにする言い掛かり  岩根彰子

さらに、福原に居を移して以来、

めったなことでは上洛しなかった清盛がとうとう上洛した。

すると後白河院は態度を変えて再び成親を配流とし、

平時忠と平信範は呼び戻された。

以上が、嘉応元年に起きた「延暦寺の強訴」をめぐる清盛と

後白河院の駆け引きである。

なぜ重盛は、義兄にあたる成親を救うために、

動かなかったのだろうか。

鉛筆を曲げてかじって壊す癖  伊庭日出樹

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重盛が後白河院の動員要請に応じなかった背景には、

平氏一門内の複雑な事情があった。

重盛は平氏一門の中でも、後白河院に近い立場にあった。

しかし、父・清盛はというと、

後白河と政治的に協調関係にあるものの

院政の専制強化を警戒し、院近臣にも反感を抱いていたため、

その救済には非協力的だったのだ。

正確に言うと、重盛は動かなかったのではなく、

成親救済に動けなかったのである。

綿菓子の円運動は搾取の図  一階八斗醁

後白河の要請よりも、

清盛の指示が優先されたことからも明らかなように、

両者が協調関係にありながら、

諸権限において対立していたことがわかる。

自分にはごめんと言える燗冷まし  杉野恭子

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