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川柳的逍遥 人の世の一家言
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秋風の中をつらぬく陽の行方  川上三太郎

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  江戸城(元和時代)

≪大奥の広さは、江戸城の5割以上を占め、2万平米といわれる≫

「大奥こぼれ話」

徳川八代将軍・徳川吉宗は、

ご存じ紀州からの暴れん坊将軍として、
有名だが、

「享保の改革」「目安箱」など、

数々の善政をおこなった名君である。

この吉宗が、将軍就任とともにまず断行したのが、

「大奥」の統制である。

この目的は、

膨大にふくれ上がった大奥の、経費削減を行うことにあった。

琵琶湖へうっかりはめこんだ淡路島  藤井孝作

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    大奥櫛あげの図

当時、大奥には、巨額な人件費と服飾費がかかっていた。

そのため吉宗は、千人程いた大奥の人員削減を考えた。

しかし、当時の大奥の勢力といえば、

政治にも影響を与えるほど強大なもの。

もし、リストラなど口にしようものなら、

いくら吉宗が将軍とはいえ、

側室や将軍の実母、正室など強い権力を持つ大奥から、

反発を喰らうに違いない。 

言いたいこと言って空気が尖りだす  高橋謡子

 

全力で逆襲されれば、

将軍職の地位すら危うくなるかもしれないのだ。

大奥の勢力を恐れた吉宗は、

なんとかして、彼女らの怒りを買わないように、

「リストラすることは出来ないか」 と考えた。

そこで、吉宗が出した答えが、

” 美人だけをリストラする ” という作戦だ。 

どくどくと黒い媚薬がそそがれる  太田のりこ

 

吉宗はまず、奥女中の中から、

「美人といわれる者を50名ほどリストアップせよ」

と要求。

それを聞いた大奥の女たちは大騒ぎ。

それもそのはず、彼女らは吉宗からのその要求を、

「将軍様の側室選び」 と勘違いしたのだ。

当時、出世するための一番の近道は、

将軍から寵愛を受けることだった。

そのため、側室選びとなれば、

大奥中が騒ぎとなるのも無理はない。

彼女たちは胸躍らせながら、

大奥の ”美人リスト ”を吉宗に提出した。 

これからを踏ん張らねばと青もみじ  山本昌乃

 

しかし、それを受け取った吉宗の口からいい渡されたのは、

その美人たち50名の「解雇処分」だったのである。

側室選びだと期待していただけに、

彼女たちのショックは、大きかった。 

しょんぼりをこぼす夕焼け色の酒  北村幸子

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   大奥歌合せの図

 

吉宗は、女たちに理由を問い詰められると、こう言った。

「美人なら大奥を出ても、良縁も多いはず。

  だが、美人でない人は、なかなか嫁のもらいてがないものだ。

  だから美人は解雇して、不美人は大奥に置いておく!」

リストラされた女たちは、嬉しいやら悲しいやらで、

怒るにも怒れなくなったとか。

女心をうまく利用した吉宗の機転である。 

もも色の言葉で弱味ついてくる  本多洋子

 

こうしてうまく、女中のリストラに成功した吉宗だったが、

実のところ、

大奥上層部の経費削減には手をつけれなかった。

というのも、吉宗を将軍に指名してくれたのが、

大奥のトップに立っていた天英院だったからだ。 

追い詰めてみると陽炎になった  美馬りゅうこ

 

天英院に頭が上がらなかった吉宗は、

彼女に、年間1万2千両もの格別報酬を与え、

天英院と敵対していた月光院に、居所として吹上御殿を建設。

さらに、1万両の報酬を与えるなど、

女中の数を削減する以外には、何も出来なかったのである。

さすがの革命家・名君も、

女の園の解体までは踏み込めなかった。 

薄切りのメロン自分を見失う  河村啓子

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「天英院」

甲府の優しいお殿様・徳川綱豊に、近衛熙子(このえひろこ)が

嫁いだのは、延宝元年(1679)、14歳の秋であった。

近衛熙子のちの天英院である。

天皇家の血を引く熙子は、教養があり、思慮深く、

そして、心根のやさしい人柄で、

綱豊とは、とても中睦まじかった。 

人柄が色紙の上でよく踊る  中島正和 

 

それから25年後の、宝永元年12月(1704)、

綱豊が43歳のとき、5代将軍・綱吉の後継者として、

 

水戸の徳川光圀からの強い推挙により、

「家宣」と改名し、江戸城西の丸に入ることとなる。

熙子も「御台所」として江戸城大奥に入った。

華やかな大奥に入って、皮肉にも、

熙子の人生が空しいものになっていく。 

四六時中片隅だけど君のこと  中岡千代美           

綱豊が六代将軍として、綱吉の遺志に逆らっても、

最初に実践したのが

「生類憐みの令」「酒税」の廃止などなど。

庶民の痛みが判る家宣の人柄が、見えてくる決断であった。

この優しさで庶民の人気も高く、政務に多忙な日々となる。

そして甲府時代とは異なり、大奥へ通じる一枚の扉で、

夫婦生活は一変、

熙子は、憂鬱な生活を送っていたといわれる。

さらに、お喜世の方(月光院)が4人目の側室に迎えられ、

綱豊とは、ますます疎遠になっていく。 

手間取っています二人の周波数  下谷憲子

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このお喜世の方が、7代将軍・家継を生む。

熙子も豊姫・夢月院という二子を儲けたが、

早くに夭逝しており、

正徳2年(1712)家宣は病により没し、

お喜世の子が、将軍後継となったのだ。

そして熙子も剃髪して、院号を天英院と号する。 

≪この辺から、天英院と月光院の確執が表面化してくる。

  ” 絵島事件 ” は、 いろいろなドラマ・映画にも扱われ、有名なところ≫

 

点線が実録となるプロフィール  合田瑠美子

しかし家継は、病弱で5歳の時に将軍職につくが、

在職4年にして病の床に臥せる。  

「家継が危篤になって、徳川将軍の空位が起こってはいけない」
  
と、閣僚が騒然となる中、

まず尾張家、紀伊家、水戸家から将軍候補が上がってくる。

それぞれの支持者たちが、工作してきたが、

一向に決まらない。

日一日と、家継の容態がわるくなっていく。

鳩の首ぽっぽっぽとずれてゆく  ひとり 静

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ますます城中が慌ただしくなる中、天英院が動いた。

 

天英院は、将軍後継に紀州の吉宗を指名したのだ。

理由として、 

「家宣と吉宗の考え方が、一番近かったから」

 

だと言われている。

熙子は、当時の江戸城内の最高権力者であったが、

彼女が吉宗を指名したことに、幕閣や譜代門閥は驚嘆した。

大奥の女性が、将軍を指名する事は今までに無く、

また女性が、政治に口出しをする事すら、

考えられなかったからである。 

自然の雷に添加物少し  井上一筒

 

そこで天英院は、  

「先代将軍家宣様の御遺志です」

  

という切り札をつかい、幕閣や譜代門閥を納得させた。

決断力の早さは、夫・家宣譲り、

早速、紀州から吉宗を呼びよせ、

「将軍職を継ぐよう」 に説得した。

吉宗も最初は固辞したが、ここでも、 

「家宣様の御遺志です」

 

の一言に押し切られてしまう。 

いらっしゃいませ三日月のドア開く  赤松ますみ

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追記ー「絵島事件」

側室・月光院は、7代将軍・家継の生母として力を持ち始めて、

正妻・天英院とは不仲であった。

御年寄にして、月光院の腹心であった絵島(当時34歳)が、

月光院の代理で、徳川家の墓参りへ行き、

その帰り、芝居見物に興じて、

当代人気俳優を酒の席に呼び、
一行と親密なときを過ごした。

経由地に立派な塔ほか指の数  兵頭全郎

そして、予定の時間を6時間も過ぎて、

江戸城に戻った。

天英院は、これを期に老中達を動かして、

月光院と側用人・間部詮房(まなべあきふさ)、

新井白石らの権威失墜を謀った。

絵島は、信州へ流罪、

大奥と町方を合わせて1500人が処罰された。

女ひとりの心を変えて豪雨去る  森中惠美子

拍手[6回]

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骨肉の盥はまいにちがドラマ  たむらあきこ

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     お福(春日局)

「将軍の乳母・お福」

秀忠が伏見城に朝廷からの使者を迎え、

将軍に任命されたのは、

慶長10年(1605)4月16日のことである。

御台所・お江が、誕生した年でもあった。

その前年にお江は、

秀忠の世継ぎとなるべき男児を産んでいた。

竹千代の名前が与えられた、後の3代将軍・家光だ。

お江にとっては、初めての男の子である。

雲ちぎって獏一頭編みあげる  岩田多佳子

この時代、上級の武士は子供が生まれると、 

「生母に授乳させるのではなく、乳母を付けるのが普通だった」

 

当時は、授乳次第で、

子供の成長が大きく左右される、

医学水準だったことに加え、子育ては、 

「妻が家において何より優先すべき役割」  とは、

必ずしも考えられていなかった、社会風潮が背景にあった。 

山道の梔子沈黙を零す  岩根彰子

竹千代を産んだ江は、その乳母の選定について、

「東国の女性は気性が荒い、京都近辺の女性がいい」

と指示を出した。

そこで京都所司代の
板倉勝重が、人選に当たることとなり、

「公募」の立て札を諸所に立てた。

応募してきた中に、福もいた。

結果がどうなろうと、誰が選ばれようと、

勝重にまかせたことだから、江は、受け入れざるを得ない。  


愚かさの中になんじゃもんじゃの種  前中知栄

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      春日局

≪文京区礫川公園に”誰にも負けないぞ”という表情をみせている≫

 

結果、竹千代には、

稲葉正成という武将の妻・お福という女性が、

乳母につけられた。

後の、春日局である。

お福の夫・正成は、関が原の戦いで、

家康の勝利に、おおきく貢献した小早川秀秋の重臣だったが、

お福が乳母になった頃は、

小早川家を去り、浪人の身だった。

その時すでにお福は、正成との間に3人の子供を儲けていた。

ちょうど、三男の正利が生まれた頃、

乳母に指名された格好である。 

帯の芯女ひとりの火山帯  板野美子

 

そのお福が、なぜ、その任に就くことができたのか、

はっきりしたことは分からない。

「家康の愛妾だった」 という説もあるが、

ただ、乳母になるに当たっては、

夫・正成とは離縁する形をとっている。

この離縁についても、

夫が浮気したので怒った福が、刺し殺したとか、

諸説あるが、ほとんどが江戸時代の創作であり、

確かなことは、分かっていない。 

生涯のいま午後何時鰯雲  大西泰世

 

いずれにせよ当時の乳母の地位は、決して軽いものではなく、

実母より強い絆で、結ばれているケースもあった。

家光と春日局も、そのような関係にあり、

家光は、実母の江よりもお福を慕い、

強く信頼していたという。 

「春日局」の称号は、寛永6年(1629年)10月10日に、

   さまざまな画策の経路を経て、朝廷から賜ったものである≫

 

慕われているしあわせの髪を梳き  時実新子

御台所である江と、

家光の養育をめぐって、対立したとも言われているが、

これにはお福の出自が、関係しているのかもしれない。

お福の父は、斎藤利三という明智光秀の家来だったが、

”本能寺の変” 後の ”山崎の戦い”で秀吉に敗れ、

光秀とともに、六条河原で処刑され、首を晒された。

その首を涙をいっぱいためて、見上げていたのが、

まだ幼かった福である。

その秀吉の養女でもあった江に、

恨みを抱いていたとしても、不思議ではない。 

A型の鬼としばらくおつきあい  森中惠美子

 

だが、お江もまた、父・浅井長政が同じように、

罪人としてその首級を晒され、

お福と同じような境遇にいるのだ。

一方的な思い込みで、対立軸を太くするお福は、

かなり、「直線的で、負けん気の強い性格」

の女性であったものと推測できる。

それは、将軍の権威を背景に、

老中をも上回る、実質的な権力を握り、

権謀術数が渦巻く「大奥」という世界で、

隠然たる権力をふるっていく姿にも、

顕著にあらわれている。 

ぺちゃんこのところに触れてゆく鳥語  ひとり静

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歌舞伎「吹上御庭花見の場」錦絵

 

慶長11年9月、新築・江戸城・本丸御殿で

秀忠とお江の新しい生活が、始まると同時に、

お江が取り仕切る「大奥の歴史」もここに始まった。

大奥というと、

とりわけ男性の出入りが、制限されると言われるが、

この頃は、男性の出入りも結構みられたようだが・・・。

大奥を、江の手から、春日局が取り仕切るようになり、

出入りが極度に厳しい空間に変貌する。  

責任の範囲で白粉をはたく  山本早苗

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大河ドラマ・「お江」-第38回-「最強の乳母」  あらすじ

慶長9(1604)年7月、

江(上野樹里)は待望の男子を産んだ。

徳川の世継ぎの幼名・

「竹千代」と名付けられたその子を囲み、

秀忠(向井理)ヨシ(宮地雅子)大姥局(加賀まりこ)も、

満面の笑みを浮かべる。

それを見た江は、

やっと肩の荷が下りた思いで、心から安堵した。 

無花果の花ひらり人間になった  河村啓子

 

だが、和やかな時間は長く続かない。

竹千代の乳母として、

家康(北大路欣也)が送り込んできた福(富田靖子)が現れ、

挨拶もそこそこに、竹千代を連れ去ってしまったのだ。

まだ床に伏せっていた江は、

福に抱かれた息子が去るのを、

ただ見送るしかなかった。 

伏線に動かぬものを潜ませる  内藤光枝

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やがて、江が床上げしても、

福は何かと理由をつけて、彼女を竹千代に近づかせない。

江は、そんな福の態度に少し異常なものを感じ、

不安を覚えた。

はたして福は、乳母としてふさわしい人物なのか・・・。 

字余りのようなだるさに落ち着かず  新川弘子

 

そこで江は、感じている不安と、

思うように竹千代を抱けない不満を、秀忠に打ち明ける。

しかし彼は、 

「やきもちだな」

 

と言って取り合わない。 

風になったか雲になったか あなた  森田律子

 

ならばと、江は、家康に宛てて文を書くことにする。 

「竹千代の乳母を替えてくれるよう」

 

頼むために。

それからしばらくして、

家康が京・伏見城から江戸へ戻ってきた。

江は早速、家康に、「乳母を替えることができるか」

確かめるが、家康の判断は、

「福をそのままでおく」 というものだった。 

落花生ポリポリ会いたい人が遠ざかる  合田瑠美子

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がっかりした江。

そんな彼女に、追い打ちをかけるかのように、

家康が衝撃的な話を切り出す。

なんと秀忠に、「将軍職を継げ」というのだ。

将軍職を継ぐよう言われた秀忠は、

自分の考えを整理する時間が、欲しかった。

そこで江とともに熱海へ向かう。

熱海といえば温泉。

ゆっくり湯につかれば、頭もほぐれると思ったのだ。 

首置き忘れましたか秘湯の足湯  山口ろっぱ

 

『余談』 

実は、熱海温泉は、家康ゆかりの温泉である。

家康自身が逗留した記録が、残っているほか、

病気療養中の大名に、

熱海の ”湯” を送ってもいる。 

≪また秀忠についても、家康の影響からか、

たびたび湯治に行っていたとか、温泉好きだったという、説もある≫

 

朝食に琵琶湖 夕食に比叡山  清水すみれ


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       豊臣の紋                   徳川の紋

一方、淀は、甥である竹千代の誕生を知って不安になる。

後継者に世継ぎができたことで、

秀頼(武田勝斗)、「政権を返す」 と言った家康の、

気が変わるかもしれないからだ。

だが、秀吉の七回忌に京で行われた祭りの様子を聞き、

不安は解消される。 

パニックのところどころに酔芙蓉  赤松ますみ

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祭りは大盛況で、人々は

今も秀吉を慕い、懐かしんでいるとか。

豊臣家の威光は衰えておらず、

家康はいずれ、政権を返上せざるえないだろう。

淀はそう思ったのだ。

同じ頃、家康にも祭りの様子が伝わる。

そして彼も、改めて豊臣家の存在の大きさを感じていた。

「徳川の世になった」 と天下に示さなければならない。

そう考えた家康は、

秀忠に将軍職を譲ることを思いついたのだ。 

野仏が見ている雲は流れてる  和田洋子

 

拍手[9回]

風の駅まもなく電車が入ります  時実新子

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浜松城(秀忠はこの城で生まれた)

”家康の名言”

『誠らしき嘘はつくも、嘘らしき真を、語るべからず』

「家康の征夷大将軍」

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  岡崎の家康

≪岡崎は家康誕生地(1542~1616)≫

慶長8年(1603)、

徳川家康は、朝廷から「征夷大将軍」に任命された。

だが実は、本来なら家康は、

「征夷大将軍」になれない人間であった。

源頼朝以来、慣例とし将軍職には”源姓”のつくものしか、

付くことが出来ない。

ゆえに、源姓でない豊臣秀吉の場合は、

室町幕府15代将軍、足利義昭の養子に入り、

「将軍たらんことを切望した」 

が拒否され、朝廷の最高職たる「関白」として、

国家を統べる方法を、選択したのだった。

立秋にちょっと歩幅の微調整  前中知栄

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  浜松の家康像

≪三河を平定、浜松城へ(1568~1586)

   三男・秀忠浜松城にて誕生(1579)≫

永禄9年、三河統一を成し遂げた家康は、

織田信長と同盟を組み、戦国大名への道を歩み出していた、

この年の12月、家康は、従五位下・三河守への官位認定と、

松平から徳川への改称を申請した。

だが、正親町(おおぎまち)天皇は、

「先例がないため公家にはできない」

とこれを拒否した。

たとえばのはなし枯木に花が咲く  荻野美智子

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 駿府の家康

≪駿府へは、今川家の人質として入る(1549~1560)

   浜松から駿府へ再び(1586-) その後、五奉行直前から京都へ。

   秀忠将軍職を譲り、再度駿府に居住(1605~1616)≫

そこで家康は、浄土宗の僧侶を通じて、

関白の近衛正久に協力を仰ぐことに・・・。

すると、近衛家の家来であった京都吉田社の神主が、

先例として、利用できる古い記録を発見した。

それは、

「源氏の新田系の得川氏の流れで藤原氏になった家があった」

ということだった。

神主が、その場で書き写したものを、

前久が清書し、朝廷に提出したところ、

天皇の許可が下ったという。

曲がるとこ曲がってまっすぐも曲がる  清水すみれ

対して、徳川氏は、

「源姓の家系だから、スムーズに将軍になれたのだ」

と誤解している人もいる。

家康は、慶長7年(1602)まで、「藤原氏」を名乗っており、

将軍就任を意識して、この年、源氏に復姓したのだ。

復姓とは、妙な言葉だが、家康の言い分によれば、

「もともと徳川は源氏だったが、

  いつのころからか,藤原氏を名乗るようになった」

のだそうだ。

だから、元の姓に戻るのだと主張する。

朝顔は系統好きをもて弄ぶ  岩根彰子

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 最も表情の優しい家康画

このとき家康は、証拠の家系図を朝廷に提出したが、、

それは、『偽系図』である可能性が高い。

なにはともあれ、慶長8年、家康は征夷大将軍に任命され、

名実ともに、豊臣秀頼に代わる天下人となった。

この徳川幕府の誕生は、

豊臣家に大きな衝撃を与えることとなる。

たましいの束の間ほたる二三匹  河村啓子

大坂城にはまだ、秀頼がおり、

大坂方では、家康が将軍になったことに、

ショックを覚えたが、それでもまだ

「天下の家老」
という受けとめ方をしていた。

「秀頼が成人した暁には、政権を返すはず」

という思いがあった。

そうした大坂方の思惑を、完全に打ち砕いたのは、

その2年後である。

隣の椅子でたぬき寝するゲリラ  山口ろっぱ

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    駿河城復元模型

家康が将軍職を辞し、息子の秀忠が二代将軍になった。

これは、

「江戸幕府は徳川氏が世襲する。

 政権はもう秀頼には返さない」

という、意思表示である。

「秀頼が成人すれば」

「家康が死ねば」

と考えていた大坂方は、喩えようもないショックを受けた。

モザイクをはずすとそうかそうなんだ  山本昌乃

このように老獪に、「大坂の陣」は、

準備されていったわけだが、

時代の流れは、完全に徳川方であり、

豊臣氏は、結局、滅ぼされるしかなかった。

慶長19年(1614)10月からはじまる「大坂・冬の陣」、

そして、翌・元和元年5月の「大坂・夏の陣」によって、

豊臣氏は、滅亡させられてしまう。

常識を埋める とぶための儀式  松本としこ

拍手[5回]

火柱の中にわたしの駅がある  大西泰世

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       御座船

≪豊臣家をしのぐ徳川家の力を見せつけるように、

    数千艘の伴船を従えて、山科川を下っていく千姫の御座船≫

「千姫の婚礼」

慶長8年(1603)、家康が、「征夷大将軍」に任命されて、

5ヶ月後の7月28日、千姫秀頼のもとに嫁ぐ。

秀吉の生前に婚約していた2人だが、

家康の将軍職就任直後に、千姫を輿入れさせた背景には、

徳川家の政治的配慮があった。

豊臣家の心証はもちろん、

関が原の戦いで
勝利に貢献した、

豊臣家恩顧の諸大名への、配慮があったのだろう。

福島正則らは、家康を天下人にするために、

関が原で、奮戦したわけではなかったからだ。

カタログをタヌキキツネが零れ出る  谷垣郁郎

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7歳になった千姫は、秀頼との婚儀を執り行うべく、

伏見へと向かう。

それには、お腹に ”4人目の子” を宿しながら、

江も、同行することとなった。

娘の婚儀に、母親が同行するなど、

前例のないことだったが・・・。

それが、江らしかった。

さすがに、婚礼には出られなかったが、

伏見に行ったことで、姉のとの再会を果たした。 

≪ここで身籠っていた子は、やはり女児で、、初姫と名付けられ、

 子供の出来なかった姉・初との約束で、姉の養女となる≫

 

悲しいときは嬉しい顔の叩き売り  前中知栄     

伏見城から大坂城へ、船で下る千姫の輿入れは、

盛大なものだった。

千姫が乗った「御座船」の周りには、

葵の紋所が染め抜かれた幔幕が張られた。

迎えの数千艘の船を従えた御座船を、

大坂城に向かわせることで、

徳川将軍家の威光を、

豊臣家の影響力が強い上方に、知らしめようとしたのだ。

手応えを握りこぶしは知っている  片岡加代

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当時、家康は伏見城にいたが、秀忠は江戸城にいた。

実は、徳川家側は、この婚儀をあまり歓迎していなかった。

そんな徳川家の姿勢を物語る、次のような話がある。

婚儀となれば、

諸大名は、自ら婚儀に出席するが、

出席できなければ、

祝意を述べる使者を、派遣することになる。

考える葦一本の生き上手  皆本 雅

例えば、妻のガラシャを、

関が原の直前に失った小倉城主・細川忠興は、

7月11日に、小倉城から大坂に向かう。

21日、大坂に到着し、

26日に、伏見城にいた家康に、祝意を言上した。

婚儀から2日後の晦日には、秀頼に祝意を述べている。

忠興は、小倉にいた嫡子・忠利に、

婚儀に祝意を述べる、使者の派遣を命じようとする。

処方箋裂けたぎょうにんべんと0  井上一筒

家康にとっては孫娘、

秀忠にとっては長女の、輿入れであり、、

徳川家への配慮にもつながると、判断したに違いない。

忠興は、使者を送る前に、

徳川家に、この件を問い合わせている、

が、意外な指示が下る。 

「使者をわざわざ、豊臣家に送るには及ばない。

  祝意を述べる書面を送れば充分である」

 

というのだ。

約束の指で消去のキーたたく  斉藤和子

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11歳で政略結婚をした秀頼

この婚儀を通じて、

「豊臣家が、天下の注目を浴びるようなことは避けたい」

という、徳川家の意向が伝わってくる。

新しい天下人の徳川家としては、

かっての天下人・豊臣家の印象は、極力薄めたかったのだ。

こうした徳川家の姿勢を、当然、お江は察していただろう。

お江がわざわざ、大坂城に赴くことに、

家康が、あまり歓迎しなかった理由は、ここに明白である。

しかし、豊臣家と徳川家の間が、

「将来、手切れになる事態は、
どうしても避けたい」

との気持ちが、お江を動かした。

秀忠も、黙認せざるを得なかったのかも知れない。

リセットができないままのトコロテン  山口ろっぱ

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大河ドラマ「お江」・第37回-「千姫の婚礼」 あらすじ

「関が原の戦い」が終わって、1年余、

力を増すばかりの家康(北大路欣也)は、

主君である秀頼(武田勝斗)への新年のあいさつを、

なんと、2月になってから行う。

治長(武田真治)は、その不遜な態度をとがめるが、

家康はまったく気にする様子もない。

それどころか、 

「征夷大将軍を拝命することになりました」

 

と、さらりと宣言し、秀頼とともに、

挨拶を受けた淀(宮沢りえ)を驚愕させる。

もちろん淀は、

「秀頼様が成長するまでの仮の将軍」

という家康の説明を信じてはいなかった。 

心してかかる相手は宇宙人  山内美代子


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「征夷大将軍といえば、亡き秀吉も就きたいと望んでいた、

 武家を束ねる役職である。

 今、武家の頂点にあるのは、

 秀頼ではなかったのか・・・・」

 

家康が、その将軍職に就くと聞き、動揺する江に、

秀忠(向井理)が、さらなる衝撃的な話を聞かせる。

長女の千(芦田愛菜)を、

秀頼に輿入れさせるというのだ。

秀頼と千の婚姻は、秀吉の遺志でもあり、

既定の流れだったとはいえ、千はまだ7歳。

かつて、わずか3歳で嫁に出した次女・珠(渡辺葵)が、

不憫でならず、

今も泣いてばかりいる江(上野樹里)としては、 

「もう少し先でも」

 と思わざるをえない。 

油断した隙に尻尾が生えてくる  合田瑠美子

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しかし江は、自身の経験から、

こうした話が動き出せば、まず拒めないことをよく知っていた。

ゆえに、 

「この婚姻を、豊臣と徳川の ”和平の証し” としたい」

 

という秀忠の意もくみ、

しかたなく千の嫁入りを受け入れる。

そして今度は、千とともに

「自分も大坂に行きたい」
と願い出る。

江は婚儀直前に、千の気持ちを確かめ、

もし嫁入りを心底嫌がっているなら、

どうあっても、連れかえるつもりだったのだ。

また、千の姑となる姉・淀に会い、

「直接話をしたい」 とも考えていた。

臨月のあなたの中のダイナマイト  河村啓子

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譜面踏み抜き単線の成れの果て  かがり

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「さすが三成は、日本の政務を取りたる者なり」

と言って、家康は三成の戦いぶりを褒めた。

「関が原の勝敗を分けたもの」

「関が原の戦い」で、西軍の明らかな敗因は、二つある。

一つ目は、2、3位連合特有の弱さであろう。

毛利は、一門をすべて併せると、2百万石近くあり、

上杉佐竹など、伝統的な友好勢力も西軍にいた。

この両者を併せると、

東軍の徳川を上回っていたはずなのだが、

互いを当てにして、総力を挙げて戦っていなかった。

もし毛利輝元が、総大将として関が原に出陣するか、

上杉景勝が関東に進撃するか、

で、西軍に勝利の波は寄せていただろう。

金魚も猫も音だけじっと遠花火  玉木宏枝

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「心とするところ」

二つ目は、石田三成のプライドである。

現場をあまり知らない三成は、

机上の戦をしてしまったということ。

つまり、織田信長は桶狭間のあとは、

兵力が優位なときしか、戦いをしかけなかった。

また豊臣秀吉も、兵站に力を入れて、

相手を力でねじ伏せるような戦い方を、得意としていた。

その申し子であるはずの三成は、

奇襲などをひどく嫌い、

理屈で戦いに挑んだことである。 

勘が鈍って天気予報をあてにする  墨作二郎

 

それに対して家康は、

何度も相手より少ない兵力での戦いを経験し、

勝つための戦略(謀略)を持っていた。

岐阜城の織田秀信が、軽率に城外に打って出て、

1日で落城したこと。

京極高次・初の大津城が、

1週間の三成の攻撃に耐えたことも、

西軍の敗因に繋がっている。

視野狭いわたしにも欲しいトンボの目  内藤光枝

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「命をみだりに棄てざるは、将の心とするところ」

斬首に甘んじた三成を、家康が讃えたことば。 

「三成に過ぎたるものが二つある」

 

島左近と佐和山城のことである。

これは、ナルシスト・三成が、

自身を自画自賛して語った言葉なのだろう。

1590年10月、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたとき、

秀吉から、19万石と佐和山城を与えられた。

そして石高の19万石から、三成は、5万石を与え、

島左近を召し抱えたという話が残る。

5万石といえば破格の給料だ。

島左近についての説明は、後日におくるとして、

三成のよく分からないところは、佐和山城である。

向き合っているのにこころ分らない  早泉早人

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    佐和山城跡

「佐和山城が何故、三成に過ぎたるものなのか」

関ヶ原の合戦の直後、佐和山城は、

徳川軍の攻撃を受けた。

この時、三成は関ヶ原の合戦で敗れて、

伊吹山を彷徨っていた。

佐和山城にいたのは、三成の父・正継と兄・正澄

徳川の兵士はみんな、

「三成の城ともなれば、豪華絢爛だろう」

と思い込んでいた。

いずれ又と軽く指切り外される  山本昌乃

ところが、城壁は上塗りもしていない土塀で、

屋内もほとんど板張りのまま、

庭には、樹木すら植えられておらず、

手水鉢も、苔むした石でしかなかった。

乱世の時代、家を堅固にしてこその武将である。

三成が、「三成に過ぎたるものが2つある」

と言って憚らなかった城が、これである。

武将としては、失格ではないか。

結論は出ている 梅は熟れている  藤本秋声

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「恥辱にあらず」

三成は、もともと戦をすることなど考えない、

平和主義者であるなら、

家康に戦いを挑んだのは、「間違いだった」ということになる。

そして、関が原が三成にとって、

「たまたま、戦になってしまった」 というなら、

西軍についた武将の意気も、

あがらないのは当然のことであった。

五分五分であったはずの、決戦の行方は、

三成のナルシストな性格による、

「ひとり相撲」で決まったともいえる。

さよなら三角そんなかたちの雲がある  田中博造

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「ナルシスト・三成が顕著に出る本多正純との問答」

家康は三成に、「さらばでござる」の一言を残し、

三成の身を本多正純に預けた。

そのとき、正純は、三成に静かに言った。 

「秀頼公が年若くいるうちは、

 平和を保つ道を考えるべきでございますものを、

 理由もない戦を起こしたがために、

 あなたはこうして、

 縄目の恥辱を受ける羽目になったのですよ」

 

はさまった悔いを掻きだす糸楊枝  佐藤美はる

三成は、この正純の言葉に冷静に応じた。 

「自分にとっての太閤殿下のご恩は、

 とてつもなく大きいものである。

 内府を討たねば豊臣家のためならずと考え、

 軍を起こしたのだ。

 しかし、いざ合戦となって裏切り者が出て、

 勝つべき戦を落としたのは口惜しいことだ。

 

 とはいえ、かの源義経公でさえも、

 天運に見放されたがゆえに、衣川で滅びた。

それがしの敗戦も天命であろう。 是非もない。」

と答えを返す。

なんとまあ刹那に生きてきたのだろう  清水すみれ

正純はさらに、

「智将というものは、人情をはかって時勢を知るものだ。

 諸将が裏切ったのは、心から同心していなかったからで、

 そんな状態で軽々しく兵を挙げ、

 ”敗れても自害すらせず、

 捕らえられて、こうしておるとはなんたることだ”」

と言う。

語尾ひとつ昨日の距離が加速する  桂 昌月

三成も、この言葉には冷静にはおれず、 

「汝は武略を露ほども心得ておらぬ。

 敗けて腹を切るなどは、葉武者の所業よ。

 源頼朝公が石橋山の敗戦後、朽木の大洞に身を潜めた。

 その心が汝にはわかるまい。

 頼朝公があの時、大庭景親に捕らえられておれば、

汝らはわしと同じように、頼朝公をも嘲ったことであろうな」

 

と応答した。

月光に任すわたしという冬野  たむらあきこ

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石橋山朽木の洞窟

☆ 源頼朝は石橋山の合戦で、

大庭景親や伊東祐親の軍勢に破れて敗走。

洞窟に身を隠していたところ、敵将の梶原景時に発見される。

これを梶原は報告せず、頼朝は生きのびることが出来た。

のち頼朝は復活する。

アルバムは正直すぎる物語  吉川コリン

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 西軍の総大将・毛利輝元

「関が原やる気のなかった武将たち」

天下分け目の決戦となった関が原の戦いの結果について、

東軍が勝ったのは、

「たまたま」という見方が最も正しい。

西軍についた大名のなかには、 

「本当は東軍につきたかったのに、諸事情で西軍についた」

 

と弁解する大名がいれば、

東軍についたものでも、 

「西軍が優勢になれば、裏切るつもりだった」

 

と見られる大名が沢山いる。 

裏切りを忘れたふりの処世術  有田晴子

 

また、真ん中に立って、どちらとも取れる大名も数々いる。

たとえば、加賀の前田、越後のは、

一応は、東軍側で働いていたが、

決定的に踏み込まず、戦う格好だけをしていた。

伊達政宗に至っては、

同じ東軍の南部領の一揆を、扇動している。 

田植えゲームをパソコンの中でする  井上一筒

 

戦後の論功行賞をみると、

前田利長は、西軍寄りだった利政の領地に、

小松の丹羽長重の領地を併合するだけ。

上杉の非道を、がなりたて、

関が原の戦いのきっかけを作った堀秀治は、

本領安堵のみ。

政宗も、「百万石をやる」という約束にもかかわらず、

白石城を加増されただけに留められている。

家康の眼は、誤魔化せなかったということか?

それとも家康の二枚舌だったのか?

真実は真っ黒そして多面体  嶋澤喜八郎

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