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川柳的逍遥 人の世の一家言
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秋風の中をつらぬく陽の行方  川上三太郎

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  江戸城(元和時代)

≪大奥の広さは、江戸城の5割以上を占め、2万平米といわれる≫

「大奥こぼれ話」

徳川八代将軍・徳川吉宗は、

ご存じ紀州からの暴れん坊将軍として、
有名だが、

「享保の改革」「目安箱」など、

数々の善政をおこなった名君である。

この吉宗が、将軍就任とともにまず断行したのが、

「大奥」の統制である。

この目的は、

膨大にふくれ上がった大奥の、経費削減を行うことにあった。

琵琶湖へうっかりはめこんだ淡路島  藤井孝作

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    大奥櫛あげの図

当時、大奥には、巨額な人件費と服飾費がかかっていた。

そのため吉宗は、千人程いた大奥の人員削減を考えた。

しかし、当時の大奥の勢力といえば、

政治にも影響を与えるほど強大なもの。

もし、リストラなど口にしようものなら、

いくら吉宗が将軍とはいえ、

側室や将軍の実母、正室など強い権力を持つ大奥から、

反発を喰らうに違いない。 

言いたいこと言って空気が尖りだす  高橋謡子

 

全力で逆襲されれば、

将軍職の地位すら危うくなるかもしれないのだ。

大奥の勢力を恐れた吉宗は、

なんとかして、彼女らの怒りを買わないように、

「リストラすることは出来ないか」 と考えた。

そこで、吉宗が出した答えが、

” 美人だけをリストラする ” という作戦だ。 

どくどくと黒い媚薬がそそがれる  太田のりこ

 

吉宗はまず、奥女中の中から、

「美人といわれる者を50名ほどリストアップせよ」

と要求。

それを聞いた大奥の女たちは大騒ぎ。

それもそのはず、彼女らは吉宗からのその要求を、

「将軍様の側室選び」 と勘違いしたのだ。

当時、出世するための一番の近道は、

将軍から寵愛を受けることだった。

そのため、側室選びとなれば、

大奥中が騒ぎとなるのも無理はない。

彼女たちは胸躍らせながら、

大奥の ”美人リスト ”を吉宗に提出した。 

これからを踏ん張らねばと青もみじ  山本昌乃

 

しかし、それを受け取った吉宗の口からいい渡されたのは、

その美人たち50名の「解雇処分」だったのである。

側室選びだと期待していただけに、

彼女たちのショックは、大きかった。 

しょんぼりをこぼす夕焼け色の酒  北村幸子

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   大奥歌合せの図

 

吉宗は、女たちに理由を問い詰められると、こう言った。

「美人なら大奥を出ても、良縁も多いはず。

  だが、美人でない人は、なかなか嫁のもらいてがないものだ。

  だから美人は解雇して、不美人は大奥に置いておく!」

リストラされた女たちは、嬉しいやら悲しいやらで、

怒るにも怒れなくなったとか。

女心をうまく利用した吉宗の機転である。 

もも色の言葉で弱味ついてくる  本多洋子

 

こうしてうまく、女中のリストラに成功した吉宗だったが、

実のところ、

大奥上層部の経費削減には手をつけれなかった。

というのも、吉宗を将軍に指名してくれたのが、

大奥のトップに立っていた天英院だったからだ。 

追い詰めてみると陽炎になった  美馬りゅうこ

 

天英院に頭が上がらなかった吉宗は、

彼女に、年間1万2千両もの格別報酬を与え、

天英院と敵対していた月光院に、居所として吹上御殿を建設。

さらに、1万両の報酬を与えるなど、

女中の数を削減する以外には、何も出来なかったのである。

さすがの革命家・名君も、

女の園の解体までは踏み込めなかった。 

薄切りのメロン自分を見失う  河村啓子

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「天英院」

甲府の優しいお殿様・徳川綱豊に、近衛熙子(このえひろこ)が

嫁いだのは、延宝元年(1679)、14歳の秋であった。

近衛熙子のちの天英院である。

天皇家の血を引く熙子は、教養があり、思慮深く、

そして、心根のやさしい人柄で、

綱豊とは、とても中睦まじかった。 

人柄が色紙の上でよく踊る  中島正和 

 

それから25年後の、宝永元年12月(1704)、

綱豊が43歳のとき、5代将軍・綱吉の後継者として、

 

水戸の徳川光圀からの強い推挙により、

「家宣」と改名し、江戸城西の丸に入ることとなる。

熙子も「御台所」として江戸城大奥に入った。

華やかな大奥に入って、皮肉にも、

熙子の人生が空しいものになっていく。 

四六時中片隅だけど君のこと  中岡千代美           

綱豊が六代将軍として、綱吉の遺志に逆らっても、

最初に実践したのが

「生類憐みの令」「酒税」の廃止などなど。

庶民の痛みが判る家宣の人柄が、見えてくる決断であった。

この優しさで庶民の人気も高く、政務に多忙な日々となる。

そして甲府時代とは異なり、大奥へ通じる一枚の扉で、

夫婦生活は一変、

熙子は、憂鬱な生活を送っていたといわれる。

さらに、お喜世の方(月光院)が4人目の側室に迎えられ、

綱豊とは、ますます疎遠になっていく。 

手間取っています二人の周波数  下谷憲子

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このお喜世の方が、7代将軍・家継を生む。

熙子も豊姫・夢月院という二子を儲けたが、

早くに夭逝しており、

正徳2年(1712)家宣は病により没し、

お喜世の子が、将軍後継となったのだ。

そして熙子も剃髪して、院号を天英院と号する。 

≪この辺から、天英院と月光院の確執が表面化してくる。

  ” 絵島事件 ” は、 いろいろなドラマ・映画にも扱われ、有名なところ≫

 

点線が実録となるプロフィール  合田瑠美子

しかし家継は、病弱で5歳の時に将軍職につくが、

在職4年にして病の床に臥せる。  

「家継が危篤になって、徳川将軍の空位が起こってはいけない」
  
と、閣僚が騒然となる中、

まず尾張家、紀伊家、水戸家から将軍候補が上がってくる。

それぞれの支持者たちが、工作してきたが、

一向に決まらない。

日一日と、家継の容態がわるくなっていく。

鳩の首ぽっぽっぽとずれてゆく  ひとり 静

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ますます城中が慌ただしくなる中、天英院が動いた。

 

天英院は、将軍後継に紀州の吉宗を指名したのだ。

理由として、 

「家宣と吉宗の考え方が、一番近かったから」

 

だと言われている。

熙子は、当時の江戸城内の最高権力者であったが、

彼女が吉宗を指名したことに、幕閣や譜代門閥は驚嘆した。

大奥の女性が、将軍を指名する事は今までに無く、

また女性が、政治に口出しをする事すら、

考えられなかったからである。 

自然の雷に添加物少し  井上一筒

 

そこで天英院は、  

「先代将軍家宣様の御遺志です」

  

という切り札をつかい、幕閣や譜代門閥を納得させた。

決断力の早さは、夫・家宣譲り、

早速、紀州から吉宗を呼びよせ、

「将軍職を継ぐよう」 に説得した。

吉宗も最初は固辞したが、ここでも、 

「家宣様の御遺志です」

 

の一言に押し切られてしまう。 

いらっしゃいませ三日月のドア開く  赤松ますみ

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追記ー「絵島事件」

側室・月光院は、7代将軍・家継の生母として力を持ち始めて、

正妻・天英院とは不仲であった。

御年寄にして、月光院の腹心であった絵島(当時34歳)が、

月光院の代理で、徳川家の墓参りへ行き、

その帰り、芝居見物に興じて、

当代人気俳優を酒の席に呼び、
一行と親密なときを過ごした。

経由地に立派な塔ほか指の数  兵頭全郎

そして、予定の時間を6時間も過ぎて、

江戸城に戻った。

天英院は、これを期に老中達を動かして、

月光院と側用人・間部詮房(まなべあきふさ)、

新井白石らの権威失墜を謀った。

絵島は、信州へ流罪、

大奥と町方を合わせて1500人が処罰された。

女ひとりの心を変えて豪雨去る  森中惠美子

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