忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[177] [176] [175] [174] [173] [172] [171] [170] [169] [168] [167]

譜面踏み抜き単線の成れの果て  かがり

seki-13.jpg

「さすが三成は、日本の政務を取りたる者なり」

と言って、家康は三成の戦いぶりを褒めた。

「関が原の勝敗を分けたもの」

「関が原の戦い」で、西軍の明らかな敗因は、二つある。

一つ目は、2、3位連合特有の弱さであろう。

毛利は、一門をすべて併せると、2百万石近くあり、

上杉佐竹など、伝統的な友好勢力も西軍にいた。

この両者を併せると、

東軍の徳川を上回っていたはずなのだが、

互いを当てにして、総力を挙げて戦っていなかった。

もし毛利輝元が、総大将として関が原に出陣するか、

上杉景勝が関東に進撃するか、

で、西軍に勝利の波は寄せていただろう。

金魚も猫も音だけじっと遠花火  玉木宏枝

seki-10.jpg

「心とするところ」

二つ目は、石田三成のプライドである。

現場をあまり知らない三成は、

机上の戦をしてしまったということ。

つまり、織田信長は桶狭間のあとは、

兵力が優位なときしか、戦いをしかけなかった。

また豊臣秀吉も、兵站に力を入れて、

相手を力でねじ伏せるような戦い方を、得意としていた。

その申し子であるはずの三成は、

奇襲などをひどく嫌い、

理屈で戦いに挑んだことである。 

勘が鈍って天気予報をあてにする  墨作二郎

 

それに対して家康は、

何度も相手より少ない兵力での戦いを経験し、

勝つための戦略(謀略)を持っていた。

岐阜城の織田秀信が、軽率に城外に打って出て、

1日で落城したこと。

京極高次・初の大津城が、

1週間の三成の攻撃に耐えたことも、

西軍の敗因に繋がっている。

視野狭いわたしにも欲しいトンボの目  内藤光枝

seki-12.jpg

「命をみだりに棄てざるは、将の心とするところ」

斬首に甘んじた三成を、家康が讃えたことば。 

「三成に過ぎたるものが二つある」

 

島左近と佐和山城のことである。

これは、ナルシスト・三成が、

自身を自画自賛して語った言葉なのだろう。

1590年10月、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたとき、

秀吉から、19万石と佐和山城を与えられた。

そして石高の19万石から、三成は、5万石を与え、

島左近を召し抱えたという話が残る。

5万石といえば破格の給料だ。

島左近についての説明は、後日におくるとして、

三成のよく分からないところは、佐和山城である。

向き合っているのにこころ分らない  早泉早人

d328b1e5.jpeg

    佐和山城跡

「佐和山城が何故、三成に過ぎたるものなのか」

関ヶ原の合戦の直後、佐和山城は、

徳川軍の攻撃を受けた。

この時、三成は関ヶ原の合戦で敗れて、

伊吹山を彷徨っていた。

佐和山城にいたのは、三成の父・正継と兄・正澄

徳川の兵士はみんな、

「三成の城ともなれば、豪華絢爛だろう」

と思い込んでいた。

いずれ又と軽く指切り外される  山本昌乃

ところが、城壁は上塗りもしていない土塀で、

屋内もほとんど板張りのまま、

庭には、樹木すら植えられておらず、

手水鉢も、苔むした石でしかなかった。

乱世の時代、家を堅固にしてこその武将である。

三成が、「三成に過ぎたるものが2つある」

と言って憚らなかった城が、これである。

武将としては、失格ではないか。

結論は出ている 梅は熟れている  藤本秋声

seki-9.jpg

「恥辱にあらず」

三成は、もともと戦をすることなど考えない、

平和主義者であるなら、

家康に戦いを挑んだのは、「間違いだった」ということになる。

そして、関が原が三成にとって、

「たまたま、戦になってしまった」 というなら、

西軍についた武将の意気も、

あがらないのは当然のことであった。

五分五分であったはずの、決戦の行方は、

三成のナルシストな性格による、

「ひとり相撲」で決まったともいえる。

さよなら三角そんなかたちの雲がある  田中博造

551235d3.jpeg

「ナルシスト・三成が顕著に出る本多正純との問答」

家康は三成に、「さらばでござる」の一言を残し、

三成の身を本多正純に預けた。

そのとき、正純は、三成に静かに言った。 

「秀頼公が年若くいるうちは、

 平和を保つ道を考えるべきでございますものを、

 理由もない戦を起こしたがために、

 あなたはこうして、

 縄目の恥辱を受ける羽目になったのですよ」

 

はさまった悔いを掻きだす糸楊枝  佐藤美はる

三成は、この正純の言葉に冷静に応じた。 

「自分にとっての太閤殿下のご恩は、

 とてつもなく大きいものである。

 内府を討たねば豊臣家のためならずと考え、

 軍を起こしたのだ。

 しかし、いざ合戦となって裏切り者が出て、

 勝つべき戦を落としたのは口惜しいことだ。

 

 とはいえ、かの源義経公でさえも、

 天運に見放されたがゆえに、衣川で滅びた。

それがしの敗戦も天命であろう。 是非もない。」

と答えを返す。

なんとまあ刹那に生きてきたのだろう  清水すみれ

正純はさらに、

「智将というものは、人情をはかって時勢を知るものだ。

 諸将が裏切ったのは、心から同心していなかったからで、

 そんな状態で軽々しく兵を挙げ、

 ”敗れても自害すらせず、

 捕らえられて、こうしておるとはなんたることだ”」

と言う。

語尾ひとつ昨日の距離が加速する  桂 昌月

三成も、この言葉には冷静にはおれず、 

「汝は武略を露ほども心得ておらぬ。

 敗けて腹を切るなどは、葉武者の所業よ。

 源頼朝公が石橋山の敗戦後、朽木の大洞に身を潜めた。

 その心が汝にはわかるまい。

 頼朝公があの時、大庭景親に捕らえられておれば、

汝らはわしと同じように、頼朝公をも嘲ったことであろうな」

 

と応答した。

月光に任すわたしという冬野  たむらあきこ

f6e193a0.gif

石橋山朽木の洞窟

☆ 源頼朝は石橋山の合戦で、

大庭景親や伊東祐親の軍勢に破れて敗走。

洞窟に身を隠していたところ、敵将の梶原景時に発見される。

これを梶原は報告せず、頼朝は生きのびることが出来た。

のち頼朝は復活する。

アルバムは正直すぎる物語  吉川コリン

seki-4.jpg

 西軍の総大将・毛利輝元

「関が原やる気のなかった武将たち」

天下分け目の決戦となった関が原の戦いの結果について、

東軍が勝ったのは、

「たまたま」という見方が最も正しい。

西軍についた大名のなかには、 

「本当は東軍につきたかったのに、諸事情で西軍についた」

 

と弁解する大名がいれば、

東軍についたものでも、 

「西軍が優勢になれば、裏切るつもりだった」

 

と見られる大名が沢山いる。 

裏切りを忘れたふりの処世術  有田晴子

 

また、真ん中に立って、どちらとも取れる大名も数々いる。

たとえば、加賀の前田、越後のは、

一応は、東軍側で働いていたが、

決定的に踏み込まず、戦う格好だけをしていた。

伊達政宗に至っては、

同じ東軍の南部領の一揆を、扇動している。 

田植えゲームをパソコンの中でする  井上一筒

 

戦後の論功行賞をみると、

前田利長は、西軍寄りだった利政の領地に、

小松の丹羽長重の領地を併合するだけ。

上杉の非道を、がなりたて、

関が原の戦いのきっかけを作った堀秀治は、

本領安堵のみ。

政宗も、「百万石をやる」という約束にもかかわらず、

白石城を加増されただけに留められている。

家康の眼は、誤魔化せなかったということか?

それとも家康の二枚舌だったのか?

真実は真っ黒そして多面体  嶋澤喜八郎

拍手[5回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開