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川柳的逍遥 人の世の一家言
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お月さま連れてきたのは水たまり  泉水冴子


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お江が嫁いだ秀勝の居城・丹波亀山城(C・G)

「お江ー二度目の結婚」

秀吉秀次に関白職を譲ってまもなく、

は秀吉から呼び出された。

江の縁談話しだった。

相手は秀次の弟・秀勝

江にとっては、再婚だが、

前の結婚は、完全な政略結婚だったのに比べて、

今回は、好かれての結婚だった。

できちゃった婚を少子化相は褒め  井上一筒

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天正20年(1592)2月、江は秀勝と婚礼の儀を挙げた。

秀勝は24歳、江は20歳だった。

二人は関白・秀次が住む聚楽第に住むことになった。

凸凹の夫婦はパチッと収まった  壷内半酔 

お江が秀勝と結婚した意味合いは、鶴松の死で失われたが、

秀吉の朝鮮出兵の野望に、

さらにお江は、翻弄される。

夫・秀勝にも出陣の命令が下った。

お江と秀勝は、「岐阜城」で出陣の準備を整えると、

聚楽第の敷地内にある、京都の屋敷に戻った。

すでに、結婚2年以上が経ち、お江の妻ぶりも板につき、

江は幸せの絶頂にあった。

小さな幸せみなに話してみたくなる  夏井せいじ

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               岐阜城


金華山山頂の岩山にそびえる、秀勝最後の居城・岐阜城

「美濃を制するものは、天下を制する」 と言われた≫

「一刻も早いご無事なご帰還、お待ちしております」

お江は、心から、そう願える妻になっていた。

岐阜で編成した8千の兵を率いて、

天正20年(1592・文禄元年)3月、

甲冑姿も麗々しく、夫は京都を出立した。

馬上の秀勝が、どこか愛おしく感じられ、

思わず目に涙した。

牙がぽろりと落ちて女になりました  西恵美子

お江は、夫を見送ってから程なく、

さらに、名護屋に出発する秀吉と姉・淀殿らをも見送った。

秀吉は、小田原の陣に淀殿松の丸殿を伴い、

勝利を得たことを吉例として、

このたびも、2人を同道させたのだ。

焼酎とメザシで出来ている翼  新家完司

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金襴の甲冑をまとい、付け髭をつけた秀吉に続き、

100騎余りの、美装の女房衆に守られて、

淀殿は、奥の人となった。

夫が去り、いままた、秀吉と姉を見送って、

お江に寂しさが、こみ上げる。

そんなお江は、体に変調を感じ、妊娠を知るのだ。

新しい命を宿して、秀勝が恋しく感じられた。

さざ波は乙姫さまの計略だ  森田律子           

9月、再び秀吉を不幸が襲った。

聚楽第で永く闘病していた実母の、大政所が亡くなったのだ。

そして、その悲しみは、江にも襲ってきた。

10月、出征していた秀勝が、

「唐島陣中で亡くなった」


という報せが届いたのだ。

幸せの絶頂にいた江は、一気に奈落の底へ落とされた。

鬼が出るわたしの中の水溜り  たむらあきこ

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  丹波亀山城・古写真

昭和初期の亀山城。

慶長15(1610)、藤堂高虎によって、

造られた5層の天守閣が、現存していた頃の貴重な写真。

やがて、江は臨月を待たずに女の子を産んだ。

北政所が、完子(さだこ)と名付けてくれた。

ほかほかだねあったかいねと赤子抱く  道家えい子


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大河ドラマ「お江」-第26回・「母になる時」  あらすじ

京・聚楽第の屋敷で、夫・秀勝(AKIRA)

暮らしはじめた江(上野樹里)は、

妻としての日々に、これまでにはない幸せを感じていた。

彼女は、とにかく秀勝の世話を焼きたくてしかたがなく、

慣れない家事に手を出し、

かえって、侍女たちを困らせてしまう始末。

虫喰いの痕も含めて君が好き  中野六助

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しかし、幸福な時は、長くは続かなかった。

秀勝が、朝鮮での戦に赴くことになったのだ。

「天下を太平に、皆が笑うて暮らせる世の中にしてもらいたい」

という利休最後の願いを、

一緒に背負うと約束してくれた秀勝。

その夫を、戦に送り出さなければならない。

江は、どうにも割り切れない思いだったが、

むろん出陣を止めることはできず、

ついに、秀勝出立の日を迎えてしまう。

追伸の棘のひとつがプロローグ  上田 仁

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別れの時、あえて明るく振る舞う秀勝。

一方、江は不安を隠しきれないが、

「心配は無用じゃ、必ず戻ってまいる」

という夫に、なんとか笑顔を作ってみせる。

「お待ち申し上げております」

そう答えるのが、彼女の精いっぱいだった。

このときから、

愛する人の帰りを待つ江のつらい日々が始まる。

≪しかしやがて、そんな江の心を勇気づける、

  思いもよらぬ事実が判明するのだ・・・≫

ニュースの中から急に飛び出した石  立蔵信子

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     日本水軍

そして、朝鮮に渡った日本の軍勢は、順調に兵を進めていた。

そんな中、秀勝は、後発部隊を率い、

壱岐、対馬をへて朝鮮の唐島に着陣。

秀吉(岸谷五朗)より、

「敵水軍の動きを封じるべし」 との命を受ける。

だが、実は陸上で優勢の日本軍も、

「水軍」を使った戦では、苦戦しており、

案の定、秀勝の部隊も、朝鮮の水軍に手を焼くことに。

アンダーライン引かれ燻り出してくる  谷垣郁郎

異国の地で、思うような戦果が上げられず、

兵たちの心には、いらだちが募っていく。

そんな折、秀勝の部下と唐島島民の間で、

ちょっとしたいざこざが起きた。

島民との衝突を望まない秀勝は、

自ら仲裁に入って事を収めるが、

その際に、脚に刀傷を負ってしまう。

尺八を覗けば風があるばかり  嶋澤喜八郎
 

拍手[7回]

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膝の水を抜いてレマン湖へ返す  井上一筒


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  文禄・慶長の役

≪名護屋城に集められた武将たちは、壱岐や対馬を経由して朝鮮半島に上陸≫

「文禄・慶長の役」

天下統一事業を終えた秀吉は、次の標的を中国・明に定める。

その前に、明への陸路ルートにある朝鮮に

対して、服属と明出兵の先導をつとめることを要求した。

しかし、朝鮮がこれを拒否したため、文禄元年(1592)、

秀吉は、1万5000余りの大軍を、朝鮮に送り込んだ。

これが、「文禄の役」である。

呼び鈴を押したら鬼が顔を出す  嶋澤喜八郎

日本軍は当初、鉄砲などのハイテク武器を使って、

順調に勝ち進み、今のソウルやピョンヤンを占領。

しかし、朝鮮の巻き返しにあって、

後半は苦戦を強いられた。

民衆のゲリラ的な抵抗に苦しんだ上、

李舜臣(イ・スンシン)率いる朝鮮水軍によって、

海上補給路を、寸断されたためである。

舞台反転 捺印を押すたびに  赤松ますみ

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    イ・スンシン

≪文禄2年6月、日本水軍の任務は兵や食糧の輸送が主だったが、

 イ・スンシン率いる朝鮮水軍に次々と撃破された≫

そのため、一時休戦するが、結局、和睦交渉は決裂し、

秀吉は2度目の朝鮮出兵で、約8万人の大軍を送り込む。

「慶長の役」である。

これでも決着はつかず、

秀吉が1598年に死去したため、

朝鮮出兵は中止された。

何ごともなかったように避けておく  山本昌乃

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文禄2年6月、釜山海を進む日本水軍

「秀吉の朝鮮出兵の意味」

さて、秀吉による大陸侵略は、

「名誉欲にかられた秀吉の愚挙」とか

「思い上がりが生んだ無謀な戦い」

と言われることが多い。

しかし、「支配権を国外まで拡大したい」

あわよくば、「東アジア全体を掌握したい」

という秀吉の野望は、

それにのった大名たちの同調があって、実行されたもの。

「天下一を誇る秀吉軍に加われば、領土を拡大できるかもしれない」

だからこそ、秀吉に従ったというわけがある。

ことごとく腐ってドロドロの正義  石橋芳山

つまり、秀吉は、戦いを続けて、領土を増やさなければ、

支配力を維持することが、出来なかったともいえる。

また、「天下を統一した」とはいっても、

世の中には、戦国の風潮、

「下克上の時代」を知る者が、多数生き残っている。

二番線ホームで待っているチャンス  本多洋子

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釜山城攻略・『釜山鎮殉節図』

≪釜山城を陥落させた日本軍は、続いて漢城へと進軍≫

江戸時代の学者・林羅山は、

「愛児鶴松が死に、その悲しみからのがれるために、

 秀吉は朝鮮出兵を決意した」

と言っている。

しかし、秀吉が「朝鮮侵略」の意図を口にしているのは、

鶴松の死よりもはるか以前、天正13年のことだから、

この考え方は、成り立たない。

行き先を忘れたらしい蝶が一匹  森田律子

天正13年9月3日付、家臣の一柳末安宛て、

秀吉が、「朝鮮出兵」を言い始めた一番早い文献・「秀吉文書」に、

「秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国迄仰せ付けられ候 心に候か」

とある。 解釈は、

”関白として、日本全体の統一支配だけでなく、

 唐国までも、そのようにせよと命令された” 

といっている。

関白に任官したのは、あくまで日本の関白だが、

秀吉はこのように、拡大解釈していたことがわかる。

≪秀吉が関白に任官した天正13年7月から、2ヶ月後の文章である≫

描きおえて画家は昇天するつもり  筒井祥文

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 秀吉と日本水軍

とにかく、「朝鮮侵略の意図は、愛児鶴松の死という、

個人レベルの問題ではなく、公的な問題として、

秀吉の領土拡張の意図からはじまった」  (中村栄孝)

秀吉にしてみれば、

実際に九州まで行き、壱岐・対馬を制圧してみると、

そのさきにある朝鮮が近くに、感じられた。

そして、秀吉の頭に、そろそろ、

日本統一後のことが、ちらつきはじめた。

大きく振り被った次の音  蟹口和枝

封建的主従制を保つ手段として、御恩と奉公の関係がある。

「諸大名たちは、恩賞をもらえるから自分についてきているのだ」

という、認識を秀吉は、もっていたはずである。

その裏返しとして、

「与える恩賞がなくなったとき、

果たして彼らは自分についてくるだろうか」

という不安をもった。

それゆえ秀吉は、

九州征伐・関東征伐・奥羽征伐が、終わったあとも、

さらに、明にまで攻めていくことも、

構想していたものと思われるのだ。

刃物を持っての駆け込み乗車はおやめ下さい  吉澤久良

拍手[7回]

ジュテームジュテーム試されているのか  前中知栄


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「秀吉悲痛」

秀吉淀殿の期待の星・鶴松は、

体が弱く、生まれつき病気勝ちだったが、

天正19年(1591)8月19日、ついに危篤に陥った。

淀城での医師による、懸命な治療の一方、

秀吉は、京都東福寺に籠って日夜、

快復平癒を祈願したが、空しかった。

ひーと哭いて後頭から襲う鵺の鳴く夜  山口ろっぱ

秀吉は、わずか3歳で逝った鶴松の死に号泣し、

髷を切って喪に服す。

淀殿も、骸となった幼いわが子を、抱きしめた。

鶴松の幻を、秀吉は追う。

初秋、まどろんで鶴松の夢を見、

炬燵の上を涙の海にした。

”亡き人の形見に泪残し置きて 行方知らずも消え落つる哉”

と、突き上げる悲しみを歌にした。

弔電を打つダンラクにある乱れ  森中惠美子

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    名護屋城屏風

その悲しみを、「朝鮮出兵」で忘れようとするかの如く、

肥前・名護屋城(佐賀唐津)の普請を命じ、

「たとえ、息子の鶴松が蘇生し、予の足下に平伏し、

  多くの涙を流し、

 父の慈悲にすがって

   この企てを断念するように嘆願しても、

 決して聞きいれはせぬ」 (フロイス『日本史』)

と宣言し、関白を甥・秀次に譲り、自ら「太閤」を名乗って、

世界に己が”佳名”を知らしめたいと、

諸大名に出撃命令を出した。

ぶれていく月を押しピンで止める  岩田多佳子 

f7840cf7.jpeg   

 山上宗二の墓がある早雲寺

「山上宗二」

利休の一番弟子・山上宗二は、

堺の山上に住んだので、山上を姓とした。

利休に茶を学ぶこと20年、利休茶道の極意を皆伝された。

信長に茶を持って仕え、

信長の死後は、秀吉に仕えた。

天正10年には、

姫路城また山崎妙喜庵の茶会で、茶頭をつとめている。

口に衣を着せぬ宗二は、ある日、

「黄金の茶室」を自慢する秀吉に、

「そんなものなど、茶道の道に外れます」

と、秀吉の成金趣味を笑い、批判した。

洗濯バサミ噛みつくことで仕事する  三上博史

同時に、師匠の利休に対しても、宗二は、

「あんなもの黙認するのは、あなたは堕落している」

と、痛烈な言葉をあびせた。

そして、そのまま大坂城から姿を消した。

逃げた先は、東国の北条一族の北条幻庵のもと。

頼られた幻庵は、宗二の気骨を愛し、客分として遇した。

そこで宗二は、北関東に茶湯を広めたという。

穴を出て蟹よさてさてしあわせか 中野六助

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      宗二の墓

その後、身を隠すでもない宗二は、

秀吉の配下の者にみつかってしまい、

秀吉の前に、引き出せれてしまう破目になる。

「宗二 こんなところに隠れておったのか?」

秀吉はじくじくと、

「おまえは、まだ、わしの黄金の茶室を、

  成金の俗物主義だと思っているのか?」


宗二を責める。

「思っております」

宗二も譲らない。

怒った秀吉は、宗二をいたぶり、

部下に命じて、鼻を斬らせた。

鬼は外言うこと聞かぬ天邪鬼  柴田敬子

その上で秀吉は、また同じことを聞く。

そして、宗二の答えは、また同じ。

秀吉は、次に、宗二の耳を切り落とした。

こうして宗二は、秀吉になぶり殺しにされる。

この一部始終を目撃した利休は、

このとき、何を思ったのだろうか。

利休が、謝罪か切腹か二者のうち、

切腹を選んだ裏には、

秀吉の理不尽な拷問に耐え、

信念を曲げなかった
宗二の姿への、

反省があったのかも知れない。

ナイアガラの滝も袈裟がけに斬った  井上一筒

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大河ドラマ・「お江」-第25回・「愛の嵐」 あらすじ

江(上野樹里)利休(石坂浩二)切腹の命を覆すよう説得するべく

秀吉(岸谷五朗)のもとを訪れる。

だが秀吉は、その話を聞いた途端にいらだち、

席を立ってしまった。

利休を救いたいと焦る江。

秀次(北村有起哉)から、

「利休が詫びを入れさえすれば、切腹は免れる」

という助言も受け、とにかく本人に会って、

秀吉に頭を下げてくれるよう、頼もうと考える。

逆風を奏でる葬送曲を聞く  太田 昭

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しかし、利休は厳しく見張られており、容易に会うことはできない。

そこで彼女は、

同じように、彼の身を案じる秀勝(AKIRA)と、

炭売りに変装。

なんとか、警備の目をかいくぐり、

利休との対面を果たすのだった。

利休は、そうまでして訪ねてきた江の気持ちを、

十分に理解し、
また、うれしくも思った。

だがその上で、自分は死を受け入れると話す。

江は、「切腹などさせませぬ」と食い下がるが、

利休は決然と言う。

「これは、利休が決めた、利休の道なんですわ」

最後の晩餐のり茶漬けサラサラと  中村登美子

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利休切腹の知らせを受けた秀吉は、

人目もはばからず号泣する。

彼は、本心では、今も利休を慕っており、

誰かが切腹を止めることを願っていた。

少しして、さらなる悲劇が彼を襲う。

鶴松(大滝莉央)が病死したのだ。

秀吉は、髷も結えぬまま、亡くなった愛児を思い、

自らの髷を切り落としてしまうほど、嘆き悲しむ。

そして、生きる力を取り戻すかのように、

新たな戦の計画に、のめりこんでいく。

見なければよかった箱の中なんて  佐藤美はる

拍手[6回]

獏のされこうべを満月が洗う  たむらあきこ


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茶人の武野紹鴎(たけのじょうおう)、千利休が修行をした南宗寺

「利休が死の前日に詠ったとされる辞世の句」

『人生七十 力囲希咄          (じんせいしちじゅう  りきいきとつ)
  吾這寶剣 祖佛共殺          (わがこのほうけん  そぶつともにころす)
  堤る 我得具足の 一太刀      (ひっさぐる  わがえぐそくの  ひとたち)
  今此時ぞ  天に抛』                 (いまこのときぞ てんになげうつ)

≪意味を読み解ければ、利休の死の訳が見えてくるのです・・・が≫

カマ首をときどき起こし風を聴く  森中惠美子

「利休が秀吉に死刑を命じられる原因を探る」

天正18年(1590)、秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、

利休の愛弟子・山上宗二が、

秀吉への口の利き方が悪いとされ、即日処刑された。

奈良の茶人・久保利世が自叙伝の中で、

「茶説・茶話」を収録した原文に、

『小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申て、

  その罪に耳鼻をそがせ給ひし』 とある。

この事件から、秀吉と利休の間に、思想的対立がはじまる。

もう二度と熱くなれない君と僕  松山和代

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     利休百会記

≪宗易茶の湯会席 八月十七日≫

利休は、最晩年の天正18年(1590)から、

天正19年にかけて、『利休百会記』として、

その記録が伝わる、およそ「百会の茶会」を開いた。

徳川家康毛利輝元らの大名衆、堺や博多の豪商、

大徳寺の禅僧など、多様な人々が出席した。

また、この茶会記には、

利休七種にもあげられる「赤楽茶碗・木守」や、

利休愛用の「橋立の茶壷」などの道具を用いた。

号外が降ってきそうな日本晴れ  久岡ひでお

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そして、1月13日、黄金の茶碗を所望した秀吉に、

「わび茶は無駄ともいえる装飾性を省き、

  禁欲的で緊張感のある茶である」

と主張する利休は、あえて、『黒茶碗』を出した。

これが、秀吉の勘気に触れた。

≪黄金の茶室と利休についても、

   「利休の美意識と黄金の茶室の趣向は相反するもの」

   という見方があり、利休設計ということに異論がある≫ 

                                                                            【表千家・「伝聞事】

プライドが変なところへ線を引く  北川ヤギエ

 そして、10日後の1月22日、

利休の後ろ盾であった秀吉の弟・秀長が病没。

秀長は、諸大名に対し、

「内々のことは利休が」、

「公のことは秀長が承る」

と公言するほど、利休を重用していた人徳者である。

それから、1ヵ月後の2月23日、

突然、秀吉から、

「京都を出て堺で自宅謹慎せよ」

と利休に命令が届く。

2月25日には、利休の木像が聚楽大橋に晒され、

翌26日、上洛を命じられる。

右よし左よし見上げれば雪  酒井かがり

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      利休邸跡     

前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら、

大名である弟子たちは、

大政所北政所が密使を遣わし、命乞いをするから、

秀吉に詫びるようすすめた。

、「天下ニ名をあらハし候、我等ガ、命おしきとて、

      御女中方ヲ頼候てハ、無念に候」  と断った。
                  
                                 「『千利休由緒書』に残る利休が利家に答えた言葉」

遺言と書いて江戸小噺を一つ  筒井祥文

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       椿の井戸   

そして、2月28日、利休の屋敷がある、

京都葭屋(よしや)町を訪れた秀吉の、使者が伝えた伝言は、

「切腹せよ」

この使者は、利休の首を持って帰るのが任務だった。

利休は静かに口を開く

「茶室にて茶の支度が出来ております」

使者に最後の茶をたてた後、

利休は一呼吸ついて切腹した。  享年70歳。

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 利休愛用の袈裟形手水鉢

利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界する。

晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、

利休と同じ作法で食事をとったり、

利休が好む「枯れた茶室」を建てさせたという。

転がってみたいと思うまっ四角  合田瑠美子

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       利休像

「死罪の理由にされている諸説」

 大徳寺三門(金毛閣)改修に当たって、増上慢があったため、

       自身の雪駄履きの木像を、楼門の二階に設置し、

      その下を秀吉に通らせた疑い。

 安価の茶器類を高額で売り、私腹を肥やした疑い。

③ 天皇陵の石を、勝手に持ち出し手水鉢や庭石などに使った疑い。

 秀吉と茶道に対する考え方で対立した疑い。

 秀吉が利休の娘を妾にと望んだが、

     「娘のおかげで出世していると思われたくない」

と利休は拒否した。などなど。

落ち着いて話せば解る勘違い  平田愛子

拍手[9回]

あしたという字は暗い日と書くのね  喜多川やとみ


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    利休庵の茶釜

「年表・秀吉ー呪われた3年」

「天正18年(1590)」

家康夫人・旭姫死去(一月)。
小田原城に北条攻め。北条氏滅亡。
家康関東へ移封。信雄改易。
 
「天正19年(1591)」

羽柴秀長死去(一月)。
千利休切腹(二月)。
信雄長女・小姫死去(七月)。
鶴松病死(八月)。

甥の秀次に関白職を譲る(十二月)。

「文禄元年(1592)」

お江、羽柴秀勝に嫁ぐ(二月)。
文禄の役ー秀吉茶々を伴って出陣。秀勝も出陣(三月)。
秀吉の母・大政所没(七月)。
秀勝朝鮮の巨済島で病死(九月)。

文禄の役の敗色。 このころ、お江完子出産。

有り様もあらざるモノも現世  山口ろっぱ

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    羽柴秀長

「秀長・利休・鶴松、それぞれの死」

天正19年(1591年)、この年は三姉妹の周辺に、

いくつもの不幸が続いた。

1月に、秀吉の弟で右腕と頼んでいた大和大納言・秀長が、

この世を去った。

前年の初めに、徳川家康に嫁いだ妹・「旭姫」が、

聚楽第で亡くなっているから、

秀吉は、妹と弟を相次いで失ったことになる。

〇書いてチョンなら墓石に刻れますか  田中博造

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     千利休

2月には、秀長の協力者でもあった千利休が、

切腹している。

また、小田原の陣で、

北条家に仕えていた利休の高弟・山上宗二が、

利休の仲介で秀吉に面会を許された折、

無礼を働いたとして、打ち首になった。

カンナ屑私は何を削りとる  森田律子

小田原では、石田三成の舅の兄・尾藤知宣が、

島津攻め「根白坂の戦い」の失敗の、反省もなく、

秀吉の作戦を酷評、

「自分にまかせるべきだ」

などと、大風呂敷を広げ、打ち首になった。

うかつにも直し忘れた未来地図  新川弘子

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                   旭 姫

7月、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫が亡くなっている。

わずか7歳であった。

小姫は、徳川秀忠と結婚することになっていた。

北の果て余白の多い時刻表  ふじのひろし

そして8月、もともと身体が弱かった「鶴松」が、

わずか、3歳で亡くなった。

秀吉の嘆きはあまりに深く、東福寺に入って髷を切った。

主な大名たちも、それにならったという。

幾層の闇 剥がしても剥がしても  赤松ますみ

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  南宗寺内・利休茶室

「茶人・千利休」

千利休は、堺で納屋衆(倉庫業)を営む商家に生まれる。

商家の屋号は、なぜかユニークに魚屋(ととや)という。

父は、田中与兵衛、母の法名は、月岑(げっしん)妙珎、

妹は、、茶道・久田流へと続く宗円

若いころから、茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳(きたむきどうちん)

ついで、武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事し、

師とともに、茶の湯の改革に取り組んだ。

するめいか焙るとスルメ起き上がる  泉水冴子

その流れから、織田信長が堺を直轄地としたときに、

茶頭として雇われ、

のち豊臣秀吉に仕えた。

利休という名は晩年、天正13年(1585年)10月の、

秀吉の禁中茶会で、正親町天皇から賜った居士号であり、

それまでは「千宗易」という法名を名乗った。

山の端の雲が大人になった雲  井上一筒

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   南宗寺・茶室

利休は、わび茶の完成者で、「茶聖」と称される。

わび茶は、無駄ともいえる装飾性を省き、

”禁欲的で緊張感”のある茶である。

その世界を追求するため、

利休は、草案と呼ばれる二畳や三畳の「茶室」を創出。

また楽茶碗、万代屋釜、竹の花入れ、などの「利休道具」を考案し、

露地の造営にもこだわり、

茶の湯を、「一期一会の芸術」にまで高めたのである。

≪楽茶碗の銘ー(黒の方は「大黒」、赤の方は「道成寺」)

展開は真みどり三重奏の靴  富山やよい

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一時期、利休は、秀吉の聚楽城内に屋敷を構え、

聚楽第の築庭にも関わり、

禄も三千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。

天正15年(1587)の「北野大茶会」を主管し、

一時は、秀吉の重い信任を受けたが、

その4年後の天正19年1月、

利休は、突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられた。

澄んでしまえば生きにくい白である  前中知栄

蟄居の7ヶ月後、利休は切腹をする。

今もって、謎とされている千利休の死。

秀吉に切腹を命じられたことによるが、

死罪の理由は、定かではない。

しかし、天下人の気紛れにも似た、理不尽な命を、

粛々と受け入れることで、

利休は、世俗の王・信長や秀吉の上に立ったともいえる。

理想論でうごくこの世であるならば  たむらあきこ

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『大河ドラマ・第24回・「お江」―「利休切腹」  あらすじ』

天正19年(1591)正月22日、

戦場を駆けた若き日から、

秀吉(岸谷吾郎)を支えてきた弟・秀長(袴田吉彦)が、

かねてよりの病を悪化させ、明日をもしれぬ状態だった。

秀吉は、すぐに病床に駆けつけるが、

秀長は、もはや虫の息。

秀長は、

「江や利休など耳に痛いことを言う者を信じるべき」

と、最後の力をふりしぼって、兄に言い残し、力尽きる。

虚しさの残る言葉に蓋をする  小川一子

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秀吉と大名たちの、つなぎ役でもあった秀長が、

いなくなったことは、

豊臣政権にとっては大打撃だった。

仲介役の秀長が亡くなったことで、秀吉と利休の関係も、

ますます悪化していく。

秀吉があまりにも、利休を重用することで、

誰もが利休を頼るようになっており、

また利休もそれを利用して、

出世していくことに、懸念を示していたのだった。

添うた背いた花筏の蛇行  岩根彰子

北条攻めに勝利した秀吉は、東国の諸大名を屈服させ、

ついに天下統一を成し遂げて、ほどなく、

京・聚楽第に、いとしい鶴松(大滝莉央)のもとへと急ぐ。

彼は、やっと授かった跡取りが、可愛くてしかたがないのだ。

そんな中で騒動は起きた。

シグナルは点滅行き場に揺れている  山本昌乃

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秀吉が朝鮮の使節と会見する際、

こともあろうに、鶴松を連れて現れたのだ。

朝鮮は礼を重んじる国。

公の場に幼児を同席させるのは、礼を失した行為となる。

しかし秀吉は、

鶴松を見て困惑する使節たちの様子を気にもせず、

「わしは日輪の子である」

と宣言し、さらに、明国を平らげるつもりだから、

「朝鮮は戦に協力しろ」

と言い放つ。

使節たちは、彼の傲慢な態度に怒って席を立ち、

会見は台なしになってしまった。

螺旋の底で水の澄むのを待っている  森 廣子

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このような秀吉の言動に対し、利休(石坂浩二)は、

2人の関係悪化に気をもむ江(上野樹里)が、

冷や冷やするような、遠慮のない言葉を投げかける。

それを聞き、秀吉は、すぐさま機嫌が悪くなる。

だが実は、利休の従順ならざる態度を、

最も苦々しく思っていたのは、

秀吉の忠実な側近・三成(萩原聖人)だった。

石よりも硬い頭が邪魔になり  橋本 康

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そんなことから、同年・2月13日、

石田三成の讒言により、

利休は、大坂城から堺へと追放が決まった。

利休は頑なに謝罪を拒否し、

秀吉も引くに引けなくなり、

2月28日、利休は、聚楽第で秀吉より切腹を命ぜられた。

ゾロゾロと喪服二幕目へと続く  谷垣郁郎

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