川柳的逍遥 人の世の一家言
生命線も運命線も汗をかく 森中惠美子 柴田勝家は、清洲会議以後、羽柴秀吉との対立を深め、 ついに両者は、近江余呉湖畔で対陣する。 「賤ヶ岳の戦い」 織田家の幼主となった三法師は、 いったん清洲から信孝の岐阜城に戻ったあと、安土城に移るはずであった。 安土城は、”本能寺の変”で、天守閣などは焼かれたが、 すべての殿舎が、失われたわけではない。 応急で新しい御殿も設備され、本能寺の変から三年後に、 近江領主となった豊臣秀次が、安土の城下をそっくりに、 ところが信孝は、お傅役に予定されている堀秀政らが、 羽柴寄りであることもあって、三法師の引渡しを渋った。 秀吉や信雄は、「引っ越しを早くするように」催促していたが、 越前に雪が降って、柴田勢が動けなくなるのを待って、 天正10年(1582年)12月、 勝家の甥で、長浜城主だった勝豊を攻めた。 勝豊は養子であったが、勝家ともうひとつ、しっくりいっていなかった。 そこを見越しての攻撃で、勝豊は二日間で、城を明け渡すことになる。 いけ好かぬ顔向うからやってくる 山本翠公 この報せは、北ノ庄にも届いたが、すでに雪が降り積もり始めており、 勝家は、なすすべもなかった。 秀吉と信雄の連合軍は、こんどは岐阜城を囲んだ。 雪で閉じ込められた越前からの援軍も、期待できず、 信孝は、三法師を引き渡して、安土に移すとともに、 大切な生母と、自身の娘を人質に出さざるえなくなった。 悔しくてたまらない勝家は、春になったら秀吉と戦うべく、 各地に手紙を出し味方をつのった。 とくに毛利家では、小早川隆景が秀吉シンパだということで、 兄の吉川元春や、備後にいる足利義昭に味方するように工作をした。 2月になると、秀吉は伊勢の滝川一益を攻めた。 一益は、信長軍団でも軍司令官としては、もっとも有能な武将であったが、 本能寺の変のときに、上野の厩橋にあって北条勢に囲まれて、 逃げ帰ってきたことから、宿老の地位を失い、 領地も旧領の伊勢長島周辺だけになっていた。 あちらこちらにト書きうっかりしておれず 山本昌乃 いたたまれなくなた勝家は、 3月9日、雪がまだ積もる中で強行出撃をする。 秀吉は急いで軍を近江に戻し、湖北の木之本付近で、柴田軍と睨みあった。 この情勢を見て、動き出したのが信孝である。 美濃国内の稲葉一鉄や大垣の氏家直道といった、秀吉派大名の領地へ攻撃を加えた。 秀吉は、一旦、美濃に転進するとともに、 人質にとっていた信孝の母を、殺してしまうことになる。 このことは当然、信雄も同意していた。 乗せられた船には穴が空いていた 辻 葉 母を人質にとられていたのに、 どうして信孝が、大胆な動きをしたのか判然としない。 信孝の犠牲は、大きいものであった。 この母は、蒲生氏郷夫人である冬姫の母でもあった。 氏郷は、この戦いで秀吉軍の有力武将として、 伊勢で滝川勢と戦っていたのだから、 戦国の掟とはいえ、残酷なことである。 几帳面でおしゃれな母であったのに 柏原才子 攻める秀吉軍 果たして柴田軍の佐久間盛政は、中川清秀が守る大岩山砦を急襲した。 その近くにある岩崎山砦にあった、高山右近は撤退し、 清秀にも、それを勧めたが、清秀は踏みとどまって戦死してしまった。 武将としての美学を通したのである。 ≪ただ、この清秀の頑張りによって、 中川家は豊後竹田藩七万石の大名として、生き残ることができた≫ 向うから仕掛けられたら受けて立つ 堀江くに子 さて、盛政は、緒戦の勝利に酔ってしまい、 勝家の忠告を無視して、羽柴軍を深追いしてしまう。 陣形が伸びてしまったところに、 急を聞いた羽柴軍が、農民に松明を焚かせ、食事を炊き出しさせて、 常識破りのスピードで戻ってきた。 ≪午後4時に大垣を出発して、賎ヶ岳までの50キロを、 5時間で走ったと言うから、誇張があるにしても、驚異的なスピードである≫ 迅速な行動は、羽柴軍の得意とするところ、 盛政軍は、あわてて退去しようとしたが間に合わず、 羽柴軍にさんざんに打ち破られた。 ≪福島正則、加藤清正のほか、浅井旧臣の片桐且元、脇坂安治など、 ”賎ヶ岳の七本槍”といわれる羽柴軍の若手武者たちが、 活躍したのはこのときのことである≫ ライバルはおへその裏に棲んでいる 小谷小雪 しかも、この戦いでは、 戦況不利と見ると、早々に戦場を離脱している。 柴田の与力とはいえ、秀吉とは若いときから懇意で、 娘の豪姫を秀吉夫妻の養女として、出しているほどだったから、 もともと、しぶしぶ参加していただけなのだ。 それは、勝家も分かっていたことであった。 そこで勝家は、北ノ庄への帰路、府中の城に立ち寄り、 利家の従軍に感謝し、後事を託して落ちていった。 そのあとに、秀吉が訪ねてきて、利家とまつ夫妻に会い和解したという。 こんにちは さよなら言うただけの今日 泉水冴子 PR
生命線を辿ったら砂漠に着いた 壷内半酔
賎ヶ岳合戦屏風 「市の人生」 戦国時代、一番の美女と称された市。 だが、織田信長の実妹であったがゆえに、 その運命は、過酷なものとならざるを得なかった。 政略結婚で嫁いだ北近江の大名・浅井長政とは、 うらやむほどの仲睦まじさであったとされ、 茶々、初、江が、次々に誕生した。 ところが三女の江が生まれてすぐに、市の運命は暗転する。 切り株がいちにち獏の席になる たむらあきこ 信長が、浅井家と古くから盟友関係にあった朝倉義景を攻めたため、 長政と信長の同盟関係は崩れ”姉川の戦い”で、対立は決定的となる。 やがて織田方の大軍によって、本拠の小谷城は包囲され、 長政は父・久政とともに自害、小谷城も落ちた。 市は長政の懇願を受け入れ、娘たちを連れて織田家に帰還した。 市は三人の娘とともに、信長の弟である織田信包を後見として、 信長の庇護を受けながら、清洲城や伊勢上野城で暮らした。 だが、夫の仇である兄に対し、市の心境は複雑だったはずだ。 その後、"本能寺の変"で信長が死に、明智光秀も、羽柴秀吉に倒されると、 市は娘たちを連れて、柴田勝家と再婚した。 市たちは”越前・北ノ庄城”に迎えられたが、 結婚の翌年、信長の後継問題で秀吉と対立した勝家が、 ”賎ヶ岳の戦い”で敗れ、 人の世を底なし沼と言うらしい 浜田さつき 北ノ庄城への攻撃は、4月23日に始まる、も翌日には大勢が決し、 勝家は、「敵の手で討ち取られるよりは」 「城から落ちたいものは、好きに出て行くよう」 に認めたにもかかわらず、そこに残った家臣や妻妾たちは、 「勝家とともに果てる」ことを望んだのだという。 市に対しても、勝家は、 「娘たちとともに、秀吉に帰順せよ」 しかし、勝家は執拗に、 「浅井家の血を絶やしてはならない」 と遺言し、娘たちだけを秀吉の陣に、送り届けさせた。 その後、一族そろって念仏称名を唱え、この世に別れを告げ、 おのおの自決したり、差し違えたりと地獄絵が繰り広げられたという。 『長政を失って以降の「市の人生」は、 自らの死に場所を探し求めるものだったのかも知れない』 競争の最たるものは生きること 三宅保州 「お江・『義父の涙』-あらすじ」 秀吉(岸谷五朗)は、京の大徳寺で信長の葬儀を、盛大に執り行った。 だが、その葬儀は、越前の柴田勝家(大地康雄)や市(鈴木保奈美)たちには、 明らかに勝家に対する挑発であった。 勝家 「猿をこのまま捨て置くわけにはいかぬ」 茶々 「秀吉との争いになるのですか?」 初 「戦が起こるのですか?」 江 「戦はいやにございます!」 勝家 「文を書くのじゃ」 茶々 「ふみ?」 勝家 「秀吉の手前勝手なふるまいを面白からず思うものは少のうない。 皆に声をかけ、猿を黙らせてくれるまでじゃ」 噛み付いた言葉の奥の不眠症 山本芳男 だが、秀吉は黙ってはいなかった。 秀吉は、勝家の所領である近江の長浜城を、攻め落としたのであった。 長浜城は、もともと秀吉が浅井・朝倉攻めの手柄として、 信長より拝領し、秀吉にとっては初めての城だった。 だが、「本能寺の変」後の清洲会議で、勝家の所領と決まったのであった。 秀吉は、 「もともと自分の城だったものを取り返したのだから何が悪い」 というが、明らかに勝家に対する挑発以外の、なにものでもなかった。 市は相手が秀吉だけに、「これだけでは終わらない」と感じていた。 そして、秀吉による更なる挑戦が始まった。 岐阜の織田信孝(金井勇太)のもとにいた幼い三法師(庄司龍成)を、 「三法師は、信長の跡取りに決まったのだから、安土城に入るのが当然だ」 というのが、秀吉の言い分だった。 確かに理は通っていた。 だが、何万もの兵で城を囲むのは、あまりにも度が過ぎていた。 拭き取ったがもう一つ奥の顔見えず 小谷竜一 勝家の怒りは、既に沸点に達していた。 いつもだったら即座に出陣であった。 だが、今は大切な家族があった。 家族の為にも、なるべく戦はしたくなかった。 信孝からは、「年があけたら挙兵するつもりなので、一緒に戦おう」 という書状が届いた。 そして、年が明けた天正11(1582)年の正月。 信孝が、秀吉相手に 挙兵し、志を同じくする大名たちも加勢した。 だが、簡単に、やり返されてしまったのだ。 信孝からの書状を読む勝家は思わず言う。 勝家 「この時期に無茶なことを・・・・。共に立てば猿を挟み打ちにできたものを・・・」 市 「戦は避けられないのですね・・・」 勝家 「わ、わしは、そのようなことはいうておらぬぞ。・・・うむ。ひとことも言うておらぬ」 その夜、市は勝家が寝床から抜け出していることに気付き、捜しに行く。 すると、勝家が夜着一枚で、じっと月を見つめていた。 その表情は、必死に何かを堪えている様子だった。 翌日、市は娘たちを説得する。 市 「敵方にああまでされたら、行くしかないのが男というもの。 なのに、ひたすら耐えておられる。 勇猛な戦いぶりで名を轟かせ、鬼柴田とまで呼ばれたお人がじゃ。 勝家様が心置きなく戦うには、そなたたちの助けもいるのじゃ」 茶々 「私にはわかりませぬ」 市 「茶々。そなたは浅井の父・長政様の死を心より悲しんでおる。そうじゃな?」 茶々 「無論です。それも戦で命を落とすなど・・・」 市 「しかし父は果たして、哀れなだけ、不幸なだけであったのか・・・?」 茶々 「・・・どういうことでしょう?」 玉手箱置き忘れたか母の海 ふじのひろし 市 「誇りを貫き、武士として死ねたことは、父の喜びではなかったか・・・。 女にはわからぬが、敗れようとも戦って死にたい、それが男なのやもしれぬ」 初 「私たちと別れてもですか?」 市 「そうじゃ。長政様ばかりではない。私は兄・信長も見てきた。 その兄を討った明智光秀殿も同じ思いで死んでゆかれたのであろう。 ・・・男とは、武士とは、かくも不可思議な生き物なのじゃ」 茶々 「・・・とめぬことは、できぬのですか?」 市 「これ以上とめるのは、死ねというよりむごいことやもしれぬ。・・・勝家様は男ゆえな」 知らぬ間に相手の踏絵踏んでいた 武本 碧 市の必死の説得により、茶々(宮沢りえ)と初(水川あさみ)は、 二人の申し出に勝家は喜んだ。 だが、江(上野樹里)だけは認めなかった。 江 「義父様は約束なさいました。戦はせぬと仰せになりました。なのに・・・。 義父上は嘘つきにございます・・・」 やがて、出陣の朝となった。 勝家は、市、茶々、初に見送られて出陣することとなった。 だが、江はとうとう姿を見せなかった。 諦めて行こうとしたところ、江が息せき切って駆けてきた。 江は、布袋を勝家に手渡す。 お守り袋であった。 それは、二日間、寝ずに縫ったもので、 江の手は、その悪戦苦闘が物語るように、針傷と膏薬だらけだった。 お守り袋というからには、中身のお守りがなければならなかったが、 中身までは考えてなかった。 すると、勝家は市に促されて「天下布武」の印判を中に入れた。 勝家にとっては最高に心強いお守りが出来た。 勝家 「では、行って参る」 市 「存分に戦って来てくださいまし」 勝家 「うむ」 市と三姉妹が見守る中、 すると、江はたまらなくなって走り出した。 そして、泣きながら叫ぶのだった。 サヨナラの言葉の先を聞きのがす 中野六助 戦は済んだポッカリ浮いている 谷垣郁郎 武勇に秀で、無骨な性格のため「鬼柴田」とも称された柴田勝家。 織田信長の筆頭家老であった勝家は、最初から信長の家来ではなかった。 信長の弟・信勝の家臣で、最初に信勝が兄・信長に反旗を翻したときは、 信勝軍として戦っている。 ところが、二度目の謀叛のときには、 その功があって勝家は、信長の家臣として迎えられることになった。 遮断機の前に待つのも命がけ 三宅未知子 こうしたいきさつがあり、赦免されてからは信長に絶対の忠誠を誓い、 重鎮として重用された。 天正3年(1575)、信長が”越前一向一揆”を平定したあと、 越前のほとんど、といってよい八郡を勝家に与え、 その後、越後の上杉謙信・景勝との戦いで最前線に置かれ、 北陸方面軍司令官として、 ”加賀一向一揆”との戦いでも活躍している。 ジャンプして月に手形をつけました 嶋澤喜八郎 居城の北庄城には、「九重の天主」が聳えていた。 これは、信長の安土城天主を上回る大きさである。 これからでも、いかに勝家が信長に、信頼されていたかわかる。 しかし、信長死後の明智討伐しかり、 軽トラで盗めぬ知恩院の鐘 井上一筒 信長死後、お市の方と結婚。 三姉妹ともども越前の北ノ庄城に暮らすが、 義父として、無骨ながらも深い愛情を注ぐ。 父・長政の記憶がないお江にとっては、 男親の愛情というものを、身をもって教えられた男かも知れない。 握られた火照り今夜は眠れない 杉本克子 天正10年(1583)、「賎ヶ岳の戦い」で敗れたあと、 北庄城での勝家の最期は、「鬼柴田」の異名をとった、 落城前夜、最後の酒宴を張り、 再婚したばかりのお市の方と自害する。 このとき、天守閣にのぼり、 「修理(勝家のこと)が腹の切りざま、見申して後学に仕候へ」 と叫び、 ≪これが切腹のときの正式な作法だった≫ 二人の辞世の句は、次の通り。 『夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす』 柴田勝家1583年4月24日没 享年62歳 ≪名を惜しむ武士の心が読み取れる≫ 『さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎす』 お市の方1583年4月24日没 享年37歳 ≪夫婦共に、ほととぎすを読む情の深さを感じる≫ 勝家の”夏の夜の”を、市がそれを拾い句に添えた、市の愛情の証拠である。 ≪これは、二人が自害する数時間前に、向かい合って詠み残したものと推測される≫ 男は土に女は風に死ぬという 森中惠美子 「市の再婚を考察する」 天正10年(1582)6月の清洲会議で、 お市は柴田勝家のもとに輿入れすることになり、 お江たち三姉妹も母親とともに、北ノ庄城(福井市)に移り住むことになった。 この時、お市の方は37歳。 当時としては、孫がいてもおかしくない年齢である。 三姉妹の長女・茶々は15歳くらいで結婚適齢期。 次女の初は、女好きの秀吉の食指がうごかなかったことからすると、 14歳ぐらいでも、まだまだ、こどもこどもしていたのであろう。 三女・お江は10歳ぐらい。 3人とも、もう物心がついた年齢である。 お市の方と柴田勝家の夫婦仲は、 「熱愛といっていいほどだったのでは」 ないかと思われる。 明らかに、秀吉が有利に天下獲りを進めるための、 2人の仲はよかった。 ラーメンの汁に沈んでいた指輪 井上一筒 これはなぜか。 お市の方は、小谷城が落ちたあと、出家せずに伊勢に10年間あずけられた。 信長から、政略結婚を命じられたが、すべて断っている。 けれども清洲会議では、勝家のもとに嫁ぐのを承諾している。 お市には再婚相手は、「勝家意外にはありえなかった」 のだと考える。 さらに柴田勝家には、正室がいた様子がない。 当時の感覚から言えば、出家してでもいない限り、 家名を維持するために、子をもうけるのが普通である。 勝家は、「市のために正室の座を空けておいた」 のではないか。 この2人が、10年のブランクを経て、ようやく結ばれたのだ。 勝家にいたっては、お市が浅井長政に嫁いでいる間も、 これで熱愛にならないほうが、どうかしている。 上流に向けて利き足から入る 森田律子 では三女・お江はどういう生活をしていたか。 お江は、小谷城から脱出したときは、乳飲み子だった。 実父・浅井長政の記憶はない。 お江が物心ついてから、北ノ庄城に移るまでの10年間、 後見人の織田信包が父親がわりだったが、しょせん父親がわりである。 信長の命令でと東奔西走しているうえ、 即座に、お市と三姉妹を秀吉に差し出す程度の、関係でしかなかった。 お江たち三姉妹と、お市が柴田勝家と暮したのは、 わずか9ヵ月間ほどだったが、 一緒に過ごす時間は、充分にあっただろう。 天正10年10月15日、京都大徳寺で秀吉が、 信長の法要を大規模におこなったときも、勝家は動かず、 同年12月に、秀吉が岐阜城の織田信孝を包囲して、投降させたときも、 勝家は豪雪で動けなかった。 言い方をかえれば、勝家はもっぱら北ノ庄城で待機し、 水面下で調略戦をおこなっていた。 つまり、ずっと北ノ庄城にいたわけで、お江たち三姉妹や市たちと、 家族団欒の時が充分にあったわけだ。 今日風を見ました青い色でした 河村啓子 お江にとっては、柴田勝家が最初の「父親像」だったといえる。 女に極端に清潔で、剛直な柴田勝家を最初に見てしまっては、 後年お江が、徳川秀忠のもとに輿入れしたとき、 温厚な秀忠に違和感を覚えても、不思議ではない。 『お江ー「初めての父』 あらすじ』 激動の天正10(1581)年も、秋が訪れようとしていた。 尾張・清洲城では、市(鈴木保奈美)と三姉妹の引っ越しの準備で、 おおわらわだった。 市と柴田勝家(大地康雄)とも婚儀により、 勝家の居城である越前・北ノ庄城に移る為だ。 だが、茶々(宮沢りえ)と初(水川あさみ)は相変わらず、 2人は、実父の浅井長政のことをまだ覚えており、 「父は長政意外には、あり得ない」 という考えだ。 暴れ川の気持ちが痛いほどわかる 西美和子 だが、江(上野樹里)だけは少し違っていた。 長政が亡くなったとき、江はまだ赤子で、殆ど父の記憶はない、 今度の母の婚儀で、父と呼ばれる存在が出来る事を、 密かに期待しているところがあったが、 姉たちの考えに、逆らうわけにはいかなかった。 清洲城での婚儀が終わった市は、三人の娘たちと一緒に、 越前・北ノ庄城に向かう。 北ノ庄城では、勝家と、家老の佐久間盛政(山田純大)が一行の到着を迎えた。 勝家は、家臣たちの前でも、 市に対しては、主を仰ぐような平身低頭のもてなしである。 「後悔しておいでなのではないかと・・・」 それを聞いて市は、呆然とした。 自分の心が、定まっていなかったことに気づいたのだ。 確かに秀吉への恨みから、勝家へ嫁ぐ決意をした。 だが、一旦嫁いだからには、勝家の妻なのだ。 市は、娘たちの前で素直な気持ちを訴える。 市 「・・・・私は・・・間違えておった」 初 「間違い?」 市 「勝家様に父になれ、そなたたちに勝家様を受け入れよ、と言う前に、 ・・・おのれ自身の思いが定まっておらなんだ」 茶々 「何を・・・仰せなのですか?」 市 「私は本日より、勝家様の妻となる。 秀吉への恨みからではなく、心より勝家様を受け入れ、暮らして参ろうと思う」 江 「(呆然と)母上・・・・」 市 「その上で、そなたたちに言いたい。・・・勝家様を実の父と思うて接してはくれぬか?」 茶々 「私の父は・・・・浅井長政ひとりにござりまする」 市 「茶々・・・」 初 「その通りにございます」 茶々 「お許しくださいりませ」 ため息をつく市・・・・。 ただ江だけは、 そんなある日、江はひとり馬で駆け出す、が、嵐となり城に戻れなくなる。 慣れない土地での馬での遠出。 道に迷ったのではないか・・・? 崖から落ちたのではないか・・・? 熊に襲われたのではないか・・・? 皆の脳裏に様々な思いが巡る。 市も姉たちも、心配だった。 それ以上に勝家は心配し、方々に手配して、江の行方を追った。 折り悪く空には稲光が走り、やがて豪雨になっていった。 勝家は、表門に仁王立ちになり、まんじりともせず、 江が帰ってくるのを待った。 やがて、夜が明けた頃に、江は馬を引いて戻ってきた。 皆、江の無事を喜ぶ中、勝家がつかつかと江に近づくと、 勝家 「何じゃ! そのいけしゃあしゃあとした面は! おのれが仕出かしたことが、わかっておるのか?」 市 「勝家様、そこまでなさらずとも・・・」 勝家 「(厳しい表情で)そなたは黙っておれ!」 そう言うと、江を厩番の与助のところに連れて行って、謝罪させる。 勝家 「詫びよ、江。・・・そなたが帰らなんだら、この者は首を討たれておったのだぞ!」 泣きながら与助に許しを請う江に、勝家は静かに言う。 勝家 「わかるか? 上に立つ者は、つねに下の者に心を配っておかねばならぬのじゃ」 江 「・・・はい」 そして、茶々と初に向かって、 勝家 「そなたたちとて同じこと。 泣いている江を抱きしめながら、 勝家 「どこにも怪我はないのだな?」 江はいつの間にか、自然に「父上!」と言えるようになっていた。 さらに、茶々や初も勝家に父親の強さ、たくましさを感じていた。 そのときから、勝家と市、そして三人の娘は、本当の家族となった。 父の手紙と酒蔵にたどりつく 浜田さつき 赤いブーツがいま静脈を通過する 岩田多佳子 「お市と勝家の結婚、そして、お市はなぜ秀吉を嫌ったのか・・・?」 お市は、「清洲会議」のまえに、柴田勝家と結婚することが決まっていた そこで、お江たち三姉妹たちも、越前の北ノ庄に移ることになる。 「勝家とお市の結婚が、どのような経緯で決まったのか?」 このことの詳しい事情は、分かっていない。 「信孝の斡旋」でと、一般には言われているが、 実際のところ、お市と信孝が、とくに親しかったわけではない。 誰の手に預けるべきや紐の端 中野六助 傍にいた織田信包は、羽柴秀吉に付き従う行動をとっていたから、 反秀吉派の信孝の指図を、受ける立場ではない。 あくまでも推測になるが、信長の生前から、 「お市を勝家の後添えに」 もしくは、信包とお市の母である土田御前あたりの意向が、 あったのかも知れない。 信長が亡くなったあと、 「市やお江たち三姉妹の面倒を誰が見るか」 が、難しい問題になっていた。 土田御前が娘のことを心配して、 「旧知の勝家さまに嫁がせては・・・」 と思いつき、 「信包らと相談して、決められた」 こうして三姉妹たちは、越前への旅に出ることとなった。 浅井の旧領である湖北を通る途中、 宿泊した寺院などには、浅井家の縁者たちが、たくさん訪ねてくる。 お市にとっては、懐かしくはあっても、 その年の秋、信長の葬儀をめぐって、さや当てがあった。 勝家は、主導権をとりたいところであったが、 京都周辺は、羽柴勢が支配しており分が悪く、 結局、10月11日から7日間にわたって秀吉が、 養子である秀勝を喪主に、大徳寺で葬儀を執り行うのを、 指をくわえて、見ているしかなかった。 こころざし詰めた鞄が野に沈む 吉川哲矢 秀吉の勝家への対抗心は、懸想していたお市を勝家に、 「取られたからだ」 と、いうことを言う人もいるが、それは、大いなる間違い。 秀吉がお市のことを”好きだった”などというのは、 江戸時代になってから、言われ出したことである。 そもそも、秀吉が市と会ったことがあるのか、 そのことすら、怪しいものなのだ。 そんなに拭いたらメッキ剥げまっせ 森田律子 浅井長政とお市の結婚を、 二人が会える機会は、ほとんどなかったと考えるのが普通で。 小谷城落城のときにも、秀吉は城の背後から攻撃をしかけていて、 信長の陣営には、いなかったはずである。 お市と会う可能性は低かっただろう。 そしてその後にも、西国を転戦していた秀吉が、 市たちがいた上野とか、清洲に立ち寄ったという記録もない。 こうして考えていくと、秀吉がお市に、 と考えるには、少し無理がある。 もう一度跳ねる本当を見るために 田中博造 お市のほうが、秀吉を個人的に、「毛嫌いしていた」と推測する人もいる。 それには、浅井攻めの司令官だったのだから、 当然、好感は持たなかっただろう、また、 三姉妹の兄である万福丸の処刑などを、理由にあげている。 これもまた、あくまでも秀吉は、信長の命令で動いただけで、 戦国の世にあっては仕方のないことなのだ。 このことが秀吉に対してお市が、 「特別に悪い感情をもっていた」 と、決めつける根拠にはならない。 織田家の家臣団は、安土城でなく、この清洲城で行ったのだろうか?」 清洲は尾張の中心部で、信長が生まれる前は、 信長の父・信秀の家筋は、守護代の一家老に過ぎなかったが、 斯波氏の権勢が弱まったとき、 ”桶狭間の戦い”のときには、この清洲城から出陣している。 まさに、清洲は信長が、 すなわち、信長と同様に、家臣団にとっても、清洲は特別の場所だった。 そして、織田家の一大事となったとき、 我慢みな避けてこころに渇く音 笹川恭子 大城郭があった場所は、そのまま大都市になることが多いが、 清洲は、そうはならなかった。 ”清洲越し”といい、 清洲は水運の便がよい反面、水攻めには弱かった。 豊臣方との戦いを見越した家康は、清洲城を名古屋に移転させ、 西の反徳川大名が、関東に攻めてきた場合の守りを、固めたと推測されている。 JR・名古屋駅から二駅、清洲の駅から線路沿いに10分ほど歩くと、 清洲城の天守閣が見えてくる。 ≪かっての清洲城は、対岸の清洲公園の一帯にあった。天守閣は平成元年の再建≫ 清洲城のすぐ近くには、尾張の中心地として栄えていたころは、 物資を積んだ数多くの船が行き交っていたのだろう、 そして今も、信長の銅像が、その流れを見つめるように建っている。 一城の夢を見ながら耳掃除 油谷克己 織田家の菩提寺である”総見院”にある、信長公所用「焼兜」 ≪本能寺の変の後、信長の次男・信雄が焼け跡から探し出したものだという≫ 日吉神社の猿(秀吉を指しているのか) 清洲城があった敷地の真ん中を、新幹線が通り過ぎていく。 清洲城の天守閣から見下ろす真下の敷地に、 もし、清洲越えがなければ、 複雑な感慨が湧く。 ロゼッタストーンに書いてあった痴話 井上一筒 |
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