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川柳的逍遥 人の世の一家言
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赤いブーツがいま静脈を通過する  岩田多佳子

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  柴田勝家とお市の木像

「お市と勝家の結婚、そして、お市はなぜ秀吉を嫌ったのか・・・?」

お市、「清洲会議」のまえに、柴田勝家と結婚することが決まっていた

そこで、お江たち三姉妹たちも、越前の北ノ庄に移ることになる。

「勝家とお市の結婚が、どのような経緯で決まったのか?」

このことの詳しい事情は、分かっていない。

「信孝の斡旋」でと、一般には言われているが、

実際のところ、お市と信孝が、とくに親しかったわけではない。

≪大河ドラマでは、信孝斡旋説をとりあげているが≫

誰の手に預けるべきや紐の端  中野六助

傍にいた織田信包は、羽柴秀吉に付き従う行動をとっていたから、

反秀吉派の信孝の指図を、受ける立場ではない。

あくまでも推測になるが、信長の生前から、

「お市を勝家の後添えに」

という話があったのかもしれない。

もしくは、信包とお市の母である土田御前あたりの意向が、

あったのかも知れない。

だまし絵の中に真実隠される  杉本克子

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信長が亡くなったあと、

「市やお江たち三姉妹の面倒を誰が見るか」

が、難しい問題になっていた。

土田御前が娘のことを心配して、

「旧知の勝家さまに嫁がせては・・・」 

と思いつき、

「信包らと相談して、決められた」

という考え方が、いまは主力をしめている。

こうして三姉妹たちは、越前への旅に出ることとなった。

浅井の旧領である湖北を通る途中、

宿泊した寺院などには、浅井家の縁者たちが、たくさん訪ねてくる。

お市にとっては、懐かしくはあっても、

辛い記憶を思い出すことになる、旅でもあった。

どうしても流れの先を見てしまう  立蔵信子

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 柴田勝家

その年の秋、信長の葬儀をめぐって、さや当てがあった。

勝家は、主導権をとりたいところであったが、

京都周辺は、羽柴勢が支配しており分が悪く、

結局、10月11日から7日間にわたって秀吉が、

養子である秀勝を喪主に、大徳寺で葬儀を執り行うのを、

指をくわえて、見ているしかなかった。

こころざし詰めた鞄が野に沈む  吉川哲矢

秀吉の勝家への対抗心は、懸想していたお市を勝家に、

「取られたからだ」

と、いうことを言う人もいるが、それは、大いなる間違い。

秀吉がお市のことを”好きだった”などというのは、

江戸時代になってから、言われ出したことである。

そもそも、秀吉が市と会ったことがあるのか、

そのことすら、怪しいものなのだ。

そんなに拭いたらメッキ剥げまっせ  森田律子

浅井長政とお市の結婚を、

「いつとみるか?」

にもよるが、秀吉は、そのころ織田家の重臣でもなかったから、

二人が会える機会は、ほとんどなかったと考えるのが普通で。

小谷城落城のときにも、秀吉は城の背後から攻撃をしかけていて、

信長の陣営には、いなかったはずである。

お市と会う可能性は低かっただろう。

そしてその後にも、西国を転戦していた秀吉が、

市たちがいた上野とか、清洲に立ち寄ったという記録もない。

こうして考えていくと、秀吉がお市に、

「特別な思い入れがある」

と考えるには、少し無理がある。

もう一度跳ねる本当を見るために  田中博造

お市のほうが、秀吉を個人的に、「毛嫌いしていた」と推測する人もいる。

それには、浅井攻めの司令官だったのだから、

当然、好感は持たなかっただろう、また、

三姉妹の兄である万福丸の処刑などを、理由にあげている。

これもまた、あくまでも秀吉は、信長の命令で動いただけで、

戦国の世にあっては仕方のないことなのだ。

このことが秀吉に対してお市が、

「特別に悪い感情をもっていた」

と、決めつける根拠にはならない。

信号が青になるまで揺れて待つ  中村せつこ

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『豆辞典』

-「信長の死後、歴史の流れを変えた清洲会議を、なぜ、

  織田家の家臣団は、安土城でなく、この清洲城で行ったのだろうか?」

清洲は尾張の中心部で、信長が生まれる前は、

守護である斯波氏が治めていた。

信長の父・信秀の家筋は、守護代の一家老に過ぎなかったが、

斯波氏の権勢が弱まったとき、

信長が守護を襲った織田氏を制して、清洲を奪取した。

”桶狭間の戦い”のときには、この清洲城から出陣している。

まさに、清洲は信長が、

天下統一への「第一歩」を踏み出した土地であった。

すなわち、信長と同様に、家臣団にとっても、清洲は特別の場所だった。

そして、織田家の一大事となったとき、

やはり彼らの足は、自然と「清洲城」に向かったのだろう。

我慢みな避けてこころに渇く音  笹川恭子

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  清洲城対岸にある石垣

大城郭があった場所は、そのまま大都市になることが多いが、

清洲は、そうはならなかった。

”清洲越し”といい、

家康が、清洲を城下町ごと、そっくり名古屋に移転したためだ。

清洲は水運の便がよい反面、水攻めには弱かった。

豊臣方との戦いを見越した家康は、清洲城を名古屋に移転させ、

西の反徳川大名が、関東に攻めてきた場合の守りを、固めたと推測されている。

一身上の都合で夜がやってくる  竹内せつこ

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     清洲城の櫓

JR・名古屋駅から二駅、清洲の駅から線路沿いに10分ほど歩くと、

清洲城の天守閣が見えてくる。

≪かっての清洲城は、対岸の清洲公園の一帯にあった。天守閣は平成元年の再建≫

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清洲城のすぐ近くには、尾張の中心地として栄えていたころは、

物資を積んだ数多くの船が行き交っていたのだろう、

五条川が流れる。

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そして今も、信長の銅像が、その流れを見つめるように建っている。

一城の夢を見ながら耳掃除  油谷克己

清洲観光ー「清洲には、時代を偲ぶ史跡が点在する」

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織田家の菩提寺である”総見院”にある、信長公所用「焼兜」

≪本能寺の変の後、信長の次男・信雄が焼け跡から探し出したものだという≫

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日吉神社の猿(秀吉を指しているのか)

≪秀吉の生母・なかが祈願をして秀吉を授かったという≫

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家康の四男・松平忠吉ゆかりの正覚寺

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清洲城があった敷地の真ん中を、新幹線が通り過ぎていく。

清洲城の天守閣から見下ろす真下の敷地に、

もし、清洲越えがなければ、

名古屋城のような、大城郭があったのだろうと思うと、

複雑な感慨が湧く。

ロゼッタストーンに書いてあった痴話  井上一筒

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