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川柳的逍遥 人の世の一家言
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むかしむかしの狼藉者を忘れかね  森中惠美子 

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光秀が戦勝祈願をした愛宕神社

逆臣、謀反人の汚名を着せられる光秀だが、果してそう言い切れるのか。

怨恨、野望、恐怖、さらには足利義昭や朝廷の黒幕説など、

明智光秀が、主君の織田信長を本能寺に急襲した理由については、

さまざまな憶測があるが、どれも定かではない。

もしかしたら、本人さえ明確な理由が分からなかったということも、

あり得るのではのではないだろうか。

半分の月へゆりかもめは飛んだ  壷内半酔

細川ガラシャの父で、愛妻家としても知られていた光秀は、

諸学に通じ、和歌や茶の湯にも、秀でた文化人でもあった。

行政手腕にすぐれ、領民からも愛されたと伝えられている。

比叡山焼討ちで武功をあげ、丹波国を平定するなど、

知将として信長の信頼も厚かった。

偉大なる凡人などとほめられて  小寺万世

その光秀がなぜ、と、やはり勘繰りたくなる。

毛利元就が光秀に会ったとき、

「彼の中に狼のような一面が残っている」

と、看破したと伝えられているが、

その狼が牙をむいたのが、「本能寺の変」だったのかも知れない。

彼の心理の一面を光秀研究家が、次のように解析している。

諸説あるがスーダラ節で読め遺言  山口ろっぱ

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建勲神社に伝わる「信長公記」

天承10(1582)年5月27日、

中国出陣を命じられた光秀は、京都の愛宕神社へ参詣し、

なにか思うことがあってか、

「おみくじを、二度も三度も引き直した」という記述が、『信長公記』にある。

この翌日に光秀は、

愛宕山西坊で『愛宕百韻』と呼ばれる連歌会を催した。

「本能寺の変」を目前としたこの日、光秀によって発句されたのが、

「ときは今 あめが下知る 五月かな」

という有名な句であった。

この句は、謀反を決意した光秀が、

連歌会の出席者に向けて行った、意志表明だったと認識されている。

凶が出るまで安心して眠れない  島田握夢

「とき」とは、光秀の出自とされる「土岐氏のとき」であり、

「あめ」を天として、下と合わせて、「天下」

つまり、「土岐氏(私)が、ついに天下を取る」

という解釈である。

吹っ切れたようだな語尾がしゃんとする  鈴木栄子

しかし光秀の発句を、決意表明とする見方には、

かねてから多くの疑問が指摘されてきた。

ひとつは―、

「いくら光秀が動揺していたとしても、

 連歌師や社僧に、”本能寺夜襲”といった大事の計画を見破られるような、

 ヘマなことはしなかったであろう」

と光秀研究の第一人者である桑田忠親さんが解析する。 

嘘つけぬ夫がちょっともどかしい  ふじのひろし

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”国史画帖大和桜」に描かれた”本能寺の変”

もうひとつは―、歴史研究家の津田勇さんによる、

「”ときは今”は、諸葛孔明の『出師表(すいしのひょう)』

からの引用であるとし、光秀の発句を、

”並々ならぬ決意を表明したものだ”とした上で、

「知る」という言葉は、

古代では、「神の力によって土地を知る」という意味であることから、

教養のある光秀が、自分のこととして、

「このような重い言葉を使うとは考えられない」と主張。

そして、「知る」という言葉にあてる主語は

「『天皇』としか考えられない」と結論づけた。

津田さんの解釈による愛宕百韻は、

「朝廷の意向を受けた自分が、信長を討つことの正当性の表明」

だったとする説である。

シロナガスクジラになったしゃぼん玉  井上一筒

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このような解釈は、信長が朝廷との密接な関係を築くために、

「もっとも重用した家臣が光秀だった」という事実と深く関連している。

無骨もの揃いの織田軍団にあって、

和歌を詠み、茶の湯に通じるという粋人で、

教養も高かった光秀は、織田家の代表として、

公家衆との折衝にあたらせるには、打ってつけの人材だったのだ。

結果論針の筵が羽根布団  上嶋紅雀

又かって、光秀とともに、義昭に仕えていた細川藤孝も、

誠仁親王の勅使・吉田兼見の子に、娘を娶らせるほど、

公家衆との交際が広かった。

信長は、朝廷とのコネクションを磐石にするために、

自ら媒酌人となって、

藤孝の嫡子・忠興に光秀の三女・珠(ガラシャ)を嫁がせている。

前ボタンちょっと外して風を入れ  神野節子

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ところが、天下統一を目前とするにつれ、

朝廷を尊重していた信長に、

その権威を否定するような、言動・行動が目立つようになる。

もはや、信長は、朝廷を必要としなくなったのだ。

この政策転換は、この時点で、

完全に信長に依存していた朝廷・折衝役・吉田兼見、近江前久、勧修寺晴豊などの

上流公家、さらには明智光秀、細川藤孝をも、

窮地に追い込んだと考えられる。

シナリオの通りに人間を降りる  和田洋子

拍手[5回]

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出発の朝から向こうずねを打つ  森中惠美子

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    現在の本能寺

≪旧・本能寺へは5時間前まで公家衆が信長のご機嫌伺いに訪れていた≫

「本能寺へ・・・」

明智光秀は、ひどい仕打ちや、折檻を繰り返す信長に対して、

かねてから深い憎悪を抱いており、

その感情が、突然命じられた国替えによって、

ついに爆発したとされている。

ところが、それを裏付ける確たる証拠は存在せず、光秀が、

「なぜ信長を殺さなければならなかったのか?」

という謎は、いまだ解明されていない。

「光秀謀反ー怨恨説の真相」

光秀が謀反を企て実行した動機として、もっとも、有力とされているのは、

度重なる信長からの、ひどい仕打ちを受けた光秀が、

激しい憎悪を抱いていたという、『怨恨説』である。

ワタクシを掬い損ねている両手  山口ろっぱ

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丹波八上城で人質の母が殺される図

①-「丹波八上城事件」ー『総見記』より

天正6(1578)年、光秀が八上城を包囲した際、

城主の波多野秀治・秀尚兄弟が屈しないため、

光秀は、自分の母を人質として差し出し、

兄弟の命を保証したうえで、投降させた。

ところが、信長が約束に反して、兄弟を処刑してしまったため、

「報復として、光秀の母が城内で殺害された」

という事件。

裏切られた光秀は、これで信長に遺恨をもったとされる。

こう来ると読んでいたのに来ないとは  谷垣郁郎

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「月下の斥候」ー〔月岡芳年絵〕

≪光秀の家臣である斉藤利三が、本能寺襲撃前に偵察にきているところ≫

②-「利三の一件」ー『川角太閤記、続・武者物語』より

天正8(1580)年、稲葉一鉄の家臣だった斉藤利三を、

光秀が召し抱えた際、

これを不服とした一鉄が、信長に訴え出た。

信長は、利三を「返せ」と命じたが、

それに逆らったために、光秀は髷をつかんで突き飛ばされ、

額を敷居に擦り付けられた、という一件。

頑張ったから下は向かない自負がある  森 廣子

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    光秀肖像画

≪額・頬にかかる傷(シミ)が気にかかる≫

③-「酒宴での折檻①」-『祖父物語』

天正10(1582)年、武田氏を滅ぼした信長が、法華寺で催した酒宴では、

「大変めでたくござります。我らも年来骨折りしたかいがござった」

と発言した光秀に、

「お前は、どこで骨を折ったのだ!」 

と信長が激怒し、光秀の頭を欄干に押し付けたという一件。

④-「酒宴での折檻②」-『続・武者物語』

加えて信長が、家臣たちと夜を徹した酒宴を張った際には、

小用に立った光秀に、

「いかにきんかん頭、なぜ座敷を立ったか」

と信長が、言いがかりをつけ、首に刀をあてたとする一件。

づぼらやのフグの背中に冬が来る  井上一筒

☆ 「上記の怨恨説の検証」

1、「検証」ー丹波八上城事件について

落城寸前の八上城に、母親を人質として、差し出す必要があったか。

光秀の母親に関する記述は、「良質とされる史料」に、一切残されていない。

 このとき母親が存命していたとすれば、70歳以上であったと思われる、が、

「それほど高齢の母親を、光秀が従軍させ人質としただろうか」

という疑問が残る。

判断が片寄らぬよう耳ふたつ  上田紀子

また、この事件が記された『総見記』は、

『信長公記』に創作を加えて、

江戸時代に書かれた『信長記』という書物に、

さらに潤色を加えて、

本能寺の変から120年後の1702年に、成立したもの。

≪これほどの事件が、「120年後に初めて記録に残されるということは有り得ない」

 とする研究家が多い≫

つるつるが裏だったとは気づくまい  嶋澤喜八郎

2、「検証」-斉藤利三の一件

『川角太閤記』の著者は、

秀吉・秀次に仕えた田中吉政の家臣・川角三郎右衛門が、

綴った「秀吉の一代記」で、

光秀を討って天下人となった秀吉の生涯を讃えた作品。

成立は、元和年間(1615-1623)と考えられている。

『祖父物語』は、尾張清洲に住んでいた柿屋喜左衛門が、

自分の記憶をもとに、1607年頃に記したもので、

『続・武者物語』もまた、別名・「武辺咄聞書」の示すとおり、

「伝聞」をもとに、1680年編纂された書物である。

噂など聞くでなかったプチ鬱日  山本昌乃

3、「検証」-『折檻』

光秀が信長から受けた折檻についても、

記された書物はすべて、後世に成立しているため、

「信憑性に乏しい」と、研究家は指摘する。

つまり、こうした通説が、多くの人に信じられているのは、

「江戸時代から、歌舞伎や人形浄瑠璃などで演じられ、

 現代においても、テレビドラマなどで、さかんに描かれているからにほかならない」

としている。

丸い地球誰も落ちてはきやしない  米澤淑子

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江戸時代に流行した『絵本太閤記』

≪信長が光秀を折檻している絵。

 江戸時代の後期の戯作者・武内確斎による秀吉の出世物語で、

 1804年に秀吉人気が高まるのを危惧した徳川幕府によって、絶版になる≫

無防備な耳だ噂が流れ着く  田中輝子

『では、光秀を”信長謀反”にかりたてたものとは、一体何なのか?』

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 『天正10年安土城献立』

⑤-『家康の接待』から

天正10(1582)年、宿敵・武田氏を滅亡させた信長は、

その功労者である徳川家康を安土に招待した。

家康はこの誘いを受け、

5月15日に安土に到着。

信長は、長年の盟友である家康の接待役という「大任」を、

光秀に命じる。

通説では、この任命こそが、

光秀を謀反に向かわせた”決定的な要因”とされている。

夕やけの底に予報士のあした  板野美子

⑥-『川角太閤記』よりー「接待役解任説」

光秀に接待を命じた信長は、家康一行が到着する直前に、

接待場所に予定していた光秀邸の下調べに出向いた。

すると、夏場だったこともあって、

光秀が用意していた魚が腐りかけ、異臭を漂わせていた。

信長はこれに激怒し、光秀を厳しく叱りつけたうえで、接待役から解任。

大いに面目を失った光秀は、用意していた魚、椀や皿などを、

やけになって、安土城の堀へ投げ捨ててしまったという。

何のためコオロギがいる僕がいる  新家完司

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光秀によって定められた「家中軍法」

⑥-『明智軍記』よりー「国替え説」

さらに本能寺の変の五日前、家康接待の大失態で解任され、

中国出陣を命じられた光秀のもとに、信長の使者が訪れた。

そして光秀に

「丹波と近江は召し上げ、中国出陣のはたらきによっては、

 あらたに出雲、石見などを領国とする」

、「突然の国替え」を告げたのだ。

≪これは、長年にわたって丹波・近江の領国経営にあたっていた光秀にとって、

 受け入れがたい宣告であった≫

そして、ついに光秀は、究極の「下克上を決意」したとされている。

一本のネジが自分を主張する  竹森雀舎

☆ 「検証」-『家康の接待』

国書「群書類従」に、このとき光秀が用意した「饗応料理」が、

『天正10年安土城献立』 として記録に残っている。

また、信長の半生を同時代に記録した第一級の史料・『信長公記』には、

「光秀は、京都や堺で珍しい食料を調達し、

 たいへん気を張って接待した。

 15日から17日まで3日間に及んだ」

と記されており、

『川角太閤記』にあるような光秀の不手際は、一切書かれていない。

ペットボトルの水はいつだって味方  立蔵信子

☆ 「検証」-『突然の国替え』

作者不明の『明智軍記』にしか記されていないエピソードで、

元禄年間(1688-1704)に成立し、

「史料的価値は乏しい」と、国史大辞典に明記されている。

身の丈で立てばおさまる偏頭痛  たむらあきこ

「秀吉妬み説」

事あるごとに重用され、出世を続ける秀吉を、光秀が妬んでいたという説がある。

しかし、ふたりの経歴をふり返れば、

この説もまた、根拠のないものになる。

☆ 検証ー「妬み説」

天文23(1554)年頃から、信長に仕えていた秀吉は、

永禄11(1568)年に、初めて信長に会った光秀の先輩で、

光秀が家臣となった頃には、すでにかなりの地位にあった。

しかし、信長からの寵愛を受けた光秀は、

出世街道を邁進し、楽々と秀吉を追い越してしまう。

太陽に向かって坂は下ってる  北田ただよし        

元亀2(1571)年、朝倉征伐の翌年である。

光秀は秀吉より1年半早く、一国一城の主となり、

天正3(1573)年、秀吉より2年早く、丹波攻めの大将に昇進している。

さらに、天正8(1580)年、重臣・佐久間信盛を追放した信長は、

近畿の総司令官といえる地位に、光秀を据えている。

これは、織田家筆頭家老・柴田勝家に並ぶものだ。

≪少なくとも本能寺の1年前までは、信長は光秀をもっとも重用しており、

 嫉妬するとすれば、やすやすと新参者に追い越された、

 秀吉のほうではなかろうか≫

昇進の最大条件詫び上手  ふじのひろし

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      正親町天皇

また、天正9(1581)年2月28日、

信長は、京都で天下に信長軍団の武威を示す「馬揃え」を行った。

この軍事パレードは、正親町(おおぎまち)天皇、京都の公家衆、

織田軍団の主な武将が参加するという、

織田家の重要なイヴェントであった。

この馬揃の総括責任者に光秀を指名しているのだ。

こうした恩恵を受けていた光秀は、

「路傍の石のようだった私は、信長公に召し出され、

今日、莫大な兵を預けられる身となった」

『家中軍法』(1581)の末尾に、感謝の気持ちを記している。

両の手を開けば何もない敵意  菱木 誠

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信長の勘気に触れ屈辱的な扱いを受ける光秀

大河ドラマ『お江』-第四回・「本能寺へ」 あらすじ

馬揃えを開催する信長(豊川悦司)の招きで、

市(鈴木保奈美)と茶々(宮沢りえ)、初(水川あさみ)

そして、江(上野樹里)の三姉妹は、京を訪れた。

母娘は、寺巡りなどをして楽しい時を過ごしているとき、偶然、

光秀(市川正親)と、その娘・(ミムラ)後のガラシャ〕に出会う。

名門・細川家に嫁いでいるという、

たまは、江が思わず見惚れてしまうほどの美しさ。

一方、今回の馬揃えの奉行を務める光秀は、

心ここにあらずといった様子で、挨拶もそうそうに立ち去ってしまう。

メルヘンの森にも怖い1ページ  柴本ばっは

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神をも畏れぬ言葉を発する信長         

天正9年、信長は王城の地・京で、

諸将に騎馬行列の壮麗さを競わせる”馬揃え”を開催した。

20万もの見物人を集め、時の天皇も招かれた前代未聞の催しである。

「みなみな、時は春である。わが春、信長が春である」

華やかな衣装に身を包んで登場した信長は、

押し寄せた群衆を見渡して、そう言い放つ。

誰もが、彼を拒む者はいないと感じた瞬間だった。

生魚の匂いをラップみんな消し 八木 勲 

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信長の勇姿に目を輝かせる江

その夜、江は信長の宿舎である広壮な寺院・本能寺を訪ねる。

馬揃えを見て身が震えるほど感動したと話す江に、

相好を崩す信長。

彼から南蛮の服を贈られた江も、幸せな気持ちで満たされる。

しかし天下人と幼い姪のなごやかな時間は、長くは続かなかった。

錯角がいい夢見せてくれました  一階八斗醁

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       「人は神になれない」と、信長に反論する江 

きっかけは信長の不適な発言。

彼は、

「真なる神があるとすれば、それは、この信長をおいてほかにはない」

と言い切ったのだ。

・・・伯父は変わられた・・・

信長の言葉に衝撃を受けた江は、

「人は神になどなれません」

と、毅然と反論し、悲しみのなかで信長と別れることになる。

ニッポンと叫ぶカエルもゾウ亀も  森田律子

【ちなみに余談】

-光秀が用意したとされる・「天正十年安土御献立」、『続きを読む』に入っています。

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なにか企んでいる枯葉のしおり  山口ろっぱ

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   織田信長

『信長の本心をのぞく』

城の象徴といえる「天守閣」は、信長が築いた「安土城」がはじまりだった。

城は、敵の攻撃から身を守るための軍事施設である。

城という文字が、「土」「成」で構成されていることからもわかるように、

土を掘って濠をめぐらし、残土を盛り固めて土塁を築いた内側を、

ふつう「城」と規定する。

自叙伝のどのページにも酒のシミ  新家完司

城というと、どうしても広大な石垣の縄張りをもち、

壮麗な天守閣がそびえ立つ威容を、思い浮かべてしまうが、

それは戦国・江戸時代に入ってからの、城である。

城郭の起源は、戦争がはじまった弥生時代にまで遡る。

といっても、もちろん城が軍事的拠点として、

もっとも多く築かれ、最高に機能したのは戦国時代である。

見はるかす墨汁たらす虫もいて  壷内半酔

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    岐阜城・山城

戦国大名は、平地に置かれた政庁で領国の経営を行い、

敵が来襲すると「山城」にこもって戦った。

時代が下るにつれ、その構造も複雑になる。

山全体にいくつもの”削平地(郭ーくるわ)””掘割”をもうけて大要塞とし、

周辺に出城や支城を築いて、防御ネットワークを築いていった。

街道や宿場にも、砦やのろし場といった簡素な城をつくって、

監視体制を強化した。

青空に案外のるかそるかです  酒井かがり

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  清洲城(平城)

しかし、戦国時代後期になると、

鉄砲の出現によって、峻険な場所に要塞を築く意味が薄れ、

大名の政庁そのものを、城郭化するようになってくる。

これがいわゆる「平城」である。

そして、城は、軍事拠点としてだけでなく、政治や経済の中心地となり、

周辺には城下町が形成される。

憎からず思う土塀の三角州  井上一筒

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       安土城

≪ちなみに近世の城の象徴たる天守閣は、

 信長の築いた「安土城」が手本となっている。

 本能寺の変のおりに、城は消失しているが、

 記録によると、25メートルの石垣の上に、5層の天守閣がそびえていたといい、

 地上60メートルにもおよぶ、高層建築だった≫

勝ち誇る後姿が鬼に見え  綿井晴風

信長の城の変遷をみてみると、

那古野城から清洲城へ、清洲城から小牧山城へ、小牧山城から岐阜城へ、

岐阜城から安土城へと、たびたび居城を移していく。

新しい支配の中心となる土地へ、自分の城を移し、

止まることを知らない信長は、

最終目標に、安土城を築いたのではないかと思われる。

億光年の世界を抜けてきた狐  本多洋子

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   安土城天主の内部

「安土城が最後の城と、信長が考えていたことは間違いない」

”本能寺の変”の1ッヶ月ほど前、朝廷から勅使が安土に下され、

信長に対し、

「太政大臣か関白か征夷大将軍か、お好きな官に任命しよう」

といっている。

「三職推任」といわれるものである。

三職推任は、朝廷が信長に要請したものか?、

信長が朝廷に強要したものか? で意見が分かれているが、

いずれにせよ当時の状況から、

その実現が、いかに難しいものであったのかが確認できる。

温泉に錯角があり四季がない  松山和代

「太政大臣」近衛前久が、就任したばかり、

「関白」は公家の最高職で、武家は就任できない。

そして、いくら実権がないとはいえ、

「征夷大将軍」足利義昭が、その職にあった。

≪こうした状況から多くの研究家は、

 「仮に朝廷が三職推任を要請したとするならば、

 それ以外の選択肢がないところまで、追い詰められていたのだろう」

 と考えている≫

横波を蹴って独りの立ち泳ぎ  山本早苗

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『永亨9年三島暦』(足利文庫所蔵) 

実は、信長は、当時の朝廷に残されていた数少ない権限であった、

「暦の管理・管轄、元号の制定」 を意のままに操作し、

朝廷権威を公然と、侵害しようとしていた。

まず、元亀4(1573)年7月18日、義昭を京都から追放して、

室町幕府を事実上滅亡させた信長は、

朝廷に圧力をかけて「元亀」を「天正」へと改元させた。

パン屋も花屋も天になるのを待っている  板野美子

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       宣明暦

天正10(1582)年には、

朝廷が管轄していた「宣明暦(せんみょうれき)」を、

尾張などの東国で用いられ、

自らが慣れ親しんでいた「三島暦」に変更するよう強要。

改暦を拒んだ朝廷を、信長は認めず、

”本能寺の変”の前日にも、

勅使として本能寺を訪問した勧修寺晴豊(かんじゅうじはれとよ)らに、

同じ要求を突きつけた。

≪晴豊は、「それはとても無理ですと申し入れた」と日記に残しているが、

 当時”神の領域”とされていた改元・改暦を、朝廷は信長から強要されていたのだ≫

悪の華神の死角で咲き誇る  上嶋幸雀

また、天正7(1579)に完成した信長の居城・安土城のなかに建てられた

「摠見寺(そうけんじ)」という寺院について、

宣教師のルイスフロイスは、

「信長は、この寺の神体は自分であるとし、

 生きたる神仏である自分の誕生日を聖日と定め、崇拝するように命じた」

と母国への報告書に記している。

信長は、「起源は天皇にある」と信じられてきた天皇の存在に、

真っ向から挑戦していたのだ。

こめかみに挑戦状がいつもある  森中惠美子

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2000年に発見された安土城天主わきの殿舎跡。

さらに、平成11(1999)年の安土城の発掘調査によって、

城内に「天皇の御所・清涼殿」を模した建物の存在が、確認されており、

信長は、天皇を京都から安土城へと移し、

「住まわせようとしていたのではないか」 とも考えられている。

自らを神体とした寺院を建てた安土城に、

「天子」である天皇を呼び寄せ、

信長は「天主」と名付けた天守閣から、それを見下ろす。

不可侵とされた朝廷の権威に挑む、信長らしい考え方である。

霧のなか岩が条理を問うてくる  森廣子

【豆辞典】-「三職推任」

永禄11(1568)年、

織田信長が、室町幕府最後の将軍・足利義昭を奉じた上洛を、果たせたのは、

その前年に、正親町(おおぎまち)天皇から受けた、綸旨(りんじ)があったからである。

信長は、”禁裏を修復し、御料所を回復し、誠仁親王の元服費用を調達”

するという、三項目を請け負う代償として、

天皇の命を受けて上洛するという、大義名分を得たのだ。

とりあえず発酵させておきました  立蔵信子

こうした信長と朝廷の蜜月関係は、上洛後も変わることはなかった。

信長は莫大な費用をかけて造営した”壮麗な二条御所”を、親王にプレゼントしたり、

朝廷のために、”年貢を徴収”したりといった、援助を続け、

経済的・軍事的に朝廷を支えていたのだ。

もはや完全に信長に依存していた朝廷は、

天正10(1582)年、

”太政大臣、関白、征夷大将軍”のいずれかの官職に就くよう勅使を送り、

信長に「三職推任」を要請したのであった。

爪丸く切って賛成派にまわる  片岡加代

 

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生命線も運命線も汗をかく  森中惠美子

『人生に大切なことは、

 五文字で言えば「上を見るな」七文字で言えば「身のほどを知れ」』
 【家康の名言の一つ】

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家康(幼名は竹千代は、天文11年(1542年)、

父・岡崎城主・松平広忠、母・於大の方の子として、三河国岡崎で生れた。

幼少時代の竹千代は、今川氏の人質として護送途中、家臣の裏切りにより、

今川氏と対立する戦国大名・織田氏に連れ帰られ、

織田家の人質となって、そのまま、織田氏の元で数年を過ごした。

後、織田氏と今川氏の交渉の結果、あらためて今川氏へ送られ

さらに数年間、今川氏の元で、人質として忍従の日々を過ごしている。

この間に竹千代は、元服して名を次郎三郎元信(のちに元康)と改め、

弘治3年(1557)に今川義元の姪で、関口親永の娘・瀬名姫と結婚する。

くじ引きでガラスの靴にされました  嶋澤喜八郎      

この瀬名姫が、家康の正室・「築山殿」である。

瀬名姫は、2年後に信康を、翌・永禄3年には、長女・亀姫を出産をしているから、

少なくとも、家康と瀬名姫は、この時期までは仲がよかったようだ。

ところが、亀姫の生まれる15日ほど前に、

義元が桶狭間の戦いで、信長軍に討たれ、

永禄5年(1562)3月、家康(元康から改名)が信長側についた咎めを受け、

今川氏真の怒りを買い、父・関口親永と生母が自害したあたりから、

生来気性の荒く、ヤキモチの強い、瀬名姫は、

世に言われる「悪女」へのイメージが顕著になっていくのである。

鼓動さえ乱さぬ狐抱いている  森 廣子

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築山殿

瀬名姫は、義元の妹の夫・上ノ郷城城主・鵜殿長照の2人の遺児と、

於大(家康の母)の方の次男・源三郎(後の松平康元)との、

人質交換により、

駿府城から、子供達と家康の根拠地である岡崎に移る、も、

姑の於大の方の命令により、岡崎城に入る事は許されず、

岡崎城の外れにある、菅生川のほとりの惣持尼寺で、

幽閉同然の生活を強いられた。

≪岡崎城に入った瀬名姫は、「築山曲輪」に住むようになった事から、

 「築山御前」とか「築山殿」と呼ばれるようになる≫

貸し借りで曇りマークの仲になる  中田たつお

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永禄10年(1567)、信長の長女・徳姫が、

9歳のときに、同い年の信康に嫁ぐ。

しかし、築山殿は依然として、城外に住まわされたままであった。

≪こうした仕打ちも、築山殿をひん曲げる原因として、家康との不仲を誘発したようだ≫

9年後の天正4年(1576)、信康との間に、登久姫を、翌年には熊姫をもうける。

しかし、世継ぎとなる男子は生まれず、

それを心配した姑の築山殿が、

信康に、元武田家家臣の浅原昌時を、側室に迎えさせた。

何を告げたか埴輪の口が濡れている  奥山晴生        

こうして信康が、側室を持ち始めたことにより、

徳姫との夫婦仲が、おかしくなっていく。

そして、於大の方と築山殿の関係のように、

徳姫と姑・築山殿との間にも、大きな溝ができてしまった。

とにかく、何らかの消し去りがたい怨恨が、

この家族間に、はたらいていたのだろう。

≪築山殿と徳姫は居城が別であり、また側室がいることが、当たり前の時代において、

 そのようなことで、嫁姑の仲がこじれたということは、・・・考えにくいが・・・≫

打ち合わせ中の閻魔とキリストと  井上一筒

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「築山殿事件」

この事件は、天正7年(1579)7月、徳姫が父の信長に、

築山殿と信康の罪状を訴える「訴状」を、書き送ったことに始まる。

「築山殿が、武田勝頼と密かに手を結び、信長・家康に背こうとしており、

 しかも信康まで引き入れようと企んでいる」

「築山殿と唐人医師減敬との、不義密通」

「夫・信康の常軌を逸した、日ごろの行為」

「信康と家康の、不仲」

などなど、十二ヶ条からなる訴状である。

さざ波に前頭葉をさらわれる  草地豊子

この書状を読んだ信長は、家康の重臣・酒井忠次を呼びつけて詰問し、

忠次が、おおむねのところを認めたために、

信長から家康に、「築山殿の殺害」「信康の切腹」が、通達された。

家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先。

これにより築山殿は、8月29日に小藪村で野中重政によって殺害され、

信康は、9月15日に「二俣城」で切腹して果てる。

☆ 一説①ー信長の嫡男・信忠をしのぐ器量を持っていたといわれる信康。

 信長の冷徹な判断の裏側には、将来、信康によって、

 織田家と徳川家の関係が、逆転するのを恐れたとする説がある。

諸行無常星の欠片の一隅で  中桐 徹

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 信康が切腹した二俣城跡

「築山殿と信康の終焉のシーン」

.築山殿の始末に、野中重政ら3人が家康から指名された。

野中らは、築山殿に、

「家康殿がお会いしたいと言っているので、来て下さい」

といって連れだし、舟で佐鳴湖を渡っていた時に、野中が突然後ろから、

「殿の命により、お命頂戴致します」

と言って、斬り、役目をまっとうした。

報告を受けた家康は、一応、頷いたあと小声で、

「体だけ大きくて、頭の回らない奴よなぁ。

 女なのだから、尼にでもして逃がしてやればよいものを」

と言ったとか。

それを知った野中は、自分のいたらなさを恥じ、故郷の堀口に隠居した。

来世から見ればこの世はみな虚構  松田俊彦       

一方、信康の方には、服部半蔵天方通綱が赴く。

半蔵は、はっきりと信康に告げた。

「殿からの命です。 切腹して下さい」

身に覚えのない信康は、

「なぜだ! 父に会わせてくれ!」

と言う。

しかし半蔵は、唇を噛みながら、

「それは許されてないのです」

と拒否。

納得のいかない信康であったが、命令には素直に従い、

形見の品などを託した上で、半蔵に介錯を命じ、

潔く腹を十字に切り、
21年の生涯を終えたのである。

≪介錯を務めた服部半蔵は、涙のあまり刀が振り下ろせなかったとの、記録が残る≫

『滅びる原因は、自らの内にある』    【家康名言の一つ】

ゆっくりとすべてのみこむ黒である  浜田さつき

 一説②-近年、築山殿と信康を処断したのは、信長の意思ではなく、

 徳川家自身の事情によるものであるという説が出てきている。

 信康の切腹のあと徳姫は、二人の姫を徳川家に残し織田家に戻り、

 江戸時代のはじめまでは尾張に、ついで京都に移り、

 寛永13(1636)年まで生き、77歳という長命であった。

 二人の間の姫・登久姫と熊姫は、本田忠政、小笠原秀政に嫁ぎ、

 沢山の子孫を残している。

ちなみに、千姫の二度目の夫・本多忠刻は、徳姫の孫である。

空の端めくって秋を覗き見る  谷垣郁郎

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       家康の元へ届いた信長の手紙と思い悩む家康

「妻の築山殿と息子・信康を処分せよ」
というものだった。

大河ドラマ『お江』-第三回・「信長の秘密」 あらすじ

「己を信じ、己の思うまま存分に生きよ」  

そう言って、自分が進むべき道をてらしてくれた信長(豊川悦司)。

江(上野樹里)は、一度会っただけの彼に、すっかり魅了されていた。

しかし、そんな彼女に、にわかには、信じがたい話が伝わってくる。

信長が、最も信頼する同盟者であるはずの徳川家康(北大路欣也)に、

自分の妻・築山殿(麻乃佳世)と長男の信康(木村彰吾)を、

殺すように命じたというのだ。

シルエットは美しく見えるのに  森口美羽

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「なぜ伯父上は、徳川様にそのようなひどいことを・・・・」

江は、その話に衝撃を受けるが、一方で、腑に落ちない思いも抱く。

自分と話をした信長は、

理不尽に人を殺せと命じる人物には思えないからだ。

そこで彼女は、信長に宛てて、

事件についての真意を問う手紙を書くことにする。

優しい茶々(宮沢りえ)に励まされながら、幾度となく手紙をしたためる江。

のぼり坂人の言葉は気にとめぬ  杉本克子

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しかし、返事は一向に届かず、手紙が読まれているのかさえ、わからない。

江が、「それならばせめてひと言お悔やみを」ということで、

家康を訪ねたいと言いだしたとき、待ちに待った信長からの返事が届く。

そこには、

「言いたいことがあるなら直接申せ」

と、江を再び安土に招く言葉がつづられていた。

ながながと恋歌つづり夢つづり  池 森子

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    千宗易(利休)                お ね

そして、江は、信長の真意を確かめるため、母や姉たちと別れ、

再び安土城を訪ねる。

信長は、そう勢い込んでやってきた江を、上機嫌で迎えた。

そして、秀吉(岸谷五朗)の妻・おね(大竹しのぶ)、

当代きっての茶人・千宗易(石坂浩二)など、

自分が魅力を感じる人々に、彼女を次々と会わせる。

個性的な人たちとの出会いに、気勢をそがれた江は、

肝心の事件についての話を、なかなか切り出せない・・・。

時間差で責めるのねホットペッパー  山口ろっぱ          

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ミサイルが来たら枕で受けてやる  壷内半酔

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 「小谷城絵図」

「対信長を想定したけ堅固な城郭」-小谷城が、今も現存していれば、

マチュピチュに匹敵して、世界遺産になっていただろうと思われる。

そんな、小谷城を散策したいと思います。

ルーツ探るとナマハゲに辿り着く  新家完司

戦国時代の山城は、山頂部の防御空間としての「詰城」と、

山麓部の居住空間としての「居館」という、”二元的構造”が基本となる。
 
しかし小谷城では、

詰城として,小谷山山頂に築かれた「大獄」(おおずく)と、

大獄の南東に伸びる屋根頂部に構えられた「本丸・大広間地区」、

その両屋根筋に挟まれた「山麓居館の清水谷地区」

という”三元構造”になっている。

さらに大獄の南西に伸びる屋根頂部に「福寿丸」・「山崎丸」を、

また、唯一の屋根続きとなる東方屋根筋に、「月所丸」

といった出城が構えられた。

避難場所もっと増やしておかなくちゃ  立蔵信子

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  「小谷城復元図」

こうした構造は、元亀元年から天正元年の間に、

対・織田信長戦対策で、構えられたと考えられる。

特に、”福寿丸、山崎丸、月所丸”は、

敵を横から攻撃する横矢の効く折を、多用した「土塁」「枡形虎口」を構え、

竪堀を3つ以上並べた「畝状(うねじょう)空堀群」を設けるなど、

非常に発達した城郭構造を示しており、

朝倉氏の援助のもとで、増築されたものと考えられる。

出入口は味方ばかりのものでない  森中惠美子

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  「千畳敷曲輪」

本丸・大広間地区は南側より、江戸時代に作成された絵図によると,

番所、御茶屋、馬屋、桜馬場、大広間、本丸、中丸、京極丸、小丸、

山王丸、六坊と記された「曲輪群」より構えられている。

実はこのエリアの中で、最高所に位置するのは、「山王丸」である。

小谷城跡に残存する石垣も、

この山王丸のものが、”最も大きい石材”を用いており、

山王丸が、事実上の本丸に相当する「曲輪」であったことは、

間違いない。

上目づかいの天邪鬼にナムアミダ  岡田幸子

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   「黒金門跡」

なお石垣は、山王丸以外にも、黒金門、本丸をはじめ、

清水谷地区の大野木土佐守屋敷、三田村屋敷などにも認められ、

信長の安土築城以前に、

浅井氏が、城郭に本格的な石垣を導入していたことは注目される。

大広間は小谷城跡中で最も広い曲輪で、

発掘調査の結果、巨大な礎石建物跡が検出された。

最後まで他者には見せぬ土の中  松原澄子

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  曲輪から出土した「銅製菊皿」と同・「銅鏡」

また、この曲輪からは、3万7000点におよぶ遺物が出土している。

そのうち実に、約96%が「かわらけ」はと呼ばれる土師器皿であり、

大広間では、盛んに饗宴が催されていたことが明らかとなり、

この山上部には、恒常的な居住空間が存在していた。

小谷城では山麓に清水谷地区があり、

そこには「浅井屋敷」と称される一画があり、

ここが、普段の浅井氏の「居館」であった。

おそらく、山上の大広間との間には、

屋敷機能の使い分けが、されていたものと考えられる。

清水谷の御屋敷が表となる公邸として用いられ、

山上の大広間が奥となる私邸に、用いられていたようである。

カマキリの巣がある弥勒菩薩の背  井上一筒

つまり、長政の妻お市三姉妹が住んでいたのは、

この山上の大広間であった可能性が高い。

ところで、大広間の発掘では、焼土が一切検出されていない。

出土遺物にも火を受けた痕跡はなく、

礎石にも火災の跡は認められなかった。

実は小谷城は落城に際して、建物は焼失しなかったのである。

≪落城イコール放火、焼失という図式は単なるイメージに過ぎないのである≫

逆光に浮かびあがったのは背びれ  森田律子

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   「大手門跡」

小谷城の西側にあった清水谷に通じる道沿いにある。

写真の門は近年になって、小谷城址保勝会が復元したもの。

≪☆ 大手門の先には、小谷城戦国歴史資料館がある≫

実はまだ予報室には下駄がある  ふじのひろし

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    「本丸跡」

「鐘の丸」ともいう。

石垣をめぐらした約12メートルの高所に、

約30メートルに20メートルの説明広さをもつ、

落城寸前まで、城主・長政が居住していた処である。

≪☆ 古絵図には「鐘丸」と記されている。

 南北2段構造で北側に設けられた大堀切によって、小谷城の主要部を分断している。

戦したことなど秘めて波静か  柴本ばっは

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   「山王丸跡」

山王権現(現・小谷神社)の祀ってあったところ。

海抜395メートルの高所にあり、詰ノ丸と思われる。

東南部の巨石による野づら、積み石垣は興味つきない遺構の一つである。

≪☆ 小谷城の詰丸で約00メートルの位置にある。

 石垣に使われている石は小谷城で最も大きく、大石垣は現存している≫

アナログの時代の息をしています  たむらあきこ

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   「京極丸跡」

大永四年(1524)亮政が主君・京極高清・高延親子を迎えた処である。

天正元年(1573)八月廿七日夜半、この曲輪の清水谷側大野木屋敷を経て

侵入してきた秀吉の軍勢によって占拠され、

小丸の久政と本丸の長政の連絡を絶たれた。

≪☆ 浅井亮政に迎え入れられた京極高清が居を構えたという曲輪があった。

 羽柴秀吉は、この場所を攻めて本丸と小丸を分断した≫

歓声が挙がり続ける相手側  奥 時雄

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   「大広間跡」

一名「千畳敷」という約35アールの広さである。

主殿の跡と推定され、

その昔、多くの武将たちが会堂したであろう姿が想像される。

礎石、貸銭、陶器片、その他多数が発掘された。

≪☆ 山上にあった小谷城内で最大の広さを誇る曲輪があったとされる場所。

 大広間には御殿が建てられ、南側には黒金門があった≫

溜息を拾ってくれる人がいる  小野真備雄

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   「赤尾屋敷跡」

ここから100メートル先に、重臣・赤尾氏の二段になった屋敷跡がある。

天正元年八月廿八日戦破れた長政は、この屋敷に入って自刃し、

二十九歳の生涯を閉じた。

小谷城一の聖域である。

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  「長政自刃の地」

長政は、本丸ではなく、ここ赤尾屋敷跡で自刃している。

背後の京極丸を落とされた長政は、信頼する赤尾家の屋敷を、

最期の地と決めた。

人生のドラマに黒い句読点  木天麦青

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   「大石垣跡」

小谷城の中でも大きく石垣が残る箇所。

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    「小丸跡」

二代目城主・浅井久政の隠居所、小谷城落城のときここで切腹した。

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    「刀洗池跡」

本丸近くにある、刀を洗うためにある池。

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  「桜馬場跡」

御馬屋跡の上方、大広間跡の前にある曲輪。細長く左右2段になっている。

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   「馬洗池跡」

横に長く連なる小谷城の端に位置する馬を洗うための池。

飲料水確保のための池であったとも言われる。

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  「首据石跡」

浅井氏の家臣・今井秀信が敵方に内通した罪で処罰し、この石に首を晒した。

美水澄んで澄んで何やら住みにくし  中村幸彦

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