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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ミサイルが来たら枕で受けてやる  壷内半酔

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 「小谷城絵図」

「対信長を想定したけ堅固な城郭」-小谷城が、今も現存していれば、

マチュピチュに匹敵して、世界遺産になっていただろうと思われる。

そんな、小谷城を散策したいと思います。

ルーツ探るとナマハゲに辿り着く  新家完司

戦国時代の山城は、山頂部の防御空間としての「詰城」と、

山麓部の居住空間としての「居館」という、”二元的構造”が基本となる。
 
しかし小谷城では、

詰城として,小谷山山頂に築かれた「大獄」(おおずく)と、

大獄の南東に伸びる屋根頂部に構えられた「本丸・大広間地区」、

その両屋根筋に挟まれた「山麓居館の清水谷地区」

という”三元構造”になっている。

さらに大獄の南西に伸びる屋根頂部に「福寿丸」・「山崎丸」を、

また、唯一の屋根続きとなる東方屋根筋に、「月所丸」

といった出城が構えられた。

避難場所もっと増やしておかなくちゃ  立蔵信子

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  「小谷城復元図」

こうした構造は、元亀元年から天正元年の間に、

対・織田信長戦対策で、構えられたと考えられる。

特に、”福寿丸、山崎丸、月所丸”は、

敵を横から攻撃する横矢の効く折を、多用した「土塁」「枡形虎口」を構え、

竪堀を3つ以上並べた「畝状(うねじょう)空堀群」を設けるなど、

非常に発達した城郭構造を示しており、

朝倉氏の援助のもとで、増築されたものと考えられる。

出入口は味方ばかりのものでない  森中惠美子

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  「千畳敷曲輪」

本丸・大広間地区は南側より、江戸時代に作成された絵図によると,

番所、御茶屋、馬屋、桜馬場、大広間、本丸、中丸、京極丸、小丸、

山王丸、六坊と記された「曲輪群」より構えられている。

実はこのエリアの中で、最高所に位置するのは、「山王丸」である。

小谷城跡に残存する石垣も、

この山王丸のものが、”最も大きい石材”を用いており、

山王丸が、事実上の本丸に相当する「曲輪」であったことは、

間違いない。

上目づかいの天邪鬼にナムアミダ  岡田幸子

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   「黒金門跡」

なお石垣は、山王丸以外にも、黒金門、本丸をはじめ、

清水谷地区の大野木土佐守屋敷、三田村屋敷などにも認められ、

信長の安土築城以前に、

浅井氏が、城郭に本格的な石垣を導入していたことは注目される。

大広間は小谷城跡中で最も広い曲輪で、

発掘調査の結果、巨大な礎石建物跡が検出された。

最後まで他者には見せぬ土の中  松原澄子

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  曲輪から出土した「銅製菊皿」と同・「銅鏡」

また、この曲輪からは、3万7000点におよぶ遺物が出土している。

そのうち実に、約96%が「かわらけ」はと呼ばれる土師器皿であり、

大広間では、盛んに饗宴が催されていたことが明らかとなり、

この山上部には、恒常的な居住空間が存在していた。

小谷城では山麓に清水谷地区があり、

そこには「浅井屋敷」と称される一画があり、

ここが、普段の浅井氏の「居館」であった。

おそらく、山上の大広間との間には、

屋敷機能の使い分けが、されていたものと考えられる。

清水谷の御屋敷が表となる公邸として用いられ、

山上の大広間が奥となる私邸に、用いられていたようである。

カマキリの巣がある弥勒菩薩の背  井上一筒

つまり、長政の妻お市三姉妹が住んでいたのは、

この山上の大広間であった可能性が高い。

ところで、大広間の発掘では、焼土が一切検出されていない。

出土遺物にも火を受けた痕跡はなく、

礎石にも火災の跡は認められなかった。

実は小谷城は落城に際して、建物は焼失しなかったのである。

≪落城イコール放火、焼失という図式は単なるイメージに過ぎないのである≫

逆光に浮かびあがったのは背びれ  森田律子

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   「大手門跡」

小谷城の西側にあった清水谷に通じる道沿いにある。

写真の門は近年になって、小谷城址保勝会が復元したもの。

≪☆ 大手門の先には、小谷城戦国歴史資料館がある≫

実はまだ予報室には下駄がある  ふじのひろし

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    「本丸跡」

「鐘の丸」ともいう。

石垣をめぐらした約12メートルの高所に、

約30メートルに20メートルの説明広さをもつ、

落城寸前まで、城主・長政が居住していた処である。

≪☆ 古絵図には「鐘丸」と記されている。

 南北2段構造で北側に設けられた大堀切によって、小谷城の主要部を分断している。

戦したことなど秘めて波静か  柴本ばっは

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   「山王丸跡」

山王権現(現・小谷神社)の祀ってあったところ。

海抜395メートルの高所にあり、詰ノ丸と思われる。

東南部の巨石による野づら、積み石垣は興味つきない遺構の一つである。

≪☆ 小谷城の詰丸で約00メートルの位置にある。

 石垣に使われている石は小谷城で最も大きく、大石垣は現存している≫

アナログの時代の息をしています  たむらあきこ

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   「京極丸跡」

大永四年(1524)亮政が主君・京極高清・高延親子を迎えた処である。

天正元年(1573)八月廿七日夜半、この曲輪の清水谷側大野木屋敷を経て

侵入してきた秀吉の軍勢によって占拠され、

小丸の久政と本丸の長政の連絡を絶たれた。

≪☆ 浅井亮政に迎え入れられた京極高清が居を構えたという曲輪があった。

 羽柴秀吉は、この場所を攻めて本丸と小丸を分断した≫

歓声が挙がり続ける相手側  奥 時雄

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   「大広間跡」

一名「千畳敷」という約35アールの広さである。

主殿の跡と推定され、

その昔、多くの武将たちが会堂したであろう姿が想像される。

礎石、貸銭、陶器片、その他多数が発掘された。

≪☆ 山上にあった小谷城内で最大の広さを誇る曲輪があったとされる場所。

 大広間には御殿が建てられ、南側には黒金門があった≫

溜息を拾ってくれる人がいる  小野真備雄

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   「赤尾屋敷跡」

ここから100メートル先に、重臣・赤尾氏の二段になった屋敷跡がある。

天正元年八月廿八日戦破れた長政は、この屋敷に入って自刃し、

二十九歳の生涯を閉じた。

小谷城一の聖域である。

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  「長政自刃の地」

長政は、本丸ではなく、ここ赤尾屋敷跡で自刃している。

背後の京極丸を落とされた長政は、信頼する赤尾家の屋敷を、

最期の地と決めた。

人生のドラマに黒い句読点  木天麦青

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   「大石垣跡」

小谷城の中でも大きく石垣が残る箇所。

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    「小丸跡」

二代目城主・浅井久政の隠居所、小谷城落城のときここで切腹した。

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    「刀洗池跡」

本丸近くにある、刀を洗うためにある池。

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  「桜馬場跡」

御馬屋跡の上方、大広間跡の前にある曲輪。細長く左右2段になっている。

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   「馬洗池跡」

横に長く連なる小谷城の端に位置する馬を洗うための池。

飲料水確保のための池であったとも言われる。

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  「首据石跡」

浅井氏の家臣・今井秀信が敵方に内通した罪で処罰し、この石に首を晒した。

美水澄んで澄んで何やら住みにくし  中村幸彦

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