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川柳的逍遥 人の世の一家言
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月光と一緒にたたむ果たし状  山田ゆみ葉

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    袂 石 (たもといし)

慶応3年9月23日、龍馬を乗せた震天丸は、ライフル銃千挺を積み、

浦戸に入った。

≪高知の海の玄関・浦戸湾に、龍馬が降り立ったとされる目印が残っている。

 高さ4メートル。直径7メートルの袂石と言う巨大な、岩である≫

龍馬は、この岩のすぐそばで蒸気船を下り、

脱藩以来、6年ぶりのふるさとの土を踏んだ。

にんまりと笑う心は揺れている  大堀正明

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浦戸湾・種崎に上陸した龍馬が、一時、”秘かに潜伏した”のが中城家

≪中城家は、山内家の御船手方を務め、当時の当主・直楯も大廻船御船頭だった≫

龍馬がここに潜伏したのは、中城家が龍馬の継母伊与の里である、

川島家のすぐ隣であり、歌会などでも親しい交際があったため、

龍馬も少年時代から中城家の人々とは、面識があったからだろう。

なお城下を表立って歩くのは、危険であったため、

中城家の奥・4畳半ほどの小さな離れに、

容堂に会う機会をうかがいながら、龍馬は身を隠したのである。

部屋の押し入れには、万一のための隠し部屋まで設えてあったという。

視界ゼロ風の予定にまかせます  和田洋子

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土佐に帰ってきた龍馬の目的は…?

龍馬は後藤象二郎と、平和革命・「大政奉還」を目指していたが、

土佐藩の中では、武力倒幕と平和倒幕の2つの勢力が争っており、

藩は、まとまっていなかった。

龍馬は、そんな土佐藩を説得し、平和倒幕に踏み切らせるという目的があった。

龍馬は同行の土佐藩士・岡内俊太郎を使者として、藩の重役に連絡を取り、

密談の席で、京都の切迫した情勢を語り、

そして、土佐藩との交渉のために、

当時の最新式のライフル銃1千挺を、差し出した。

緞帳が下りて始まる無言劇  古田祐子

平和倒幕を目指す龍馬が、武器を運んできたのはなぜか・・・?。

「徳川から朝廷へ政権を返す平和革命・大政奉還を目指す。

 しかし、それができない場合は、武力倒幕もある」 

と説明した。

平和倒幕を目指しつつ、失敗したら銃を使って武力倒幕を実行する…

これなら、土佐藩の中の2つの勢力、武力倒幕派も平和倒幕派も、

どちらも受け入れられると、両天秤の策を考え、

土佐藩を一つに、まとめようとしたのである。

ぼくの匕首とあなたの胸の距離  井上一筒

交渉成立のあと龍馬は、潜伏先を抜け出し、ひそかに実家・坂本家に顔を出した。

久しぶりの家族との再会。

土佐藩を説得できた安堵と、気の置けない家族との再会は、

ひととき龍馬の心を癒した。

龍馬が実家に滞在したのは、わずか2日。

つかの間の休息を終え、龍馬は、ふたたび政治活動に向かう。

龍馬が説得し、土佐藩が動き出したことで、政治の流れは、

一気に大政奉還に向かい、

ついに平和倒幕、大政奉還が成し遂げられていくのである。

一幕のドラマ柘榴の実が爆ぜる  高橋謡子

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『龍馬伝』・第46回-「土佐の大勝負」 あらすじ

土佐に着いた龍馬(福山雅治)は、象二郎(青木崇高)を通じて、

「容堂(近藤正臣)に直接会いたい」

と願い出るが、容堂は相手にしない。

沈黙を買いに行く万札のシワ  山口ろっぱ

坂本家に久しぶりに戻った龍馬を、家族は温かく迎える。

継母の伊与(松原智恵子)は亡くなり、

姪の春猪(前田敦子)には、子も生まれている。

岩崎家の面々も加わり、宴会が始まる。

一方、弥太郎(香川照之)は長崎で、

時代の変化を感じた土佐商会の上士たち数名が、仲間となり、

藩とは別に、自らの商売を始めていた。

五線譜に休んだ贅沢な時間  山本早苗

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土佐では、龍馬が持ってきた銃をめぐり、

「上士も下士も薩長に付くか、それとも徳川を守るか」

で大騒ぎに・・・。

容堂は、象二郎の説得で龍馬に会うことにする。

龍馬は容堂に、

「下士が上士に虐げられる・・・この土佐の古い仕組みが憎い。

 大政奉還となれば、幕府も藩も、そして武士という身分もなくなるだろう。

 新しい世の中を作る魁となるべく、大政奉還の建白書を書いてほしい」

と伝える。

切り口はいつもあしたを向いている  松下放天

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容堂は徳川家への恩を思いながら、涙ながらに[建白書]を書く決心をする。

難事を成し遂げた龍馬は、象二郎とがっちりと握手。

「この大仕事を終えたら、お龍と土佐に戻ってくる」

と乙女(寺島しのぶ)と約束し、京へ旅立つ。

大仕事済んだ男が脱ぐ鎧  山路節子

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はやぶさはきっとくちばしだったんだ  立蔵信子

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『エピソード―山内容堂』

土佐藩主、山内容堂の本名は山内豊重と言い、

「容堂とは号」であるが、それを号とする前には、

「忍堂」のほうが、自分に似合っていると考えていた。

それには、次のような知られざる理由があった。

さすっちゃずれる整形なんです鼻  山口ろっぱ   

「大政奉還」は、山内容堂が最後の出番を得て、

徳川慶喜を説得し、無事完了となった。

徳川家は、これをもって政権を返上したのである。

容堂が差し出した”建白書”は、達筆で時勢の移り変わりが諄々として、

説かれていた。

この文字は、龍馬の幼なじみで、

また、秘書役でもあった海援隊文司役・長岡謙吉が、

精魂かけて書き上げたものであった。

「建白書」には、龍馬が起草したという『船中八策』の内容が、そのまま記されていた。

龍馬が土佐藩船・「夕顔」で瀬戸内海を航海中、

八つの小島を目にしたときに、

「ふっと頭をよぎった八つの草案がその原案になった」

と、いわれている。

首相執務室で 解散と揮毫  井上一筒

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文面には、欧米に通じた”政治制度のあり方”とか、

”法制度”、”貿易や外国為替”にも触れて、かなりの知識が織り込まれているが、

このあたりは、現にアメリカへ渡航し、

議会や社会事情を見聞きしてきた、勝海舟の影響があったのだろう。

長岡の具体的な助言もあった。

矢印を持って立ってるだけで良い  片岡加代

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船中八策について、容堂が最後の将軍に、

どう噛み砕いて、説明したかは分らないが、

「時局は腹の立つことばかり」

といっている。

短気な容堂であったから、意に添わないことも多かった。

自分の性格を悟ってか、容堂は「忍に一字」という言葉が大好きで、

容堂を名乗る前の第一候補として、

『忍堂を号としたい』 と考えていたそうである。

ラニーニャを口説いたらしい油蝉  森田律子

かくして、「山内忍堂」は、幻の名前となってしまったが、

本人によれば、

「今は忍耐よりも寛容の心のほうが大事であるから、容堂とした」

とのことである。

建白書の趣旨説明も、

「自ら寛容になれ」

と、言い聞かせて、その場に臨んだのだろう。

悩んでる時はたいらになっている  ひとり静

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スーダラ節テーマソングにして暮らす  大池温子

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晩年の武市とみ子(半平太の妻)

「龍馬と中岡慎太郎」

龍馬のかっての上司であった武市半平太(瑞山)の夫人・富子が、

龍馬と中岡慎太郎とを比較して語るところによれば。

こうだ。

「中岡慎太郎さんを思い出してみると、大変行儀のよい人でありました。

 武市の部屋に通されましても、表情とか姿勢を崩されることもなく、

  立派なご様子でございました。

 お茶請けに柿などをむいて、おすすめしたこともありましたが、

『かたじけのうござる』と申されるだけで、手を出そうとはされませんでした。

 それに比べて・・・」

沈まない夕日はきっと淋しがり  野田和美

龍馬については、こう語る。

「坂本龍馬さんは、大そう無遠慮な方でございました。

 柿をお出しして、私が皮をむいて差し上げる間もなく勝手に手づかみされ、

 皮もむかずに、そのままお食べになられる方でございました」

理知的になれぬなべ焼きうどんの具  山口ろっぱ

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龍馬が、「海援隊」 を結成した、

「ならば自分は陸援隊だ」 と結成した中岡慎太郎である。

慶応3年、維新が成る前年、旅籠・近江屋で二人が密談しているとき、

新撰組とも、京都見廻組とも、いわれる刺客集団に襲われて、

どちらも命を落とす羽目になる。

そういう同じ境遇を辿った二人だが、

写真を見比べてみると、対照的な表情をしている。

回り道自分らしさに辿り着く  斉藤朋子

中岡はキリリとした表情で、正座しているのが印象的だが、

龍馬の場合には胡坐をかいたり、モノに寄りかかったりで、どうにも行儀がよくない。

性格の違いだろうが、

武市が龍馬を

「浅黒い六尺もある大柄な男で、性格は茫洋として雄大」

という。

中岡については特に語っていない。

ベッド兼財布カンガルーのお腹  井上一筒

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中岡が珍しく笑っている写真

女性(遊女)と一緒に写っているのだが、何故か黒塗りで消している。       

「ついでに・・・」

武市が、思想的に影響を受けた人物といえば、

自分より11歳も年下の、長州藩・久坂玄瑞であった。

その久坂によれば、武市の様子を、

「身長六尺、鼻高く、顎もしっかりしている。

 眼には異彩があり、顔は白く、喜怒を人前で現さない」

と外見を述べるだけで、

武市の考え方とか、思想についての評価がない。

≪志士の世界でも、相手を評価するときには外見か中身か、

その判断基準は、分かれたようである≫

友だちの背中はいつもたたきよい  森中惠美子

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ふるさとへときどき声を置きに行く  森中惠美子

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龍馬生前一ヶ月前、何処かの庭で撮った写真(場所不明)

イカルス号事件(慶応3年7月7日)も、あらかた落ち着きをみせたところで、

龍馬は、9月20日下関に入り、三吉慎蔵おりょうを預け、

2日間滞在ののち、土佐藩に銃を売却する目的で、

戸田雅楽(うた)ー(のちに尾崎三良)と土佐に入る(同・24日)。

25日、土佐藩全藩主・山内容堂に面会している。

29日頃には、脱藩以来の帰郷で、実家坂本家に帰り、姉・乙女らの歓待を受け、

連夜の宴会を開いたという。

そして、10月5日、龍馬は土佐藩船・「空蝉」で土佐出港する。

≪脱藩以来初めての帰郷は、最後の里帰りとなった≫

心境を聞かれスキップして見せる  星井ごろう

この日、龍馬をもてなしたであろう「土佐の豪快な伝統食」を、

紙上で味わってみることにする。

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久谷や伊万里の皿に盛りつけられる皿鉢

『龍馬の時代の食膳』

高知では、宴席のことを、『おきゃく』というそうである。

おきゃくとくれば、皿鉢料理。

「それも食べきれないほど、出さないといかんが。

 土佐の暴れ食いという言葉があるくらい、ごじゃんと食べて、飲むんですよ」

と、土佐伝統食研究家の松崎淳子さん。

≪皿鉢とは、大皿浅鉢のこと。

 直径一尺三寸(約40cm)もの大皿や大鉢に、刺身、すし、煮物、焼き物などを、

 はみださんばかりに盛りつけた、豪気な料理のことをいうそうだ≫

命の限りおかず作って片付けて  大橋啓子

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「生」と呼ばれる刺身の皿鉢

「龍馬の時代、庶民には手が届きませんでしたが、

武家の宴は、本膳と皿鉢料理でした」

皿鉢の基本形は、「生」と呼ばれる刺身の大皿。

鯖ずし、煮物、焼き物、和え物、甘い物などを、大鉢に盛りこんだ「組み物」の2枚。

客の人数によって、そうめん、すし盛り合わせ、たたき、ぜんざい、

祝宴には、鯛の活け造りや、蒸し鯛などが加わって、皿の数が増えていく。

「3人で皿鉢1枚が目安ですが、5、6人は充分食べられます」

ご馳走山盛りの大皿鉢が、いっぺんに勢揃いするというのだから圧巻。

霜降りは旨いがようするに脂  松橋帆波

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煮込み(鯖・ネギ、堅豆腐が入る)

皿の料理が減ったら、2枚合わせて盛り直せばいい。

人数が増えてもあわてることはない。

土佐人らしい、豪快で融通無碍の宴である。

「亭主は、一番先に刺身を手塩皿にとって、主賓にすすめます」

刺身は鮮度がいのち。

龍馬の時代、生魚はめったに食べられない、ご馳走だった。

「龍馬は鯖の刺身に、ダイダイの酢をかけて食べていたそうです」

と言うのは、写真の皿鉢料理の作者、名護山さん。

ご先祖は幕末のころ、龍馬の生家の目と鼻の先で、魚屋を営んでいたという。

「もしかして、坂本家はここで、日々の魚を買っていた?

とすれば、龍馬も食べていた?」

そんなことを思いつつ、豪気な料理と龍馬を肴に、酌む酒のうまいこと!絶品ぜよ!!

キムチ鍋今年我が家の大ヒット  森 廣子

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ちちこの炒りつけ(ちちことは、鰹の心臓)  ぐる煮(いろんな具が、ぐるになった煮物)

「龍馬が愛したふるさとの味わい」

聞くところによると、龍馬は酒豪だったそうだ。

「何を肴に呑んだのか?

 ごはんのおかずに、何を食べていたのか?」

興味深いところだが、記録がなく、ほとんどわかっていない。

そこで、龍馬の時代も食べられていたと思われる、昔ながらの土佐のおかずを、

生粋の土佐人の方々に、伺ってみると・・・。

「あの乙女姉さんのことだから、

龍馬に骨を丈夫にする、じゃこを食べさせたにちがいない」

「高知では、鰹の骨も捨てんがやき、アラの味噌汁も食べちゅうやろ」

鯖ずしは、みんなの好物。

「ぎっちりごはんの詰まった鯖の頭を、おきゃくの翌日に焼いて、これでまた呑むが」

「これがまた、うまい!」

と食べ物談義は、大いに盛り上がる。

コレ酒よお前も愚痴があるだろう  井上一筒

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土佐伝統の肴とおかず(中央が鯖寿司)

『奔馬のかげに生きた女たち』(土佐出身作家・宮尾登美子著)の小文に、

坂本家の食事についての話が出てくる。〈『土佐の婦人たち』(関みな子著)

『坂本家の毎日のおかずは、尾頭つきの鯛が普通であって、

 それを裏表とも食べるのは、武士の子にあるまじき下品なふるまい』

・・・(中略)・・・

『幕末の貧乏公家などからみたらのけぞるほどの贅沢さ・・・』

とある。

毎日が鯛の尾頭付き、それも片側だけとは・・・。

平成の土佐人一同も、都会のグルメ通もびっくりである。

輪郭に嵌ってネコも太りだす  山本早苗

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  どろめ        ウルメイワシ(丸干しとオキニロギ)      潮タタキ

土佐には豊かな海があり、年に二度、米がとれる肥沃な平野があり、

阿波・讃岐・伊予との国境一帯には、緑したたる山々が連なり。

黒潮の魚、米や野菜、山菜や清流の魚の干し物など、

自然の恵みが、殿様のいる城下に集まってくる。

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日曜市の様子

高知市内に曜日ごとに立つ”街路市”は、

元禄時代から300年余も続く、市民の台所。

なかでも高知城の追手門からのびる、追手筋に立つ”日曜市”には、

四季折々の”とれたて”が並び、

大きな街路樹の下は、縁日のように賑わう。

狙われていますあなたのお人好し  井本健治

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日曜市の看板娘といわれているおばあちゃん

野菜の傍らに、自慢の漬物や庭先の花たちも、並んでいる。

「ここのはおいしいぞね」

と、買い物にきたお客さんがすすめてくれたり。

店のおばちゃんが、食べ方、使い方を教えてくれたり。

気安く開けっぴろげな、おしゃべりがはずむ。

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四方竹の筍、里芋の茎ズイキ     手作りこんにゃく

市でにぎわう路地を、龍馬も楽しんだだろうか。

元禄時代に始まる土佐の街路市から、

龍馬の生きた時代の空気が、

そこはかとなく、伝わってくる。

コマーシャル見なきゃ買わずにすんだのに  高尾くみ子

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辛味大根      田舎ずしと鮪ずし

「それからの龍馬」

10月 9日 龍馬 京都・酢屋に戻る。

10月- 日 庭先(特定出来ない)で写真に写る。
 ≪10月14日-慶喜大政奉還≫
10月24日 龍馬 由利公正(三岡八郎)に会う目的で福井へ。

10月28日 龍馬 福井にて村田巳三郎と面会。

11月 1日 龍馬 松平春嶽に拝謁し上京を要請。

11月 5日 龍馬 酢屋に入り、「新政府綱領八策」を草案。

11月ー 日 龍馬 西郷吉之助に新政府綱領八策と新官制擬定書を提出。

11月10日 いろは丸事件、紀州藩と最終決着。

11月15日 龍馬・中岡慎太郎 近江屋で刺客の襲われる。(龍馬33歳、中岡30歳)

≪12月9日王政復古の大号令が出される≫

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龍馬が愛した軍鶏鍋(龍馬最後の日、食する予定だった)

帰るまで船を案じている港  秋貞敏子

『龍馬伝』・第45回ー龍馬の休日 あらすじ

≪ローマの休日とは・・・NHKが泣かせるダジャレです≫

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容堂(近藤正臣)に、大政奉還の建白書を書かせるために、

弥太郎(香川照之)が仕入れた1000丁の銃を携え、

長崎から土佐に向かった龍馬(福山雅治)は、

途中、お龍(真木よう子)のいる下関に立ち寄る。

土佐の坂本家では、龍馬から、

「土佐に戻ることと、お龍と結婚した」

という報告の手紙が届き、大騒ぎになる。

大空と大地と貴方には負ける  西村久江

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一方、弥太郎は、イカルス号事件の責任を取らされて、

土佐商会の主任の座を追われ、自らの力で、

商売をしていくことを決心。

「薩長と幕府との戦争が始まり、銃の値段が暴騰する」

と考え、銃を大量に仕入れる。

馬鹿正直を褒めて下さいエンマ様  松田 篤

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龍馬は下関に着き、木戸(谷原章介)に会うと、

薩摩の大久保利通(及川光博)が来ていた。

二人は

「大政奉還で徳川家を残さず根絶やしにするべきだ

と主張。

龍馬は己の道の厳しさを感じる。

お龍は、龍馬との久しぶりの再会に喜ぶが、

三吉慎蔵(筧利夫)や奇兵隊たちと、飲みに出かけた龍馬は、朝帰りしてしまい、

お龍は激怒する。

昼間から酒のみ犬に吠えられる  山下蟹郎

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まるい会話にふぐの身がすき透る  森中惠美子

「龍馬と大久保利通」

龍馬が薩摩を訪れ、大久保利通「薩長同盟」の舞台設定に、

理解を示そうとしたときのこと。

情報の収集能力は、超一流と言われていた大久保と龍馬が出会った。

大久保は、龍馬の情報分析の能力を観察する。

そして会話に”隠語暗号”を交えて、一工夫を凝らした。

昨日から留守なんですよ記憶力  山口ろっぱ

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「坂本どん、ひとつ質問したいが、どげんなもんじゃろう」

「よかろう」

「そうか、よかごわすか。

 西郷は、円十郎の親分だが、あいつが東方で”世間知らずの盗賊” と、

 いわれよるのが気にかかる。

 江の本は、備前屋に藩の趨勢を託しておるが、

 しかるに百度公は、

 西方の一藩になろうかというほどに、落ちぶれもした。

 次なる戦は、江の本に勝たせ、日ノ本に夜明けを迎えさせるべきだろう」

ひと雨で消せる主張を聞かされる  墨作二郎

龍馬も情報集団でもある海援隊を、結成した隊長である。

「のうし、そげんこつワシにわからんとでも言うちょるのか。

 おくびっちゃあ、いかんぜよ」

大久保の人を食ったような質問が、少々気に食わなかった。

しかし、そこはぐっとこらえた。

態度には見せぬが腹は煮えている  高鼻陽子         

大久保の言う、「備前屋」 とは何を意味するのか。

幕末の頃には、仲間内で隠語のような、逆説的でもある暗号などを使い、

それを訳し、置きかえることによって、必要な情報を伝達しようとしていた。

大久保の言葉は、まさに龍馬の情報能力を試すためであった。

そして江の本」とは、長州を意味していた。

これがキーワードである。

龍馬にこれくらいの隠語は、頭からピンとはじけでる。

すると後の言葉も、意味が解けてくるのであった。

つまり、”長州(江の本)に幕府軍を勝たせたい”

との気持ちが、大久保に見えてくるのだ。

病状は触れず笑顔を置いてくる  正信寺尚邦

「日ノ本」すなわち、日本に夜明けをもたらせるのは、「江の本」(長州)である。

「百度公」と呼ばれていた幕府は、いまや江戸「西方」の一藩に、なり下がっている。

「円十郎」の薩摩が、京都「東方」で禁門の変に追われた長州に、

恨みを買うのはわかっているが、

「円十郎は、江の本と結託するのが、わが国を救う唯一の道だとわかった」

と言っているのである。

金魚パクパク言いたいことがあるらしい 杉山ひさゆき

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対して、龍馬も暗号を交えた会話で切り返す。

松野他三郎が大老の手にかかってからというもの、江の本は火の玉になっちょる。

 東洋一狂は、怒り騎兵の小隊をおこしたぜよ」

松野他三郎とは、吉田松陰、東洋一狂とは、高杉晋作を指している。

龍馬たち幕末の志士たちの会話とは、こんなものであった。

また、これらの”隠語暗号”が何を意味しているのか、

それを解釈できなければ、志士として失格であった。

大久保も、龍馬の言う偽名が誰かを、ピンと理解できたことだろう。

マツタケがスウェーデン語でご挨拶  井上一筒       

動乱の幕末で、志士たちは自らの命を守るため、

またその行動を察せられないために、隠語とか偽名を頻繁に使った。

坂本龍馬 → 「大谷梅太郎」

≪大谷は土佐の地名。梅は桜と違ってしぶとく咲き誇ることから志士たちに人気があった≫

吉田松陰 → 「松野他三郎」「瓜中万二」「山陰老樵」

≪松陰は、偽名を雅号のように使った≫

高杉晋作 → 「谷梅乃進」「谷梅乃助」「谷梅太郎」-

  商人名・「赤間関隠人」「備前屋助次郎」 西行を真似僧侶「東行」とも名乗っている。 

≪息子の名に、梅の字をつけるほど、高杉に、梅の字が多いのは、

  梅が大好きで、生家には樹齢200年の梅の古木があった≫

伊藤俊輔 → 「春山花輔」

井上聞多 → 「春山春輔」

≪隠語として使われた、日本60余州から抜粋≫

クロネコやユニクロクロが元気です  大海幸生

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