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川柳的逍遥 人の世の一家言
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春を待つ白一色になりながら  河村啓子



「西郷どんー⑩」 西郷の妻・イト

イトが、西郷隆盛(吉之助)と結婚したのは、元治2年(1865)1月28日

のことである。隆盛37歳、イトは21歳であった。


夫となった隆盛には、これ以前に妻とした女性が2人いた。

だからイトは3人目の妻となる。

2人の結婚は、誰から勧められても拒んでいた隆盛の前に、

親戚の有川矢九郎がイトを連れて行き、半ば強引に承諾させたものだった。

実はイトにも親が決めた許婚(海老原家)に嫁いだが、

すぐに戻されるという
離婚歴があり、隆盛は2人目の夫となる。

その時、隆盛はイトの再婚に対して「そんなことは、どうでもよかよか」

と気にもとめず、小松帯刀の媒酌で2人は結婚をした。

言葉など要らぬ背中をポンと押す  原 洋志

180cmの隆盛に対し、イトは150cmあるかないかの小柄で痩せ型。

その性格は温和できれい好き、芯の強い女性だったという。

イトが嫁いだ時の西郷家は、隆盛の弟・吉二郎とその家族など、

使用人も含めると10人以上が同居する大家族で、借金もあって

一家の生活
は苦しかった。

そんな中、吉二郎夫妻が穏やかな優しい人柄で、10歳も年下の糸子を

「姉さあ」と呼んで立てていたという。

モノクロの世をカラーに変えてくれた君 竹内ゆみこ


  愛 加 那

西郷は結婚後も、1年のうち1カ月ほどしか鹿児島にはいなかったが、

イトは、慶応2年(1865)に長男・寅太郎、明治3年(1870)

二男・午次郎
明治6年には三男・酉三を出産している。

明治2年(1869)に9歳になっていた愛加那の子・菊次郎をも引き取る。

このとき彼らの名に、西郷の元妻・愛加那は複雑な思いがあった。

1人目が寅年生まれの寅太郎で、2人目が午年生まれの午次郎。

だが菊次郎がいるのだから、午年の子は、午三郎にすべきではないのか。

少し嫉妬を感じたのである。

そして明治7年には、愛加那の娘・菊草(12歳)をも引き取っている。

家族という厄介者がいて楽し  神野節子

4人も家族が増えると、生活のやりくりに子育てや教育の仕事が増える。

それでもイトは、夫が薩長同盟から王政復古と藩を超えた政治の表舞台で、

名をあげていくなか、夫不在の一家を切り盛りし不平を口にすることなく、

しっかりと家を守った。

西南戦争に敗れ自刃した隆盛の没後の明治10年のことである。

イトは残された一家を連れて各地を転々とした。

その後、鹿児島の武村に帰ると、隆盛の遺志を継いで家塾を開き、

子供の教育に尽くし、愛加那に金10円も贈っている。

背泳ぎで掴まえたのは非日常  美馬りゅうこ

ここでエピソード二つ。

明治11年春、「生活に困っているだろう」と西郷の弟・従道の岳父で、

隆盛とも親しい紙幣印刷局長の得能良介が、鹿児島の野屋敷にいる


イトに香典として7百円を届けた。

「官にある人からこのような金を貰う必要がない」

と、イトは断わった。


「自分の主人は賊の大将として死にました。家も焼けました。


   出征したところの菊次郎も片足を失いました。

   けれども幸い幸い自主開墾
した土地が残っています。

   食べるのには困りませんのでお返しします」


イトは貧しい生活の中で貯めたカネから旅費を出し、

わざわざ下僕を東京にまでやって、この一文を添え返させた。

プライドを編み続けてる冬籠り  百々寿子

 慶応元年(1865)、西郷が小松帯刀とともに鹿児島に帰って来た時のこと。

そのとき、坂本龍馬を伴っており、西郷の上之園の借家に泊まった。

古い家だから、雨漏りがするので、イトは部屋の隅っこへ隆盛を呼び、

「お客様に申し訳ないから屋根を修理しましょう」と言う。

すると西郷は、


「今は国中の家が雨漏りをしている。うちだけ直すわけにはいかない」

とイトを叱った。

家は古く狭いので帯刀にも竜馬にも、この内緒話は丸聞こえ。


夫婦の会話を聞いた2人は、西郷にもイトにも感心したという。

その後、池田屋事件で傷を負った龍馬が、霧島へ治療に行く折、

再び西郷邸に立ち寄り、西郷の使い古しの褌を出してきたことなど、

自然派のイトについて姉の乙女に、手紙を書いている。


「西郷吉之助の家内も吉之助も大いによい人なれば、

   この方に妻など(お竜)
頼めば何も気づかいなし」

シュレッダーの音と呟く内緒ごと  小永井 毬



隆盛とイトの結婚生活は13年。イトは幸せだったのだろうか。

苦労するためにだけ西郷家に入った感がないでもない。

最初の9年は、隆盛はほとんど京都の生活だった。

残る4年は、隆盛は大久保利通らとソリが合わず、参議を辞職し鹿児島に

暮らしたが、西郷とともに帰国した近衛兵や西郷を慕う兵士たちのために

軍事学校設立に奔走する毎日だった。

これでは、イトは隆盛とゆっくりとした時間を持つこともできない。

明治22年、憲法発布で隆盛の賊名は除かれ、正三位が追贈されたが、

イトは人から訊ねられることがあっても、決して苦労話をしなかった。

隆盛は明治2年に作った詩の中で、次のようにイトを称えている。

「貧極まれど、良妻いまだ醜を言わず」

資産価値ゼロでも固定資産税  新家完司

その後、イトが育てた長男・寅太郎は陸軍大佐に、午次郎は実業家に、

菊次郎は京都市長になり、菊子大山巌の弟と結婚をした。


そして明治29年、長男・寅太郎の結婚式に出席するため上京し、

イトはそのまま東京の寅太郎の家に同居することとなる。

その数年はイトにとって幸せな時間であったかも知れない。

ところが
明治36年、三男の酉三が結核のため、30才で亡くなり、

また大正8年、寅太郎が52歳でスペイン風邪で他界する。

最晩年の3年間は、次男・午次郎の家で過ごし、大正11年6月11日

午次郎夫妻に身守られて長い生涯を閉じた。80歳だった。

人生の沖にスイカが浮いている  青砥たかこ

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向かい風戦い抜いたあばら骨  須磨活恵
「岩倉具視」の画像検索結果
    岩 倉 具 視

「西郷どん」 岩倉具視
岩倉具視、文政8年(1825)生まれ、幼名は周丸。
その強もての容貌から幼少期は「岩吉」「山賊の親分」と呼ばれた。
またどのような相手にも物怖じせず、言い難いことをはっきりと言う
肝が据わった人物だったとも言われる。
嘉永6年(1853)7月、黒船来航の年に関白・鷹司政通へ歌道入門した。

そのことが、下級公家にすぎない岩倉が、朝廷首脳に発言し得る大きな

転機となった。
まもなく彼は、師であり身分上位の鷹司卿に「公家社会を実力主義に」

という朝廷改革の意見書を提出した。
その意見書に鷹司卿は首肯したものの、実現には至らなかった。
これを見ても、身分の上下意識を持たない岩倉具視の一端が伺いしれる。
逢ってすぐツボを押されてしまったわ  雨森茂樹
岩倉が幕末の表舞台に名乗りを上げるのは、安政5年の

日米修好通商条約を巡る「廷臣八十八卿列参事件」である。
幕府老中・堀田正睦がこの条約の勅許を得るために上京する。
しかし多くの公卿らから反対をされ、孝明天皇からも
「ご三家・諸大名で再応衆議した上で出直しなさい」と叱責される始末。
その条約調印には岩倉も反対しており、88人の反対派公家をまとめ、
公卿の中で唯一「勅許を与えるべき」と主張する関白・九条尚忠の邸宅

の前で抗議活動を行った。
この抗議活動によって勅許は与えられなかった。
これが岩倉による初めての政治運動であり勝利であり、
朝廷内での発言力を高めていくきっかけとなった。
ここ一番やはりあなたの出番です  山本昌乃
同年、安政の大獄が勃発すると、岩倉は公武合体派に立ち位置を変える。
その例が「和宮降嫁」である。幕府側からの
「和宮様に将軍家茂へご降嫁いただけませんか」の言葉を受けて、
たるひと
岩倉は、その時すでに、和宮には有栖川宮熾仁親王という婚約者がいた

にも関わらず、
「幕府が下手に出てきたのは、人心が離れつつあるのを自覚している
からで、ここは一つ貸しを作り、幕府は朝廷の下で政治を行っている

という形を世間に知らしめる時ではありませんか」

と孝明天皇を説得する。
砂山を崩して掃いてまた作る  宮井いずみ
すると天皇は、和宮と有栖川宮熾仁親王の婚約は独断で破棄し、
「条約破棄と攘夷」の条件をつけて、岩倉の意見を受け入れる。
かくして岩倉は天皇の勅使として、江戸へ下向するまでに力をつけ。
また、久世広周安藤信正といった幕府の老中と面会を重ねる中で、
江戸に流れていた「幕府が和宮を利用し廃帝を企んでいる」という
噂を利用し、朝廷の権威を高める事も怠らなかった。
ハンドルの右半分を任される  山本早苗
ところが、外憂内患の中、尊王攘夷運動が各地で高まりを見せる。
岩倉は一貫して朝廷権威の高揚に努めていたが、結果的には和宮降嫁や
京都所司代の酒井忠義との親交などから、尊王攘夷派の志士たちから
佐幕派とみなされ失脚をする破目になる。
さらに天誅の予告まで受け、西賀茂の霊源寺に身を隠すことにした。
その日、僧体に身を移した岩倉は、日記に
「今度の事件、実に夢とも現とも申し難き次第、
如何なる宿縁のしからしむるところか、毛頭合点がまいらず」
と悔しさを綴っている。
そこから一か月も経たない間に、洛西の西芳寺に逃げるように移り、
京都からの追放令が出ると,洛北の岩倉村に住居を移している。
以降、洛中への帰参までこの地で5年間の蟄居生活を送ることとなる。
しかし強かでカメレオンのような岩倉は、この間、極貧生活のたしにと
賭博の興行を行いながら、西郷中岡慎太郎といった倒幕派の志士と
知り合い、立ち位置を今度は倒幕派へと変え、そして、
いつのまにか時代の先頭を歩き始めてえいるのである。
あの煙過去のエラーを焼いている  森井克子

「戸田 極子 写真」の画像検索結果
   戸 田 極 子

【付録】 五百円札の肖像の娘と千円札の肖像の男のロマン
岩倉具視を父に持つ極子は14歳で大垣藩最後の藩主戸田氏共に嫁ぐ。
美人で社交的な極子は、鹿鳴館時代、社交界の華として持て囃された。
明治20年4月22日、内閣総理大臣伊藤博文邸で、盛大な仮想舞踏
会が開かれた。主催者の伊藤夫妻はヴェネツィア貴族に扮するなど、
仮想した政府高官や実業家3~400名が集い、夜を徹したお祭り騒ぎ
が繰り広げられた。ところがこの舞踏会の最中、伊藤が極子を庭の木陰
に連れ出し、いかがわしい行為に及んだ…という艶聞が流れた。
漁食家で知られる伊藤のこと多くの女と浮名を流したが、よりによって
相手は高貴な身分の伯爵夫人だ。新聞はこぞって面白おかしく書き立て、
一大スキャンダルとなってしまう。騒動直後、公使館の参事官にすぎな
かった夫の氏共は、オーストリア大使に任命されウイーン駐在となった。
突然の夫の出世から極子の不倫騒動の報奨ではないか、やはりゴシップ
は真実だったと、関係が疑われるのも無理もなかった。
うすももに散った分だけ罪深い  森田律子

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逃げ道をそっと残して責めてやる  奥野健一郎

 勝海舟と西郷会見
第一次長州征伐の前に西郷は、当時幕府海軍創設のために活動していた
勝海舟と面会した。この時西郷は海舟を高く買い、こうしたことが後の
江戸開城へと繋がっていった。
また【長州への処罰を穏当なものにするよう」西郷に持ちかけたのも勝
海舟であるともいわれている。
「西郷どん」 薩長同盟前夜
禁門の変の後に実施された「第一次長州征伐」では、戦になる前に西郷

が長州藩との折衝により停戦への協定を妥結した。
大久保一蔵との協議により、長州に反幕府勢力としての決定的なダメージ

を与えるよりも、温情的な態度を示し、和解へのシグナルを送っておいた

ほうが、得策と判断したからである。
そのため第一次長州征伐を中途半端に状態で終幕へ導いた。
一橋慶喜は、長州藩を屈服させ、幕府の威信を回復させる好機だったにも

拘わらず、参謀の西郷が第一次長州征伐を終幕させたことに対して憤慨し、
このように語ったという。
「総督のやる気がまったく感じられないのは、芋焼酎の方が、酒より

酔いやすいからという説がある。芋焼酎の銘柄は大島と言うらしい」
(西郷は錦江湾入水自殺したと幕府に届けていた為、大島と名乗っていた)
善人でいる息継ぎが続かない  美馬りゅうこ
慶喜の芋焼酎発言の裏には、次のような思惑も働いていた。
当時の薩摩は琉球との密貿易や、薩英戦争後のイギリスとの繋がりにより

財政が潤っていた。

これは疲弊していた幕府からすると、脅威そのものである。
そこで慶喜は長州征伐という名目で薩摩に長州を攻めさせ、力を削ごう

と考えたのである。薩摩からすれば、長州と戦争をすれば多くの犠牲や

軍費が生じて、国力が衰えるのは目に見えている。ゆえに薩摩は無駄な

戦争には参加したくない。そして討幕運動の表に立つ気はないが西郷は、

あまり幕府側に肩入れしても、将来はないことを見越していた。
西郷は海舟との面会で、

「公武合体策の限界と幕府の内情」を聞かされてもいたのである。
選ばれたつもりが実は排除され  伊藤良一.


  幕末の江戸城

かつて西郷は幕政改革の旗手として慶喜に期待感を抱いた時期もあった。
だが混迷を続ける政局の中で、両者が対立関係にあったことは、慶喜の

「芋焼酎発言」から知ることができる。

西郷は三条実美をはじめ八・一八政変によって長州藩領へ亡命した5人の

公卿たちを太宰府へ移転する案を示し、実行へと導いた。
この五卿移転は反幕府派の三条らにとって温情的処置であり、土佐脱藩の

中岡慎太郎は西郷が反幕府への接近を模索しているのではないかと感じた。
そこで中岡は、盟友の坂本龍馬と共に薩摩藩と長州藩の首脳部と接触した。
黒百合の香に誘われる禁猟句  笠嶋恵美子
長州はともかく武器が欲しい。

しかも藩の方針は、「攘夷から討幕へ」と変わってきた。
実は両者の思惑は一致していたのである。
だが長州からすれば薩摩は恨み骨髄の相手。この度の長州征伐にしても、

幕府軍の中核に薩摩がいたことも分かっている。戦わず停戦になっても、

恨みこそ残るものの恩など微塵も感じられない。

このように激しく対立する薩長両藩を龍馬と中岡は、現状の政治体制を

壊し、将来の国造りのために、どうしても協力体制にあるべきと説いた。

結果、西郷は鹿児島から汽船を利用して上洛する途中、下関において、

長州藩の桂小五郎と会談することを約束した。
人を憎めば河原の石もなま臭い  森中惠美子 
【付録】 薩長同盟 はどうなった
慶応元年(1865)閏5月、歴史的会談が下関で行われるはずだった。
だが、西郷は「長州藩領の下関で会談が行われれば、長州藩主導で同盟
交渉が進行する」と判断した。そのため、同盟締結の意志がありながらも、
会談を土壇場でキャンセルしたのである。
松茸はまだかと花屋に聞いている くんじろう

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擂鉢の底で粘っている思案  荻野浩子

「蛤御門の変(蛤御門の変)」の画像検索結果

    蛤御門合戦図 六尺六曲一隻屏風 (会津若松市所蔵)

禁門の変では薩摩藩兵を指揮した西郷。的確な指揮により長州藩を
撃退するとともに、御所に発砲した罪により、長州藩を朝敵として
征伐する大義名分を獲得した。

「西郷どん」  禁門の変

歴史を少し遡れば、そこにから徳川幕府と長州藩の確執が見えてくる。

激動の幕末に多くの志士を輩出し、威信の原動力の中核を成していた長州藩。

治めていたのは外様大名・毛利家で藩祖の毛利輝元は、一代で中国地方の

大半を勢力下に治めた「三本の矢」でも有名な毛利元就の孫である。

慶長5年(1600)の関が原の戦いで、輝元は西軍の総大将に担ぎ上げられる。

西軍が大敗したため、毛利家は危うく改易されるところであったが、

一族の吉川広家の働きにより大幅な減封を受け入れ、何とか家名は存続した。

以来、徳川幕府に対しては、恨みを抱き続けてきたのである。

透明になるまで自転しています  合田瑠美子

 関が原の戦いから253年、幕府の屋台骨を揺るがす大事件が起こった。

黒船の来航である。

見たこともない巨船と強力な武装の前になす術もない幕府は、

朝廷の許しも得ずに日米和親条約を締結する。

朝廷を蔑ろにした行為と、外国の砲艦外交に不甲斐ない姿を晒した幕府

に対して多くの志士たちが憤慨した。

徳川に対する憎しみの気持ちを持ち続けてきた長州藩の中でも、

尊王の志が強かった若い連中は、当然のように幕府に対する風当たりを

強くする。その中心的な存在だったのが、

吉田松陰が開校した松下村塾の塾生たちであった。

そこでは彼らは、日本全体を大きく改革する必要性を学んできた。

緞帳が降りる迄夢追い続け  石田ひろ子

だが、井伊直弼が断行した安政の大獄で松陰は処刑される。

このとき藩の直目付である長井雅楽は、幕府に対して長いものに巻かれ

るごとく開国と公武合体を推進する「航海遠略策」を藩主に建白した。

これが長州藩の方針とされる。

こうした一連の動きが、藩内の尊皇攘夷派の怒りを買うことになった。

幕府内で公武合体を進めていた老中の安藤信正が、江戸城坂下門外で

水戸浪士に襲われた事件をきっかけに失脚すると、長州藩の議論も

一気に「尊王攘夷」へと転換する。

地下茎を太らせながら風を待つ 前岡由美子

文久3年(1863)3月、14代将軍・家茂とその後見役の一橋慶喜は、

朝廷や長州藩などの執拗な要求に押され、5月10日をもって攘夷を

決行することを約束する。

しかし,攘夷を実際に行動で示したのは、バカ正直に幕府を信じた長州

ただ一藩だけであった。

この日、馬関(下関)海峡を通過しようとしていたアメリカ船に向かい、

長州砲台が火を噴いた。

さらに続いてフランス、オランダの船にも砲撃を加えたのだ。

しかしアメリカ・フランスから報復攻撃を受け、長州は軍艦や砲台を破壊

され、外国の圧倒的な軍事力を身をもって知らされることになった。

一発で天狗の鼻を叩き折る  池部龍一

徳川に再び苦渋を飲まされた、その後の長州藩は、苦難続きであった。

文久3年8月18日の京都における公武合体派によるクーデター。

そこで長州藩は御所の警備の任を解かれてしまう。

しかも三条実美ら7人の攘夷公卿とともに、京都を追われてしまう。

しかし長州藩の攘夷派や三条実美らは、そうした逆境にも屈せず、

再び、京へ復帰することを画策していた。

この糸先に新撰組急襲による「池田屋事件」が起こり「禁門の変」となる。

手を打つと怪しい雲がやってくる  森 茂俊

「蛤御門の変(蛤御門の変)」の画像検索結果

 蛤御門の激戦の様子を描いたかわら版

6月下旬、長州藩は京都南郊に軍勢を集結させ、洛中への進撃の態勢を

示した。対する慶喜は、長州藩を平和りに撤退させようとしたものの、

交渉は不調に終る。

そして7月19日未明、長州藩兵は、御所に対して攻撃を開始し、

薩摩藩兵と会藩兵を主力とする御所守備部隊と激戦を繰り広げた。

特に、御所の西側中央に位置する蛤御門周辺で激しい攻防戦が繰り広げられた。

いわゆる、ポピュラーに言われるところの、「蛤御門の変」である。

また蛤御門など九つの門は、禁門と言われることから、

禁門の変」とも称される。

頑な私にまぶす塩麹  松本柾子

禁門の変において、薩摩藩は直接の当事者ではなかったが、

ともあれ軍の責任者として西郷は、最前線で指揮をとり、敵弾をうけて

軽傷を負いながらも、長州藩兵を敗走へと導いた。

この激戦を制したことにより、その名を天下に高めることになったが

西郷は、次のように語ったという。

「2度とこのような経験はしたくない。戦いとは本当に骨が折れることだ」

結局、御所を舞台にした禁門の変に敗れた長州藩は朝敵の汚名を着せられ、

さらに幕府軍による征討軍の的にならなければならなくなった。

もしも幕府の力が磐石であったら、長州藩はこの前後で消えていただろう。

しかし禁門の変を主導した三人の家老を切腹させたことで、

ひとまず征討軍は矛を収めた。

崖上の水仙 崖の下のぼく  井上一筒

【付録】 戦後処理

禁門の変の戦後処理に関し西郷は、長州を徹底的に叩くのはよくないと
考えていた。大久保への手紙でも「長人(長州人)を以って長人を処置
させる」
という方策を通し、幕府と長州を何度も行き来し
「降伏の条件」を次のようにまとめた。

①禁門の変を指揮した3人の家老と4人の参謀の切腹。

②藩主父子の蟄居謹慎と謝罪文の提出。

③都落ちした7人の公卿のうち長州に残る5人の公卿の大宰府移転。

④山口の城の破却。

処罰は他に「転封」などの意見も出たが西郷の反対で立ち消えとなった。
第一次長州征伐はこのような形で終わったが、この時の西郷の奔走は、
長州に「西郷は信頼に足りる人物かも知れない」という印象を与えた。

体重計で人の器は計れまい  笹倉良一

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粒選りの愛を一粒持っている  みぎわはな


「西郷どん」 薩摩藩家老・小松帯刀

薩摩藩の家老・小松帯刀は、天保60年(1835)10月14日に生まれた。

坂本龍馬、土方歳三、松平容保、松平容保、篤姫らと同じ生まれ齢である。

小松は藩主・島津斉彬の小姓、当番頭になったのち、斉彬の急死後は、

藩主・忠義の父・島津久光のお側用人となって公武合体活動に参加。

歴史的に小松帯刀の名は、西郷隆盛大久保利通の陰に隠れがちだが、

その実、薩摩藩の在京重役のトップで久光不在のときは、藩の最高決定

権をもつ。

久光の側詰兼側役、さらに江戸家老、国家老に昇進したとき、

まだ弱冠28歳だったというから、いかに優秀な人材だったかがわかる。

 鑑真和上のクローンではないか  井上一筒

西郷・大久保の手綱を握っていたのも小松だった。

小松は島津久光と義理ながら、甥にあたる。

久光との強固な縁も、小松の政治的な地位や実力を裏付けていた。

 英国の外交員・アーネスト・サトウは、小松を次のように書いている。

「私の知っている日本人の中で最も魅力的な人物で、家老の家柄だが、

そういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり、態度が人に優れ、

それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた。

顔の色も普通よりきれいだったが、口の大きいのが美貌を損なっていた」

外人の目にも小松の大きさが、分かるほどのものだった。

人間が描けない色で花が咲く  寺川弘一

小松は朝廷や公卿の間でとても人気があり、頼りにされていた。

西郷・大久保よりも家柄がよく、人柄がよかったからだろう。

例えば、小松が帰国しようとしたら、近衛忠煕(ただひろ)忠房父子は書状で、

「父子ともに痛心している昨今、小松が滞京していないと大きい差し支え

があり、当惑すること限りない」

と懸命に帰国を引き留めようとしている。

 また小松は、一橋慶喜からも信任されていた。

上の近衛父子の書状の追記に「一橋も帯刀を厚く頼りにしており、

あれこれ相談にのってもらいたいと言っている」 と書いている。

 第三章を水として生きてゆく  日下部敦世

元治元年(1864)、禁門の変前後まで、薩摩藩は慶喜と良好な関係にあった。

同年11月、幕閣が慶喜を更迭して江戸に召還しようとしたとき、小松は

「薩は橋公に組(与)して天下両立」

も辞さないと、慶喜を擁護の姿勢を示している.

その一方、禁門の変で長州勢が禁裏御所に接近したとき、

慶喜が薩摩藩に出陣を命じても、朝廷の命令がなければ出陣しないと

拒絶して断固たる態度も示している.

薩摩藩は「朝廷第一主義」を藩是とした

左足北北東に置く履歴  河村啓子 

「小松帯刀 京都邸お花畑」の画像検索結果
幕末に薩長同盟が結ばれた地とも言われる京都の薩摩藩家老・小松帯刀邸
御花畑おはなばたけ」の詳しい場所や規模を示す絵図と文書などが、鹿児島、京都で
見つかった。現在の京都市上京区の森之木町など3町にまたがる約5900
平方メートルの広大な敷地だった。

しかし慶喜は、結局、幕府の利害に拘束され、一会桑勢力の中心となって

第二次長州征伐を強行して薩摩藩との対立を深めた。

 薩摩藩は「一藩割拠」へと舵を切る。

そのために軍隊の洋式化と海軍の充実を図る。

小松は海軍掛として責任者となった。

一方で、同じく幕府と対決して「一藩割拠」策をとらざるを得なかった

長州藩と接近する。

長崎にいるとき伊藤俊輔と井上聞多と会見、その依頼を受諾して、

薩摩藩名義で軍艦と小銃を購入するなど援助した。

そうした交流の積み重ねにより、慶応2年(1866)1月「薩長同盟」

締結される。

場所は京都の小松屋敷(御花畑)だったことにも、

小松の重要な役割がわかる。

 止まり木に止まり木なりのお作法で   山口ろっぱ

 ここに小松の人柄と器の大きさを示すエピソードがる。

禁門の変において小松は、西郷とともに薩摩軍を指揮する立場にあった。

作戦会議のため、西郷は自宅へ初めて小松を迎える際、わざと寝転がって、

小松を待った。小松の器量を試すためである。

普通ならその西郷の無礼な態度に、怒って帰ってしまうところである。

ところが小松は違った。

怒るどころか小松は、枕を持ってこさせ、西郷の疲労を気遣うように、

ゆっくり眠らせてやろうとしたのである。

これに西郷は、慌てて飛び起き自分の非礼を詫びたという。

(だが、成長したこの時期の西郷がこんな態度をとることはありません)

 やさしくて忘れるほうを選んでる  三好光明

「小松のエピソード」

①   安政3年(1856)4月23日から二週間、小松は千賀と千賀の父を

も連れて、新婚旅行を霧島の栄之尾温泉に滞在した記録がある。

    慶応2年(1866)龍馬が寺田屋事件で負った傷を癒しに、お竜と

  出かけた新婚旅行が最も古い記録とされているが、実際は小松帯刀

  夫婦の方が、それよりも10年早い記録なのである。

②    久光と折り合いの悪かった西郷が、二度目の離島から鹿児島への帰還

と戻ってからの久光との再会に、最も尽力したのが実は小松である。

④    龍馬の新政府の人事構想の中で小松は、西郷や大久保、桂らを抑えて、

筆頭に挙げられていた。

今日こそは静かにしとこ思たけど  一階八斗醁

北斎漫画ー太った人

「付録」 お虎

西郷は太った女性が好きだったようで、様々な逸話が残っている。

お虎という愛人がいたが祇園のお茶屋・奈良富の仲居だった。

 一升の酒を軽く明けてしまうほどの酒豪で、その豪快さを西郷は愛した。

 あだ名は「豚姫」で、大柄な女性だった。

西郷がお虎を使って、敵の情報を探らせたという話も残っている。

 また東征軍を率いて京を発つとき、お虎は別れを惜しんで、

京から大津まで駕籠をうたせて見送ったという。

西郷は非常に喜び、褒美に30両を贈ったのだった。

 会った瞬間ビビビッと来ました  川畑まゆみ

江戸城無血開城のあと、お虎にある任務を与えている。

 それは江戸に行き、赤坂氷川町の勝海舟邸に3万両送り届けるというものだった。

 その頃、旧幕臣は勝のことを「江戸城を明け渡した裏切り者」だと決め付け、

勝海舟を斬ろうという声が持ち上がっていたからである。

西郷はそんな勝のために逃亡資金3万両を手配し、お虎に届けさせたという。

 (ただそんな大金をどうやって運んだのか…などなど疑問の残る)

海舟は、お虎のことを「どうも言うに言われぬ良いところがあった」と書いている。

お虎は西南戦争で西郷が死んだと聞いて、ひどく悲しんだ

そしてその3年後に亡くなったという。

また西郷が愛した女性に井筒の仲居・お末もいた。

お末も大女だったという。

ちなみに愛加那も大柄だっただったらしい。

3番目の妻・イトは痩せているという例外もあるが…。

次の世も生きてゆくなら鳥か魚  柴田比呂志

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