忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[86] [87] [88] [89] [90] [91] [92] [93] [94] [95] [96]
カーテンを細目に開けて月見てる  森田律子


 徳川家康

「おんな城主-直虎」の予習―⑥

女性ながらも当主となり、井伊家を守り抜く覚悟を決めた直虎

そんな彼女が頼むに足ると見込んだのが、三河の徳川家康であった。

井伊家と徳川家のつながりは、直虎に始まったことではない。

直虎の元許婚で、23代当主となった直親は、今川家と小野家の企みで

謀殺されたが、その背景にあったのが、直親の徳川への接近であった。

身の丈の紐をさがして日が暮れる  八上桐子


井伊家家系図

桶狭間の合戦後、直親は今川家と距離をおくべく動き始めた。

直親にとって服従はしているものの、今川が亡き父・直満の仇であることに

変わりはなかったからだ。

また織田信長の前に大敗を喫し「海道一の弓取り」と謳われた義元亡き今、

今川の行く末にも明るい展望は見えなかっただろう。

そんな中、直親が心を寄せたのが、家康であった。

家康の妻・築山殿の母方の祖父は、20代当主・井伊直平である。

直親にとって、築山殿は年下の従兄弟であり、その夫である家康に親近感

を抱くのは当然のことであった。

だがだがだがといつも抱いてる非常口  太田のりこ

しかし直親の「親徳川」の理由は、それだけではなかったろう。

徳川も桶狭間まで今川の支配下にあり、家康はかって駿府で松平元信時代

人質生活を送っている。

後に天下を取った徳川だが、当時は当時は一豪族にすぎず、

過酷な戦国時代を生きるために大樹に寄らざるを得なかった。

義元が討死した後、晴れて独立するのである。

そんな徳川の姿は、よく似た境遇で苦しんでいた井伊家の者からすれば、

共感を覚えたに違いない。

巨大なる空洞 あの日の記憶!  徳山泰子

『井伊家伝』によれば、直親は家康の元へ足しげく通って密談を重ねたという。

そして、そんな動きを警戒した今川は、直親を暗殺するのである。

当然、直虎もこうした直親の動きは知っていたはずで、

同じように徳川を見ていただろう。

もしかしたら、直親から家康の才気について聞いていたかも知れない。

いずれにせよ、井伊家の命運を託された直虎は、

家運を切り拓く突破口を徳川に求めていくのである。

向こうから近づいてきたのが出口  中村幸彦


   築山御前

「戦国女性の不幸を一身に背負った築山御前」

築山御前(瀬名姫)は今川一門である関口親永の娘だが、

井伊氏の血を引いているともいわれている。

弘治3年(1557)今川義元の養女となり、

今川家の人質として駿府にいた松平元信(家康)の正室となった。

だが義元が桶狭間で討たれた後は、決して幸せな人生ではなかった。

最期は武田勝頼に内通した疑いをかけられ、家康の家臣により殺害される。

孤独一盛夜が流れてまいります  山口ろっぱ

拍手[2回]

PR
半月のかすかな笑みを見ましたか  合田瑠美子

(拡大してご覧ください)
         徳川16将図
家臣の名が記されている将図。
本多忠勝と向かい合って中央に描かれていることからも、
井伊直政の徳川家中での存在が大きいことを感じさせる。


16将図の中の井伊直政

「おんな城主-直虎」の予習―⑤

井伊家最大の危機を脱した天正2年(1574)、鳳来寺に匿われていた

虎松は、
井伊直親の7回忌に出席するため、井伊谷に帰還を果たした。

この法要には井伊直虎をはじめ直虎の母・松下清景と再婚した虎松の母、

南渓和尚らも顔を合わせている。

この時、以後の井伊家の方向を決める話し合いが行なわれたようだ。

その結果、虎松は母親が再嫁した松下家に一旦養子として入り、

徳川家に出仕させる。

そのうえで井伊家再興を図るという方針となった。

対岸にちょっと残っている希望  森田律子

翌天正3年(1575)2月、虎松は浜松城外で年の最初の鷹狩り(初鷹野)

出ていた
徳川家康と対面する。
           よしみ
家康は、虎松がかって自分と誼を通じようとしていた井伊直親の子と知り、

家臣に取り立てることにした。

そしてその際、300石が与えられることとなった。

そして小姓として身辺に置く。

この対面の際、虎松は母と直虎が仕立てた小袖を身に付けていたとされる。

家康の元に出仕するようになると虎松は、井伊姓を名乗ることを許される。

そして家康の幼名の竹千代に因み「井伊万千代」と改名するのであった。

こうして虎松は井伊氏復活への一歩を踏み出した。

外づらは整いましたハイチーズ  嶌清五郎


    鷹 狩 り
シボルトが著した「NIPPON]で描かれている鷹狩りの風景。

この頃の家康は、武田信玄の後を継いで武田家を率いていた勝頼の攻勢に

尚も苦しめられていた。

織田信長の支援も後手に回っていたが、

この年の5月、信長は主力をもって出陣。

武田軍に包囲された三河長篠城救援に赴いた。

ここに織田・徳川連合軍と武田軍による「長篠の戦い」が勃発。

大量の鉄砲を準備した連合軍が、武田軍を大敗に追い込んでいる。

この戦いで武田氏は宿老の多くを失ってしまう。

一方家康は戦勝に乗じて、武田勝頼に奪われた城の奪還に動き出した。

万千代は天正4年(1576)、勝頼との戦いで初陣を飾る。

掌中の宝が一人歩きする  三村一子  

芝原の陣で家康の宿所に忍び込んだ敵を討ち取る手柄を挙げた。

さらに天正6年(1578)の田中城攻めでは、格別の働きが認められた。

長篠の戦い以降、信長は武田方とほとんど事を構えていない。

そのため勝頼は信長との和睦を模索するが、信長はこれを無視する。

その上で家康に降伏や開城を認めず高天神への総攻撃を促した。

天正9年高天神城攻めで万千代は、城への水の手を断ち切り、

城兵を追いつめている。

風林火山は水に憧れています  田口和代

このとき勝頼は、後詰めを送ることができず、

高天神城を見殺しにしたことで勝頼の威信は地に落ちた。

浜松の家康の元でめきめきと頭角を現して行く万千代の様子を

耳にする度、
井伊谷に残った直虎は井伊家の未来に光明を

見出していったに違いない。


そして天正10年、長年に渡り徳川家を苦しめてきた武田氏を、

織田・徳川連合軍が完全に攻め滅ぼしたのである。

どなた様かは存じませんがおめでとう  前中知栄

その年の5月、家康は信長の招きにより安土城から京、堺を周遊していた。

これに万千代は供回りとして同行している。

そして迎えた運命の6月2日、僅かな手勢で京の本能寺に宿泊していた

信長は、家臣の明智光秀の謀反に遭いこの世をさってしまう。

堺に滞在中だった家康一行は、この出来事に危機を感じ、

決死の伊賀越えを敢行、無事に岡崎城へと帰還することができたのだった。

このときの功により、家康に万千代は孔雀の尾羽の陣羽織を拝領している。

そのことから見ても、

脱出行に万千代が格別の働きを見せたことが、容易に想像ができる。

死にたくなるほどの裏切りを受ける  福尾圭司

拍手[4回]

運命線を解くとさなだ虫だった  奥山晴生


   武田信玄

「おんな城主-直虎」の予習―④

永禄11年(1568)、地頭職を解かれた井伊直虎に代わって井伊谷の

統治者になったのは、事もあろうか謀略を用いて井伊直親を死に追い

やっ
小野道好であった。

これは今川氏真との間に、密約があったに違いないと見られている。

直虎は虎松とともに、母が暮らしていた龍潭寺の松岳院に身を寄せた。

だが、虎松の身が案じられる。

そこで直虎は南渓和尚とともに、井伊家存続の道を模索する。

そして命を守るため、虎松を奥三河の鳳来寺へ預けることにした。

まだ若い虎松の母は、頭陀寺付近を拠点とする松下一族の松下清景と再婚。

それぞれの場所で再起の時を待った。

森を出て森を描く水墨の寓話  山口ろっぱ


虎松が身を隠した鳳来寺

すると事態は思わぬ方向に動き始める。

意気揚々と井伊谷城に入った小野道好の栄華は、

わずかひと月しか続かなかったのである。

この頃、甲斐の武田信玄が今川家との同盟関係を破棄。

三河の徳川家康と示し合わせ、東西から今川領である駿河国と

遠江国に
侵攻してきたのであった。

道案内として井伊谷三人衆(菅沼忠久、鈴木重時、近藤康用)を味方に引き入れ、

徳川軍は難なく三河と遠江の国境にある陣座峠を越え、方広寺を経て、

井伊谷城を抑えた。


徳川軍の迅速な進軍を目の当たりにして、今川家臣団に動揺が走る。

井伊谷城から逃亡し、山中に身を隠していた小野道好は捕らえられ、

首を刎ねられた。

こうして井伊家に仇をなした人物は、葬り去られたのである。

脚色のところどころに入れる黒  清水すみれ

永禄11年の暮れから始まった武田軍と徳川軍による今川領侵攻は、

わずか半年後の永禄12年5月、掛川城に籠る今川氏真の降伏により終結。

その結果、駿河国は武田、遠江国は徳川が支配することとなり、

大名としての今川氏はここに消滅する。

しかし、武田と徳川の蜜月は長く続かなかった。

元亀2年(1571)2月、信長の勢力拡大を危惧した信玄は、

家康の支配化にあった遠江や三河に大軍を送り込んだ。

そして、同年5月までに小山城など5つの城を落としている。

だが信玄が発病したため、武田軍は一旦甲斐に引き揚げた。

鍵つきの箱に持病をまたひとつ  安土里恵

こうして敵対した信玄だが、信長とは友好関係を保っていた。

ところが元亀2年9月に信長が比叡山を焼き打ちにすると、

これを激しく非難。


元亀3年10月には、室町幕府15代将軍・足利義昭による信長討伐要請に、

応じ、西上作戦を開始した。

その矛先はまず家康の三河、遠江に向けられたのである。

山県昌景の別働隊は三河に、信玄率いる本隊は青崩峠から遠江に侵攻。

三河から井伊領に攻め込んだ山県勢を迎え撃つ井伊勢は、

「仏坂の戦い」で大敗を喫した。

信玄隊は一言坂の戦で家康軍を破り、山県勢と合流して二俣城を落とした。

破竹の勢いで進撃する武田軍は、二俣城攻略後は南に進む。

うやむやにするから椅子を外される 神野節子

ところが家康のいる浜松城を無視し、欠下付近で三方ヶ原台地へ転進した。

怒った家康は城を出て武田軍を追撃、両軍は「三方が原」で激突。

結果、徳川軍は完膚なきまでに叩きのめされ、家康は命からがら

浜松城に逃げ帰った。


だが翌元亀4年、三河の野田城を攻めている最中に信玄の病気が再発する。

そして4月12日、軍を甲斐に引き返す途中、

三州街道の信濃国駒場において死去、この信玄の死で織田・徳川連合軍、

そして井伊家は最大の窮地を脱することができた。

痛いほどみせつけられた力の差  吉岡 民

拍手[3回]

△× もあったさ 人生さ  田口和代


槍を手にした次郎法師・直虎
許婚が失踪してしまい途方にくれた井伊家の姫は、
密かに出家することに決めた。


次郎法師槍持ち姿
徳政令を受け入れた直虎は、永禄11年に龍潭寺の松岳院に入った。
この一ヶ月ご徳川家康が井伊領に侵攻してくる。

「おんな城主-直虎」の予習―③

永禄3年(1560)全盛期を迎えていた今川義元は西へ勢力を拡大するため、

2万5千という大軍を率いて尾張国へ侵攻を開始した。

この遠征には、井伊直盛義元本隊に属し従軍。

この当時、尾張一国を統一した織田信長と、駿河、遠江、三河3ヶ国を

支配下に置いた義元では、著しく兵力差があった。

戦いは今川軍圧勝以外、考えられなかった。

ところが義元の本隊が桶狭間で休憩しているところに、

荒天をついて織田軍
奇襲を仕掛けてきた。

それにより、総大将の義元は首級をあげられてしまう。

本隊に属していた直盛も討死を遂げてしまった。

今川方にとっては、信じられないような完膚なきまでの大敗北である。

くしゃみした弾みにプライドが消える  谷口 義


井伊直親と青葉の笛
身を隠してから実に10年、亀之丞は青年武将となって井伊谷に帰還。

そして取り決めの通り、井伊直盛の養子となり「直親」と名乗る。
この空白の期間に唯一、亀之丞を慰めたのが「青葉の笛」である。

義元の死は、周辺の小大名や豪族たちに、多大なる影響を与える。

なかでも今川家に臣従していた三河の松平元康(後の家康)が独立し、

信長と同盟を結び、今川家と敵対したことは、

隣接する井伊家にとって
抜き差しならないことであった。

そんな状況下、さらに井伊家に不幸が襲いかかる。

永禄5年、讒言を用いて井伊直満直義の命を奪った小野道高の子・道好

が、
今川氏真「直親が松平元康が通じている」

という讒言を吹き込んだのである。


井伊直親は申し開きをすべく、氏真の元へ向かう途中、

掛川城主の朝比奈泰朝
軍勢に襲われ、命を落としてしまったのである。

やたら目にとびこんでくる戒名  酒井かがり

直親が朝比奈泰朝に殺される前年の永禄4年、

「虎松」という井伊家にとっては待望の世継ぎ
が生まれている。

名を虎松と名付け 後の、徳川四天王に数えられる「井伊直政」である。

かって直満が謀反を疑われ誅殺された際、亀之丞と呼ばれていた直親も

処罰されそうになった。その直親が殺されると。

「虎松も亡きものにせよ」という命が下される。
                     ちかのり
しかし、井伊家の縁戚で直親とも交流があった新野親矩今川氏真らに

虎松の助命を嘆願、その必死の願いが聞き入れられ、

虎松は新野家に
引き取られ養育されることとなり、命が救われたのである。

偶然が分ける幸せ不幸せ  真鍋心平太

ところが永禄6年には、井伊一族の長老で虎松の後見人の井伊直平が、

今川氏から離反した天野影貫の籠る犬居城を攻めに行く途中、川名で急死。

さらに永禄7年には、同じく今川氏に反旗を翻した曳馬城(浜松城)の飯尾氏

攻めに参陣した新野親矩までもが討死してしまった。

こうして幼い虎松は、後ろ盾をすべて失ってしまう。
                 
もはや井伊家の命運も尽きようとしていた時、
りゅうたんじ
龍潭寺の南渓和尚
奇策に打って出たのである。

それは出家していた次郎法師を呼び戻し井伊家の当主に据えるというもの。

さらに 虎松の後見人を務めさせることだった。

次郎法師は、名を「井伊直虎」と改めた。

こうして女城主・直虎が誕生したのである。

曇天をどう生きようか思案する  柴田比呂志

主君筋にあたる今川家でも、直虎が井伊家当主になることを認めはした。

しかし永禄9年、今川家はひとつの陰謀を張り巡らせた。

それは井伊谷とその周辺地域を対象に「徳政令発布」を命じたのである。

徳政令とは、借金を帳消しにすること。

この頃の井伊谷は相次ぐ戦乱と不
作により疲弊していた。

そこに徳政令が施行されると、
借り手である領民は確かに救われるが、

貸し手の商人たちはたちまち困窮し、
下手をすれば領内から商人が

いなくなってしまう。


それは井伊家の経済基盤が著しく弱体化することに繋がる。

今川家の狙いは借り手の領民を守ることではなく、

こうして潰すことにあった。


今川家は力を要せず井伊谷を奪い取ろうと考えていたのである。

隙間から覗くさかさまの世界  加納美津子


歴代の井伊氏を祀る龍潭寺

しかし、直虎は徳政令の施行を、故意に遅らせたのである。

それはすなわち、主君の命に従わない、ということである。

すぐさま今川家からは徳政令施行を促す圧力がかかる。

だが直虎はなんだかんだと理由をつけては、この要求をやり過ごした。

そのおかげで商人たちは守られ、領内で混乱は起こることはなかった。

商人と同じように貸金業の役割を担っていた龍潭寺にも、

徳政令を免除する印状を出した。

井伊家の菩提寺であり、出家した自らも世話になった寺を守ったのである。

越境した落葉お隣へ返す  淡路獏眠


松岳院跡地(直虎の母が住んでいた)

だが、永禄11年になると、今川家は家臣を井伊谷に直接派遣して、

本腰を入れて介入してきたのだ。

この2年の間に、商人や寺社の土地や資産が守られる手立てを

つけていた直虎は
遂に凍結していた徳政令を施行する。

こうして領地で起こることが予測された混乱を最小限に

抑えることに成功した。


しかし、この一連の直虎のなすことに憤慨した今川家は、

間もなく井伊谷に介入、
直虎の統治権をも剥奪してしまう。

身に危険を感じた直虎は、ふたたび龍潭寺に身を寄せたのであった。

感情と理性イクサは終わらない  下谷憲子

拍手[2回]

待つ人も待たせる人も夕日ににじむ  森田律子

(画像をクリックすると拡大されます)
井伊家を取り巻く人々 

井伊 直平は初代の共保から数えて20代目の当主である。
21代目の直宗と22代目の直盛は、直平が亡くなるよりも早くに
討死してしまう。直宗の弟(直満・直義)ふたりは、謀反の疑いを
受け誅殺されてしまったため、井伊家は家督を継ぐことの出来る
男子が極端に減ってしまったのだ。

「おんな城主-直虎」の予習―②

井伊家の出自はさまざまな説があるが、一般的には藤原房前を祖とする

藤原北家の後裔とされている。

寛弘7年(1010)元旦、遠江国井伊谷
の八幡宮神主が、お手洗の井戸の

傍らにいた赤子を保護した。

           ともすけ           ともやす
この子が後藤原共資の養子となり、藤原共保と名乗った。

そして井伊谷に移り住み、「井伊」と称した。

以後、井伊氏は、井伊谷を領する武家として基盤を固めていく。

鎌倉時代には地方行政次官にあたる介の役職を付け、

井伊介を名乗るほど
有力な地方領主となる。

鎌倉幕府の御弓始の儀式において、

三番目の射手に選出される栄誉に
預かっている。

噴火するニュースコロッケ揚げながら  山本昌乃

南北朝時代になると、当時井伊家の当主だった井伊道政は、

後醍醐天皇
息子である宗良親王を領内に迎え入れ、南朝方として参戦。

しかし北朝方が勝利した結果、井伊氏は遠江国守護に任じられた今川氏の

支配下に置かれることになってしまう。
                  しばし
室町時代、遠江国の守護は斯波氏に代わる。

だが、戦国乱世となると今川氏が遠江に侵攻。

これを奪い取ってしまう。


斯波氏に味方していた井伊氏は、これにより勢力が減退。

今川の当主が今川義元に代替わりした時、当時の井伊家当主だった直平は娘

人質に差し出し今川に臣従、再び井伊氏の勢力を盛り返すことに成功した。

数字の8に目鼻つけたら雪だるま  大内朝子


  井伊家列記
龍潭寺弟世法忍禅師が記した井伊家歴代の当主の筆跡を纏めた記録。
直虎が女性領主になったいきさつが記されている。


後に井伊家を救うことになる女性・「井伊直虎」が生まれたのは、この頃、

義元が今川を継承する天文5年(1536)ではないかと考えられている。

井伊家中興の祖とも呼ばれる井伊直平の孫に当たる、井伊直盛の娘として

誕生したのである。

戦国時代の女性に関する史料は少なく、直虎となる姫も幼名は判然としない。

だが、直盛には男子がいなかったため、姫は早くから従兄弟にあたる

井伊直親を婿養子に迎えることは決まっていたのである。

しかし今川氏に臣従してからの井伊家に連続して、不幸が舞い込んできた。

天文11年、今川氏に従って出陣した田原城の戦いにおいて、

直平の嫡男である直宗が討死してしまう。

さらにその2年後、直宗の弟である直満直義が、

今川義元から謀反の疑いをかけられ、誅殺されてしまったのである。

もぬけのからへ溜まりつづけるヤマイダレ  森 茂俊

これは井伊家家臣であった小野道高が直親と直虎の婚約に反発。

今川義元に讒言したことが、原因とさてれる。

だが処罰はふたりだけで収まらなかった。

当時9歳の直満の嫡男・亀之丞(後の直親)にも命の危険が迫っていたのである。

そこで家臣の今村藤七郎は、米や炭を入れる藁の袋であるかますに

亀之丞
を隠し入れ、自らが背負って井伊谷を脱出する。

そして黒田の山を経て渋川の東光院へと逃れた。
                                のうちゅう
しかしここにも追っ手が迫ってきたため、東光院の能仲和尚の案内で

信濃国
市田郷にある松源寺へと落ち延びた。

縄跳びの輪の中にいるテロリスト  ふじのひろし

そこで亀之丞は、この地を治める松岡貞利の庇護を受けたのである。

亀之丞の行方は極秘とされていたため、許婚であった姫(直虎)にも知らされ

ていなかった。

姫は姿を消した許婚をひたすら待ち続けるしかなかった。

しかし、何年待ち続けても帰ってくる気配はなかったのであった。

姫は亀之丞の帰参を待つことにしたが、なんら知らせも届かない。

我が身の不幸に悲嘆した姫は、若い身でありながら出家を決意する。

出家してしまえば、結婚することはできなくなる。

周囲は反対したが、姫の決意は揺るがなかった。
りゅうたんじ
龍潭寺の南渓和尚のもと、出家することを決めた。

尼僧となった姫に、
南渓和尚は深い思いを込め「次郎法師」と名付けた。

龍潭寺が所蔵する「井伊家列記」には「次郎法師は女にこそあれ」とある。

その意味は「次郎法師は女ではあるが、井伊家を継ぐ家に生まれたので、

後継ぎの名と僧侶の名をかね、次郎法師という」というものだ。

人情の絆も痩せて孤立する   森 廣子    


  井伊直親の木像

天文23年(1554)、讒言により亀之丞の父である井伊直満を死に追いやっ

小野道高が病死。

翌弘治元年(1554)になり、亀之丞はようやく井伊谷へ帰還することができた。

実に10年余りの月日が費やされていたのである。

青年武将となっていた亀之丞は、以前からの取り決めに従い井伊直盛の

養子となり、名も「直親」に改められた。

しかし直盛の娘、つまり次郎法師との婚約は、破棄されてしまう。

すでに仏門に入ってしまった女性は、人の妻になることはできない。

そこで直親は、井伊一族の奥山朝利の娘を正室に迎えたのである。

こうして次郎法師と直親は、許婚から兄弟の関係に代わったのであった。

曲がりなりにも直角の腰になる  井上一筒

拍手[4回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開