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川柳的逍遥 人の世の一家言
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アンタッチャブルそこは私のコンセント  笠嶋恵美子







「北斎と馬琴」 別れの真相



葛飾北斎が「北斎」の画号を使い始めたきっかけ。
北斎は寛政9年39歳のとき、曲亭馬琴から「北斗七星は、星の中で最
も光の強い大物の星であり、かつまた、天上での最高が北斗だ」
と教え
られた。中国山東省の泰安市にある地上で、最も高い山を「泰山」と呼
ぶということも教示され、現世の権威者を「泰斗」ということなどから
「北斎辰政」という号が生れた。北斎が生涯、30数回改号したなかで、
「北斎」「辰政」「辰斎」「雷斗」「雷震」などは、そこから由来して
いる。飯島虚心の『北斎伝』には、次のような書かれている。
「…北斎辰政と号す。妙見は北斗星、即ち、北辰星なり、その祠、今、
本所柳島にあり。又、かつて、柳島妙見に賽せし途中、大雷のおつるに
遇いて、堤下の田圃に陥りたり、その頃より名を著したたりとて雷斗と
名づけ、また、雷震という」
と。


立つ時に雀大きな羽音させ  萬二






そんなことがあって北斎は、7つ年下ながら物知りの馬琴を尊敬し先生
と呼ぶようになった。その後も正反対の性格だが『椿説弓張月』『水
滸伝』
など挿絵と著作でふたりの良好な関係は続いた。そもそも北斎が
信仰する「妙見信仰」とは、北の空で輝く北極星と、その周りを一日で
一周する北斗七星を神格化させ、仏教、道教とを習合させた妙見菩薩を
祀った信仰である。海上の安全・五穀豊穣・商売繁盛・安産・良縁など
の御利益があるといわれ、庶民層に幅広く支持されていた。
(北極星は一年中動かず、同じ位置に座している。航海人は、北極星と
その周りを回転する北斗七星の柄杓の部分の動きで、現在位置を確認し
たという)


頬寄せる為に覚えた星座の名  伊藤良一




 
        風流東都方角 柳島法性寺妙見堂図


北斎がまだ春朗を名乗っていた頃「柳島法性寺妙見堂図」という版下絵
を残している。上記の絵にあるように、俯瞰構図で描かれ、左方に北辰
妙見菩薩を祀った妙見堂があり、右方の北極星が臨降したという影向松
(ようごのまつ)が描かれている。妙見堂のかたわらの縁台に、芸者と
歌舞伎役者が、北の空を見上げている図柄である。妙見は神秘を表し、
正しい見解、中立的立場を意味するという。(また妙齢な外見の意味に
も解せられるから、役者や花柳界から絶大な信仰を集めていたという)


じっと見つめる首筋の曲がり角  青木公輔






「さて、北斎との馬琴との交わりである)
北斎が馬琴と初めてコンビを組んだのは、黄表紙『花春虱道行』(はな
のはるしらみのみちゆき)読本『小節比翼文』からであり『椿説弓張月』
以降、『敵討裏見葛葉』(かたきうちうらみのくずは)『そののゆき』
『三七全伝南柯無』(さんしちぜんでんなんかのゆめ)『皿皿郷談』
ど十数種類に及ぶ『椿説弓張月』は28冊にも及ぶ大河小説で、波乱
万丈、破天荒なストーリーの面白さに加えて、ドラマチックな画面構成、
残酷・怪奇の挿絵に読者は酔いしれ、大人気になった。
しかし、2人が人気者になるに従い、個性の強い2人の間に激しい芸術
論争がはじまる。2人は共に、双方の才能・芸術性を強く認めていたが、
ついに大喧嘩となり、文化元年より続いた11年のコンビは解消される。


植木鋏で切り離すまでは雲  井上一筒


2人の中が険悪になった原因をあげてみると、
馬琴があまりにも小うるさく注文や要求を出すので、北斎はいたずら
心で、馬琴の下絵に、右方に置かれた人物を、絵の具合によって、勝手
に左に画いた。これに馬琴は、手を焼き、この後、北斎に画かせる場合
には、人物を右に画かせようとする時には、下絵の時点で、左に画いて
置いた。すると馬琴思い通りの絵となったとか。
ある日『三七全伝南柯夢』では、馬琴が書いた話に関係なく、北斎が
勝手に狐の絵を描くので「これじゃあ狐にだまされてるみたいだ」と馬
琴が言い喧嘩になった。
ある時、馬琴が「草履を口にくわえた絵を描いてくれ」というと北斎
「そんな汚ねえ絵がかけるか、だったらてめえでくわえてみやがれ」
と北斎が言い、喧嘩になった。というぐあいである。

わたくしの三分の二が拒まれる  徳山泰子

北斎の弟子の露木氏の話によれば、
「北斎馬琴の家に食客たりしころは、恰も門弟のごとく、共に他に出づ
る時は、北斎は、麻裏草履をはき、後へにつきて歩きたりと。かれこれ
考えれば、かの挿画などのことにつき、激しき議論もなしたらんが、こ
の故に、交わり絶つほどのことはあるまじとおもはる。また北斎が馬琴
と深く
交わりしは、文化5年のころよりなるべし」しかし、馬琴が
滸伝に書肆また北斎子とよし。予も一面の交わりあれば、やがて彼人に
就いて、巻のところどころに、其像を出だし、もて水滸伝の模様に擬す
云々〉」というように
馬琴は、ことのいきがかりで北斎と喧嘩をしたが、
また共に仕事をしたいと考えていたようである。

だからって炎を消しちゃいけません  清水すみれ



(拡大してご覧ください)
  椿説弓張月より

かつて北斎の春朗時代における挿絵は、黄表紙、洒落本、噺本、談義本
ほかがあったが、一例を除き、そのいずれも墨一色の黒刷本であった。
当然、そこで求められるのは、墨と薄墨のみの不利な条件下で、いかに
作者の意図を汲み、読者を惹きつけられるかが、挿絵の評価となる。
北斎の読本挿絵の絶大な評価は、筋立て以上に雄大、怪異、残虐、情緒
的など、各場面を臨場感豊かに表出しているのである。だから馬琴とし
ては、北斎と喧嘩わかれなどしたくはなかった、のだが、双方のプライ
ドが邪魔をして、どちらから折れることもせず、むやみに数年が経った。
それでも馬琴は、仕事仲間で喧嘩友達の北斎を求めた。

ちぎれ雲追って追われてオニヤンマ  森田律子

それが証拠に、馬琴が北斎のお見舞いに現れた。
またまた北斎の弟子・露木氏の話から。
「かつて北斎が母の年回に、馬琴その困窮を察し、香典許干(わずかば
かり)の金を紙に包んで与えたり。其の夕、北斎帰り来りて談笑の間、
袂より紙を出だし、鼻をかみて投げ出だたるを、馬琴見て大いに憤りて
曰く〈これは今朝与えし、香典包みの紙にあらずや、此の中にありし金
円は、かならず仏事に供せずして、他に消費せしならん。不幸の奴め〉
と罵りかれば、北斎笑うて〈君の言のごとく、賜るところの金は、我れ
口中にせり、かの精進物を仏前に供し、僧侶を雇い、読経せしむるが如
きは、これ世俗の虚礼なり、しかず父母の遺体、即ち、我が一身を養は
んには、一身を養い、百歳の寿を有つは、是れ父母に孝なるにあらずや〉
という。馬琴、黙然たりし」
。またここで二人は諍ってしまった。

静止画のままでひと日が暮れて行く  中野六助

「これ親密なる朋友間の一時の戯言にして、交情の厚さは却って、この
一条にて知らるゝなり。何ぞ瑣々たる挿画より、交わりを絶つの裡あら
んや。馬琴或は絶交せんを欲するも、北斎は自ら進みて交わりを絶つ如
き人にあらざるなり。これかつて馬琴の恩恵を蒙ること、すくなからざ
ればなり。また按ずるに、北斎は、かならず馬琴と絶交するの意なかる
べし。されど、馬琴の人となり、謹厳にして、胸中寛活ならざる所ある
をもって察すれば、馬琴或は実に怒りて、絶交せしものか」
ああどちらに非があるのか、折角の仲直りの機会も無にして、以来40
数年、2人は二度として合おうとはなかった。


二の足を踏んで出口を見失う  上田 仁



嘉永元年(1848)馬琴は82歳で死去する。娘のお栄は北斎に「葬式に
行かなくていいのかい?」というと、本当は、行ってやりたい気持ちが
ありありながら、北斎は黙々と『富嶽36景』の富士山を描くことに執
念するのだった。
その日本一高い頂上を中腹から仰ぎ見たとき、それよりもなお高い空の
彼方に広がる天上界に思いを馳せるのは、ごく自然であり夜ともなれば、
満天にさざめく星のうち、北の空でひときわ輝きを放つ北極星や北斗七
星を追い求め、祈りを捧げる気持ちになるのは、想像に難くはない。
北斎は、星空について語っている遠い日の、馬琴を偲びながら、迷いは
一気に突き抜けた。北極星や北斗七星に思いを託そう。それをこれから
も生きる指針にしよう。北斎の心は「人の世の出来事」よりも天上界に
向いていったのである。
この翌年に仕上った絵が、薄藍色に霞む富士の頂きより、なお高く黒煙
をあげ、天空めがけ、龍の姿を描いた「富士越龍図」であった。

来た道が見えるところで一休み  新家完司

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