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川柳的逍遥 人の世の一家言
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泣き場所を探すはぐれ雲を探す  森田律子

「十返舎一九」 伝説の一九




十返舎一九肖像画 (歌川国貞画)
まず、十返舎一九は「じっぺんしゃいっく」と読む。
「十返」を「じゅっぺん」と読むとパソコンは変換拒否するし、
答案用紙に書くと、バツをもらうことになる。



誤字脱字生きる形は問われない  佐藤正昭



一九は天保2年(1831)、67歳で亡くなったが、死に際に門人を枕元に
呼び「これからあの世に行くが、俺が死んでも湯灌などするんじゃない。
このまま棺桶にいれて焼き場に運んでくれ」とと遺言をした。
門人は師の言葉を忠実に守り、一九の遺体をそのまま棺に入れて火葬場
へ運んだ。ところが、えらい騒ぎになった。
竈に点火したとたん、耳をつんだく爆発音とともに、一九を納めた棺桶
から凄まじい火柱がたち上ったのだ、人々は驚きとともに腰を抜かした。
「何の落もつけないで死ぬのも自分らしくない」と、考えたのか自分の
体に花火を巻きつけていたのだった。そしておどけ一九が遺した辞世は、
「この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙とともに 灰さようなら」
というものであった。



淋しくてまた死んだフリしてしまう  高橋レニ
 



 
         江戸の道中記・金の草鞋 (十返舎一九)


 
一九の伝説には、真偽を別にして次のようなものもある。
 室内の調度や盂蘭盆の棚、正月の鏡餅、門口、などを壁紙に画いて
すませた。
 年始の礼に来た質屋・近江屋の主人に入浴を勧めて羽織を無断借用
して年礼した。
 近江屋へ借金の証文を質草に入れて金を借り、その金で酒と鰹を求
めて、近江屋の主人と盃を酌み交わして、座興に狂歌を詠んだ。
 ある日、柳原の知人のところへ遊びに行き、背の高い一九は歳徳神
の棚に頭をぶつけ、即興で狂歌を詠み、その隣家の酒屋の主人が、この
一九の機転を喜び一九をもてなし、一九は再び狂歌を詠んで、酒屋より
酔って湯櫓を借り被って帰った。など。



そんなことあったかなあと卵とじ  みつ木もも花



ところが、こんなふざけた一九を知る人は、次のように語っている。
「一九は、旅をしていても、のべつ書きものをしていて寡黙な男だった」
(柴井竹有)
「一九は、楽天的で呑気で剽軽な弥次、喜多のようなズッコケた人物で
なかった」(『膝栗毛論講』(共古))
「一九には、両三度も出会いしが、膝栗毛など戯作せし人とは見えず、
立派な男ぶりにて、いささかも滑稽など綴る人体とも思われず」
(『随聞積草』南方径方)
「一九は気さくで、酒を嗜むこと甚だしく、やりきれないものを紛らせ
ようとして飲み、飲むほどに一層心が憂いて、滅入ってゆく酔いを潰す
ためにまた飲む…陰のある感があった」(笹川臨風)
「生涯言行を屑(いさぎよし)とせず、浮薄の浮世人にて、文人墨客の
ごとくならざれば…」(『江戸作者部類』滝沢馬琴)
酒のまぬ人に見せばやこの景色徳利の鶴に日の出盃


二合飲む二合分だけ酔うてくる  雨森茂樹



「どんな人だった・一九」

「一九子、姓は重田、字は貞一、駿府(静岡)の産なり幼名を市九(又
は与七)云う。弱冠の頃より小田切土佐守直年に仕えて
都にあり
其後、摂州大坂に移住して志野流の香道に称(な)あり。
今子細あってみずからその道を禁ず。寛政6年、ふたたび東都に来りて
はじめて『心学時計草』を著す」
 
 

 
 (拡大してご覧ください)
       心学時計草



一九は明和2年(1765)駿河の府中の千人同心の子として生まれた。
名貞一、通称重田与七、幼名幾五郎とあって「幾」から「一九」という
雅号にしたという説がある。一九を根本作り上げた大切な時期でもある
彼の幼少時代、また、どのような環境に育ったか詳細を示す資料はない。
ただ、武士の子として生まれて、文武両道厳しく育てられたことだろう。



いつもより近くの蝉とテレワーク  山口美千代



青年武士貞一は、天明元年(1781)、駿府町奉行であった小田切土佐守
注簿の役として仕えた。父親が千人同心であったことから、もっと早く
見習いのような形で勤めていたかもしれない。がいずれにしろ天明3年、
土佐守が大坂町奉行に任ぜられると、同年8月に彼もまた摂津大坂に移
住した。
だが一九は、まもなく土佐守のもとを致仕した。致仕とは、老齢のため
に辞職することで、70歳の異称として用いられるコトバである。20
歳そこそこの青年が致仕したというのは、いささか怪異な印象を与える。
のちに、戯作者の道を歩むことになるのだが、この頃から遁世者に心が
向かっていたのかもしれない。



くさってる場合じゃないと背中押す  吉岡 民



一九こと重田貞一は、あまりまじめな勤め人ではなかったようである。
その後の大坂における一九の行状がそれを語っている。彼は義太夫語り
の家の居候になったり、材木商の家に入婿して、離縁されたりしている。
離縁の原因は、大坂大福町のえびすやへ40歳で入婿となったけれども、
娘が50歳なので逃げ出したという話を、一九が書いている。(『両説
娵入談』)しかし、大坂という商都の材木商には役にも立たぬ、香道に
うつつをぬかし、義太夫を唸るのでは、隠居じみており、入婿としては
グウタラ過ぎるのではないか。こちらが離縁の真の理由かもしれない。



風のやむときふと我に返るとき  竹内ゆみこ








しかし結婚生活には躓いたが、彼は大坂在住の期間に初めて筆を持った。
25歳のとき、若竹笛躬・並木千柳とともに、近松与七の名で『木下蔭
狭間合戦』という浄瑠璃を合作したのである。この作品は、寛政元年2
月21日に、道頓堀大西芝居興行で上演された実績を持ち、さらに独学
で黄表紙のほか、洒落本、人情本、読本、合巻、狂歌集、教科書的な文
例集まで書いた。筆耕・版下書き・挿絵描きなど、自作以外の出版の手
伝いも続けた。寛政から文化期に自ら「行列奴図」や、遣唐使の吉備真
を描いた「吉備大臣図」などの、肉筆浮世絵を残している。
水上は 雲より出て 鱗ほど なみのさかまく 天龍の川



窓際で空を睨んでいる机  上田 仁
 
 
 

       耕書堂・蔦屋重四郎



 寛政6年(1794)一九は、本格的な作家をこころざし、漂泊の人となり、
30歳にして、10年ぶりに、ふたたび江戸に出た。
「わたしは、他人を笑わせ、他人に笑われ、それで最後にちょっぴり奉
られもしてみたい」と願い「死ぬほど絵草紙の作者になりたい」と思い
つめた材木問屋の若旦那・栄次郎の狂言回しとして登場「ひと月前、大
坂から出て来た」近松与七
…」と、作家を目指す十返舎一九を題材に
上ひさしが『手鎖心中』に書いている。
江戸に着いた一九は、どのような縁があったのか、通油町の地本問屋耕
書堂・蔦屋重三郎の食客なり、いちおう浄瑠璃作家としての待遇を受け
ることになった。(寛政6年は、馬琴がおと結婚し作家として蔦重か
ら独立したときで、一九と入れ替わりに蔦重に入った年である)
さつさつとあゆむにつれて旅衣ふきつけられしはままつの風



落ちそうな吊り橋ですが行きまひょか  吉川幸子



さて逸話について
花火仕掛けの葬式や書割の家財道具など、また辞世にしても、疑いを持
つ人も多い。一九が滑稽本作者であることから、一九らしく伝説を作り
上げたのではないかというのである。
「書割の家財道具」の話は『狂歌現在奇人譚』にあり「仕掛け葬儀」
落語家・林家正蔵の葬儀始末と間違われたのではないかといわれている。
天保13年、死を前にした正蔵は家人を呼び寄せると「わしが死んだら、
そのまま火葬にしてくれよ」と遺言をした。家人は、正蔵のいう通りに
したのだが、その結果は一九と同じだった。
名物をあがりなされとたび人にくちをあかするはまぐりの茶屋



摩訶不思議火のないところから炎  津田照子

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